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2005/06/09

北朝鮮サッカーチームと日本の教員

という訳で、昨晩はエールビールを飲みながらエールを送り続けていた私です。今朝も朝4時からテレビを梯子しつつ、昨晩の勝利を反芻していました。これで、ワールドカップドイツ大会で睡眠不足の生活を送ることが決定しました。幸せの中の辛さでしょう。

で、一歩下がってちょっと冷静になって考えると、北朝鮮の選手はこれからどうなるんだろうと思います。海外試合を12年もさせてもらえず、対戦国のビデオを見て戦略を練ることもほとんどできず、負けたら厳しい罰があり、戦うための道具や施設にはお金を掛けて貰えないという生活の中で戦っている彼らです。

勝つことは厳しく求められている。しかし、国の制度として勝利は厳しい。にもかかわらず、負けを選手のせいにされてしまうんだろうなあと思います。

そうすると、
(ん、同じではないか?)
とも思うわけです。そうです、日本の教育です。

                   ◆

OECDの中で教育に対する国の税金の投入率は、GDP比では日本は平均以下だったはずです。下から数えた方が早かったはずです。にも関わらず、日本の教師は世界の教師には見ることのない、自腹を切った研修と研究で日本の教育を支えてきました。工夫に工夫を重ねてやってきたといえるでしょう。

しかし、お金と人を掛けて教育しているところに対抗するには、もう限界が来ていると思います。にも関わらず
「成果が上がらないのは教師の指導力が不足しているからだ」
と今の教育行政は、結果を教師個人の問題に帰結させているかのように見えます。個人の資質の部分も確かにあるでしょうが、それは国を代表するような、そう代表選手を選ぶというのならわかりますが、日本全国にいる普通の教員を選ぶ部分では、そんな立派な資質を教員個人に求めるのは無理のような気がします。
そんな立派な人であれば、普通の教員ではなく、違う仕事をしているのではないでしょうか。

今考えなければならないのは。個人の資質と個人の努力(研修・研究)ではなく、制度としての教育のあり方を再構築することではないでしょうか。

北朝鮮の選手の哀しみは、私たち日本の教員の哀しみに繋がっているのではないだろうかと思いました。

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