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2006/05/13

mailではなくて、letterのような気がする

へそ曲がりなので、多くの人が夢中になると夢中になれない私である。
MIXIもそうかも知れない。
こんな私でもご招待して下さる方がいたので、一応入っている。
ただ、なーんにもしていない。
このブログをMIXIの日記に登録してあるだけである。

なんというか、へそ曲がりとしては

1)一般の電脳空間から区切られていると言いながら、全然区切られていない
2)友達の友達と言って、本当に友達かと思う
3)招待する側が偉くて、される側が謙る感覚がある
4)入っている人は友人がたくさんいて、入っていない人はダメだなあという差別感覚に基づいている感じがする

ということも感じて、どうも積極的に参加する気持ちになれない。自分で言うのもなんだが、やっぱりへそ曲がりである。

ではあるが、MIXIで時々嬉しい事もある。

            ◆

この二日間で、MIXIを通して私のかつての教え子二人からメールが来た。
一人は国立学院聖蹟桜ヶ丘校の時の教え子。ちょこっとしか教えていないはずだが、良く覚えていてくれた。現在トランぺッター。もう一人は青梅市立吹上中学校の時の教え子である。よく遊んだクラスの時の教え子だ。どちらも良いお嬢さんになっていた。

私が大学の教員になっていた事を知らなかったようで、もう少し早くメールが来ていてれば、東京で飲み会でもしたのになあと思った。が、メールだけでも十分嬉しい。こういうmailは、mailではなくて、letterのような気がする。

「先生、遠くにいってしまったんですね」

と言われたが、んなもん、電脳空間ですから聖蹟桜ヶ丘にいようが京都にいようが、あまり変わらない。これはこれで実に不思議な感覚である。

            ◆

もう一つ、私のHPの本家を見て参考になったということで、カナダからもメールが来た。日本語を指導する際、漢字や作文の指導方法の参考になりましたという御礼のメールである。

私は、「情報は、使ってもらってはじめて価値が出る」という考え方を持っているので、こういうメールはとても嬉しい。嬉しかったのでマル秘の指導プリントまで送ってしまった。

研究室の窓の外は、細かい雨の降り続く一日であった。
なかなか原稿が進まない一日でもあった。
だが、二つ仕上げられたのは、こういう嬉しいメールがあったからだと思う。

私は教え子に恵まれているなあ。
幸せな事だ。

2006/05/12

今月の歌詞 5月ー1 ささやかなこの人生

本を探して京都市内を歩き回っていた。
木屋町通は高瀬川を包む通りだが、そこにあったあんなに見事だった桜が、すっかり葉桜になってしまっていたのを見た。

その時である、ふと、思い出した歌がある。「ささやかなこの人生 by 風」である。

            ◆

ささやかなこの人生 by 風

花びらが散った後の桜がとても冷たくされるように
誰にも心の片隅に見せたくはないものがあるよね

だけど人を愛したら誰でも心の扉を閉め忘れては
傷つきそして傷つけて引き返す事の出来ない人生に気がつく

優しかった恋人達よ振り返るのはやめよう
時の流れを背中に感じて夕焼けに涙すればいい

誰かを愛したその日には例えばちっぽけな絵はがきにも心が動き
愛をなくしたその日には街角のうたにもふと足を止めたりする

風よ季節の訪れを告げたら寂しい人の心に吹け
そして巡る季節よその愛を拾って終わりのない物語を作れ

優しかった恋人達よ ささやかなこの人生を
喜びとか悲しみとかの言葉で決めてほしくはない

            ◆

高校の時だなあ、この歌を必死に歌っていたのは。
高校時代に感じていたのは、「花びらが散った後の桜がとても冷たくされるように」というフレーズに惹かれていたと思う。
(確かに、桜なんて一瞬だよなあ)
と思っていたんだと思う。

しかし、いま改めてこの歌詞を見てみると「優しかった恋人達よ ささやかなこの人生を
喜びとか悲しみとかの言葉で決めてほしくはない」が印象に残るな。

簡単に決めつけることはできないのが人生。
げにげに。

            ◆

とまあ、街を歩きながら
(そうか、かつての私の名曲を、私が勝手に「この歌はこの月の歌」と決めて、振り返るのも面白いなあ)
と思った。

ま、時間があればこうして少しずつ書こうと思う。

著作権は大丈夫だと思うのだが、ダメだったらなんとかします。

移動から旅へ

久しぶりに朝から気持ちよく晴れた。
新緑の比叡山を前景にして登ってくる朝日は清々しい。
久しぶりに朝風呂に入り、うどんの朝食を楽しむ。

            ◆

4000キロは越えたなあ、この二ヶ月で移動した距離は。細かいところを入れれば5000キロに達しているかもしれない。自分でも驚いている。

私は若い時は、動物の生き方をするものだと思っていた。あちこち移動を重ね、ふらふらと動き続ける生き方である。ところが、教師になった事や家を買ったころからか私は植物の生き方をするタイプなのかと思うようになった。

家に仲間を呼んで、季節ごとの宴会をして、あれこれするのが心地よいと感じるようになったのだ。年齢を重ねるという事とは違う部分でそう思うのだ。

が、そんな私が4000キロを越える距離を移動している。まあ、人生は思うようにならないものだ。その思うようにならないものを楽しみ、次には何がやってくるのかとわくわくしながら待てるようになると、人生はさらに面白みを増すのだろうと思う。

            ◆

昨日、昼ご飯をとって研究室に戻ろうとすると教職を専攻している学生達が待っていた。学生たちの行うある活動のために責任者になってほしいという事なのだ。活動の内容も立派なものだし、私は引き受ける事にしているので、良いよと言った。取りあえず3年間面倒見ましょう。

まだ大学にはほとんどしがらみはないし、私を必要にしてきた最初の学生達の願いは受け入れようと思っていた。日本ハムファイターズの新庄選手も、大リーグから日本に戻る時に
「一番最初に言ってきてくれた球団にしようと思っていました」
と言っていた。私もそうだなと思っていた。

その後、彼女らが教育実習に行く時の相談をしてきたので、これに答える。LHRも任されたのだが、何をしたら良いのかと困っているとのこと。ま、いろいろとアイディアはあるが自分がやりたいことをやらないと勉強にならないので、それを聞き出して資料の本を貸し与える。

実習に行く前に、時間を取ってリハーサルをさせたいなあ。

            ◆

そして、思うのはやっぱり旅に出たいという事だ。

うー、旅をしたい。
南の島に行きたい。
ホゲーッとしたい。
半袖半ズボンで過ごしたい。
日本語ではない、英語でもない現地の言葉の中に身を置きたい。

今年の夏はどこかに行けるかね。
移動を重ねるごとに、移動ではなく、旅をしたいと思う私であった。

2006/05/11

先生は大変ではありません

S1 教師の話し方、板書の仕方について学んだ。はなし方や板書の仕方にもいろいろな種類があって、楽しく学ぶ事が出来た。しかし、一方で、教師はこんな細かい部分まで気をつけながら授業を進めなければならないと思うと、やはり大変な仕事だと思った。

T 「教師はこんな細かい部分まで気をつけながら授業を進めなければならない」という考え方ではなくて、このように配慮をすると子どもたちは無駄な労力を使わずに学習を続ける事が出来るという考え方です。

極論してしまえば、勉強のできる子どもたちは、教師がどんな授業をしても勝手に学力を付けていきます。がしかし、勉強の苦手な子どもたちは、教師のちょっとした配慮不足でつまずき、それは
(自分が馬鹿だからだ)
と自分を責めるようになります。

だから教師はそういう子どもを出さないように配慮をするのです。

            ◆

S2 今回、板書の基礎として私は6・4の構えとは凄く大切だと思った。いつも先生は何気なく板書をしているだけだと思っていた。確かに先生が黒板に文字を書き出すと、消しゴムを投げる子、手紙を回す子など様々な子どもたちがいた。板書をしている時もしっかり生徒を見る事が大切なんだと改めて思った。先生は本当に大変なんだと思った。

T 「先生は本当に大変なんだと思った。」とあります。大変かどうかというと、大変ではありません。正解は「ものすごく大変」です。その人の将来に影響を与え、人類の方向にまで影響を与える仕事です。大変なんてものではありません。

じゃあ嫌な仕事なのかというと、これは違います。とても魅力のある仕事です。ちょっと考えてみましょう。世の中には、「大変だからやりたくない」ということと、「大変だからやりたい」ということの二種類があるということです。たとえば、ジグソーパズルです。私は見ただけでも面倒くさくてやってられませんが、あの面倒臭さが楽しくてジグソーパズルに没入する人がいる訳です。

ジグソーパズルと教育を比較して良いのかということは置いておいて、ここで言いたい事は大変で面倒くさいことは、実はやりがいのある事であることもあるということです。一つ一つ教師としてのきちんとした考え方を身につけて、教育に関わることができるようになれば、「大変だからやりたい」ということが分かってくるのではないかと思います。

            ◆

S3 今日の授業のチョークの種類の多さには驚きました。特に、○○の出来るチョークはすごいし、使えるなと思いました。
また、板書には、生徒としての側から見ている時には、こうやったら見やすいとか、いろいろ思うのに、教師の立場になって、板書してみると、よりよい板書にすることはなかなか難しいなあと思いました。

T 一つ誤解のないように言っておけば、あの「○○のチョーク」は、チョークではありません。チョークの形をした○○です(笑)。インターネットには流さないマル秘の情報です。
実は、あれを教室でやった後、生徒は教室の黒板をきれいに消し、チョーク受けにあったチョークを全部片付け、一本だけ「○○のチョーク」を置いておき、次にきた先生がその「○○のチョーク」で書かざるを得ない状況を作って、先生がどんな対応をするのかを楽しみに見ていたという事件が発生しました。
その先生は、
「あれ? あれ? おかしいわね」
と黒板に書けない○○のチョークで難儀するということがあったようです。教育実習中にそんな目に遭ったら、「○○のチョーク」である事を思い出し匂いを嗅ぎ、○○してしまって、生徒の度肝を抜いてあげて下さい。「○○のチョーク」でなかったとしても、伝説に残るでしょう(笑)。

             ◆

S4 今日は、少しだけ板書をしたのですが、黒板を目の前にすると、文字の大きさは、まっすぐにかけるかどうかなどが、分からなくなりました。それから、ゆっくり書いても文字の形をとるのも大きく書くのにも苦労したし、黒板は思っていたよりも高い位置にあり、上の方に書くのが大変だと感じました。想像以上に板書が難しかったので、真剣に練習していかないと大変なことなると思いました。
話すことの技術について、聞いている分には納得できるのですが、いざ実践しようと思っても出来ないだろうと思いました。特にメリハリ、視線の部分は、意識しても難しいだろうと思いました。

T とても良い気づきをしましたね。授業でも何回も話す事になると思いますが、「頭で分かる事」と「実際に出来る事」にはもの凄く大きな差があります。その差を埋めるための行為をトレーニングという訳です。

私は大学時代に先生に「命令」されて黒板に漢文の白文を書かされ続けました。また、塾の教師をしながら黒板の使い方を練習しました。大学の書道の先生のところに
「どうやったらそんなにきれいに黒板に字が書けるようになるのでしょうか?」
と伺ったところ、
「まあ、年期が違うからね」
と門前払いでした。

悔しかったので私は先生が書いた黒板の文字の上から違う色のチョークで模書をしてトレーニングしました。模書をして少し書けるようになったら臨書してと書道の時間のあとは黒板を消しにくるおばさんに
「私が後で消しておきますから」
とお願いして書き続けていました。半年ぐらい続けたらチョークで書くコツのような物がつかめるようになりました。

みなさんは教師になるわけで、自分ができる必要があります。そしてその出来るようになった姿を客観視して、生徒ができるようになるために指導するわけです。自分の経験や人の経験を取り入れて、目の前の生徒に合った方法で指導するわけです。

いま、自分が出来ないという実感をする事は、指導者になるための大事な実感、気づきです。そこから自分をどのように高めていくか、どんなトレーニングを行うのかを見つめて、力を付けていって下さい。

            ◆

S5 ナンバリング、ラベリングをするだけで、相手にききやすくなるということが、わかったので、人前で話す際は取り入れて慣れていきたいと思います。メリハリの付け方は、結構難しいと感じたので、ジェスチャーや表情、声量、スピードなどは、普段できることは、今後できるだけ意識していきたいと思います。

T 授業の性格上、あれもこれもと紹介するわけですが、トレーニングをする時は自分が出来そうなもの、必要なものに絞ってやるのがいいですね。メリハリに関しても、一つのスキルが出来るようになると、メリハリの他のものについてもやりやすくなる事があります。そんなことを考えて取り組んでみて下さい。

            ◆

S6 話し方のテクニックがこんなにあるとは思いませんでした。特にメリハリはたくさん項目があってたじろぎました。メリハリの中の一つの表情で、家に帰って笑顔を練習してみました。すると自分は笑っているつもりでもなかなか笑顔になりません。自然と笑ってしまうような場合は別として結構大げさにやらないとダメなんだなと感じました。

T これもいいですね。そうです、実感が大事なのです。私が授業中に言った自分の授業を録音してみるという修行方法も、この実感を得るためにやるのです。
(あれ、思ったよりも良くないなあ)
と大概は思うはずです。そこから始まります。

役者の表情にもテレビの表情と舞台の表情があります。ズームアップしてくれるテレビであれば画面の中で微妙に微笑む事ができるかどうかが、その役者のテクニックですが、舞台ではまた別の物が模のめられます。自分で笑っていると思っていても、40人相手の微笑みとは自ずと違ってくるはずです。

ま、露骨にやるものでもありませんが、ちょこっと意識してやれるのはとても大事だと思いますよ。

(教科通信 修学 NO9.10より)

2006/05/10

そこで偶然ばったりI先生に会う

昨日の夜は同じマンションの方にお呼ばれして夕食。まえから伺う約束をしていながらなかなか伺えなかったので、やっと伺う。とにかく物作りの天才で、なんでも自分で作ってしまう方。そして趣味人。奥さんは感心しきり。弟子入りしたら良いではないかと思った。

私は日頃は飲まないワインを飲んで、帰宅後、撃沈。ま、同じマンションの中を移動しただけなんだけどね。これなら乗り過ごす心配もない。

実に楽しい夜でした。また伺います。よろしくお願いいたします。

            ◆

朝は6:39の聖蹟桜ヶ丘発の通勤快速で東京駅に向かう。今回は「ぷらっとこだま」を使って京都入り。値段が安く飲み物が一本付くというサービス。ただし、京都まで新幹線の各駅停車なので、3時間40分かかる。

ま、電車の中で本を読み、仕事をすれば良いからと思ってこれにした。
結果は、新幹線の中でぐっすりであった。

気がついたら米原。反対ホームには東京方面に戻ろうとしている中学生の団体。やったらこちらの新幹線に手を振っている。後で分かったが、私が乗っていた新幹線にこれから京都に向かう修学旅行の中学生が乗っていたのだ。彼らの手を振っていたのだ。

そうか、そうだ。GWが終わると京都は修学旅行の最初のシーズンになるのであった。一昨年は楢原中学校の子どもたちを引率して、この時期にやってきたなあ。なんか、今から思うと遥か昔だ。

            ◆

京都駅で降りると、新幹線のホーム下にはこれから修学旅行を始める中学生や小学生、また、もう終わって東京に戻ろうとしている子どもたちが固まりになって座っている。

うーん、懐かしい。そうそう、私はあの集団の前に立って子どもたちを見ていたんだなあ。なんて思いで子どもたちを見ていた。何やら不満を一生懸命に女の先生に訴える女子生徒。壁に寄りかかってだるそうにしている女子生徒。床にぺたっと座っている女子生徒。え? なんか問題ありそうなのはみんな女子生徒ではないか。

しかし、床に直接座るのはなんとかならんか。見ていても美しくないし、だいたいその直接土足の歩く場所に腰を下ろしたスカートで、公共交通機関の乗り物の座席に座る訳だろ。君が汚れるのは一向にかまわないが、その汚れを次にその席に座る人に移すのは勘弁してほしい。そういう想像力がないんだろうなあ。

なんて思いながらジロジロ見ていたのだが、怪しいおじさんに思われるので、切り上げてトイレに向かう。

            ◆

そこで偶然ばったりI先生に会う。
私がまだ学生時代、中大の仲間に良くしてもらって、夏休みに中大のゼミの合宿に野尻湖に一緒に行った事がある。そこで出会った先生だ。私よりも一年早く東京の中学校国語の先生になったと思う。

その先生に、京都駅のトイレの前でばったりである。
ということは? そう、I先生の学校もこれから修学旅行であった。見覚えのある制服だと思ったら、私が教師になった時に赴任した青梅のある中学校であった。

ひゃあ、びっくりである。
しばらく話をして失礼する。これから二泊三日、睡眠時間もない戦いが始まる訳で、ひっそりとエールを送る。私のHPも見ていてくれるとの事なので、I先生ご覧になったらメールくださいね。

            ◆

研究室に戻ると、八重桜もすっかりと葉桜になり、ツツジが花を咲かせていた。
京都はまだまだ花の季節が続く。

会議の後に私のレターボックスを確認する。
これが凄い量の書類たちである。まあGWの間一回も大学に行かなかったのだから当然と言えば当然かもしれないが、この大体の整理に半日かかった。自己マネジメント能力がないと大学の先生は大変だという事が日に日に分かってくるなあ。

            ◆

直接大学に行ったので、東山のマンションに着いたのは日が暮れてから。
きちんと戸締まりをして、火の元を確認して、ゴミも出してとやってきたはずだが、扉を開けてみない事には心配。

おそるおそる開ける。

ぬはははは、大丈夫であった。って大人なら当たり前だよなあ。
しかし、当たり前が出来て喜んでいる私ってなんだあ。

書き込み回覧作文など

えっと、二つほど原稿が載りました。

いつもの「授業作りネットワーク」ではなくて、「日本教育新聞5/1・8付」と、ぎょうせいの『学力が身に付く授業の「技」3 授業に命を吹き込む「技」』です。

どちらも「書き込み回覧作文」のことに触れています。この方法がもう少し広まってくれると嬉しいなあと思いまして。

良かったらご覧下さい。なお、「日本教育新聞」は、5/15付にも掲載されます。併せてご覧下さい。

ポスター完成 ディベート甲子園2006

今年のディベート甲子園のポスターが完成しました。
夏の、熱く清々しい議論を予感させる良いポスターに仕上がりました。
ダウンロードして、お使いください。

「20061.pdf」をダウンロード

2006/05/09

これって何かに似ているなあ

甘い香りがする。
河原のニセアカシアが満開だ。
いや、今年から隣の公園のニセアカシアもたくさんの花をつけるようになった。
これが、さらにいい香りを運んでくるのであろう。

            ◆

京都での生活は順調に動き出したが、本屋がまだうまいこと見つからない。
自分の興味のある本が確実に手に入り、そして、今まで興味のなかった本が目に飛び込んでくるように配置してある本屋。こういう本屋がまだ見つからないのだ。人間はつくづく習慣の動物だという事が分かる。

聖蹟桜ヶ丘には三つの大きな本屋がある。私の家からすべて5分以内にある。だから、二時間も回ればかなりの本にヒットする事が出来る。GWはここで本を買い込んだ。

            ◆

授業の構想を考えながら、あれこれページをめくる。というより、ページをめくっていると授業のアイディアが浮かんでくる。これを45分、50分、90分、120分の授業に落とし込むとどうなるかと考えている。

これって何かに似ているなあと思った。そうだ、これはかつて東京都の教育がいまのようになるまえに、夏休みに自宅研修でやっていたことと同じだということだ。

机の周りに本を並べてあれこれと読み飛ばし、本に書き込みをしながら、ノートにまとめながら
(ああ早く二学期にならないかな。子どもたちに授業がしたい)
と会うのを楽しみにしていた時に似ている。

さて、GWも終わりだ。

2006/05/08

坂本龍馬になった気持ちになれる

午後からディベート実験室主催のモデルディベートを見に行った。参宮橋のオリンピックセンターが会場である。

今回のモデルディベートは、ディベート甲子園の高校生の部の論題である【日本は道州制を導入すべきである。是か非か】を扱う。ディベーターは安藤温敏さんなどとびきりのメンバー。さらにこの試合の解説を嶽南亭のご主人がされるとある。非常に贅沢な時間を過ごす事が出来る。

当日は二試合あったが、二試合目の途中から観戦。
ディベートは、ジャッジを説得するために論理的な議論の展開が行われるコミュニケーションだが、良いディベートは、論をふまえ論を越えて情に訴えてくる。

会場には、この論題でこの夏戦う事になる高校生達が真剣にフローシートをとっている。この【日本は道州制を導入すべきである。是か非か】という論題を通して、ディベートのスキルの向上を目指すとともに、この国の形、この国の進む方向をじっくりと考える機会を得られるというのは、非常に良い事だと思う。

上手く言えないが、ディベートに参加する一人一人が坂本龍馬になった気持ちになれるのではないかと思う。

            ◆

国会では教育基本法をこの会期中にいじくろうとする動きが盛んになっている。愛国心を盛り込むとか、文言を変えて入れようとかしている。自分の住むところを愛さない人がいるかと思う。だが、愛国心となるとなんか急にきな臭く感じてしまう。故郷を思う気持ちと国を思う気持ちは、別なものなのかもしれない。

ただ、きな臭い方向ではなく国というものを考える事は、大事である。【日本は道州制を導入すべきである。是か非か】は、それを十分させてくれるのではないかと思う。教育基本法をいじくるより、国というものをじっくりと考える高校生を育てると思う。

            ◆

会の終了後は、仲間達と食事。
話の内容があっちこっちに飛びながら、薄くリンクが張られ、ターンして意味が深めれれて、揺さぶられてジョークになってと相変わらず面白い。

そんなに飲んだ感じはなかったが、帰りの京王線はお決まりの乗り過ごし。高幡不動で上り最終電車になんとか駆け込み、帰宅。

会話に酔ったかなあf(^^;。

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