2017年 「明日の教室」研究会の予定

2017年 「明日の教室」研究会の予定

明日の教室は11年目を迎えます。

                   ◆

明日の教室のHPができました。

https://asunokyousitsu.themedia.jp/

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などは、こちらからリリースされることになります。

2018/11/17

【模擬授業】  戦争が廊下の奥に立ってゐた

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模擬授業終了。
今日は俳句。
今日もなかなか面白かった。

取り上げた俳句は

咳をしても一人
戦争が廊下の奥に立ってゐた

である。

咳をしても一人は、

咳をして◯一人

と板書して、○に入る言葉は何かを考えさせるものであった。

は、と、も が出て来た。
ま、この辺りは学生が答えているので知った上でのわざとの発言ではあるが。

そして、はともではどう違うのかを考えさせていた。

惜しかったのは、どう違うかの説明を生徒役の学生がしたのを受け止めきれなかったことである。

「は、と、もは、どう違いますか?」
という発問に対して

1)
は:咳をするたびに一人
も:誰も言ってくれない

2)
は:一人のことを再確認してさみしい
も:自分から去って行った人のことを思い出す

3)
どちらも共通しているところがある。でも、もの方が強い

という答えが生徒役の学生からあった。
これを活かし切れていないのだ。

これは、は、と、もの役割をきちんと授業者が理解していないことが原因だろう。どちらも提示をする助詞である。そして、もは複数を提示するものであると言う部分をしっかりと押さえて置けば、うまくまとまったはずである。そこが、出来ていないので、この1)〜3)の発言の共通項を見出せないで、先生の考えを押し付けることになってしまった。

子供の発言を授業中に聞いて、授業に取り入れて行く。
このライブでの作業が授業の醍醐味の一つだ。取り入れて行く為には、授業者の方にこの授業のゴールが見えていなければならない。そこに向かって行くわけだから。だけどそこが曖昧だと厳しい。

いや、もう少し言えば、子供の発言が分からないというのは次の三つがある。

1)子供の発言の内容が理解できない
2)子供の発言の内容は理解できているのだが、授業との関連性が見えない。
3)子供の発言の内容は理解できていて、授業との関連性が見えいるのだが、それをどう授業に組み込んで行くのかが分からない

である。今日の授業は2)であった。
そこについて授業後の指導で指摘した。

また、咳の代わりに「風呂」「めし」「糞」等を入れてみたらどうなるだろうか?というアイディアも検討してみるが良いということも。松尾芭蕉の「 句ととのわずんば舌頭に千轉せよ」を出しながら説明をしてみた。

もう一つの

戦争が廊下の奥に立ってゐた

は、非常に面白かったが、惜しかった。

「これは擬人法ですね。戦争が立ってゐたわけですから」
「では、廊下に出てみましょう」

という指示を生徒にする。生徒が廊下に立つと、同じ授業グールプの学生が、戦争と書かれた紙を持って立っていたのだ。このイメージからどう授業を展開するかが最大の見物だった。

「廊下は人生を現しています」

と断定して授業が始まってしまった。なんでそう言いきれるのかの説明が抜けていた。「廊下は、通り抜けて行かなければならないところですが、その先に戦争が待ってます」と説明していた。本当なのだろうか? 少なくとも私は次の六つを想定した。

1)私が廊下を戦争に向かっていく
2)私は廊下に立ち尽くす
3)私は廊下を戦争と反対方向に向かう

4)戦争が私を呼んでいる
5)戦争が渡し向かって微笑んでいる
6)戦争が私に向かって迫ってくる

である。
授業者はこの中の1)だけを想定して進めてしまっていた。
実際、戦争の書かれた紙を持っていた学生は、その紙を横にちょっと傾けてニコッと笑っていたのだ。
(を、5)のイメージでやっているのか?)
と私は時はその演出に驚いたのだが、あとで確認したら単なる癖であった。

『このように6つ位はイメージできる。そして、5)の解釈にリードしようとする無意識の行動もあった。これは生徒を無意識に混乱させる可能性のある授業展開であったろう。押しつけのつもりはないはずだが、押しつけになってしまっていた可能性が高い。』

と説明。

俳句の授業は言葉が少ないだけに、作品を丸ごと味わえて、かつ一つ一つの言葉をじっくりと吟味できる。国語の教師を育てるには非常にいい教材だなあと今回も思った。

この授業は、宗我部さん、渡邊さんにFacebookを通じてアドバイスを頂きながら作りました。ありがとうございました。こう言うとき、Facebookは本当に頼りになります。


2014/11/17の記事から

2018/11/06

『だめだこりゃ』(いかりや長介著 新潮文庫)

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『だめだこりゃ』(いかりや長介著 新潮文庫)を読み終えた。

今頃?と言われるかもしれないが、今頃だ。買っておいたまま積ん読になり、埋蔵され、発掘されたので読むことにした。

この本は、いかりやさんの自伝だ。

いかりや長介さんといえば、言わずと知れた「ザ・ドリフターズ」のリーダーである。「ザ・ドリフターズ」は、バンドである。いかりやさんはベーシストである。

https://www.youtube.com/watch?v=6uRfYrYJAW4

クレイジーキャッツの後釜として育てられたといかりやさんは書かれている。そして、自分たちは技術も才能もほとんどないとまで書いている。その「ザ・ドリフターズ」が、どのようにして、怪物番組「8時だよ全員集合」を引き受け、育てていったのかが書かれている。その前後が書かれている。

「8時だよ全員集合」で育った私には、とても興味深い本であった。

【余談】私が小学生の頃は、毎週土曜日「8時だよ全員集合」を見続けていた。土曜日だけは、これを見るために9時まで起きていてよかったのだ。いつもは8時には寝ていた。

そして

(世の中には、かわいそうな子供がたくさんいるんだなあ)

と思っていた。「8時だよ全員集合」は公会堂などでの生放送である。その会場にはたくさんの子供達がいる。しかし、私の感覚では夜の8時に子供達が出歩いているというのは考えられなかった。そこで私が思いついた理路は、

(ああ、この子たちは、親がいないので、かわいそうなのでドリフに呼ばれて、お客さんとして生で見ているんだなあ)

というものであった。小学校の高学年までこう思っていた。

プロ野球やコント55号をなぎ倒した「8時だよ全員集合」は、「オレたちひょうきん族」に負け、いかりやさんはドリフターズとしては表舞台からさっていく。カトちゃんケンちゃんの時代になっていき、いかりやさんは、俳優としてもう一花を咲かせていくことになる。

一貫して書かれているのは、その場でどうしたら一番いいのかということを考えて実行しているいかりやさんの姿だ。

自分たちに才能がないのは、自分たちが一番よくわかる。

そしてそれなのに、表舞台に出てきている。ビートルズの前座をやるときの作戦の立て方、テレビに生放送で出演するときの作戦の立て方、俳優として生きていくときの学び方などなど。今ある我と我ら(ザ・ドリフターズ)を、どうやって活かしていくのかということに懸命になっている姿が浮かび上がってくる。

「才能とは、努力した後に生まれるものに対して名付けられたものだ」と中野孝次さんも言われている。「なまじ才能があると、そこに埋もれて努力もせずに終わってしまう人が多い」ということも言われている。

いかりやさんの文章を読んでいると、中野孝次さんの言っているのはいかりやさんのことではないかと思えてしまう。

このところ、人工知能やEdTechのことを勉強したり考えたりしている。だから、人間とはなんなのかを一方で勉強している。人間とは何なのかが私の中で定まらないまあ、人工知能、EdTech、教育のことを考えても、柱がぶれるような気がしているのだ。

そんな時に読めたこの一冊は、とてもエキサイティングな本であった。

2018/10/27

『7で一つの束になっているものは、何かあるかなあ?』  掛け算の指導

算数わからない族の池田が語ります。

先日の教育実習訪問指導を見ていて、わからないことがありました。
小学校2年生の掛け算の九九の覚え方についてです。
それまでに五の段から初めて、二、三、四、六の段を教えた後の話です。

学生さんは、教科書にある通りに、7個のクッキーが一つの束になっているものを黒板に貼って、その束がいくつあるのかと言うことで、7の段の説明をしていました。子供達は、素直に7つずつ増えることをノートにまとめて、7の段の理解をしていました。

私にはわかりません。
なんで、クッキーが7である必要性があるのかが、全くわかりません。
ところが、教科書を見ると、クッキーで教えた後に、カレンダーがあって1週間は7であると言うことを考えさせています。

(え、逆じゃん)

と思うわけです。

もし私が授業をするなら

『7で一つの束になっているものは、何かあるかなあ?』

と発問するでしょう。
いや、五の段、二の段からそうするでしょう。
いつでもどこでも必ず五の束になっているものを示します。そして、それがいくつあるのかを考えさせます。例えば、五円玉。五円玉が、3個あったら、いくらになりますか?とする。五円玉は分解できないから、五円が3つある。つまり5×3は15ということを考えさせると思うのです。

それをやってから
『では、2で束になるものは何かあるかなあ?』
と聞いて子供達に出させます。ま、さくらんぼとか出るかなあ。
『次は、3の束で考えるから何がある考えてきてね』
と宿題。

私は信号機のランプで考えました。娘に聞いたらクローバーと答えていました。なるほど、クローバーは基本的に3枚の葉っぱ。幸せの四葉はイレギュラーですから。

この辺りを事後指導で学生と一緒に考えました。

『6は何かある?』
と聞くと、
「6人乗りの車」
と答える。
これは、危険。
なぜなら、2人乗りの車も、6人乗りの車もあるから。
その数でなければならない、数の束を提示しなければならない。

また、子供達に考えさせる時も、その数の束でなければならないものを出した場合のみそれを認めて、他は、「違う」と切り離す授業展開ができないとダメになると思うのだ。

子供の生活の中にある、「1あたりの数」を子供自身が発見して、掛け算の概念を考えること。そういう授業が大事であって、子供の生活にとって必然性のない「クッキーが7つ」なんてやっても、混乱させるばかりだと、私は考えるのです。

そんなことを事後指導で語っていました。

2018/06/10

2002年FIFA W杯を中学校で見た思い出

2002年FIFA W杯を中学校で見た思い出。そこの中学校では女子でもサッカーをやる生徒が多くて、とても関心が高かったのでした。ふと思い出して、連続ツイートしました。

W杯が近づいてきている。私は中学校の教師だった頃、日韓共同開催のW杯を生徒と一緒に放課後に見たことがある。体育館に放送室からテレビのコードを引き込んで、プロジェクターに接続し、見た。これに勝てば決勝トーナメントに行ける対チュニジア戦だ。

この試合の一週間前に学年会議があって「他に何かありませんか?」と主任さんに言われ「本当に、他なんだけど、いい?」と聞いて、発議した。「隣の国では学校を休みにして応援するのに、うちは何もないんだけど、学校で見られないかなあ」と。

すると、学年としては「いいよね」という話に。学年にいた生活指導主任の先生も問題ないとのこと。早速校長に打診。時間は一週間しかない。と、校長も「ま、放課後だしいいんじゃないの? ね、教頭先生」との話。すごい。それではということで、他の学年主任の先生にも確認するいことに。

「なんでサッカーだけなの? 剣道だってW杯はあるよ」ととある学年の主任先生に言われた。ああ、まあ、そうだけど、せっかくだからやりたいんだけどなあと思っていたら、どうも先生が主催してやるのがよくないと思っている感じが伝わってきた。

「では、生徒会主催でやれませんか?」と提案。その先生は生徒会担当。「うむ、それならいいかな」という感じになった。当時、体育館にはテレビの設備はない。テレビは放送室にしか届いていな。体育館でプロジェクターで投影するにも、電波もコードもない。


ケーブルコードを購入して接続しなければならないが、学校の予算で買うと間に合わない。(もう、これは言い出しっぺの私が買うしかない)と量販店に行って100m分のテレビコードを買って、学校に寄付した。そして、生徒会の役員と一緒にケーブルを繋いで見て実験。やった、映った!


試合の前日には、準備が完了した。(やった。これで子供達と一緒に観戦して応援できる!)と思った。大人はスポーツバーに行ってビール片手に応援できる。しかし、子供達は家で大人数でやったらまあ、迷惑になる。だったら学校だと思っていた。

ところが、生活指導主任の先生からこんな意見が。「池さん、自由参加とはいえ、いつもより一時間以上帰宅が遅くなることもあるのを保護者に知らせないのは、問題じゃないかなあ」とのこと。(あー、失敗。今から下校の時間までに文書を作らなければならない。時間、あるかなあ)と思った。


「今から書きます」と言ったところ、「ま、ということでこういう文章を校長名で書いておいたいんだけどね」と言って主任先生は「W杯校内観戦のお知らせ」のタイトルの書類を校長名で用意してくれていた。曰く「集団で努力している姿を見ることは教育的観点からも大事であり~」。

「うわー、ありがとうございます」「ま、こういうこと、嫌いではないので(^^)」と主任先生。なんというフォロー。実にありがたかった。

当日生徒会の役員と一緒にコードを引いて、プロジェクターを設置して、準備万端。試合は始まっていたが、まだ学校全体は掃除の時間。すると「早くつけろよ!」と上級生の声。「早く見たい人は、帰ってもらって結構です」と私。誰も帰らない。そして、掃除も終わってみんな集合。


「池田先生、挨拶をお願いします」と生徒会役員から言われたが、こっちも早く見たくて仕方がない(^^)。「みなさん、一つだけお願いがあります。盛り上がって応援してください。ただし、フーリガンになりたい人は、この場から去ってください」。誰も帰らない。「いいいんですね? それでは」


プロジェクターのスイッチを入れた。体育館には「ニッポン、ニッポン、ニッポン!」の声。古いプロジェクターだったので、温まるまで時間がかかる。そして、スクリーンに温まるまでの時間がカウントダウンで表示された。「30、29、28、、、」なんとも言えなかった。

後半、森島がゴールを決めた瞬間は、もう体育館は大騒ぎ。誰彼構わず抱き合い、私も校長先生も生徒たちに感謝のハグ。ハグの嵐だった。
https://www.youtube.com/watch?v=YJMLHum2YXA


「勝ってよかったね。帰り道気をつけて帰るんだよ。学校というところは、この後何かあったら、もう来年はやらない。こういうことはやらないとなるからね。寄り道しないで帰ること」「はい!」と生徒たちはものすごい大きな声で返事をして、まさに蜘蛛の子を散らすように帰りました。

「池さん、よかったねえ。でも、負けたらどうだったんだろうねえ(^^)」と主任さんと校長先生に言われた。考えていなかった(^^)。みなさんの学校でも、まあ、時差はありますが、大スクリーンの学校でこんなドラマがあるといいですねえ。いい時間でした。ふと思い出して書きました。


学校は、その気になれば、結構いろいろなことができると思うのです。

2018/06/06

7/14 明日の教室 宗我部先生  俳句

七月の明日の教室は、東京から宗我部義則先生にお越しいただきます。宗我部先生は、お茶の水女子大学附属中学校の国語科の教諭を長く勤められていらっしゃる、国語教育のエキスパートのお一人です。そして、そのご専門の一つとして、俳句の指導があります。

最近では、テレビ番組の「プレバト」で夏井いつき先生が俳句について、どういう俳句がいいのか、どう俳句を作ればいいのかなどについて素晴らしいお仕事をされていて、
(俳句をあんな風に勉強してみたいなあ。楽しんでみたいなあ)
と思われる方も多くいらっしゃるかと思います。

今回は、宗我部先生に、優しく、俳句、句会、連句などについて説明を受けて、実際に俳句を作ってみようと思います。

ここで俳句についての知見を深め、子供達に夏休みの宿題で俳句を作らせるというのも、ありかもしれません。
お待ちしております。

なお、ご参加の方は、出来るだけ歳時記をご持参ください。

https://kokucheese.com/event/index/524419/



宗我部義則先生の略歴

お茶の水女子大学附属中学校教諭
お茶の水女子大学非常勤講師
早稲田大学非常勤講師
平成20年度版中学校学習指導要領国語及び同解説作成協力者
平成28年度版光村図書『国語』編集委員

2018/05/25

【新著】 『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』

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私が中学校の教師をしていた頃、野口芳宏先生といえば、もう歴史上の人物という感じがあった。遠くから拝見し、ご著書を拝読し勉強する。そう、私淑する先生であって、一緒に過ごす先生だという感覚はなかった。

ところが、NHK教育テレビの「わくわく授業」で私が放映される時、私の前の回は野口先生で、恐れ多かったのを覚えている。大学に移ることになり、大阪の小学校の校内研修会で野口先生の前に飛び込み授業をさせていただいたり、明日の教室にもお招きすることができてご縁ができ、また今では「教育と笑いの会」でご一緒させていただいている。なんだか夢のようである。

そして、今回また夢の夢のようなことが実現した。

野口先生の言葉を私が手書きしながら勉強していたものを、電子ブックにまとめて出版することができたのだ。

『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』(池田修著)

である。

夢の夢の話である。

が、現実の話である。

ICTの普及で文字はキーボードで打ち込むから、フリック入力でキーボードを触るになり、さらに今では音声入力で文字を表すことができるようになっている。これはとても便利だ。しかし、だからこそ、手書きの文字なのだと思う。

価値は少数派に宿る。手書きで書けることは特に教師にとってかなりいいことである。板書にしてもノートへの一言にしても、これは間違いがない。

私が書いていた手書きの言葉をそのままにしておくのもなんだかなと思ってTwitterに挙げてみたところ、なかなか好評であった。そして「その手書きの言葉を本にしてほしい」という話も出てきた。需要はあるのかと思ったが、あるというのでまとめようとした。

ところが、手書きであっても文章に著作権があるだろうということで一回頓挫した。許諾を得るのに相当の労力が必要になり、それは私の能力をはるかに超えていたからだ。しかし、仲間からのアドバイスで直接本人に許可を得ればいいのではないかということが言われた。

(これは、もう野口先生にお願いするしかない)

と思って、電子書籍の見本を印刷したものを添えてお手紙でお願いしてみた。

すると

「いかようにもお使いください」

ともう、飛び上がるぐらいのお返事をいただいた。電話で手紙で。

そこからは一気呵成に仕上げた。

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字は、何歳からでも上手くなります。正しい練習方法で練習を続ければ、必ず上手くなります。

本書は、電子ブックの利点を活用して、なぞり書きで上手くなるように作ってあります。

自分の好きな言葉であれば、何回書いてもいいものです。

そうして、なぞり書きをしながら上手くなってしまってください。

お役に立てればうれしく思います。

* 私ごとで恐縮ですが、今年で筆を持ち始めて50年になります。その私の記念すべき年に、自分の手書きの本を出せたというのは、とても嬉しいことだなあと思っております。感謝。

2018/05/04

抹茶書道 吉祥

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一度始めると、ある程度納得するまでやり続けるのが私の癖。
今日も抹茶書道をやり続けた。
実に面白い。
字を書くという営みは実に奥が深いものだと、今更ながらに思う。
これ、ワークショップやったらやりたい人結構多いかもなあ。
お茶屋さん、ご要望があれば、ワークショップの講師やります(^^)。

抹茶書道の家元を名乗ろうと思う

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ひょんなことから、抹茶書道を始めた。

そして、抹茶書道の可能性を感じている。
文字を書くことの可能性をものすごく感じている。

長年書道はやってきているが、まさか亀に刻したり、ガラスに刻したりすることになるとは思っていなかった。が、ここに来てさらにお抹茶に文字を書くことになろうとは思いもしなかった。

お抹茶書道とカフェラテアートは、違うものである。お抹茶書道は、お抹茶の泡の上に濃茶を乗せて書いていく。カフェラテアートは、基本的にクリームをコーヒーに注ぎながら作る。後から、文字を泡の上に書いたりもするが、基本が違う。だから、お抹茶書道は、文字を書くだが、カフェラテアートは書くとは違うだろう。

抹茶書道をやってみて、ズンと心に届くものがあった。
これは、書道、甲骨文字、ガラスへの刻字では得ることのできないものであった。それは何かと言えば、抹茶書道では、書いた文字を体の中に入れることができるということである。

確かに、クッキーで文字を作るとか、チョコレートでデザートプレートにハッピーバースデーなどを書くことはある。また、最近では、食べ物に書けるFOODPENや印刷ができるフードプリンタも出現している。ラーメン屋の海苔の上に文字を印刷したものもあった。文字を食べることは今までもなかったわけではない。

しかし、この抹茶書道は、文字を飲み込むのだ。
完成された文字を飲み込もうとするとき、表面の文字は流れ出し、それが体の中に入っていく。この時の感覚は、実に不思議なものであった。

前日には、抹茶アートで鳥獣戯画のウサギを描いて、そのあとにその抹茶をいただいたが、その時には感じなかった。だが、「寿」という文字を体に入れた時、なんとも言えないエネルギーを体に入れた感覚があった。

あがり症の人が、手のひらに人の文字を書いて飲む真似をするというのは、一種の言葉遊びの暗示だが、それに似たものがあるのかもしれない。しかも、これは実際に飲む。

結婚式の控えの間で、入試に向かう朝に、入学式の前に。
何か新しいことを始めようとする時に、抹茶で吉語を書きそれを飲み干す。
これは、まさに「言祝ぐ」ことができるのではないかと思えたのだ。

抹茶書道の家元を名乗ろうと思う(^^)。

2018/04/25

【受付開始】5月19日 明日の教室 伏見散策

【受付開始】5月19日 明日の教室 伏見散策 吉水先生(京都府)
ブラタモリのように、伏見を歩きながら謎を解いていくフィールドワークです。

2018/04/20

間違い探しを活用した書写指導法

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昨日の国語科教育法1の授業の後に、学生が相談に来た。
「先生、私どうしても自分の名前がうまく書けません。どうしたらいいでしょうか」
とのこと。
『だから授業中に言ったでしょ。書けない人がいたら手を上げて、書き方を教えてくださいと言えばいいと言ったのに』
たかだか25人ぐらいの授業なので、手はあげればあげられると思うのだが、まぁ自分の字が汚いの衆目に晒すことが耐えられなかったのであろう。許す。

『では、あなたの名前を黒板に書いてみなさい』
と言って書かせた。
その後、私はその字を見た後、その横にその名前を書いた。
『さて、私が書いたあなたの名前と、あなたが書いた自分名前では、どこが、どのように違いますか?』
このように発問した。

授業が終わったにもかかわらず、まだ10数名の学生がその様子を見ている。だったら授業で聞いても変わらなかったなぁ(^^)と思いながらも、話を進める。

学生は
「ここは何か、こう、シュッとしていて、それでまとまっていて、かっこいいです」
のように説明する。
『いや、全然説明なっていません。どの字のどこがどのように違うかを教えてください』
「えー」
『じゃあ、この川と言う字だとどこが違う?』
「えー、、、僕が書いたのは、最初の先が右に曲がってますけども先生の書いたのは左曲がっています」
『そうだね。その通り。他には』
このようなことを繰り返しながら4つの漢字について1カ所ずつどこが違うかを指摘させて、私の字との違いを確認させた。

その後、そこに残っていたのが書道コースの学生たちに
『あなた方は、私が書いた字と彼が書いた字ではどこが違うかわかるよね?』
その後、その学生たちは、
「川と言う字で言えば、彼が書いたものは三画とも書き始めが揃っていますけど、先生が書いたものは真ん中が凹んでいるように書かれています」
ということを指摘した。

『そうだね、そこは違うね他には?』
このようにして書道コースの学生さんたちに質問を重ねていく。そして私の解説を加えていく。
『川と言う事は、3本の線でできているが、長さが違う。1番短いのが真ん中の線。1番長いのは? そうです右側です。2番目は一画目です。 そして曲がっているのは一画目だけです。それも左側に曲がっています。いいですか?』

この後、その学生には私が書いたものを写真に収めさせた。
そして、私の書いた字の上をチョークで擦らせた。
さらにその後、
『擦った字を見ながら、その横に自分で黒板に書きなさい』
と言う指示を出した。

本人は書いてる途中に
「難しい。うまく書けない」
と言いながらも書いていた。
川の中を書き終えたところで、
『なかなかいい感じだよ、右側にあるあなたの最初の名前を見てごらん』
と言ったところ、その学生は自分が最初に書いた字を見て
「えー」
と叫んでいた。まるで違う。見ている書道コースの学生たちも、驚きの声を上げながら見ている。書き終えた彼の字は、最初のものと全く別物になっている。

「こうやって指導するんだよ」
と学生たちに話をする。ここまで10分ぐらい。
かつて学生たちは
「池田マジックだ!」
と言ってくれたので、今回は自分で
『これが、池田マジックだ(^^)』
と言ってみた。

でも、これ、マジックでもなんでもない。

私は、これを、「間違い探しを活用した書写指導法」と呼んでいる。
私も中学校の教師の最初の頃は、子供に名前を書かせて、その子供が書いた作品の上に手を加えたり、手を加えなくても子供の書いた作品の横に、私が名前を書いて
「こう書くんだよ」
と指導していた。

しかしこのやり方では、うまくならない、なりにくい子供が何人かいることに気がついていった。

自分で書いた作品の上に先生が書き込みをする事は、子供からしてみると自分の作品に勝手に手が加えられるようなもので嫌な思いをする場合がある。何の事は無い私がそうだった。赤を入れられるのが私は、好きではなかった。赤で直してもらうのに抵抗のない生徒、または親しみを感じる生徒もいるが、これで嫌になる生徒もいるのは事実。だから
『赤で書いていい?』
と確認しながら書いていた。
実に面倒くさい(^^)。

次に、子供の書いた作品の横に書いて、子供の作品との違いを説明する方法。これは、一見良いようであるが、どうも彼らに説明が入って行く実感が乏しかった。上滑りになるのだ。原因は何かと考えていたのだが、私が出した仮説は、学習者の理解の容量を超えた説明を私がしていたのではないかと言うものであった。

指導者の私は知識や技術を多く持っている。それを学習者に与えるため、あれこれ説明するのだが、学習者の器以上のことを説明して、学習者が混乱しているのではないかと考えるようになったのだ。そうだとすれば、学習者が学習できるサイズの指示が必要になる。では、その学習者が学習できるサイズの学習量とはなんであろうか?と考えたわけである。

私の結論は、
『先生の書いた字と、あなたが書いた字では、どこが、どのように違う?』
と言う発問を出すことであった。
上記の例のように、字の苦手な学生はどこが違うのかが見えない。見えても説明ができない。書道コースの諸君は、同じ字を見ていても、違いが見えている。これは能力の差である。訓練されて身につけた能力の差である。この能力の差が見えかたを変えているのだ。そして、その見え方の差が、書き方の差に関係していると思われる。

私は高校二年生の一年間で音痴を直した。
自分ではうまいと思っていたのだが、録音して聞いてみるとずれているところが多い。
自分でうまく聞こえていたと言うのが、ポイントである。自分では、音があっているところだけを聞いて、
(うむ。私はうまい)
と思い込んでいた。だけど、録音してみるとずれている。事実を突きつけられるわけである。つまり、聞いていなかったのだ。
聞いていないから、ずれているところがわからなかったのだ。
録音して、どこがずれているのかを聞いて、直していった。
自分で聞いて、おかしなところを探して、直していった。
一年かかった。
かかったが、治った。

字も同じだと思っている。
どこがどのように違うのかを、自分で発見することから学習は始まる。
先生に指摘されて、ここが違うと言われても本人にはどうして違うのか、なぜ違うのかが理解できないことがある。だから、自分の分かる範囲で違いを発見し、それを治すように努力させる。この方法が効果を出すと考えているのだ。

分かると言うのは、分かったものと、分かっていないものに分けることができるとき、分かったとなる。
AとBとで、どこが違うのか、どこが間違っているのかを発見することろから、学びは始まると思っている。

「間違い探しを活用した書写指導法」
と言うのは、なかなかいい方法だと思っている。

*写真では、一番最初に書いたのが、右側。私が書いたのが左側。そこに学生がなぞり書きをしています。そして、最後に、真ん中に黄色で学生が書いています。右側と真ん中を比べてもらえれば、随分と違うのが分かると思います。

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