2016年 「明日の教室」研究会の予定

2016年 「明日の教室」研究会の予定
教育研究会「明日の教室」関連のご案内をブログのトップに置くことにします。

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12/17 糸井、池田  社会科の授業づくりと刻字

 京都橘大学

http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2016/11/12-9ae6.html

                   ◆

明日の教室関連の、本、DVD、電子書籍は以下にあります。

書籍は、http://www.gyosei.co.jp/home/books/book_detail.html?gc=3100501-01-000/

DVDは、http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm
電子ブックは、http://asukyo.jimdo.com/

からお求めください。

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2016/12/06

『わたしたちの「撮る教室」』

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石川晋さんから最新刊をいただいた。『わたしたちの「撮る教室」』だ。ありがとうございます。

おそらく、類書はないと思う。
いま、こうして学級の学校の実践をそのまま出せる環境にある先生(もちろん、その環境は実践家が作って行くのだが)がいないことが一つ。また、個人情報の保護のことからが一つ。ということで、貴重な本だと思います。

自らの歴史を綴る権利が、ユネスコの学習権宣言には学習権の一つとして挙げられていますが、たぶん、この『わたしたちの「撮る教室」』は、その文脈に位置付けられるのだと思います。

それも、連続型テキストではなく、非連続型テキストのテキストの一例として。

私も学生たちに出版せよと言い続けています。電子ブックであっという間にできますから。出版学習が身近なところに来ていると思っています。その際にも、この本は貴重な学習資料になると思いました。

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2016/12/05

もう一度言う

ニシンの白子が手に入った。

ニシンは、今が旬。

北海道の小樽に向かう列車の進行方向右側のオホーツク海では、フケが発生していることだろう。

私は、スーパーに並んでいたニシンを手にいれて、身をグリルで食べようと思ったのだ。で、出てきたお宝が白子であった。

プリン体満載の、この白子。

私にとっては敵である。

敵は撃破するか、友好条約を結ぶかである。

私は、後者を選んだ。

で、調理。

日本酒に漬けて洗って、白子の臭みを取る。

そのあとは、バターでソテー。

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もう一腹は、素焼きをしてポン酢、一味、山椒でいただく。

どちらも実に美味しい。

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もう一度言う。

どちらも実に美味しい。

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2016/12/04

恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ

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勉強しない子供達に出会ったのは、三校目の中学校でのこと。それまでは、勉強ができなくてもまあ、試験前になれば勉強するという子供達がほとんどであった。試験があれば勉強する。しかし、試験があっても勉強しないという子供達を目の前にすることになったのだ。

高校に行く気がないから勉強しない。

まあ、違うんだけどこれはわかる。

その一方で、高校には行く気だけど勉強はしないという生徒がいるのだ。

これは何を意味しているのか、最初の頃はよく分からなかった。

私の理解では、高校に行くなら勉強しないと合格しないし、行くのであれば少しでも自分の希望にあった学校に行けるようにするのが普通ではないかと思っていたのだ。

しかし、高校に行く気はあっても勉強はしない、のだ。

調べて、考えてみての結果は、これであった。

つまり、勉強しなくても高校には行けるから、勉強しないである。少子化で高校の入学枠の方が広くなってしまったから、選ばなければ高校に行けるのだ。

衝撃であった。

それまで、定期考査や高校入試があるから、ギリギリ勉強をすることを仕向けることができていたのではないかという疑いが私の中に生まれた。もちろん、学習内容の面白さ、身につけることのできる技術を前面に出して授業を作って来たと思っている。しかし、こういう生徒を見るとそれはどこまで本当だったのかと考えるようになった。

言い換えれば、テスト、入試という恐怖、脅しで勉強をさせていただけではないのかということだ。恐怖では人は動かない。動いたとしても一時的なものだ。その場しのぎ、緊急避難である。そうだとしたら、恐怖で勉強をさせても子供達は、勉強にはならないはずだ。

人が勉強するのは、どういう時か。

多分、二つだ。

1)必要な場合

2)興味がある場合

いい学校に入りたいというのは、この二つが色々と混ざっていると思われる。だから勉強した。ところが、高校には入れさえすればいいというのであれば、勉強は必要でない。高校に興味はあるが勉強には興味はないのだから、やっぱり勉強はしないとなる。

そもそも、学校で「これは君の将来に必要なことだからしっかりやりなさい」というのは、難しい。いや、それでも身につけるべき知識が技能がはっきりしている場合は、この「必要だから」というのは学習者に届いた。または、先生が言うのだからと言う先生の権威があった場合は、これも有効だった。しかし、今はその知識や技能はコンピュータやAIが担おうとしているし、先生に権威のある人は少なくなっている。

さらに、いい高校に入っていい大学に入って、いい会社に入ればいい人生待っている、約束されていると言うのも、信じている若者はもうすでに少数派ではないだろうか。必要性で勉強させるのは難しい。

しかし、勉強は大事だ。

勉強しなければ、社会にエントリーすることはできない。

勉強し続けなければ、社会から投げ出されてしまうだろう。

そうだとすれば、もう一つの手掛かりに期待して行くしかないかもしれない。「興味がある場合」だ。

自分が興味のあることは、やる。

さらに面白ければもっとやる。

子供は、人間はそうだと思う。

一人一人の興味に合わせた授業づくり、または教材開発。

いや、この場合教える側の都合で作られた教材ではなく、学ぶ側の癖や好みに合わせて作るから学習材と読んだ方がいいだろう。私はそんなことを考えながら現場で勉強をしたくないけど高校には行きたいと言う子供達、勉強なんてそもそもしたくないと言う子供達に授業を作っていた。

ハンドメイドの授業、オーダーメイドの授業は、面倒だ。

しかし、これをすることに教師の、授業の醍醐味はあると感じていた。

全部が全部このスタイルの授業でやることはできない。時間の限界がある。能力の限界もある。だから、クラスのしんどい子供にはこのことをしていた。本当は全員にしてあげたいなあと思いながらも、限界を感じながらやっていた。

しかし、だ。

この一人一人に合わせた学習材に基づく、そう、興味に基づく勉強が可能になる時代がそこまでやってきているのではないかと思うのだ。AIによってその子供の特技、才能、特性、趣味、興味などに合った学習プログラムが提供できる時代がすぐそこに来ているのではないかと思われる。今までは、この組み合わせがとても大変で、やれたとしたらそれは職人芸の能力を持つ教師か、人件費無視して人を使ってやることでしかできなかった。そして、それはそれだからできなかった。

ところが、AIはこれをいとも簡単にやってしまうだろう。

私がやっている、子供の興味を基にした授業づくり、学びの支援はやがてAIのプログラムの一部に組み込まれて行き、これに興味があると感じることのできる子供の学習に活用されて行くんではないかなあと思っている。

時代は、「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」と変わって来ているだろう。親や教師が「これができないと困るよ」言う。それは確かにそうなのだが、子供たちは恐怖では動かない。そんなことより、「面白くて仕方がないからもっとやらせてほしい!」と言う学びの環境をいち早く実現するべきだと思うのだ。

AIが来る前でも、子供たちの興味のある学びを、今の学習指導要領にリンクしてその子供学びを支えるカリキュラムを一部でも組み込むことはできるんじゃあないかなあ。アクティブラーニングってのは、アクティブに勉強するではない。アクティブに学ぶだってことを抑える必要があると思うなあ。

「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」

実は、大学の教員は、興味を刺激する学びのために、必要な場合に勉強していると思われます。それは外側から見ると遊んでいるように見えると思います。

私は、その「遊び」を義務教育の子供達から実感できるような授業ができないかなあと思ってあれこれしています。

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「謎掛けで遊ぼう」

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よし。12/10の第四回教育と笑いの会の番組の準備が終わった。今回の演目は、ネタおろし。いわゆる初演となる。「謎掛けで遊ぼう」である。

私はことあるごとに、謎掛けができるようになることは教育関係者、授業づくりには大事なことだと言ってきた。だが、これを授業や講座でやることは今までなかった。よくやっていたのが、懇親会の座興である。

今回、教育と笑いの会で「池田さん、何か次もやって」と玉置先生に言われた。そんな私は玉置先生のように落語を一席語れるとか、志水先生のようにネタを組み込んで漫談をするとかはできない。(どうしよう。もうネタがないなあ)と思っていた時に、(そうか、謎掛けやればいいか)と思って腹を括った。

面白いものでこの話が決まってから、今度はNHK教育テレビからまた謎掛けに関わって相談があった。今度放映される「テストの花道」である。これも実は謎掛けが関係している。私が監修した。

第四回 教育と笑いの会が、12/10で、テストの花道が12/12「新テストにも対応! 大喜利で“発想力”を鍛える!」だ。
なんだか不思議な縁を感じる。

ここまで来たら「教師教育における謎掛けの活用についての研究」てな論文を書くべきかなあ(^^)。

http://www6.nhk.or.jp/hanamichi/
http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.php…

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2016/12/03

問いの外に出る

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今週の二回生ゼミでとてもエキサイティングなシーンがあった。

二回生ゼミでは、テキスト購読と議論と議論のためのファシリテーションの体験を目的として行なっている。
学生たちがチューターとしてファシリテートするのだが、まだまだなので、ときどき私が「ガイド」をする。学生たちには『このガイドが要らなくなるように、勉強するんだよ』と伝えてある。

教師のファシリテートが不十分なため、学習者の議論ができない、深まらないことがある。学生たちはファシリテートのことなんて知らないので、そのことをタイミングを見て、進行を止めてガイドしたり、注釈を入れたり品が行なっている。

今日もチューターが、発表の部分をまとめてそこで討議したい問いを提示した。この問いが、よくみるとクローズドクエスチョンであった。
その時に、端っこの班から賛成か反対かを聞いて、その理由を確認していた。
その時、ゼミでは他のグループは自分の話すのをやめず、議論をしていた。
私はこのタイミングで、ガイドに入る。

『いま、この班が発表しているのに、他の班で話しているところがあったでしょ。「こら、話をするな。聞きなさい」と叱ることもできるけど、それは私に言わせれば先生が悪い。そういう展開をしてしまったからだ。

例えば、一斉に賛成なのか反対なのかを挙手で答えさせ、その後、同じ意見同士のメンバーで席を移動して話し合わせるとどうなるだろうか。全員が手をあげることで主張をし、その後、グループで議論をする。無駄に話す人はいなくなるわけだ』

とガイドしてその方法でやっていく。実際にやって見ると学生たちはなるほどと実感する。

ところが面白い学生がいた。賛成でも反対でもないというのだ。一部分が賛成で一部分が反対。または、選択肢が別にあるかもしれないというのだ。

『いまの問いは非常に良い。つまり、そもそも提出された問いを疑っているということだね。賛成か反対かと言われると、つい、どちらかを選びたくなる。しかし、これを哲学者の苫野一徳さんは、「問いのマジッック」と言っている。実際はどちらもであったり、別にあるかもしれないのにそう考えてしまうというのだよ。

ところが、きみはその問いの外に出た。
これが大事なんだ。外側に出た結果、実は出たことが間違っていることもある。しかし、出ることができるかできないかはとても大事なことだ。

いままで君達は、大学入試で、いやこれからの採用試験でもそうだが、選択肢が4つあったらその中から正解を1つ選ぶという試験をやってきたしやっていく。早く正確にその選択肢の中から選ぶわけだ。しかし、選択肢の中に正解がないということも世の中にはある。問いの外に正解がある場合があるわけだ。

問いの外側に出ると、通常の学校教育では、先生に嫌がられることが多い。先生の持っている正解とは違うところに話が進んでいくことになるからだ。しかし、本当にしっかりと考えて教えることのできる先生は、外に出た答えが正しいかどうかを子供達と一緒に吟味するだろう。君達にはそうなってほしい。

また、勇気を持って君達も一旦、問いの外に出て考えて見ることを体験しよう。学問は、そうやって問いを立てては検証しとして前に進んでいく。いま、それを見ることができてとても嬉しいなあ』

そんな話をした。

そして、今日の授業の最後。残り2分。どうやって終わらせるかチューターは混乱していた。意見がまとまらないのだ。そこで最後のガイドが登場。

『いまから、三つの終わり方を示します。1)先生の答えを正解として示して終わる。2)学習者の多数決で答えを決める。3)そのままで終わる。さて、どれでしょう』と挙手させたところ、2)がほとんどで残りが1)。『私ならね、学習者の年齢にもよるけど、3)です」
「ええーー」
『正しい知識を教える場合は、1)でいいでしょう。しかし、議論の場合は1)はだめ。2)も少数派になった学習者は不満になる。次の学習の意欲はなくなる。3)は、そうね、自分の考えをノートに書いてあることが前提だけど、そのまま終わらせます。

特に今回は、まだ読んでいくテキストがあるからね。読み進めた結果、あれはどうだったのかとわかることもたくさんある。無理やり結論を出すことはしないで、わからないまま残すという読み方も大事なのです』

そう簡単にわからないこともたくさんある。それを分かったつもり、分かった気になって読み進める方がよほど怖い。そんなことを学生たちが実感してくれるといいなあ。

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もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う

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もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う。みんなと違う感覚を持つのは悪いことではない。法律を守らないのとは違う話なのだ。‬

‪他でもないあなた自身が
(コレは何か違う)
とメッセージをあなたに送って、贈っているのにそれを受け取らないのは、検証しないのも実に勿体無い。‬

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学年旅行とかいうものは、今でもあるのだろうか?

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学年旅行とかいうものは、今でもあるのだろうか?

私が現場にいた時も、ある学年はあった。毎月1万円ぐらい貯金して、年度末に豪勢に近隣の外国に二泊三日ぐらいで行こうなんて企画されたこともあったし、やっている学年もあった。

私は、これがダメだった。

毎月1万円であったら、10万円を超える。そんな金額で旅行を学年の先生たちと二泊三日でいくとは考えられない。それだったら奥さんと行きたい。一泊二日で豪華ホテルでディナーの方がいい。

さらに、小さい子供がいる女の先生にとって、何かあった時にすぐに家に帰れるというのは大事なこと。海外にいたらこれは無理。かつて飛行機トラブルで始業式に帰ってこれなかった学年もあったぐらいだし。

そこで、私が提案したのが職場の近くにあったログハウスでの学年旅行。学校から車で30分ぐらいのところにあるところでやった。ここなら、何かあった時にすぐに帰れる。アルコールは我慢していただくしかないが、参加できないよりはいい。

その学年は、私の他にもう一人、先輩シェフがいた。

いつも職員室でお互いが作った料理の話をしていた。日頃、深くお世話になっている女性陣にお礼をしようということである。

そこで、こういうことにした。

1)前菜は私が作り、メインは先輩シェフが作る。

2)料理を作っている間、女性陣にはジャグジーで寛いでいただく。

3)食材は途中にあるスーパーで購入を基本とする。ドルチェは買っておく。

4)飲み物は、ビール、日本酒、ワイン、ソフトドリンクとし、どうしても飲みたいものやどうしても振る舞いたいものは持参のこと。

5)苦手な食材があれば、あらかじめ伝えてもらう。

これが実に楽しかった。

『こちらが本日の一品めです』

なんて言いながら、サービスする。

日頃の腕を振る舞うのが楽しい、男性陣。振舞われるのが嬉しい女性陣。

男性陣がジャグジーに入っている間に、片付けはしてもらった。

確か、ログハウスのレンタル料を含めて、一人15000円ぐらいだったと思う。

薪ストーブに薪をくべながら、

「色々とあったけど、いい一年だったねえ」

と語り合う学年旅行でした。

あまりにも良かったので、翌年もやりました(^^)。

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2016/11/30

三十三間堂 風神像 刻仏

ガラスに、「三十三間堂 風神像」を刻仏してみました。

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2016/11/26

平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像の南8号をガラス板に刻仏する

『心やすらぐ 国宝仏像 なぞり描き』(田中ひろみ 池田書店)という本がある。
この本を手に取った瞬間に、閃いた。
(あ、これでガラスに刻してみよう)
と。

摸書という書道の学習方法がある。お手本の上からなぞるのだ。日本の書写教育ではあまりされていないが、これはとても効果のある指導方法で、私が中学校の教師の時はこれで指導していた。

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で、写仏だ。写仏は摸書に似ている。お手本の上からなぞるのだ。私にも仏像が描ける。これは気持ちがいい。初めに万年筆でやってみる。心地よい。それを画像加工アプリで効果を加えてみたりする。これも気持ちよい。

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で、いよいよである。
ガラス板に写仏である。刻仏である。

一升瓶に般若心経を刻すことで技術を磨いてきた私は(^^)、ここでその技術を活用することになる。そんな風になると思わなかったが、活用するのである。

一気に仕上げた。
ふう、気持ちがいい。

問題は、撮影である。
ガラスに刻した仏のその線から生まれる影の仏をも撮影したい。
しかし、ガラスに刻したのを撮すのはなかなか難しい。
撮影者の影が写り込んでしまうのだ。
室内のあれこれも反射してしまうのだ。

専用スタジオのない、自宅のリビングで撮影の私は、写り込みを避けながら、ガラスの仏と影の仏を一緒に撮影する工夫をあれこれあれこれ。まあ、この工夫を考えるのも面白い。

そして、イメージに近い作品を写撮ることができた。



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この作品は、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像の南8号だ。
臨終の際に、極楽浄土からお迎えにきてくれる楽人。
光と影とでデュエットで奏でてくれている。
私は、聞こえにくい耳の持ち主だが、この音楽はその時には、聞いてみたい気がする。

で、次の作品は、何にしようかなあともうすでに考え始めている(^^)。

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今回の作品には、初めて雅号を瓶底に刻した。

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一升瓶に般若心経を刻し始めて、さて何本ほど刻しただろうか。
もうすでに10本以上は刻しているなあ。

文字を格ではなく、文字を刻す楽しみ。
一日に数行ずつ、刻して仕上げている。

特に何かの目的があって刻しているわけではないが、刻している。まあ、強いて言えば全ての一升瓶の種類に刻してみたいと思って刻している。色や瓶の表面の加工具合によって、いろいろな一升瓶がある。

今回仕上がったのは、マリンブルーのもの。
今までに仕上げてきたものの中で一番太字で大柄の文字で仕上げた。

般若心経の写経では、一行に刻す文字数が決まっている。17文字だ。ところが、メインの「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提娑婆訶」は18文字。この17文字と18文字を一升瓶の胴の部分に書き切るのは、実はなかなか難しい。しかも今回は太字の大柄の文字だ。

それが今日完成した。
うむ、実に嬉しい。
今回の作品には、初めて雅号を瓶底に刻した。

次の作品に取り掛かろう。

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