岡 科子さん、ってだれ?
連休と言っても、合間に学校があると生活のリズムを整えるのが難しい。ぐっすり寝ていることになれてしまうと、朝が辛い。今朝は、4時半に起きて周りの様子をうかがう。んでもって、起きて仕事に取りかかる。このぐらいのペースで今日は良いだろう。明日からまた三連休だ。
昨日は、一つの区切りをつけてきた。
人生の節というのは、振り返ってみたとき
(ああ、あのときが節だったんだなあ)
と思うこともあるが、自らが「ここを節とする」と決意して作ることもある。
昨日は、その後者の方の節。これでまた一歩を踏みだそう。
(どうでもいいが、踏みだそうは、文出そうと同じで、下手をすると乱そうにも似ているなあ)
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三年生の授業では、俳句を扱っている。修学旅行で俳句を作る課題もあり、その前に一度練習で作句して、句会を開こうと思っている。
俳句は句会をするところに醍醐味がある。
学校で、集団で学んでいるのだから、集団でなければできない学習をしたい。私は、以前「教室を座と捉えて文学を楽しむことが大事であるという原稿を書いたことがある。(「教室だからこそ、座の文学を楽しもう」授業づくりネットワーク No.134 学事出版 P18〜20)今もこの気持ちは変わらない。
その学習集団でなければ生み出すことのできない作品を生み出すことが、学級で学ぶと言うことの一つの意味であろうと考えている。そういう意味で和田中学校でどのような句会ができるか楽しみである。
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俳句を作ると同時に、雅号を作る授業も平行して行っている。
二葉亭四迷、正岡子規、夏目漱石、遠藤周作(狐狸庵先生)、酔睡亭f(^^;などの話をしながら、
1)自分の性格、特徴を考える。
2)それにふさわしい名前を考える。
3)一見、なんでも無いような漢字で表現する。
というプロセスで考えさせる予定である。
かつて、塾の講師をしているときに小学校五年生の生徒に「考えてごらん」と課題として出してみたら、
岡 科子
と名前を考えてきた、岡さんという女の子がいた。
おわかりだろうか、(おか しなこ)である。(おかしな子)である。
二十年以上も前のことなのに、はっきりと覚えている。
この、自分を客体化して新たに名前を付けるという体験は、自分崩しと自分づくり(by 竹内常一)にかかる実践だとも思っている。少年時代の死であり、青年としての再生に繋がるものと考えている。
ま、授業ではそこまでは言わないけど。でも、言った方が良いかなあ?
どんな名前が出るかなあ。楽しみ。
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