« 「パソコン・インターネットの基本」 | トップページ | 模擬授業だけでは »

2006/08/22

今日の私の最終結論。「うーむ」である。

午後からの立命館大学に向かう。『科学的「読み」の授業研究会 読み研20周年記念・夏の大会 ー 確かな国語力を身につけさせるための授業づくり 教科内容・指導方法・学習集団の徹底追及 ー』に参加するためである。

読み研は大西忠治先生から始まった。
私は大学で国語科指導法を竹内常一先生から指導を受けた。もちろん、大西先生と竹内先生は全生研での研究仲間。ここで読み研の根っこの部分が育っていたのかもしれない。だもんで、この大学での授業は、胎動し始めた読み研方式であった。

            ◆

中学校の教師をしているときは、この読み研方式で授業を展開したこともあれば、一読総合法で指導したこともある。当たり前のことであるが、目の前の子どもたちにどれだけ国語の力を育てることができるかが、授業である。

だから、一つの指導方法にこだわる必要はない。目の前の子どもに受け入れられなければ、あっさりと代えれば良い。もちろん、読み研方式を全面否定しているわけではない。部分的に活用しているところもたくさんある。そうしてきた。

ではあるが、大学で行う時は一つの指導方法としてきちんと学生に教える必要がある。なもんで、復習を兼ねて今回参加したのだ。

            ◆

で、復習の他にもいくつかの課題を得た。模擬授業を受けることで、授業方法を批判的に見て取ることができた。これは良くないな、これはいいなときちんと分かる。

で、確信したのは「教科書には、【これは悪文】と明示して悪文を掲載するべきである」ということである。

            ◆

文章を、批判的に読む、吟味して読む、確認しながら読む。色々な言い方があるだろうが、それだけで終わってしまうのは、どうしても揚げ足取りに感じる。

現在教科書は、基本的に正しい文章であり、それを押し頂くような読解が正しいのだと言う感じになっている。しかし、教科書は本当に正しいのだろうか。

教科書が正しいのであれば、説明文は、説明する側に責任があるのだから、読んで分からない文章ではないはずである。しかし、実際はある。つまり、それは下手な文章なのだろう。それを分かってあげようとする必要はあるのだろうか。下手な文章を教室で教科書で読む必要性はどこにあるのか。

唯一、下手な文章を教室で読む必要性があるとすれば、下手な文章を上手い文章に直すための素材ということになるであろう。

            ◆

手前味噌で言えば、私がディベート指導で修士論文で提案したのは、シナリオ方式と、改良シナリオ方式である。

シナリオ方式でディベートマッチの流れ、立論、質疑、反駁のアウトラインの理解、フローシートの書き方、判定方法などの初歩を行うのだが、改良シナリオ方式では、与えられたシナリオをリライトすることを求めている。だから、私の作ったシナリオ方式のシナリオは意図的に緩やかに作ってある。

「教科書には、【これは悪文】と明示して悪文を掲載するべきである」

これが本日の私の結論である。

            ◆

で終わらなかった。
会が終わった後の食事会である。
なんか予感はあった。先生方が泊まるホテルは四条大宮の近辺にあったのだが、何かに似ている。なんだろうかと考えたら、それは中国の武漢の街であった。この暑さ、このバスの多さ、この人の動き。京都はいまでも中国の匂いがした。

            ◆

で、食事会である。
そりゃあすごい。西郷竹彦先生、柴田義松先生、鶴田清司先生のお歴々とご一緒に食事をした。でまあ、これがすごい。何がすごいって、話の切り口がすごいのだ。

自分の過去の実践や、研究をまだまだアウフヘーベンしようと挑戦し続けている話なのだ.西郷先生はだって、私の父親よりも15歳ぐらい年上だぞ。

私は、西郷先生のお年のまだ半分にも達していないかもしれない。
うーむ、うーむ、うーむである。

今日の私の最終結論。「うーむ」である。

« 「パソコン・インターネットの基本」 | トップページ | 模擬授業だけでは »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/95613/11563164

この記事へのトラックバック一覧です: 今日の私の最終結論。「うーむ」である。:

« 「パソコン・インターネットの基本」 | トップページ | 模擬授業だけでは »