みちはこたえない。みちはかぎりなくさそうばかりだ。
家にある電化製品は、クーラーだけになった。聖蹟桜ヶ丘も最後の夜になった。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、ビデオと最後まで残っていた品々は、かつてお世話になったところで再利用してくれるというので、昨日引き取ってもらった。ありがたい。
◆
そして昨日の夜は、昔の仲間と一杯やる。
急にだったのだが、集まってくれて楽しくやる。
これからの教育界の方向がどこにいこうとしているのか、最先端で感じている仲間達と延々と飲む.美味しい魚、美味しいお酒、楽しい仲間。嬉しいものだ。
◆
今日は、聖蹟桜ヶ丘の家の貸し出しの手続きを一つ終えた。
いくつかの会社に頼み、借り手を待つことになる。
大事に使ってくれる人が見つかるといいなあ。
◆
夕方は、府中にあるお気に入りのパン屋に出かけて行き、大量にパンを買い込む。明日の朝ご飯と大津に戻った時に食べるパンだ。美味いんだなあここのパン。
さらに、府中の伊勢丹でキッコウゴ醤油をまとめ買い。五日市にあるキッコウゴ醤油は、私のお気に入り。関西では買えないので、まとめ買いをした。これで日本海の美味しい魚を食べるのは楽しみである。
◆
で、府中で手に入れた調理パンを前菜にして、多摩川縁で夕涼みをしながらビールで楽しむ。ちょっと前まで見えていた多摩川沿いのボーリング場が無くなり、赤いライトがなくなった。まさか、あのボーリング場がなくなるとは思いもよらなかった。
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず
しかし、良く言ったものだ。
失うものがあれば、新たに手にするものもある。一つを失うことなしに・・・、あ、そうだ、真壁仁だ。
引用開始 ーーーーーーーーーー
峠 真壁仁
峠は決定をしいるところだ
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいって行けない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来し道はなつかしく
ひらけくる道は楽しい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行く手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ。
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見えるかぎりの風景を眼におさめる。
引用終了 ーーーーーーーーーー
自分が中学時代に覚えた詩だ。
こんなところで、思い出すとは。
私の教え子達も、少しずつ教えたアンソロジーとしての詩や名言を、こうしてどこかで思い出してくれているのだろうか。
◆
聖蹟桜ヶ丘の美味しいものとえいば、プリムベールというケーキ屋さんの「ロールケーキ」。閉店の直前に見てみたらあったので、ゲット。
その後、ウブリアーコで最後の食事。どうしても食べたかった、生ウニのパスタがあり、注文。しかし、桃のパスタなるものもあり、これも注文。
そこに、塾時代の教え子から電話がある。
新潟で元気にやっている。
ひょっとしたら来年大阪に転勤かもしれないとのこと。
また、楽しくお酒を飲みましょう。
桃のパスタが届く。冷製である。
桃のパスタの後に、生ウニのパスタも届く。
どちらも美味し。
お腹いっぱい。
満足。
また来るからね。
良い夜だった。
« 父親がブログを始めた | トップページ | 桃ビール »
この記事へのコメントは終了しました。
« 父親がブログを始めた | トップページ | 桃ビール »
コメント