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2005/11/05

仕事に出会うと言うこと

先日、日本フィルハーモニー交響楽団の金管五重奏の演奏が和田中学校であった。一年生を対象としていたものだが、写真撮影をすることもあり、私も一緒に聴かせていただいた。

演奏のすばらしさだけでなく、楽器仕組みや成立の由来*1 などとても面白い話もありました。ですが、中学三年生の授業を担当している私としては、その他にも興味を引かれる話がありました。

演奏の途中で質問コーナーがあり、一年生が質問をします。
「その楽器はいつから演奏しているのですか?」
10歳の頃から始めたという人もいれば、高校三年生から始めたという人も居ました。その中で、中学生から始めた写真真ん中のチューバの方は、こんな話をしてくれました。

「僕の学校はブラスバンドが有名で、一学年だけでも50人の部員が居ました。顧問の先生が『男子集まって。じゃんけんをして負けた二人がチューバね』といいまして、私はパーを出して負けて、その二人になってしまいました。そこからのお付き合いです」
と。これはとても深い話だなあと思いました。

                  ◆

二年生の諸君は、職業体験を先日発表していましたよね。三年生の諸君は、10年後の自分ということでより具体的に考えましたよね。自分の能力、向き不向き、興味などを考えて自分の職業を考えて行ったのではないでしょうか。これはこれでとても正しい職業についての学習だと思いますし、これは続けるべきだと思います。目的を持って学ぶと言うことはとても大切な学習態度です。

しかし、もう一つ、仕事に就く方法があるとチューバの演奏者さんの言葉で分かるわけです。それは、「偶然」というものです。ひょっとしたら、あのときじゃんけんで勝っていたらチューバの演奏者にはなっていなかったのではないかと思うのです。

                  ◆

自分の好きな仕事に就けると良いなあという考えがあります。その一方で、自分の好きなことは仕事にしない方が良いという考え方もあります。前者は仕事で好きなことができるのだからなりたいというもので、後者は仕事にすると自分の好きなことの嫌な面も見なければならなくなるから、ならないというものです。

で、今回のお話は、
「好きかどうか分からなかったが、やっているうちに好きになっていた」
というものだと思います。

自分に何が向いているのか分からない、自分に合ったものが見つかるまで仕事に就かないなんて言っていて仕事をしないままの人が増えているのではないかと私は思うのです。でも、調べたわけではありませんが、たまたま就いたその仕事をやりつづけるうちに、その仕事が好きになってしまった人というのは、実は結構居るのではないかと思うのです。

もちろん、トランペッターの方が話されていたように、いくつもの楽器を辿り歩き三つ目にしてやっと自分の楽器に出会える場合もあります。

さらに言えば、私の先輩で、バンドをやって歌をやってプロを目指して頑張っていたら、バイオリン製作の職人になってしまったという人も居ます*2 。

つまり、何が言いたいのかというと、仕事に就くというのはいろいろな付き方があると言うことを伝えたかったわけです。アンダスタン?

                  ◆

また質問と言えば、M先生はこういう質問もされていました。
「学生時代はどのぐらい練習していましたか?」
その答えは
「暇があればいつでも」
でした。
これもとてもわかります。

「何時間やればいいのですか?なんてことを考えた時点で、その人は自分の夢が叶わないことを知るべきである」
その道に名をなした数人の方から共通してこのようなことを聞いたことがあります。

これだ、と思ったら徹底して取り組むことは、みんな共通しているわけですね。

*1  ホルンはなぜ、後ろ向きに音が出るのかなどです。
*2  こういうたどり着き方を、セレンディピティという言い方をすることもあります。

(教科通信「志学」 NO. 30 より)

2005/11/03

教室ディベート研究会 12/10 のお知らせ

以下のようになっております。私もちょこっと話します。
京都大学から法教育の第一人者の先生をお呼びして、行います。
是非、お越し下さい。

引用開始 ーーーーーーーーーー

【教室ディベート研究会】
〜法教育とディベート教育とのコラボレーション〜

主催:NPO法人全国教室ディベート連盟

新学習指導要領の本格実施に伴い、論理的思考力、表現力やコミュニケーション能力等
が求められています。新しい教科書にもディベートの文字が目立つようになりました。
そこで、全国教室ディベート連盟では、ディベートの授業づくりのための定例研究会を
開催しています。
今回は、ゲスト講師に、法教育推進協議会の座長で法教育の普及に向けて幅広くご活躍
中の、土井真一氏をお迎えして、法教育とディベート教育との関連について考えたいと
思います。皆様のご参加をお待ちしております。


■日時:2005年12月10日(土) 午後1時〜5時(受付は12時45分から)

■場所:杉並区立和田中学校(道に迷うことがありますので、10分程度余裕をみてお
越し下さい)
所在地:東京都杉並区和田2−21−8
 最寄駅:営団地下鉄丸ノ内線 東高円寺駅下車 徒歩13分
     詳しくは、次のアドレスをご覧ください。
http://www.wadachu.info/map.html

■内容
・13:00−14:15 講演 "法教育の現在"
             講師 土井真一氏(京都大学大学院法学研究科教授)
【講師紹介】
ご専門:憲法
ご著書:『現代立憲主義と司法権』青林書院(共著)他

・14:20−14:50 レポート発表
             法教育とディベートに関連した実践報告        
            (和田中の取り組みも紹介します。)          
             報告者 池田修 (杉並区立和田中学校)
                 北村明裕(横浜市立奈良中学校)

・15:10−16:50 質疑応答・ディスカッション

■司会・進行:太田昌宏(本連盟常任理事・研究開発委員会委員長)

■参加費: 2000円(教室ディベート連盟会員1500円)★当日受付でお支払いください。

■申込み方法
1)氏名、2)〒、3)住所、4)電話・FAX、5)勤務先(または学校名)、6)一般・会員の別 
7)電子メールアドレス(あれば)を明記して、下記まで電子メール(もしくは郵送、 
 FAX)でお申し込みください。定員は50名です。お早めにお申し込みください。

■懇親会 :18時くらいから懇親会を予定しています。
ご参加の有無は、当日、確認させていただきます。

■参考文献:『はじめての法教育』 法教育研究会著 ぎょうせい 2005年発行

<連絡先・申込先>
全国教室ディベート連盟「教室ディベート研究会」係
E-mail:kenkyu@nade.jp   住所:〒162-0814 東京都新宿区新小川町6-12
FAX :020-4663-6140    TEL: 03-5228-6400(問い合わせのみ)

引用終了 ーーーーーーーーーー

では。

日本語の一人称名詞

日本語には、一人称名詞が非常に多くある。「わ」から始まるものだけでも、「わたし、わたしくし、わ、わっち、われ、わい、わし、わらわ・・・」とある。だから、" I love you. "を日本語に訳そうとすると、とても難しいことになる。

そんな一人称名詞であるが、先日の事件で女子高生がブログに綴っていた一人称名刺に「僕」がある。

                  ◆

この「僕」という人称代名詞だが、基本的には男の子が使うものである。ところが、私の観察によると、一部、女の子が使う例がある。

小学校の4年生ぐらいの女の子が使うことがある。今の生徒に聞いても、使っていたことがあるという生徒は別に珍しくはない。これは、第二次性徴を迎えた女の子が、自分の変化を認めることができず、少年としての「僕」を名乗るのではないかと思っている。もちろん、無意識であろうが。

で、この「僕」は加齢と共に「私」になっていくのだが、一部中学生、高校生であっても使う女子生徒がいる。これを観察すると自己肯定観が乏しい生徒に現れていることが多い。

                  ◆

また一方で、自分のことを、自分のニックネームや名前で呼ぶ生徒もいる。「あゆはー」とか「めぐみはー」のような場合である。(なぜか、この場合語尾が延びることが多い)このような生徒は、自己中心的な発想、つまり「ミーイズム」であることが多い。

自分が世界の中心であり、自分が世界の中の一部である「私」という客観的な位置に立つことができないのである。女王のように振る舞う子もいれば、愛らしいキャラとして守られることを求める子どももいる。結局は「私を見てみて」であるのは同じである。

                  ◆

たかが、一人称名詞ということなのかもしれないが、私は少年期から青年期に移るときの大きな発達課題だと考えている。

2005/11/01

米は米を呼ぶ

『こんなときどう言い返す』に「寿司は寿司を呼ぶ」という文章があるのだが、今年の我が家は「米は米を呼ぶ」状態になっている。

和田中学校の修学旅行で訪れた新潟県の魚沼。
そこでお世話になった八紘閣さんの作っている米をちょっと奮発して注文したのだ。
ここの米は、特A級の米である。ネットオークションで買うと、プレミアムが付いてン万円するらしい。

修学旅行のときに食べた米があまりに美味しかったので、自分でも頼んだのだ。
で、たまには親孝行をと思い、実家と奥さんの実家にお米を送ったのだ。

そうしたら、米が届く前に私の実家から電話。

「新米が手に入ったから、取りにおいで」

とのこと。
父親が、長野県に田圃を借りていて新米が取れたというのである。幸いにしてこちらは玄米のまま持って帰ってきたので、まずは新潟のお米から頂くのだが、嬉しい限りである。

2005/10/31

未来からの手紙とは

二年生は、「古典を楽しもう」の単元に入る。「徒然草」「平家物語」「論語」とやるわけである。今から1000年も昔の人たちが残してくれた文章を読んでいくことになる。平家物語は、暗記である。

正直に言って、私は中学生の頃には
(なんで古典を学ぶのかなあ。昔のことを勉強したって意味がないじゃん)
と思っていた。
なぜかって、1000年前の人間と今の私たちを比べれば、今の私たちが優れていて、昔の人たちは劣っていると思っていたからだ。テレビもない、電話もない、自動車もない。戦争はするし、つまらないことに怯えているし。そんな過去の人間から学ぶことなどないと思っていた。

そんなことを私が敬愛している当時の国語の先生、西本先生に話をしたら
「まあ、そうだろうなあ。中学生だとそんなもんだろうなあ」
と言われた。私は
(バカにすんなよ)
と思いながらも西本先生の言われたことを守って、万葉集(日本で一番古い和歌集 奈良時代)にある短歌を暗記していた。例えば、次の短歌である。


  東(ひむかし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて 
  かへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ
   
     東の野原に炎のような朝日が昇ってくるのが見えて、
     振り返ってみると西の空には大きな満月が沈んでいった
                
                   巻1ー48 柿本人麿

正直、
(ふーん、そんなことあるんかねえ)
と思うぐらいの感想であった。

                  ◆

しかし、私はあるとき、気が付くことになる。私は文明と文化を混乱していたのだ。確かに、昔の時代にはテレビも電話もない。しかし、人が生きると言うことには何も違いはないと言うことに、人生経験を積み重ねる内に気が付くことになったのだ。人は何も変わっていないのだ。

仏教の教えには、「業(ごう)」というものがある。人は人である限り、何かの命を身体に入れなければ生きることができない。これを人間がもともと持っている罪としている。また、人である以上は、避けて通ることのできない「生、老、病、死」の四つの苦しみを味わう。これを「四苦(しく)」という。これも、1000年前と今と変わらない。

もちろん、彼女ができる、心を許す人と一緒に生活できる、希望の仕事に就く、子どもが生まれる、子どもが成長する、美味しいものを食べる、素晴らしい景色に出会う、仲間と楽しく遊ぶ、心を込めた作品が完成するなど沢山の喜びがあることも、1000年前と今と変わらない。

私たちは、基本的に一回しか人生を生きることはできない。だから、10年後の自分、 50年後の自分がどうなっているのか分からない。しかし、古典の世界に描かれている人たちの姿を読むとき、

(私は、人を好きになったときこんな風になるのか?)
(子どもが親から離れるとき、親はこんな風に思うのか?)
(戦があるとき、人はこんなにも残酷になれるのか)
(親は、そこまで子どものことを思うのか)
(夢が破れてもこんな風に復活するのか)

などなど、古人の人生から学ぶことができる。

                  ◆

1500年前の人が美しいと感じた、朝日と一緒に沈む満月を、今の私たちも同じ気持ちで見ることができる。そして、1500年の間無数の人たちが同じ感動を抱いてきたのかと気づいたとき、私たちは鳥肌が立つのを覚えるはずだ。

西本先生があのとき、私に言いたかったことは、たぶんこんなことである。

「(池田よ、中学生のお前には、理解できたとしても納得できるものは少ないのだよ。何せ、お前はまだ人生の経験が少なすぎるからな。そんなお前が分からないことがあっても当然さ)まあ、そうだろうなあ。中学生だとそんなもんだろうなあ」

と。私は、西本先生に無理矢理万葉集を暗記させられたことを、今は感謝している。あのとき、「東の野に・・・」の短歌を覚えさせて貰っていなければ、私の人生は今よりも感動の弱いものになっていたと思う。旅の途中、朝早く起きて見た朝日と満月。そこに、この短歌が重なってきて、(うお〜〜、これか!)と私は大きな感動を得ることができた。

中学生の内は、覚えることができても人生経験がない。大人になると人生経験はあるが、覚えられない。理解はできるが、納得は難しい。ならば、覚えられる内に覚え、その後の人生経験で、じっくりと味わうのがよい。

そうすると、古典は「予言書」、または、「未来からの手紙」と言えなくもないのだ。

(教科通信「志学」 NO. 29 より)

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