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2006/03/10

言葉を学ぶ一つの理由

「言葉を学ぶのはなぜなのか」
と言えば、「つながる」ためだと言っていいはずだ。
何とつながるのか。それは、人である。

                   ◆

中学生ぐらいの君たちは、人生の中で一番自分に自信があり、また一番自分に自信がないころだろう。
(お、俺ってすごいんじゃない? やっぱ俺が一番でしょう)
と思った翌日に、
(あー、ダメだ。もう最低だ)
と自分のことを思い切り否定するなんてことも珍しくはない。

ま、人間が成長するには、この(お、俺ってすごいんじゃない? やっぱ俺が一番でしょう)というなんでもできると思える「全能感(ぜんのうかん)」がないと厳しいので、ある程度は多くあったほうがいいでしょう。

年齢をとるに従って全能感は少なくなり、自分の程が分かってくる。そして、いろいろなことが分かってくる。例えば、

・自分が好きなことと、自分に向かないこと。
・自分がやらねばならぬことと、自分はやってはいけないこと。
・自分にできることと、自分ができないこと。
・自分だけでは何もできないこと、仲間に助けられるとできること。
・自分一人でやらなければならないこと、自分だけでやってはいけないこと。

自分の持っている力を仲間に与え、自分にない力を持っている人から、その力を貰うことが豊かな人生につながることを理解し始める。

中には、全部自分の力だけでできると思っている人もいるかもしれない。しかし、もし、すべて自分の力だけでできると思える人がいるとすれば、その人の抱えている世界、相手にしている社会があまりにも小さいのだと私は思う。例えていえば、小学生の低学年がやる内容を、中学生の君が「私はすべて自分だけでやれている」といっているようなものなのだ。

だから、人に力を貸し、人から力を借りられない人は、人間として成長して豊かな人生を送ることが難しいと思うのだ。その、人に力を貸し、人から力を借りるためには、「言葉」が重要な道具になる。

                   ◆

私は君たちに、「言葉=超能力」であると四月の段階で教えた。国語の力というのは、言葉を使いながら人とつながることで育っていくと考えても良いのかもしれない。確かに、漢字や文法などの学習は多くは個人で行うものである。しかし、これを活用することを考えたとき、相手を考えないで行うことはできない。読書だって実は作者や、もう一人の自分との対話なのである。

言葉において、自分一人だけということはあり得ないのだ。

そうだとすれば、学んだことをテストという物だけに焦点を当てて力を測ろうとしているだけでは、国語の力は付きにくいのかもしれない。自分のためだけに学んでも、その力は本物にはなりにくいということだ。学んだことを仲間や社会の中に投げかけ続けることで、あなたの国語の力は本物になっていくのではないかと思う。

それは、日直の学活での一言かもしれない。それは、朝の挨拶かもしれない。掃除の時、「これ、私がやろうか」の一言かもしれない。読み終えた本に関するあなたのメモかもしれない。そんなところから人はつながりを持ち、仲間を助け、助けられて育っていくのだと思う。

                   ◆

もちろん、人は、今の人に限らない。
私達は書物を通して、過去の人とつながることができる。アンソロジーノートに書いた詩、短歌、俳句の作者の多くは、もうこの世にはいない。しかし、私達は彼らの作品に触れることで、彼らの創り出した世界を味わうことができる。作者の紡ぎ出した言葉の世界に触れることで、作者につながることができるのだ。

さらに、君たちは未来の人ともつながることができる。君の書いたその文が、未来の誰かの手に届き、その人の考えを深め、心を振るわすことになるやも知れないのだ。

三年生は、「大人とは何か」のテーマで卒業小論文を書いた。

この小論文が、君の成長の、15歳の瞬間を切り取り、今後の君の「つながり」の広がりの、きっかけになっていることを願う。

(教科通信「志学」 NO. 53 より)

2006/03/07

命を大事にするおまじない

和田中学校には、池がある。
だいたい三畳ぐらいの大きさである。
ここに、蛙が住んでいる。ヒキガエルである。

暦の上では今日で「啓蟄」を迎えたのであるが、それよりも前から氷が溶けた水面にプカプカ浮かびながら交尾をしていた。

交尾をすれば卵が出来る。池の中には結構な数の卵がある。一説には、和田中学校の生徒の数倍の数があるとも言える。

が、放課後何気なく池を見たら、卵が池の渕に取り出されていた。池の底に落ちた落ち葉を掬うためにあるネットで掬ったのであろう。

池の周りには中学二年生の娘達がワイワイしていた。

私は渕に貼付けられている卵が、なんとも居たたまれなくて池に戻そうとネットでこそいだ。すると、娘達は、キャーキャー言っている。

なんだあ。え? 気持ち悪い? まあ、確かにネバネバしていて見てくれも良くないわなあ。だけど、たかが蛙ではあるが、目の前で命の可能性が放り出されているのを見るのは忍びない。

ネットで卵を池に返してみた。ところが、ネバネバが池の渕にくっついてなかなか戻らない。そこで、手で取って池に戻した。すると、

「うぎやあああああああ。ばっちい」

と娘達は騒ぐ。
何を言うとるか。命の源が汚いわけないだろうが。
そして、

「先生、優しいんですね」

という。
何を言うとるか、諸君が残酷なのだろうが。
卵をつかんだ手を水道で洗い、その残りの水を娘らに向けてちょこっと、ぴっぴとしてやった(^^)。

「うわああああああああああ」

と逃げる。
何を逃げる、これは命を大事にするおまじないであるのに。

2006/03/06

倒れないように行こう

今日の毎日新聞の教育の記事

ということである。
私自身を考えてみても、10年前と比べると別の仕事をしているのではないかと思う時すらある。

お仲間の皆さん、春休みはもうすぐです。
ぼちぼち行きましょう。

エスカレーター下り上りの法則

勉強については、「湯船の法則」を四月の段階で教えた。これは、「閾値(いきち)」という考えを説明したものだ。勉強というのは、やってもやってもできないもので、ある瞬間突然できるようになる性質のものであるということを説明したものである。

さて、このことはこの一年間で実感できたであろうか、また、この期末考査で実感出来たであろうか。

で、この「湯船の法則」の他に、もう一つ勉強に関する真理(だと思うが)を話そう。それは、「エスカレーター下り上りの法則」である。

                   ◆

仲間を見ていて、勉強のできる人はいつも勉強ができると思う事はないだろうか。(なんであいつはいつもいい点数なんだろうか?)と思う事があるだろう。これには答えがあるのだ。

「湯船の法則」では、湯船からお湯が溢れる瞬間が解る瞬間と説明したが、もうちょっと詳しく言うと、分からないところを学んでいる時は、下りのエスカレーターを下から上っている状態ということが言えるのだ。

良い子の諸君はやっては行けない事だが、それでも君たちもひょっとしたら小さい頃いたずらでやった事があるかもしれない。上から下に向かって降りてくるエスカレーターに乗り、上に向かって駆け上がることである。上にたどり着くには相当のエネルギーを必要とする。一気に駆け上がらなければならない。途中で(はあ、疲れた)と休んでしまうとまた元の位置にまで戻ってしまう。

これが勉強ができないでいる諸君の現状なのである。一気に駆け上がらなければならない時は、駆け上がらないと、元の位置にまで戻されてしまうのである。そして、精神的にはかえって疲れるのである。
(俺は、やってもダメだ)
と。

エスカレーターで下から上るとき、1階から2階にきちんとたどり着けば、下に戻される事はない。これは勉強で言えば、学習内容を納得した状態であり、できるようになった状態である。この状態を作りながら、1階から2階。2階から3階へと駆け上がっていくのである。そうすれば、ちょっとずつ休みながら確実に上に上っていけるのである。

ところが不思議な事があるのだ。湯船の法則で示したお湯の溢れる瞬間になると、エスカレーターの場合は、下りだったのが急に上りになるのである。その瞬間から、流れが逆になるのである。そのままの勢いで駆け上がるとどんどん上に上る事が出来るのである。

エスカレーターが上に向かって進んでいるのだから、思いっきり駆け上がらなくても「足踏み」をしているだけで上に上っていくので、余裕を持って勉強する事が出来るようになるのである。勉強のできる人というのは、下りのエスカレーターを上ってはいないのである。

だから、勉強ができる人はどんどんできるようになり、出来ない人はますます出来なくなるのである。さらに、下りのエスカレーターのスピードは、学年が進むにつれてどんどん早くなってくるのだ。そりゃあそうだ、勉強する内容が増えるのだから。

そうだとすれば、君たちには一刻も早く上りのエスカレーターに乗ってほしいと思う。そうすると見える景色が違ってくるだろう。

                  ◆

(そんな馬鹿な)
と信じられない人もいるかもしれないが、私だって多少は勉強ができるようになった経験はある。その時はなんだかよくわからなかったが、その時の経験をまとめるとこのように説明できるという事なのだよ。

いや、君だって記憶にないだけで経験はしているんだよ。君が歩けるようになったとき、君は何回も転がっていたんだよ。自転車に乗れるようになった時だって、何回もこけたんだな。下りを駆け上っていたんだよ。でも、忘れているだけなんだよ。

勉強で苦しんでいる諸君よ、一気に駆け上がってほしいなあ。そして、足踏みをしているだけで勉強ができるようになる快感を味わってほしいなあ。

しかし、このエスカレーターは波があって、上りだと思っていたら実は下りに変わっている事がある。ここには注意すること。その時には、また一気に駆け上がるべし。老婆心ながら伝えておく。

(教科通信「志学」 NO. 52 より)

2006/03/05

ばたばた歩き

「真実は細部に宿る」

このごろ、この言葉が本当だなあと思う事が続く。
私は元来だらしがなく、怠け癖があるので大雑把に捉えてやるということが多い。そのため、最後のところでうっちゃりを食らう事がある。
(ここは出ないだろう)
と思った場所が試験に出たりするということを数多く経験してきた。

もちろん、大雑把に構える事でやることに「遊び」の部分が出来て、その場での臨機応変の対応ができるということもある。というか、そうやって臨機応変の力量を磨いてきたのだと思う。

その臨機応変の対応が一冊の本になったのが、『こんな時どう言い返す』であって、おかげさまでそこそこ売れている。(ありがたいありがたい)

が、人間は無い物ねだりをするもので、コツコツとか確実にとか計画的にとかという言葉に、私は憧れる。これが出来る人は格好いいなあと思う訳である。

                   ◆

先日たまたま「ビューティーコロシアム」という番組を見ていた。いろいろな意味で美しくはない女性が、化粧の方法や美容整形手術をして美を手に入れるという番組である。

その回は、番組始まって以来の女性が登場していた。鼻の軟骨がなく、「フランケン」などのあだ名を付けられ、それは可哀想な半生を送っていた訳である。それが、半年以上の手術を施されて「美しく」なってスタジオに現れたのである。

が、その登場シーンの最初、スタジオに向かって歩き出すその足音で、
(あれまあ)
と思ってしまったのである。歩き方がおかしいのである。それが足音で分かるのである。美しくなった顔で颯爽と歩こうという気持ちは分かるのだが、その歩き方にその人の生き方が現れているのである。

なんというか、ばたばた歩くのである。もちろん、ハイヒールを履いていたので実際はばたばたという音ではなかったが、品のある歩き方ではなかったのである。顔の作りと足の動きが非常にちぐはぐであったのだ。

(そういう顔、そういうメイクをしている人は、そういう歩き方はしないぞ)
という歩き方であった。

                   ◆

人間が育つというのは、大変な事だと改めて思った。仮に一部を直せたとしても、トータルが改善される事はないのだ。もちろん、手術前の彼女と手術後の彼女であれば、彼女自身は大きな違いに喜びを得て、今後の人生に自信を持つ事が出来、幸せになる可能性は高い。

しかし、一方の体に染み付いている今までの自分の立ち居振る舞いも、その顔に合わせてヴァージョンアップしないと、違和感の固まりの個人になってしまうだろう。人はそこを見抜き、本人はそこに気がつかない。これは私にとっても当てはまるはずだ。

自分を磨くために、自分が心を許している仲間たちより、少し緊張を強いられるようなグループの中に身を置く事は大事な事だと思う。しかし、この「ばたばた歩き」になってしまっていないかどうかは、常に気にする必要があるのだろうなあ。

「真実は細部に宿る」のである。

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