かえって分からなくなってしまった
集中講義三日目。
登録していた学生は37人だったが、この日は22人で行う。
なんとなく「風雲たけし城」を思い出す。
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三日目は
1)糸井先生、杉浦先生の講義のまとめ作文、回覧。
2)まとめのスピーチ作成
3)まとめのスピーチ、お礼状指示、最終課題提示
4)学習指導案の解説、模擬授業実施課題の説明
という流れで行った。
1回生などは、体力が無いのか懸命に授業を受けようと思いつつも、眠気との戦いに大変そうであった。教育は体力なのよ。体力つけなさいね。
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この授業は、講義とワークショップを折り重ねながら進めている。そして、教師を目指す私を見つめ、
・自分にはどのような特性があるのか
・自分には何が足りないのか
・教師の仕事はどんなものなのか
・教師の仕事で分からないところはなにか
・一流のものに触れる
を目標として行っている。
ワークショップ型の授業は、行った後に振り返る時間が必要になる。同じ時間に同じ体験をした人たちが、何を学んだのかを交流するのだ。同じものもあれば違うものもある。それを交流することが大事で、これによって学びが深まると考えられる。
私のワークの場合は、作文に書いて回覧することを中心にこの振り返りを行う。すると、出てくる作文の内容が、往々にして賛辞の羅列になるのである。そりゃあまあ、すごい先生が目の前ですごい話をしてくださるのだから、当たり前と言えば当たり前であるが、それではこの授業の目的には到達できない。
つまり、学んだことを批判的に検討しなければ不十分なのである。
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そこで、昨日の課題は
「これまでの授業を受けて、深まった謎や疑問を挙げ、それについて考察せよ」
とした。
勉強したら分かるなんてことは、高校まででいいだろう。
「学んだから、ここまでは分かった。でも、かえってここが分からなくなってしまった」
ということがあるのが、大学での学びであり、学びの本質であろう。
この「かえって分からなくなってしまった」という部分が、学生の課題になるのだと考えている。
例えば、
引用開始 ーーーーーーーーーー
「授業の最大の楽しみは、先生がなぜ間違えたのか考えること」
池田先生がそうおっしゃったとき、私はなるほどなと思った。しかし、よく考えてみると疑問が浮かんだ。
池田先生のおっしゃる通り、教師が授業中間違えることはそう何回もあるわけではない。だからなぜ間違えたのか、その原因を考えるのも確かに楽しいと思う。
しかし、授業の最大の楽しみは、わかるようになることではないだろうか。
今までわからなかったことがわかったときの喜び。それが学びの醍醐味ではないだろうか、と私は思っている。
しかしそれは、生徒の視点から見た場合なのかもしれない。生徒の側からみた授業の楽しさと、教師の側からみた授業の楽しさは違うものなのだろうか。
池田先生がこの言葉に込めた真意は一体どういうものなのか。それが今の謎である。
引用終了 ーーーーーーーーーー
という感想が出る。
ま、この感想の間違いを指摘し、答えを述べることはさほど難しいことではないが、これは言わない。
まあ、間違いぐらいは指摘してみようと思うが、答えは自分で捜させたい。
そのような課題をたくさん手に入れたと思える文章がたくさん出てきた。良かった良かった。