2016年 「明日の教室」研究会の予定

2016年 「明日の教室」研究会の予定
教育研究会「明日の教室」関連のご案内をブログのトップに置くことにします。

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12/17 糸井、池田  社会科の授業づくりと刻字

 京都橘大学

http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2016/11/12-9ae6.html

                   ◆

明日の教室関連の、本、DVD、電子書籍は以下にあります。

書籍は、http://www.gyosei.co.jp/home/books/book_detail.html?gc=3100501-01-000/

DVDは、http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm
電子ブックは、http://asukyo.jimdo.com/

からお求めください。

2017/01/22

教師=爺や説

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明日本学は入試。なんと雪の予報が出ている。参ったなあ。

今年は入試に雪がぶつかる。

先日のセンター試験も雪だった。

その雪の日、娘(9)は大喜び。

外で遊ぶその様子を見に行ったところ、雪の滑り台をお友達と作っていた。

第一コースができて、引き続いて第二コースを作ろうとしているところであった。第一コースに90度向きを変えて長距離が取れるようなコース設計を考えたようだ。

で、しばらくその様子を見ていたのだが、この作業の効率の悪いことってのはない。

雪を橇に載せて持ってっくるのだが、柔らかいまま持ってくるから少ない量。それを第一コースの上の部分から積み重ねようとしていく。

『ああ、それじゃだめだよ。まずは、土台の部分にしっかりと雪を集めて重ねていかないと』

と言おうと思ったが、その言葉を飲んだ。

そして、雪を集めて持ってくる係を自主的にやり始めた。

雪を固めて丸くしながら大きくして、第二コースの横に持ってくる。

「おとうさん、これ壊してもいいの?」

『もちろん。好きなように使いなさい』

「やった!」

と言いながら娘はその雪塊にキックをして細かくしてまた上の方に重ねて行く。

『だから、それじゃあ、うまく固まらないよ』

と言おうと思って、これも我慢する。

我慢して雪集めに勤しむ。

教師は、大人は、最適解を知っている。

どうしたらいいのかということを知っている。子供は知らないことが多い。

だから、子供がやっている姿を見ると、あーしろ、こーしろと言いたくなる。

しかし、これは厳に慎まなければならないことなのだ。

もし、大人が指示を出して、子供がその通りにやったら。

また、その指示通りにやらなかったことを大人が叱るようになってしまったら、これは子供の遊びではない。それは単なる「作業」である。大人の指示に従ったら褒められ、ダメだったら叱られる悲しい作業になってしまう。

たしかに、主体的に作業をするかもしれないが、自主的に遊ぶことにはならない。

娘を見ていると、思った通り第二コースは脆くも崩れ、何回かやり直しを余儀なくされていた。そして、娘はあれこれ考えて第二コースを作っていた。自分で雪を集めながらやっていた。

雪集めをした私は、その後はカメラマンとなって、記録をしていた。

転ばぬ先の杖。

これをどうしても教師や大人は、子供に与えたくなる。

失敗しないし、失敗しないから早く効率的にできる。

そう、できるのだけど、それは子供が自分でやったのではなく、やらされてできたのであって、さて本当にできたのかと言われればそれは怪しい。転ばぬ先の杖は、老人には必要かもしれないが、子供には必要ない。

バブル崩壊までの日本経済では、指示されたことを早く正確にこなして行く仕事が求められてきた。そしてそれができる人たちが優秀な人と評価されてきたことだろう。しかし、その仕事はこれからはAIが行う。指示通りに動くばかりでなく、休憩時間もいらないでどんどん仕事をするだろう。

大事なのは、どうしたらいいのか。どうしたらよかったのかと自分で考える人間を育てることだ。最適解を与えられてそれを早く正確に実行する人間を育てるのではないのだ。

雪を集めながら、遊んでいる娘の様子を見ながら、考えていた。

やはり、遊びと学びは似ているなあと。

これからの教師の仕事は、爺やになることではないかと思った。

学ぼうとする主体の子供、学習者に対して、教師はせっせと「雪」を集めてくる。

彼ら彼女らが学ぼうとしているところに、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くのだ。

これを、教師=爺や説、と名付けたい。

もちろん、彼ら彼女らはやがて自らが自らの爺やになって、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くことができるように教師が関わって行くことは大事だ。それにしても、まずはしっかりと爺やになることじゃないかなあと思えてくるのだ。

教育でも子供が自分でやりはじめたら、あとは教師はカメラマンになるぐらいしかないだろうなあと思う(^^)。

従来の授業では、「あー」という声が出る授業はいいだと言われている。学習者が授業者の説明を聞いて心から納得したり共感したり驚いたりした時に、「あー」という声は出る。だから、いい授業なのだ。しかし、このいい授業の定義は変わって行くかもしれない。

「あー」が出るのは、教師が最適解を学習者に示した時ということも言えるかもしれない。そうだとすれば、それは学習者が学びをしているのではなく、作業をしていると言えないか。「どうしよう、こうしようか、いや、ダメだった、次はこうしよう」と主体的に学習を始める時、また、自主的に学ぶ時、その引き金になる授業では、学習者の口からは「えー」とか、「うーん」とかが出る授業がいい授業になって行くのではないだろうか。

つまらないことが面白くなるように教える。

分からないことが分かるように教える。

できないことができるように教える。

これは『新版 教師になるということ』(学陽書房)にも書いた、教えることに関しては大事なポイントだと思っている。しかし、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者を育てる授業を考える時、実はこれではダメかもしれない。

「えー、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「うーん、それは本当なのかなあ」

というところが学習者にあることが、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者のスタート地点になる可能性はないか。

最適解を知りながら、最適解を示さない。

雪遊びは、娘が興味を持っていることだから、勝手にやっていた。

学びも、楽しいから学ぶのであって、最適解を目指して勝手にやるだろう。

問題は、勉強の部分だ。

私は、学びをするために勉強が必要になるから、勉強するという道筋を作って行くことが大事だと考えている。

それが「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」という私の研究のテーマにもつながっていると考えている。

娘が無心に遊んでいる姿を見ながら、そんなことを考えていた。

明日は本学の入試。

雪が予想されます。

お気をつけて、お越しください。

大学もみなさんを待ちしております。

2017/01/13

比較という工夫を入れる

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人に説明をするときに、数字が入ると受取手は理解しやすくなる。これはまあそうだと思う。しかし、この数字を単独で使うよりも、比較という工夫を入れるとよりわかりやすくなる。

卒論の発表会で、学生が給食の残菜量について数字を出していた。年間に、児童一人当たり年間で17.5kgだそうだ。よく調べてきたなあとは思ったが、その17.5kgがどういう意味を持っているのかが今ひとつわかりにくい。

『 17.5kgというのはどういう意味を持っているのだろうか? 例えば、この重さは年中さんの子供の体重ぐらい?』
と幼児教育コースの学生に聞く。
「年中さん、もうちょっと軽いと思います」
『そうか。しかしまあ、食べ物の重さを子供で比べるのは変だよね』

『もし、この17.5kgを元に、日本中でどのぐらいの残菜量があるのかを計算して、その量は,○○という国の子供の食事の○割りになります。という説明をしてくれたら、その数字が持つ意味がグッとわかりやすくなるなあ』

例えば、地球の自転速度は、緯度によって違うが、時速1200kmから1600kmである。まあ、数字に強い人はこれをさっと覚えるだろう。でも、時速1200kmから1600kmと言われても、実感はない。

ただ、私はこの自転速度は実感を持って感じることができる。それは、比較しているからだ。

夕方の6時ごろになると、琵琶湖の上空は旅客機のラッシュになる。琵琶湖を目印にして飛ぶ旅客機がこの時間になるととても多くなる。それを私は見るたびに、地球の自転のことを思い出す。

旅客機の巡航速度は、だいたい時速800kmである。
そうである。だから、地球はあの旅客機の進む速度の倍のスピードで回っているのだ。旅客機の進む方向に倍のスピードで目を進めて、地球の自転スピードを感じている。

そして、朝、太陽が昇るときに、またこの自転のことを思う。
あれだけのスピードで動いているにもかかわらず、太陽はゆっくりと昇ってくる。
(ああ、太陽と地球は遠いんだよなあ。だからあんなに。そして、あの太陽の光は、8分前の光なんだよなあ)
そんなことを思いながら、見ていることもある。

1)地球の自転速度は時速1200kmから1600km。
2)その速度は旅客機の倍。
3)しかし、太陽が昇ってくるのは遅い。それは太陽との距離が光速で8秒かかるぐらい遠いから。

情報の取り出し、解釈、評価。
多分、 PISAがリーディングリテラシーで求めているのは、こういうことなのだろう。

数字は数字として単独であってもいいのかもしれない。
しかし、人に伝えるとなったら、それは比較され、工夫される必要があると思うのだ。

2016/12/31

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

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ふう、熱も下がって一安心。

口の中がヒリヒリするのは治らないけど、まあ、いいでしょう。

風呂が沸くまでにちょっと。

1年間全体を振り返るのは、面倒なので(^^)、思いつくままに。

今年の最大は、何と言っても再現ですね。

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

まず、亀です。

亀の甲羅が手に入ると言われて、本当かと思っていたのですが本当に手に入って、それを元に甲骨文字の再現をしたわけです。私にとっては恍惚でした。私が調べた限りにおいては、甲骨文字の再現をしているネット上の記録は、私がするまでにはありませんでした。亀卜の記録は論文にもありますが、甲骨文字の再現はありません。

ここからあれこれ始まったわけです。

授業化を想定していた私は、甲骨文字を甲羅に刻すのに彫刻刀では子供たちは大変だと言うことでミニルーターを手に入れてやって見ます。ところが、これでは歯が立たない。で、まあ、せっかくなのでと思って家にあった一升瓶に文字を刻して見たところ、これが非常に楽しい。結果的に一升瓶に般若心経を刻し、大学の書道展で展示してもらうことになりました。また、そこから、板ガラスに文字を刻すのもやり、蘭亭序の前半を刻し終えました。

さらに、そこから写仏の本に手を出し、ガラス板に仏を刻す「刻仏」なるものを創作してしまいました。渡辺徹さんには、「光の彫刻」とまで言っていただきました。

そして、ここに現役の学生と卒業生が関わって来ます。

現役の学生は、この亀の甲羅に甲骨文字を刻すと言うワークショップを某博物館で計画中です。また、卒業生の教員たちと一緒に、中高生に甲骨文字を刻す書写、書道の授業をすることを始めています。そのうち、高校では刻した甲骨文字の拓を取ると言うこともしました。来年は中学生に実施します。

私の方は、甲骨文字の再現のために京都の美術館を巡り、さらに東京の書道博物館、国立博物館に出向いて実物を見て目を肥やしていました。そして、京都のわが国最古に民間美術館の有鄰館で私が再現した甲骨文字が収蔵展示されることになりました。

亀からスタートした再現。最初に亀の甲羅を手にした時、まさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。しかし、これらは全て今年行ったものです。牛にひかれて善光寺参りではありませんが、亀に導かれて「わらしべ長者」のような気分です。

次に、諺です。

もともと、諺は好きで、中学校の教員の頃から「ことわざでぽん」「ことわざスピーチバトル」「人生名言集」など諺で遊びながら言葉を学ぶと言うことはしていました。

大学でも、この延長であれこれやっていました。今年は、その流れに一つの山がきました。

小学校の3、4年生で諺を学ぶことになっています。小学校の教員を目指す彼らに諺の授業をしておきたいと思っている私は、色々と工夫をして見ました。

その一つが、去年から続けている、カルタの諺を写真で表現すると言うものです。今年は、さらにそれを発展させて5秒の動画で表現する「諺デジタル動画辞典」の作成に乗り出しました。

二回生ゼミで行ったのですが、ハマってしまった学生が今年も結構出て、卒論のテーマにしたいと思っている学生も数名でています。この実践は、日本デジタル教科書学会で発表できまして、さらに朝日新聞の記事にもなりました。http://withnews.jp/article/f0161022000qq000000000000000W03r10101qq000014184A

もう一つは、まさに再現です。「急がば回れ」を再現してみると言うものです。

滋賀に住まいするようになって、滋賀の歴史を勉強して見ました。

すると、「急がば回れ」は滋賀県の「諺」と言うことがわかりました。

しかも、私の住まいの対岸。

これは知らなかった。

実際にやってみたいと思ってあれこれしていたまま、10年が過ぎてしまっていました。

陸路は三回生ゼミのメンバーと一緒にやって見ました。

そして、水路です。

で、今年タイミングがうまくあってお世話になっているオーパルの中岡さんに協力を得て、実際に再現することができました。八月です。

琵琶湖の穏やかな風を受けながら、気持ちよく「急いで」見ました。陸路と水路とを両方とも再現することができました。これも記事になった。

http://withnews.jp/article/f0160816003qq000000000000000W03j10601qq000013857A

さらに、ここから新しいプロジェクトも動き出している。

幸せ。

さて、次は何をしようかと画策中。

言葉って楽しいなあと改めて思う。

そして、その楽しさを学生に、学生が教師になった時に子供達に伝えていく。

そのための研究と授業を今年は一つの形にすることができた。

来年、これがどう言う展開をするのか実に楽しみ。

どちら様も、よいお年を。

小三治の「芝浜」を聞きながら。

2016/12/25

学びの支援とは

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授業中の学習者のつぶやきで、いい授業の時に出るつぶやきは

「あ〜」

だと言うのは、実は一部ではよく知られている事実。

「あ〜」と言うのは、茂木健一郎さんのアハ体験と同じであって、説明されたことが理解の次の納得の次元で承認された時に出てくる言葉だと言える。つまり、深いところで分かった時に快感とともに出てくる言葉なのだ。

この言葉がどのぐらいの頻度で出てくるかで、その教師の学習の指導力が見て取れると考えることもできる。その一方で、「え〜」とか「う〜ん」とか言う言葉が出てくるときは、教師の説明に対して、理解ができないとか、納得がいかないのサインとして考えられ、いい授業ではなかったと言うこともできる。

ところが、これを学習ではなく、学びを基軸に考えると違った様相を呈することになるのではないだろうか。学びを支える支援の場合、教師が説明をして「あ〜」と言う場合は、実は良くないのではないかと思われる。「あ〜」が深いところで分かった言葉だとしたら、その学習者は、その部分についてもう先に進もうとは思わないだろう。

私が大学に行って一番最初に修正した授業のデザインはここだった。中学校の教師だった私は、懸命に中学生に理解させようとしてきた。分からないと言うことが無いようにしてきた。それを大学でもやった。すると、学生たちは理解するし、納得もする。しかし、その先に進んで行って学ぼうと言うことにはなっていなかった。

そこで、デザインを変更した。分からないことが分かったの授業から、分かっていない自分が分かったの授業への変更である。勉強しなければならないことが山盛りあることに気がつかせる。自分では当然だと思っていたことが、それは実は単なる思い込みであったことを気がつかせる。「え〜」「う〜ん」と言う言葉は、その先にある自分の学びのための問いを得るきっかけがここにあると言うサインの音と考えることもできるのではないだろうか。

自分が理解している世界を一度否定されることで、「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出てくる。しかし、それはその先に進むために必要なことで、少なくとも学びを手にしようとする者たちは、ここの部分を通過せざるを得ない。そして、学びの支援とは、実はこの「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出やすくすることではないかと思うのだ。

2016/12/21

わらかないは、わかるための入場券

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(え、なんでなんで?)
と思うのは楽しくないかなあ。
わらからないって楽しいけどなあ。

わからないと、バカにされる、頭が悪いと思い込んでいるのかなあ。思い込まされているのかなあ。わからないことがあるから、わかると言う体験ができるのになあ。

わらかないは、わかるための入場券なんだけどなあ。
その入場券を手にれたのは、嬉しくないかなあ。楽しくないかなあ。

2016/12/19

【明日の教室】京都本校の予定  阿部先生、日野田先生

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【明日の教室】京都本校の予定。

1/28 上越教育大学教職大学院准教授 阿部隆幸先生。 2/4 大阪府立箕面高校校長 日野田直彦先生。

しばらくしましたら、正式なご案内をします。
お楽しみに。

2016/12/14

葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

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葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
友人の一人は、光の版画と称してくれました。
嬉しいなあ。

醍醐寺 弥勒菩薩像

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刻仏

義務教育で扱う問題だと思うのだ

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義務教育で教えておくこと、または生徒が身につけておくことは何かって考える必要があるなあと改めて思い始めている。

学校教育法の二十一条には、義務教育が行う普通教育の内容について以下の要に述べている。

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法 (平成十八年法律第百二十号)第五条第二項 に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。

 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。

 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。

 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。

 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

因に、教育基本法の52項は、これ。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」

大筋でこの方向で異論を挟むことは無いと思う。これはこれでいい。しかし、この二十一条は、なんというんだろう、前向きというか攻めというか、そういうものに見える。

勿論、目標なんだからそういうように見えるというか、文言化するのかもしれないが、私にはそれは一面にしか過ぎないんじゃないかなあと思えるのだ。

たとえば、以下のようなものはどこで教えるのだろうか。何の授業で教えるのだろうか?

1)お礼の仕方、謝り方

2)借金の仕方

3)保健所の活用の仕方

4)払いすぎた税金の取り戻し方

5)生活保護の申請の仕方

他にも、名誉挽回の仕方とか、ひき逃げに合った時の対応の仕方とか、えん罪に巻き込まれた時の対処の仕方とかもあるかもしれない。

このような「身を守るため」に用意されているマナーや社会保障は、どういう授業で行われるのだろうか? 1)は道徳? 2)は家庭科? 3)は保健体育? 45)は社会科? よく分からない。これらは、教育基本法の52項のように、前向きに生きて行くことを求めているものではないので、教えなくていいのか?

義務教育は、可能か不可能かは別として、人生で生きて行くために必要な基礎の部分を教える教育だと考えている。それは、前に進む方法だけでなく、立ち止まったり、倒れた時に安全に倒れることのできる方法であったり、復活するまで倒れ続けていられる安心を手に入れる方法も含まれている必要があると思うのだ。

人生は、前向きでありたい。前進して行くものでありたい。誰も、没落して行くことを人生の目標として設定するものはいないだろう。しかし、前向きにならないときもある、なれないときもある。その時の対策としてセーフティネットが社会で用意されているのだとは思うのだが、そのセーフティネットを活用する方法が学習される機会が与えられていないのではないかと思うのだ。

ここは、福祉ではなく、教育で扱う問題だと思う。

そして、義務教育で扱う問題だと思うのだ。

2016/12/06

『わたしたちの「撮る教室」』

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石川晋さんから最新刊をいただいた。『わたしたちの「撮る教室」』だ。ありがとうございます。

おそらく、類書はないと思う。
いま、こうして学級の学校の実践をそのまま出せる環境にある先生(もちろん、その環境は実践家が作って行くのだが)がいないことが一つ。また、個人情報の保護のことからが一つ。ということで、貴重な本だと思います。

自らの歴史を綴る権利が、ユネスコの学習権宣言には学習権の一つとして挙げられていますが、たぶん、この『わたしたちの「撮る教室」』は、その文脈に位置付けられるのだと思います。

それも、連続型テキストではなく、非連続型テキストのテキストの一例として。

私も学生たちに出版せよと言い続けています。電子ブックであっという間にできますから。出版学習が身近なところに来ていると思っています。その際にも、この本は貴重な学習資料になると思いました。

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