藤の花房の下で
家の周りの花々が佳境に達してきた。
この週末にかけて、藤棚の藤、土手のニセアカシアが満開になる。
藤はグレープの甘い香り、ニセアカシアも甘い香りだ。
これが窓を開けていると部屋に運ばれてくる。
なんとも言えず、豪華な気分になる。
そんな香りに誘われてちょっと散歩。
藤棚の下にあるベンチに寝ころんでみた。
太陽の光を受けた新緑を通過してくる木漏れ日。
そして、その木漏れ日を受けて揺れる藤の花の房。
これを贅沢と言わずして、何を贅沢というのだろう。
◆
当たり前だが、私が子どもの時分から藤も、ニセアカシアも街にはあったのだろう。しかし、それは目に入ることはなく、香りも届くことはなかった。
齢を重ね、今まで見えていたものが見えなくなったのかもしれないが、今までは見えなかったものが見えるようにもなってきていると言うことであろう。
これが嫌かと言えば、実に全く嫌ではない。これからどんなものが見えてくるのだろうかと楽しみに思う。
散歩の途中に庭に藤のある家を見た。その藤に見とれていたら、その家の居間に正座しながら庭の花を笑顔で見つめているおばあさんを見つけた。
何が嬉しいのかなあ、と昔なら思っただろうが、いまは少しだけ分かるような気がする。
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コメント
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>齢を重ね、今まで見えていたものが見えなくなったのかも
>しれないが、今までは見えなかったものが見えるようにも
>なってきていると言うことであろう。
この点、全く同感です。
いつもながら、具体的な事象から始まる読みやすい深みのある文章ですね。素敵な文章だといつも関心しています。
投稿: かぢばる夫 | 2005/05/04 13:05
あ、先日はどうも。突然、お呼びだていたしまして。
ココログのアドレスは、以下の通りですよね。
http://kajibaru-otto.cocolog-nifty.com/walcon/
それでもって、コメントありがとうございます。文章の修行してきた甲斐があるかなf(^^;。
なんか最近こういう思いをすることが多くなった気がします。嬉しいものです。
かつて、歩き → 自転車 → バイク → 自動車 と
交通の手段を乗り換えていったときには気がつかなかったのですが、この逆をやったときに、
(自動車になくてバイクにあるものは、温度であり、バイクになくて自転車にあるのが、音であり、自転車になくて歩きにあるのが、匂いだなあ)
と思ったことがあります。
何かを得たときに、何かを失っていたことに気がつくことはあまり無いのかもしれませんが、そうだとしても、失ったときに新たに得ていたものの大きさを感じつつ、生きていくというのも良いなあと思っています。
また、呑みましょうね(^^)。
投稿: 池田 修 | 2005/05/04 14:07