2016年 「明日の教室」研究会の予定

2016年 「明日の教室」研究会の予定
教育研究会「明日の教室」関連のご案内をブログのトップに置くことにします。

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1/28 あべたか先生

http://kokucheese.com/event/index/446036/

2/4 箕面高校 校長 日野田先生 箕面高校で行います。

http://kokucheese.com/s/event/index/450530/

                   ◆

明日の教室関連の、本、DVD、電子書籍は以下にあります。

書籍は、http://www.gyosei.co.jp/home/books/book_detail.html?gc=3100501-01-000/

DVDは、http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm
電子ブックは、http://asukyo.jimdo.com/

からお求めください。

2017/02/23

春探しの授業は、句会で

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小学校低学年では春探しの授業がこの後行われるだろう。志貴皇子の「石走る」の歌ではないが、春はほんの小さな変化を探し見つけるものだ。小さければ小さいほどいいかもしれない。だから、まだ春じゃ無いんじゃない?というぐらいから始めるのがいい。

で、これは句会にすればもっと面白くなる。春を見つけるということは、春の季語を見つけることでもある。その季語で575にして、嬉しい悲しいなど感情を直接表す言葉を使わないようして、作るときに見せあわせないように指示して、作句させれば良い。まずはこれで俳句が完成。

その後、先生に提出。先生はエクセルに打ち込んで、ランダム関数でバラバラにして、作者の名前を書かずに、一覧にして、ナンバーだけ付けて子供達に配布する。「これは、私の!とか、これは~さんのでしょ?というのはやらないこと」と必ず注意。句会は、作者と作品を切り離すから面白い。

その後、句会。まずは、天地人方式がいいだろう。「いいと思うものを三つ選びます。そのうち、一番いいのが天で3点。次が、地で2点。最後が人で1点入ります。その合計点で競います」ということだ。選んだ後に、それぞれの句の天地人の得点を挙手で確認する。

小グループに分かれて、自分が天に選んだ句のどこが素晴らしいのかの解説をしあっても良い。その後、結果発表。先生がやる。「それでは結果発表です。第3位は、天地人の合計で12点を獲得しました、3番の句です。さて、どなたでしょうか?」と聞く。そして、該当生徒は、たっぷりと間をとって「池田です!」のように名乗ります。

句会では通常は良い作品に選ばれた人だけが名乗れます。こうして、1位まで決めます。クラスの人数にもよりますが、5位から1位ぐらいまで決めるといいのではないでしょうか。私がやっていた時も生徒たちは句会が大好きでした。大学生も好きです。

ちなみに、いい句なのに子供が選べない句というのもあります。その場合は、先生が審査員特別賞として選んであげればいいと思います。また、校長先生に特別ゲストで入ってもらったり、先生も参加したりすると盛り上がるでしょう。選ばれたり選ばれなかったりしますから。

さらに私は『本日の句会のゲストは、なんと江戸時代からお招きしております!』なんて言って、松尾芭蕉の作品をこそっと紛れ込ませておきました。自分の作品が選べなくても、芭蕉の句を選べた子供は嬉しそうでした。日本には四季があります。年に4回、句会で遊べます。句会、お勧めです。

『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』(池上彰 竹内政明 朝日新書)

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『書く力 私たちはこうして文章を磨いた』(池上彰 竹内政明 朝日新書)

絶品の一冊であった。

新聞、テレビという報道ではあるがその性格の違うメディアで文章を書くといこと、伝えるということを生業にしてきた、してきている二人が対談形式で文章を書くことの極意をこれでもかと開陳している本だ。

この本は、いわゆる論理的な文章を書くための本というのではないかもしれない。しかし、向田邦子さん系のエッセイのような文章を書くためには、とても勉強になる本だと言える。

自分たちが書いてきた文章を俎上に載せ、または自分たちが勉強してきた文章を例にして文章を書くにはどうしたらいいのか、いい文章とは何がどのようにすごいのかを具体的に解説している。

時には
(あれ、これは)
と私が授業で生徒や学生たちに話している作文のスキルの話も出てきて、
(をを、私もまんざらではないな)
と嬉しく思うこともあった。
勿論、全くかなわないがf(^^;

あまりにも面白く、もっと勉強したいと思ったので、この本の中に出てくる本は全て注文してしまった。

もっと書けるようになりたいと思っている人に、お勧めの一冊だ。

2017/02/16

一番重要で、一番指導が難しいのは「え?」だろうなあ

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「え? → なに? → なぜ? → ほんと? → 正しいの?」。学びは、この問いの道筋を辿っていくんじゃないかなあ。これは、「違和感 → 対象化 → 理由原因根拠 → 検証 → 価値づけ」に対応している口語だと思う。子供の口から出て来た時、そう考えたい。

で、この中で一番重要で、一番指導が難しいのは「え?」だろうなあ。言葉にできないけど、違うと感じられるセンサーを持つ。ここをどう育てるかが、ポイントだなあ。そのためには、間違えていても問題ない、それは挑戦だという指導者とそれを評価する仲間が必要だろうなあ。

新い学習指導要領が、対話的で、協同的で、主体的で深い学びを求めるのであれば、「え?」を大事にする、大切にすることがポイントになると私は考えている。

2017/02/14

娘⑼からもらった、チョコレート

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何と、カカオ豆を焙煎して、潰して粉々にして作った手作りチョコレート。
食べて見てわかったのは、チョコレートは薬だ。
甘い、元気の出る薬だということ。
いやあ、嬉しい。
元気100倍。
親指の先ぐらいのこの大きさで十分に元気が出ます。

(を、をう。頑張るぞ)

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この週末は、エキサイティングだった。

月曜日は、朝から小学校へ。小学校の隣の駅にホテルを取れたので、割と落ち着いて動けた。ま、結果的にiPhoneの充電コードを忘れてしまったことは後からわかったが、まあ、いいでしょう。

で、小学校で何と授業させてもらえることになっていたのだ。いや、変な日本語なのだが、そうなのだ。私は、確か見せてくれる?と言ったとは思うのだが、やってねとなっていた。それが分かったのが、土曜日の夜。そう、k先生に言われるまで、見せてもらえるものだと思い込んでいた。「え? オノマトペの授業してくれるんでしょ?」ま、まずい。全く記憶がない。本当にない。しかし、まあ、小学校2年生に授業をさせてもらえるなんて、しかもk先生のクラスでなんてもうありえないお話なので、やらせてもらうことに。

学級に行ったら、子供達は知らされていなかったようで、
「今日は、君たちのために大学の先生が特別授業をしてくれます」
と言っていた。子供達大喜び。
(を、をう。頑張るぞ)
と気合を入れて笑顔でスタート(^^)。

で、その後はまあもう何とも楽しい時間を過ごさせてもらった。
大学では教科教育法(国語)の授業を担当しているが、まあ、中学校出身の私には小学校で教えた経験はほとんどない。だから、娘の年齢に近い子供達だからというイメージで挑んだわけだが、何とか大丈夫だったと思う。

私が大学でやっているのは、小学校高学年の児童に教えるイメージでやっているが、今回その内容を小学校二年生にやったのだ。やったのは「日本語を楽しもう」というテーマで。あの小学生のパワーと付き合ったこの時間は実に濃密だったなあ。

いい時間をありがとうございました。

新幹線に飛び乗ったのは、14:10だったかな。
その前に、マラソン大会を頑張った娘のために、東京のお菓子をお土産に買おうとしたら、ギリギリの時間になってしまった。新幹線の中からあちこちにメールを書き、また、京都駅で会う予定の人に到着予定時刻を連絡し、忘れてきたiPhoneの充電コードを送って欲しいとホテルに連絡しとしながら、気がついたら富士山が登場。

一目見たので安心したのだろうか、睡魔が。
何とかタイマーをセットして寝る。

京都駅ではグランビアに駆け込んで、小一時間打ち合わせ。
何とかこれもスタートしそう。まあ、良かった。

で、帰宅して慌ててお父さんになって、娘のバレエのお迎えに向かいました。18:45に無事娘に会えました。
車の中で、バレエのこと、東京のこと、マラソンのことなどたくさん話をしながら帰ってきました。
てんこ盛りの週末。
エネルギーを蓄え、放出し、一歩前に踏み出した時間でした。

2017/02/05

日本の教育のあり方についての実践をくぐり抜けた提言

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昨日の明日の教室も圧巻であった。
箕面高校の日野田校長先生にご登壇願った。
三年間の任期で、高校を改革し、結果を出した。
高校生のマインドに火をつけて、先生たちも変わり始め、結果も出した。

さて、それはどうやってやったのかということを話してもらった。まあ、これがすごい。壮絶である。いや、壮絶なのは人生の前半。そして、そのことが結果的にエネルギーとなって、人生の今の時期に開花しているという感じだろうか。

もちろん、そこには綿密なというか用意周到なというかそういう戦略、策略がある。将棋の好きな彼は、無数の手を読み、設定している目標に向かって一歩ずつ歩みを進めていく。その様子は、お見事。

プレーヤーをやってしまう管理職は、まあ、管理職じゃないなあと思う。しかし彼は、プレーヤーではなく、マネージャーであった。そして、マネージャーでありながら、営業部長などもしている。そして結果を出すのだ。

講座は、講演、質疑応答、鼎談と三分構成で行われたが、どれも充実していた。
(ん、そこまで語っていいの?)
と思うところまで語ってくれた。

このDVDは、教員のみならず、管理職、教育委員会の人たちも必ず見るべきものになるだろう。今後の、日本の教育のあり方についての実践をくぐり抜けた提言になっている。

2017/01/26

明日の教室 2/4 箕面高校校長 日野田先生

明日の教室、二月は、大阪府立箕面高校校長の日野田先生にお願いしています。箕面高校の研修会と共催という形で行います。

http://kokucheese.com/event/index/450530/



日野田先生といえば、今年36歳歳で全国最年少の民間校長として大阪府の校長に赴任し、3年間の学校経営で数々の実績を出した先生として注目されている方です。

https://www.houdoukyoku.jp/posts/4456

これからの日本の学校教育は、世界を視野に入れて進路指導をしていく必要があります。また、50代の教員が一気に退職していく中、若手の教員が早い段階から管理職として学校経営の先頭に立っていくことも求められていくことでしょう。

大変お忙しい中ですが、今回、若手の教員、また、教員志望の学生さんたちに向けて、これまでの箕面高校の学校経営、また、今考えられているこれからの学校教育、学校経営についてお話しいただけることになっております。

なお、今回は会場を箕面高校をお借りして実施します。さらに、参加費は学生のみならず、一般も無料です。ご案内が遅れたうえ、40名限定ですが、タイミングの合う方、ぜひお越しください。

いまの公立高校の最先端が、また、未来の日本の学校教育のビジョンに触れることができると思います。

申し込みは、こちらへ。

日野田直彦さんの経歴

大阪府立箕面高等学校校長

1977年生まれ。帰国子女。帰国後、同志社国際中学・高校に入学し、当時の日本の一般的な教育とは一線を画した教育を受ける。同志社大学卒業後、2000年に馬渕教室入社。2008年奈良学園登美ヶ丘中学・高校の立ち上げに携わる。2014年大阪府の公募等校長制度に応じ、大阪府立箕面高等学校の校長に着任。着任時、全国の公立学校で最年少(36歳)の校長。着任3年目に入り、海外トップ大学への進学者を含め、顕著な結果が出始めている。

・ホウドウキョク「教育のキモ」
『39歳・現役最年少校長が、着任3年で海外有名大の合格者を出した「教育」とは? 』
https://www.houdoukyoku.jp/posts/4456

今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがある

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「〇〇とは何か?」と自分で問いを立ててみる。それに答えが出る。そこに「本当か?」「理由は?」「本当か?」と繰り返してみる。この程度のことであっても、自分の考えを磨きあげるには、いい訓練だ。

ただ、この訓練には弱点がある。一つの考えを先鋭化することには適しているのだが、根っこを変えることができないと言うことだ。スタート地点を疑うことができないと言ったらいいだろうか?

自分がやってきたことが正しいと言う前提で、さらにその正しさの精度を上げるために確認していると言う色合いが強い。しかし、これでは対応できないことがある。つまり、私が考えた根っこはそもそも正しいことなのか?と言う問いに対しては何も答えることができないのだ。

特に現場にいる教師は、正しいことを指導しようと考える。今までやってきて成果の出た方法が正しくて、それを今の子供達、これからの子供達にそれで指導しようと考える。それはある意味正しい。しかし、研究によって証明されたこと、または、社会の変容で変わってしまったことに対応できなくなる。

正しいことをやろうとして、正しさの精度を上げてきた教師は、それを変える理路をなかなか見出さない。(え、だって俺、うまく行っているし)となる。しかし、社会は変わる。子供も変わる。そうすると、そこを理解しない教師は根底から否定されることがある。

多くの場合、異動によって今まで依拠していたことが否定されて気がつくことが多い。ところがそれもなんとなく調整してうまく行くようになっていく、していくことであれこれを吸収する。しかし、本当に吸収できているのだろうか。いや、そもそも吸収ってことで済まされることなのだろう。

つまり、あなたが今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがあるんだよと言うことがあるわけだ。それは破壊的イノベーションで説明されることもあるし、paradigm shiftで説明されることもある。この状況は私も何度かくぐり抜けてきた。

いや、正確に言うとくぐり抜けるではない。戦って乗り越えてきただ。必修科目から選択科目へ。相対評価から絶対評価へ。教える教科の授業から支援する総合的な学習の時間へなど。この数年でこれまで以上に大きく乗り越えるものが出てくるだろう。波があるだろう。

波があるのなら、乗ってしまえばいいと思う。最先端で学べることってかなり大事なことでもあると思う。ミクロに考えること、そもそもこれは何?って考えること、波を見極めること。マクロでも考える。これが大事なんだと思う。もちろん、目の前の子供、子供たちを見て、どうすればいいかを考えた上で。

さらに授業デザインを考えていこう。

2017/01/22

教師=爺や説

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明日本学は入試。なんと雪の予報が出ている。参ったなあ。

今年は入試に雪がぶつかる。

先日のセンター試験も雪だった。

その雪の日、娘(9)は大喜び。

外で遊ぶその様子を見に行ったところ、雪の滑り台をお友達と作っていた。

第一コースができて、引き続いて第二コースを作ろうとしているところであった。第一コースに90度向きを変えて長距離が取れるようなコース設計を考えたようだ。

で、しばらくその様子を見ていたのだが、この作業の効率の悪いことってのはない。

雪を橇に載せて持ってっくるのだが、柔らかいまま持ってくるから少ない量。それを第一コースの上の部分から積み重ねようとしていく。

『ああ、それじゃだめだよ。まずは、土台の部分にしっかりと雪を集めて重ねていかないと』

と言おうと思ったが、その言葉を飲んだ。

そして、雪を集めて持ってくる係を自主的にやり始めた。

雪を固めて丸くしながら大きくして、第二コースの横に持ってくる。

「おとうさん、これ壊してもいいの?」

『もちろん。好きなように使いなさい』

「やった!」

と言いながら娘はその雪塊にキックをして細かくしてまた上の方に重ねて行く。

『だから、それじゃあ、うまく固まらないよ』

と言おうと思って、これも我慢する。

我慢して雪集めに勤しむ。

教師は、大人は、最適解を知っている。

どうしたらいいのかということを知っている。子供は知らないことが多い。

だから、子供がやっている姿を見ると、あーしろ、こーしろと言いたくなる。

しかし、これは厳に慎まなければならないことなのだ。

もし、大人が指示を出して、子供がその通りにやったら。

また、その指示通りにやらなかったことを大人が叱るようになってしまったら、これは子供の遊びではない。それは単なる「作業」である。大人の指示に従ったら褒められ、ダメだったら叱られる悲しい作業になってしまう。

たしかに、主体的に作業をするかもしれないが、自主的に遊ぶことにはならない。

娘を見ていると、思った通り第二コースは脆くも崩れ、何回かやり直しを余儀なくされていた。そして、娘はあれこれ考えて第二コースを作っていた。自分で雪を集めながらやっていた。

雪集めをした私は、その後はカメラマンとなって、記録をしていた。

転ばぬ先の杖。

これをどうしても教師や大人は、子供に与えたくなる。

失敗しないし、失敗しないから早く効率的にできる。

そう、できるのだけど、それは子供が自分でやったのではなく、やらされてできたのであって、さて本当にできたのかと言われればそれは怪しい。転ばぬ先の杖は、老人には必要かもしれないが、子供には必要ない。

バブル崩壊までの日本経済では、指示されたことを早く正確にこなして行く仕事が求められてきた。そしてそれができる人たちが優秀な人と評価されてきたことだろう。しかし、その仕事はこれからはAIが行う。指示通りに動くばかりでなく、休憩時間もいらないでどんどん仕事をするだろう。

大事なのは、どうしたらいいのか。どうしたらよかったのかと自分で考える人間を育てることだ。最適解を与えられてそれを早く正確に実行する人間を育てるのではないのだ。

雪を集めながら、遊んでいる娘の様子を見ながら、考えていた。

やはり、遊びと学びは似ているなあと。

これからの教師の仕事は、爺やになることではないかと思った。

学ぼうとする主体の子供、学習者に対して、教師はせっせと「雪」を集めてくる。

彼ら彼女らが学ぼうとしているところに、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くのだ。

これを、教師=爺や説、と名付けたい。

もちろん、彼ら彼女らはやがて自らが自らの爺やになって、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くことができるように教師が関わって行くことは大事だ。それにしても、まずはしっかりと爺やになることじゃないかなあと思えてくるのだ。

教育でも子供が自分でやりはじめたら、あとは教師はカメラマンになるぐらいしかないだろうなあと思う(^^)。

従来の授業では、「あー」という声が出る授業はいいだと言われている。学習者が授業者の説明を聞いて心から納得したり共感したり驚いたりした時に、「あー」という声は出る。だから、いい授業なのだ。しかし、このいい授業の定義は変わって行くかもしれない。

「あー」が出るのは、教師が最適解を学習者に示した時ということも言えるかもしれない。そうだとすれば、それは学習者が学びをしているのではなく、作業をしていると言えないか。「どうしよう、こうしようか、いや、ダメだった、次はこうしよう」と主体的に学習を始める時、また、自主的に学ぶ時、その引き金になる授業では、学習者の口からは「えー」とか、「うーん」とかが出る授業がいい授業になって行くのではないだろうか。

つまらないことが面白くなるように教える。

分からないことが分かるように教える。

できないことができるように教える。

これは『新版 教師になるということ』(学陽書房)にも書いた、教えることに関しては大事なポイントだと思っている。しかし、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者を育てる授業を考える時、実はこれではダメかもしれない。

「えー、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「うーん、それは本当なのかなあ」

というところが学習者にあることが、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者のスタート地点になる可能性はないか。

最適解を知りながら、最適解を示さない。

雪遊びは、娘が興味を持っていることだから、勝手にやっていた。

学びも、楽しいから学ぶのであって、最適解を目指して勝手にやるだろう。

問題は、勉強の部分だ。

私は、学びをするために勉強が必要になるから、勉強するという道筋を作って行くことが大事だと考えている。

それが「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」という私の研究のテーマにもつながっていると考えている。

娘が無心に遊んでいる姿を見ながら、そんなことを考えていた。

明日は本学の入試。

雪が予想されます。

お気をつけて、お越しください。

大学もみなさんを待ちしております。

2017/01/13

比較という工夫を入れる

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人に説明をするときに、数字が入ると受取手は理解しやすくなる。これはまあそうだと思う。しかし、この数字を単独で使うよりも、比較という工夫を入れるとよりわかりやすくなる。

卒論の発表会で、学生が給食の残菜量について数字を出していた。年間に、児童一人当たり年間で17.5kgだそうだ。よく調べてきたなあとは思ったが、その17.5kgがどういう意味を持っているのかが今ひとつわかりにくい。

『 17.5kgというのはどういう意味を持っているのだろうか? 例えば、この重さは年中さんの子供の体重ぐらい?』
と幼児教育コースの学生に聞く。
「年中さん、もうちょっと軽いと思います」
『そうか。しかしまあ、食べ物の重さを子供で比べるのは変だよね』

『もし、この17.5kgを元に、日本中でどのぐらいの残菜量があるのかを計算して、その量は,○○という国の子供の食事の○割りになります。という説明をしてくれたら、その数字が持つ意味がグッとわかりやすくなるなあ』

例えば、地球の自転速度は、緯度によって違うが、時速1200kmから1600kmである。まあ、数字に強い人はこれをさっと覚えるだろう。でも、時速1200kmから1600kmと言われても、実感はない。

ただ、私はこの自転速度は実感を持って感じることができる。それは、比較しているからだ。

夕方の6時ごろになると、琵琶湖の上空は旅客機のラッシュになる。琵琶湖を目印にして飛ぶ旅客機がこの時間になるととても多くなる。それを私は見るたびに、地球の自転のことを思い出す。

旅客機の巡航速度は、だいたい時速800kmである。
そうである。だから、地球はあの旅客機の進む速度の倍のスピードで回っているのだ。旅客機の進む方向に倍のスピードで目を進めて、地球の自転スピードを感じている。

そして、朝、太陽が昇るときに、またこの自転のことを思う。
あれだけのスピードで動いているにもかかわらず、太陽はゆっくりと昇ってくる。
(ああ、太陽と地球は遠いんだよなあ。だからあんなに。そして、あの太陽の光は、8分前の光なんだよなあ)
そんなことを思いながら、見ていることもある。

1)地球の自転速度は時速1200kmから1600km。
2)その速度は旅客機の倍。
3)しかし、太陽が昇ってくるのは遅い。それは太陽との距離が光速で8秒かかるぐらい遠いから。

情報の取り出し、解釈、評価。
多分、 PISAがリーディングリテラシーで求めているのは、こういうことなのだろう。

数字は数字として単独であってもいいのかもしれない。
しかし、人に伝えるとなったら、それは比較され、工夫される必要があると思うのだ。

«こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。