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2006/02/03

形容詞に命令形はないのだ 良い質問とは?

形容詞の復習をしていると、良い質問が出てきた。

『形容詞は、自立語で活用があって、言い切りが「イの文字」で終わり、様子や状態を表す品詞です』

と説明し、活用表を説明した。

形容詞は活用があるのだから、活用形の種類もある。しかし、命令形だけはない。

簡単に言えば、「白い」を命令しようとしても、命令できないのである。

『白!』

と言ったところで、何の意味もない。
ひょっとしたら、「シロ」と名付けられた犬が振り向いてシッポを振るもしれないが、それは、名詞の「シロ」であり、形容詞の「白い」とは関係ない。

名詞は、「〜が」「〜は」という言葉を従えて、主語になることが出来る。「シロは、悲しそうに鳴いています」とはいえるが、形容詞は主語になれない。つまり、「白いは、悲しそうに鳴いています」とは言えない。だから、「シロ」は名詞なのであり、命令形はない。

『では、「白くなれ!」は命令しているとは言えないのだろうか。命令しているんじゃない?』

と確認してみた。これは、大丈夫だと思うが「白く(形容詞の連用形)+なれ(五段活用動詞の命令形)」と単語を二つに分けるて説明することが出来る。命令形は動詞であり、形容詞は命令形ではないのである。

                  ◆

で、良い質問は授業のあと、放課後にやってきた。

「先生、例えばですね、画家が色を塗っていて、次に白を塗りたい時に、助手に向かって『白!』というときは、形容詞の命令形なのではないのでしょうか?」

というものである。
これは良い質問である。この答えは、やはり命令形ではないというものである。では、これは何か。これは「(次は)白(の絵の具を寄越せ)!」と命令している文のカッコの部分を省略していると考えられる。

命令というのは、その動作や状態になるように命令するものである。「走る」の命令形「走れ」は、走る動作になるように命令しているわけであるが、「白い」は画家が助手に向かって「白!」といっても、助手に白い状態になれと命令しているのではなく、白を寄越せと言っているので違うのである。

さらに、付け足しで説明すれば、顔色の悪い人の顔を見て
「白い!」というのではなく、「白!」と言ったり、とても寒い時に「寒い!」と言わずに「寒!」ということがある。これは、形容詞に固有の特徴で、感動の時には語尾が省略されるというなのである。なんとこれは、平安時代の日本語からづーっと続く特徴なのである。

勉強が深まると、こうして良い質問が出始める。嬉しい限りである。

                  ◆

ただ、一つだけ願うならば、こういう質問が授業中に出ると良いなあということである。

質問には大きく二種類ある。自分だけにしか関わらない質問と、仲間の考えを促す質問である。言い換えれば、質問することによって自分だけが賢くなるものと、一緒に学習している仲間ごと(え、なんだろう。答えが知りたいな)と思わせる質問とがあるのだ。

今回の質問は、後者であるので良い質問だと考えているのだ。そういうわけで、授業の流れを考えると、前者の質問は休み時間にすれば良いし、後者の質問は授業中にするのが良い。

ただ、この違いは微妙なので、まあ、とにかく(おや?)っと思ったら、授業中に質問をすることだ。

(教科通信「志学」 NO. 44 より)

2006/02/01

君は「包丁」を手に入れたか?

こんどは私がうーんと考える順番である。
君たちからもらった文法の質問メモを見ながら、考えていた。
(なんで文法が判らないのだろうか)
(なにが判ると文法が判るようになるのであろうか)
ということである。今までだって考えたことはあるのだが、今回もう一度考え直してみる事にした。

文法は、文法の体系(関連した物事をまとめた知識の全体)が判っている人が、細かい所を考えるには非常に判りやすいのだが、下から積み重ねて覚える人には、覚える項目が「細かくて、多い」ので大変であるということがある。確かに面倒くさいのだが、ここは覚えないと駄目なんだなあ。

                  ◆

授業では、料理の話で例えて説明した。

「君たちに、お願いをする事にする。冷蔵庫からほうれん草を取り出して、まな板の上において、葉っぱと茎の部分に包丁で分けてください」

と。
これが判らない人は、まあ、いないだろう。ところが、

「君たちに、お願いをする事にする。教科書から一文を取り出して、ノートに書き写し、自立語と付属語に分けてください」

とするとこれがまあ判らなくなる。何が違うのか考えてみた。

二つある。一つ目は、単語の意味の理解である。「冷蔵庫」を知らない人はいないし、「教科書」を知らない人もいない。だからこれは大丈夫。ところが、「ほうれん草」と「一文」になると怪しい人もいるかも知れない。「ほうれん草」が「小松菜」になるかもしれないし、「一文」が「段落」になるかもしれない。こうして、指示された言葉の意味を理解できないで、間違えてしまう、できないということがあるのだろう。この場合には、それぞれの単語の意味を辞書や問題集などを使って理解するのが一番良い。

二つ目は、「包丁」である。料理の例えでは、ほうれん草を包丁で切るということはそんなに難しくはない。ほうれん草も包丁も目で見えるし、ほうれん草を葉っぱと茎の部分に切る技術も、「桂剥き」などに比べれば、そんなに難しいものではないからだ。ところが、文法の場合はその包丁を見る事が出来ない。また、どう使ってよいのかも判らないのだろう。私にはこの包丁が見えて、使い方も判る。そこが違いだ。では、その包丁とは何か。簡単に言えば、これが「文法」なのである。

                  ◆

ここまで来ると身も蓋(ふた)もない話になる。なぜなら、文法は判っている人には判るが、判っていない人にはわからないという事にもなりかねないからだ。

しかし、違う。「湯船の法則」を思い出してほしい。「やってもやっても判らなかったものが、勉強を続けているとあるとき突然判るようになる」というあれだ。

大事なのは「単語の意味を覚え」「使い方を覚え」「練習問題を解き続け」「解説を読み続ける事」という至極当たり前の結果であるが、そうなのだから仕方が無い。

                  ◆

そうして努力を重ねておくと、名歌

東風吹かば匂ひをこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ           菅原道真

で「春な忘れそ」が「どうか春を忘れるないでくれ」であることを学ぶ時に、
(あ〜、そういうことなのね)
と実に納得するということになるのだ。

自分が手にしているもの、目にしているものがある。なんの特別な感情を持つ事も無く日常で使っているものがある。それが、(こういう仕組みで出来ているのか)とわかると嬉しいものだ。

言葉なんてものはまさにそれで、いつも使っているのでその仕組みなんて考えることもないが、わかると嬉しいんだよなあ。それを味わってほしいなあ。

アンダスタン?

(教科通信「志学」 NO. 43 より)

2006/01/31

取りあえず復活

なんとか復活しました。
昨日PCショップに持っていったところ、定休日で本日改めて持っていきました。

診断してもらったところ、HDではなくロジカルボードではないかということでした。
そして、HDを取り出してチェックしてもらったところ取りあえず大きな問題はないということで、
HDのケースを購入しそのHDを収めました。で、ファイアワイアー接続でもう一台のマックにつなぎ、
そちらのシステムで立ち上げたところ、このように通信が出来るようになりました。

はあ、マックで良かった。HDが生きていてよかった。

あたらしマックが欲しいなんて言ったものだから、ibook-G4が焼きもちを焼いて壊れたのかとも思いました。修理完了して戻るには約一週間です。


2006/01/29

小野道風

うーん、すごかった。

午前中、とうとう重い腰を上げて三楽病院に行ってきた。私としては原因はほとんど分かっているのだが、慢性化するとこれが他の病気を引き連れてくることになるかもしれないので、いちどきちんと調べてもらうことにしたのだ。

んで、問診を受けて血液検査をして、症状を軽くする薬を出してもらって、正式な検査の予約をしてきた。

で、何がすごかったのかと言えば、この後である。

                   ◆

折角都心に出たので、上野でやっている「書の至宝」展を覗いてみたのだ。糸井先生のように毎週のようにどこかに出かけていって刺激を受けている先生を見ていると、(私もしなければなあ)と思いながら、体調が悪いこともあり家からでなかったのだが、お茶の水から上野までは歩いても30分ぐらいだし、行ってみるかと思ったのだ。

上野に向かう途中、湯島聖堂と湯島天神で、子どもたちの学力向上と人間的な成長、私の研究がまとまるようにとお願いをして、東京国立博物館を目指した。

上野公園の大噴水の前では、「東京の名酒」という企画をやっていて、試飲もできたのだがここはぐっと我慢して、博物館の門をくぐる。

                   ◆

今回の出品は、そらあすごい。何しろ中国のいっちばん古い金文、甲骨文から始まって、私が学生時代に書きまくっていた王羲之(を、すごい。ことえりは一発で変換したぞ)や欧陽詢(うひゃあこれも)や貯水量(あ、これは違う)ではなくて、ちょ遂良(あれ、「ちょ」がでない。示す篇に者なんだけど)が出品され、曹全碑、蘭亭の序(これもでる)までも出ている。肉筆の臨場感にほとんど打ちのめされそうになる。

さらに日本の作品も、聖徳太子、空海、藤原行成、藤原佐理、藤原定家に・・・とすごいのだが、私が魂を奪われたのは、なんと行っても小野道風(おののとうふう)であった。

実は、恥ずかしながら、彼の作品を直に見るのは初めてである。
だが、一目で倒されてしまった。「屏風土代」である。
じーっと見て、時間をおいてまた見て、さらに見てと時間をおいて最初から最後まで舐めるように見てきた。

その技術のすごさ、配置の妙、変化の大胆さと文字が動き出している、いや、動き続けているのである。ちょっと気持ち悪くなるぐらいであった。だから、時間をおいて見直していたというのもあるのだ。

キザで、格好つけているのにそれが全く嫌みにならず、凄みにすらなってしまう大胆な展開。
その筆跡の向こう側に、この作品を書き終えて
「どうよ?」
とこちらを振り向いている彼の姿が見えてくるようであった。

いやあー。すげーすげー。

                   ◆

展覧会の会場には、休憩のための椅子が結構ゆったりと合ったのだが、私はそれよりもでかい紙と筆と墨が休憩室に欲しかった。あの字を見てエネルギーをもらったのだが、それをとにかく字に表したかった。

「でやあああああzsdfjgぃおあsjdふぉいたれおいぐぁおdんgとかhじょg@いあい!!!!!」

てな感じで書きたかったのだ。

そんな博物館が欲しい。
うーん、小野道風。ちくしょう、すげーなー。

                   ◆

その後、新宿でちょっとした新年会。
書道の興奮が覚めやらず、がーっと飲んでしまった。
うまかった。

その席で、すごいことになりそうな話を聞く。
早くて三年後であるが、これが本当になったら、すごすぎる。
ここには書けないが、記念に自分のメモとして残しておく。

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