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2005/07/23

『亡国のイージス』

あべたかさんが絶賛していた小説を読み終えた。
『亡国のイージス』である。

いやー、良かった。
日本人にもこのぐらいのスケールで小説を書ける人がいるのかと感嘆した。
ダイハードを彷彿させるストーリー展開に、細かい描写。

序章を読み終えたとき、いや、序章の途中から
(このペースで書き進めて息切れしないのであろうか。ストーリーは破綻しないのだろうか)
と心配になったが、きちんとした展開、盛り上がり、そして充実のエンディングと十分に愉しませてくれた。

八月には映画も封切られるとのことだが、これだけで十分かなあと言う思いもある。これを映像化できるのかなあ。キャストは私のイメージに近い役者が選ばれているけど。

夏、テレビを消して読む娯楽の本としては絶品だろう。
次作の『終戦のローレライ』も楽しみであるが、しばらく『亡国のイージス』の余韻に浸ろう。

さ、「楽しみとしての読書」の夏だ。

2005/07/22

実りの夏

ちょっと体調を崩して寝ていた。
腹痛が治らないんだよなあ。
寝ていると少し良くなるんだが、痛みが続く。
うーむ。夏ばてかなあ。

                 ◆

ではあるが、嬉しいことがあった。
この春に和田中学校の中庭に植えたものが実りそうなのである。


suikamebana

これは、雌花である。これが成長して現在下のようになっている。


suikanomi

そうである。スイカである。
三つ植えた苗の内、一つが成長し、人工授粉を施し続けていた結果、一つ実がなり始めたのである。

昨年は教室のテラスで作っていて、うまくいかなかったのだが、今年はなんと一つ実がなっている。八月の半ば頃には収穫できるのではないかと思う。カラスに見つからないようにしなければなあ。

嬉しいねえ。
んでもって、本日で和田中学校もやっと授業修了。
月曜日から、子どもたちは夏休みです。
私たちは通常業務です。はい。

2005/07/19

プールで読書するものの

三連休の最終日は、原稿と格闘していた。
うっかりしていたことに、締め切りを一ヶ月間違えていた。

明治図書の教育新書を読んで、それと自分の実践との関係から論じなければならない原稿だったのだが、その資料は手元になく慌ててネットで注文して、一日かけて読んでから執筆と言うものであった。三連休の初日に読み、二日目は研究会で、三日目に執筆の予定でいたのだ。

原稿は、なんとか午後三時頃に荒く仕上がった。
荒く仕上がった原稿は熱を持っているので、この熱が冷めるのを待って推敲しなければならない。また、私の頭もかなりヒートアップしてしまったので、隣の市の市民プールに頭を冷やしに行くことにした。

                  ◆

高幡不動の近く、浅川の川岸にある日野市の市民プールは、私のお気に入りの場所だ。三時間で200円という破格の安さ。駐車場は無料。シャワーは太陽で暖められた温水シャワー。50メートルプールでゆったりと泳ぐのは非常に心地よい。

そして、このプールが絶賛されるルールがある。
なんと、プールサイドで本を読んでも良いのだ。雑誌は駄目だと言うが、文庫本なら良いのだ。今読んでいるミステリーを持ってプールサイドに行き、泳いでは読書。読書。読書。そして、泳ぐのだ。

一つだけ難点は、プールが終わるのが午後5時と早いこと。せめて6時までやってくればなあと思う。でも、ま、いいか。

                  ◆

家に帰って、原稿を見直す。
てにをはの間違いは、奥さんが見てくれていた。ありがたい。
私もチェックをして、明日の朝もう一度チェックをして送ることにする。

(はあ、なんとか間に合った)

と思ったところに、メール。

(ん、なんだ)

と見たら、全国教室ディベート連盟の常任理事会の議事録であった。
でええええええええええええっっっっっ。そうであった。
朝はしっかりと確認していたのに、忘れてしまった。
すみません。

2005/07/18

ディベートから小論文へ

やっぱりこの研究会は面白い。

昨日から腹痛に見舞われ、食事も御飯だけ。味噌汁もおかずも無し。という食事で胃を気にしていての参加であったが、さまざまな刺激を貰った。遠くからは、山口県、福島県、富山県からの参加も頂き、充実した研究会となった。私としても、自分の実践の価値と新たな方向性を貰った。

                  ◆

たとえば、「書き込み回覧作文」である。
私は、常に

 1)大きく
 2)濃く
 3)太く

書くように指示を出している。これができていないと、評価はCだとも言っている。子どもたちは、なぜなのかの実感がないが、「書き込み回覧作文」をやるとよく分かる。これで読みにくい字では、読む気がなくなり、評価の対象にもならないと言うことを実感させることもできるのである。

そんな報告をした。
その報告で、
「生徒は、1分の回覧の中で、肯定の評価としては『んだ』、否定の評価としては『なぜ』『なに』を書き込むことができるのだよ」
と説明したのであるが、この指示が研究会の中で良い方法ではないかと認められた。

                  ◆

評価というのは、難しい。
私が生徒の作文に対して評価を下すことはできるが、それが子どもに届いているかというと、これは別の話である。

どんな評価が子どもに届くのであろうか。考えた末現在たどり着いているのは、仲間による評価である。私の評価よりも、子どもたちの評価の方が、生徒にとっては厳しい評価になることがある。とくにトレーニングの途中ではそうである。

生徒が書いた作文の分からないところに、クラスの生徒が「なぜ」と書き込まれることで、ちゃんと書き込んだと思っている生徒が、
(意外なことに伝わっていない)
と理解し、根拠の甘さや説明の不十分さを理解することになる。

                  ◆

生徒自身の目で評価し合った作品は、私の目で見てもある一定のレベルを保っていることが多い。これを受けてここに、私の指導を入れることになる。このことにより、二段階目からの指導ができるようになる。

もちろん、私が先に指導したものを回覧することもある。そうすると、私が行った一人への指導を他の生徒も読むことができる。いや、30人いれば、30人通りの指導を読むことができる。これは、とても大きな教育効果である。

                  ◆

というような話を、延々とし続けることができる「学びの環境」は、とても大事なことであると思う。これが、この研究会の貴重な面である。

ありがとうございました。

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