(いったい、人は一生の内に何冊ぐらいの本を読むことができるのであろうか)
私は、中学校二年生の時に考えた。
15歳から本格的に本を読み始めるとして、老眼などで読みにくくなることを考えて65歳まで読めると考えると50年間は読める。三日に一冊読んだとして、年間に約100冊。となると・・・・・・・、一生の内に読める本は5000冊!!
ガーンであった。
(世の中に星の数ほどの本があるというのに、5000冊しか読めないのか)
という思いであった。
しかし、私の読むスピードが速くなれば沢山読めるはずだ。中学校二年生の時にどのぐらい読めるのか確認しておこうと思って、私は挑戦してみた。私は一年間でいったい何冊読めるのかを確認してみた。文庫本だけを数えてみたら145冊だった。145年×50年だと、7250冊と言うことが分かった。
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人生は有限(ゆうげん・限りがあること)であることを私は、中学校二年生の夏の入院で実感したのだが、7250冊という数字にもショックを受けた。これしか読めないなら、面白い本だけに出会いたいなあと思ったのだ。
どうしたら面白い本に出会えるのか。これはいろいろな方法がある。
・本好きの人に聞く
・図書館司書の人に聞く
・今年の○○賞のようなタイトルを取った本を読む
などである。しかし、一番良いのは自分の直観である。(ん、この本は面白そうだぞ)と直観が働いた本は、ほとんどの場合面白い。じゃあ、どうやったらこの直観を働かすことができるようになるのであろうか。
その答えは、濫読(らんどく・手当たり次第に本を読むこと)にある。手当たり次第に読み進めるうちに、自分に合った本が見つかるようになり、本屋に行って本棚を見つめるときに
「ねえねえ、私を読んでよ」
と本が語りかけてくれるようになるのである。これを直観というのである。
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中学二年生の夏休みにちょっとした病で入院していた私は一ヶ月半、ベットで点滴を受け続けていた。外出もできず、することもないので本を読むしかない。本は好きだから良いのだが、寝たままでは辛かった。が、面白い本はそれも問題とは感じられなくするものであった。
病院の売店にあった『ムツゴロウの続博物誌』という文庫本が、まさに「読んで」と言っていたので読んでみたのだが、実に面白かった。そこで母親に「『ムツゴロウの青春期』っていう本があるみたいだから、買ってきて」と頼み、それからこのムツゴロウシリーズに私は嵌(はま)っていくことになったのだ。
『ムツゴロウの青春期』は、作者の畑正憲さんが中学校二年生のときに隣のクラスの学級委員であった純子さんと出会い、一緒に青春時代を駆け抜ける様を書き、『ムツゴロウの結婚期』は、その純子さんと結婚し、娘さんが生まれる辺りのことを書き、『ムツゴロウの少年期』、少年時代にムツゴロウ少年が満州で大自然の中で過ごしていたことを描いていた。
(いつかは、私もこんな風に人生を展開していくのかなあ)
と思って読んでいた。
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決定的だったのは、私が大学五年生を決めたときの『ムツゴロウの放浪記』だった。私は大学に浪人して入り、四年のときに受験した教員採用試験では、ゼミ仲間30人のうち27人が合格するにもかかわらず私は落ち、書き上げた卒業論文も納得のいくものではなく、指導教授に「もう一年やらせてください」と言ったところ「池田君はそうだと思ったよ」と言われた。ひどく落ち込んでいるときに、この本に出会ったのだ。
ムツゴロウさんは、東大の大学院で動物のことを研究した。修士論文を書き上げ封筒に入れて提出さえすれば、大学院修了の資格が得られるところで、彼はその論文を郵送せずにそのまま山に入る。自殺を考えてのことだった。純子さんという彼女が居ても彼を止めることはできなかった。あることがあって自殺を踏みとどまって山を下りてきたのだが、それが『ムツゴロウの放浪記』に書かれていたのだ。
私は、一度も会ったことのないムツゴロウさんに
(池田君、いいんだよ。人生には色々なことがあるんだよ。やり直せばいいじゃないか)
とその本を通して言われた気がした。
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君が中学生時代にどんな本に出会うか、それははっきり言って私にもよく分からない。そして、それが君の人生のどんな影響を与えてくれるのかも分からない。ただ、君が本に手を出し続けていなければ、この先どんな出会いも、ない。
本は、一回きりの私の人生に多くの人生を経験させてくれるし、私が辛い思いをしたときにも
(ああ、俺だけじゃないんだ)
という思いを抱かせてくれる。最近ますますこの思いを強くしている。
国語の授業では、図書室で君たちに呼びかけてくれる本を探す時間を作った。いい本に出会えますように。
君の人生を豊かにしてくれるいい本に出会えますように。
(国語科教科通信 「志学」 NO12より)