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2005/12/16

ラグビー。または、本歌取り

ラグビーという「変な」スポーツがある。
楕円のボールを使って、相手の陣地にボールを運ぶスポーツである。それだけでも変であるが、このスポーツの最も変なルールは、パスを前に投げては行けないということである。パスは、自分よりも後ろにいる選手にしかできない。そして、前に行くには自分でボールを持って進むか、キックするしかないのである。

学校からの帰り道、見上げると月が出ている。
(ああ、満月か。いや、明日あたりが満月か)
と思う。
(今年の最後の満月だなあ。いくつもの満月を今年も見てきたんだなあ)
と思う。すると、

天の原ふりさけ見れば
春日なる三笠の山に出でし月かも  百人一首 7  安倍仲麿

を思い出す。2年生では百人一首の指導に入っていることから、こんな歌を思い出したのか。この歌の季節は、冬じゃないような気もするけど、思い出してしまう。この一年でいろいろなことを体験し、その度に満月は出ていたんだと思うと、あながちこの歌を思い出すのも変ではない。

そして、そうくれば自動的に

日は昇り 日は沈み振り向けば
何もかも移ろい去って
青丹(あをに)よし平城(なら)山の空に満月  まほろば さだまさし

も出てくる。

今朝、電車の窓から朝日が昇るのを見ていた。そしたら、また思い出した。

東の野に炎の立つ見えて
かへり見すれば月傾きぬ  万葉集 巻1−48 柿本人麻呂

である。車内で振り向いたら高尾山方面に沈む満月を見ることができた。この景色は明日も見ることができるだろう。

三年生の授業では、三大歌集を学んでいる。そのうちの一つ、鎌倉時代の『新古今和歌集』に

駒とめて袖うちはらふかげもなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ 藤原定家

がある。これは、万葉集 巻3−265の歌

苦しくも降り来る雨か神(みわ)の崎 佐野のわたりに家もあらなくに

の一部を使いながら、この歌の内容を受け継ぎ新たな世界を広げている。この修辞法のことを「本歌取り」と言うのである。

一つの考え、一つの思いは、いきなり現れることは少ない。
意識しているか無意識であるかは別にして、私に、あなたに届いている何かが、私の、あなたの中で育って「新しい」何かを作り出す。そして、それは次の世代へと引き継がれていくのである。それはまるで「本歌取り」のようでもある。

私がラグビーを見るたび感じるのは、この「本歌取り」であり、人生とか教育とか言うものである。私が先達(せんだつ)から手に入れたものは、後ろにしか投げることができない。しっかりと受け止めて、前に進む諸君の姿を見つづけたいと思ってこの仕事を続けている。

じゃあキックは何か。
キックで前に出すには、受け止める諸君が(どこに行くか分からないボールだが、この子たちならきちんと手に入れるだろう)と判断した時である。

実は私は、キックをしてみたくてうずうずしている。

(教科通信「志学」 NO. 37 より)

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