句会の授業
7/13
朝は5時台に起きて、仕事の準備。
宝塚ホテルで朝食をとって車に乗り込む。
カーナビが付いていない車でしかも、兵庫の道路マップも持っていないまま、ネットでプリントアウトした地図を元に今日の学校に向かう。ホテルから50分ぐらいだとフロントの女性に言われた。
ちょっと分かりにくいところにあったので、遠回りしてしまったがなんとか授業の開始5分前には到着することができた。ふう。
◆
今日の高校生達は、学校で用意されたプリントに私の話を丁寧にメモしながら聞いていた。こういう姿勢が大事なんだよね。
ただ、私の話し方が悪かったのか、反応がちょっと固かったかな。ま、大学の先生ともなれば固くて怖いと思うのが一般的かねえ。そういう人ばかりではないのにね。
◆
授業後、高速に乗る前に回転寿しで昼ご飯を食べて、阪神高速道路から、中国自動車道、名神自動車道と乗り継いで戻る。京都東インターチェンジの手前で京都橘大学が見えるんだなあ。
直接大学に行こうかと思ったが、あまりにも汗だらけなので一度家に戻り、身体を整えることにした。こういう時、家と職場が近いのは本当に良い。
◆
今日の授業は、「句会」。
小中高と俳句の授業は受けてきている彼女らだが、句会はほとんど経験したことがないとのことだった。
私はこの「句会」は、思春期の子供たちの授業作りには非常に効果的な方法の一つだと思っている。句会では、作品と作者を切り離して、作品だけで評価する。
思春期の子どもたちは、特に「○○さんが作ったから」というだけで、その作品を選ぶことがある。まず、作品を純粋に鑑賞する為には、作品と作者を切り離す作業が必要である。そのとき、この句会と言う形式は非常に優れているのである。
◆
で、宿題にしていた俳句をもとに、句会を行った。
残念ながら、ぼろぼろであった。
優秀な作品を選ぶことができないのだ。それどころか、俳句になっていない作品を選ぶのだ。
字余り、字足らず、季重なり、無季。さらに、形容詞で気持ちを説明してしまっている作品も選んでしまっている。そして、俳句の命である「二物衝突」が理解できていない。だから、俳句を選ぶことができず、印象だけで派手な作品を選んでしまっているのだ。
教師となって授業をする為には、俳句を作る力よりも俳句を選ぶ力、または、何処がおかしいのかを指摘する力が無ければならない。句会で選句をするということは、その力があるかどうかを見ることができるのである。ところが、ない。
うーむ。困った。
俳句は二句作らせておいたので、最初の俳句での句会では、厳し目にコメントを加えた。そしたら、二句目での句会は、彼女らは丁寧に作品を鑑賞し、少なくとも俳句になっていない作品は良い句(正選句)として選ぶことはしなくなった。
この辺りが京都橘大学の学生の良いところである。素直なので指導がすっと入るのだ。
その後、「人生名言集」や「このタイトルの作文が読みたいコンテスト」の話等をしながら授業を終える。
で、
『このまま「これは俳句ではありません」なんて言われたままじゃ残念でしょ? もう一度夏の季語で句会をやりましょう』
と言うと、嬉しそうな顔。
急遽、前期の最後の授業でもう一回句会をすることにした。
授業は、やり直せる機会が無いとね。
◆
で、この授業では学生による授業評価も行った。自由記述の部分だけ見ると、基本的には良い評価を貰っているのだが、二点だけマイナスがあった。これは私もまずいなあと思っているものだ。
・ 早口になることがあり、何を言っているか分からなくなることがある。
・ 授業が延びてしまうことがある。
その通りです。すみません。
伝えたいことが多すぎて、つい、そのようになってしまっているのを私も自覚している。しかし、これが直らないんだなあ。すみません。
◆
出張の事務処理をして、授業の片付けをして帰宅。
随分家を空けている気がしたが、一泊二日なのね。
さて、今日は久しぶりに研究日とすることができるかな。
明日、明後日は名古屋だあ。
« で、確かこのホテルは・・・ | トップページ | 宵宵宵山 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント