ディベートから小論文へ
やっぱりこの研究会は面白い。
昨日から腹痛に見舞われ、食事も御飯だけ。味噌汁もおかずも無し。という食事で胃を気にしていての参加であったが、さまざまな刺激を貰った。遠くからは、山口県、福島県、富山県からの参加も頂き、充実した研究会となった。私としても、自分の実践の価値と新たな方向性を貰った。
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たとえば、「書き込み回覧作文」である。
私は、常に
1)大きく
2)濃く
3)太く
書くように指示を出している。これができていないと、評価はCだとも言っている。子どもたちは、なぜなのかの実感がないが、「書き込み回覧作文」をやるとよく分かる。これで読みにくい字では、読む気がなくなり、評価の対象にもならないと言うことを実感させることもできるのである。
そんな報告をした。
その報告で、
「生徒は、1分の回覧の中で、肯定の評価としては『んだ』、否定の評価としては『なぜ』『なに』を書き込むことができるのだよ」
と説明したのであるが、この指示が研究会の中で良い方法ではないかと認められた。
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評価というのは、難しい。
私が生徒の作文に対して評価を下すことはできるが、それが子どもに届いているかというと、これは別の話である。
どんな評価が子どもに届くのであろうか。考えた末現在たどり着いているのは、仲間による評価である。私の評価よりも、子どもたちの評価の方が、生徒にとっては厳しい評価になることがある。とくにトレーニングの途中ではそうである。
生徒が書いた作文の分からないところに、クラスの生徒が「なぜ」と書き込まれることで、ちゃんと書き込んだと思っている生徒が、
(意外なことに伝わっていない)
と理解し、根拠の甘さや説明の不十分さを理解することになる。
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生徒自身の目で評価し合った作品は、私の目で見てもある一定のレベルを保っていることが多い。これを受けてここに、私の指導を入れることになる。このことにより、二段階目からの指導ができるようになる。
もちろん、私が先に指導したものを回覧することもある。そうすると、私が行った一人への指導を他の生徒も読むことができる。いや、30人いれば、30人通りの指導を読むことができる。これは、とても大きな教育効果である。
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というような話を、延々とし続けることができる「学びの環境」は、とても大事なことであると思う。これが、この研究会の貴重な面である。
ありがとうございました。
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