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2006/02/11

自らの問いに、自らが答える

中学校までの勉強というのは、簡単に言えば問題も答えも決まっている部分がほとんどである。セットで与えられるのである。セットで与えられているものを切り離して、

Q:「父の書いた本」と「私の本」のそれぞれの「の」の違いを説明しなさい。

と問いが与えられる。内容を理解できれば、答えもついてくる。(なお、違いが説明できない三年生は、慌てて教科書で復習しよう。助詞の部分である)

ところが、1)問題だけ与えられて自分で内容を考えて答えを導きだせというものと、さらに、2)自分で世の中で解明されていない問題を捜し、内容確認し、答えも自分で考えて他の人に分かるように説明しろというものもあるのである。

1)に関して言えば、「助詞の「の」について、その働きについて論じなさい」というものに答える文章になるし、2)に関しては、(教科書のこの「の」についての説明は、なんか納得いかないんだけど、本当は違うんじゃないかなあ)と疑問を持ち、自分で考えて、調べて、文章にまとめるというものになるのである。

もうお分かりだと思うが、1)が小論文であり、2)が論文である。

前号では、「「なんか変だな?」と思えることが人間の人間たるゆえんで、この「なんか変だな?」をたくさん、かつ、誰もが気づかなかった疑問を出せる人が、いまの時代の頭の良い人ではないかと思うのです。」と書いたが、それはこういう意味なのである。

                  ◆

現在売れている本に、藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書)がある。私は2年ほど前にこの著者の講演で話を聞いたことがあった。作家、新田次郎の子で世界のトップレベルの数学者である彼の話は、非常に面白かった。

彼は論理的思考には4つの限界があるとして、そのうちの1つを話した。曰く、

「論理的思考というのは、簡単に言えば、1+1=2、2+1=3、3+1=4・・・・・。ということです。論理とはつながりのことです。つながりが正しいことを論理的という訳です。しかし、ここに問題があります。論理的な人はつながりは正しいのですが、その最初の「1」をきちんと選んでいるかどうかは論理では説明できません。数学の場合、最初の1にあたる部分を「公理」から始めていて、公理は正しいと証明されているものばかりなので、途中のつながり、つまりは論理が正しければ、最後まで正しいことになります。しかし、日常生活で最初の1が100%正しいなんてことはないんです。まちがった1をつかんでいる可能性すらある。そして、間違った1をつかんでいても、後半のつながりが正しいと、論理的には正しいということになってしまうんです」

とおっしゃっていました。藤原正彦さんは、このとき「正しい1」を獲得するには「情緒」「人間性」などが大事になるということを話されていました。(あとの3つの限界を知りたい人は、本を読んでね)

私はこの話を聞きながら、(あ、俺の思っている「なんか変だな?」と通じるところがあるなと思っていました。

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さて、話をまとめましょう。簡単に言えば、論文とは、「自ら問いを立て、その問いに『なぜならば、〜だから』と自らが答える文章」と言えます。この論文を書くためには、日常生活で、常に社会の情報を得、歴史に学び、なぜと疑問を持ち続け、自ら答えを求めようと学んでいることが求められます。

そして、そのトレーニングとして、指導者があるテーマを与えて、そのテーマの中で「『なぜならば、〜だから』と自ら答える文章」を書くのが小論文であると私は考えています。そうであるならば、小論文も論文と同じように、日常生活で、常に社会の情報を得、歴史に学び、なぜと疑問を持ち続け、自ら答えを求めようと学んでいることが求められます。だから、考えることをしてきた人なのかを判断するテストとして最適なのです。

今回の授業では、主に小論文を扱い、論を展開するための書き方を指導する予定です。

中学を卒業する君たちが、今後の人生で自らの考えを深め、今の社会を良くするために考える方法を得るために。または、自分の考えを多くの人に理解してもらえる文章が書けるようになるために。

そのきっかけとして小論文の書き方を学んで卒業していってほしいと思います。

(教科通信「志学」 NO. 46 より)

2006/02/09

『夏雲あがれ 上・下』

『夏雲あがれ 上・下』(宮本昌孝 集英社文庫)

心とは、脳が活動している状態のことをいうと、とある薬学者が話していたが、この本はまさに心だらけになる本であった。時代物を読むのが苦手な人であっても、すっと入っていける本であろう。

私は前評判を知らずに、南伸坊さんのイラストに引かれて、
(これなら、いけるんじゃないか)
と思って読み始めた。

藩の転覆を謀る勢力に対して三人の若者が立ち向かうという、ありふれたストーリーといえばあり振れたストーリーであるが、細かいが嫌みにならない設定が功を奏してぐいぐい引き込んでいく。終わらないでくれと思いながらも、先が知りたいという読書のもっとも「悩ましい」状態を作ってくれる本であった。

隆慶一郎の『吉原御免状』と、藤沢周平の『蝉時雨』を足して、軽やかに描いた感じといえば褒め過ぎだろうか。しかし、このさわやかな読後感にはこのぐらいの敬意を表してもいいだろう。

この続編を読みたい。

2006/02/07

主張とは、反論である

三年生はディベートの授業を通して、今までに学んだ自分の話し方、メモの取り方、聞き取り方などをチェックした。足りないところを理解し、得意な分野を伸ばそうということだ。とくに、話し方では、ナンバリングとラベリング、ジェスチャーについてはある程度丁寧に説明した。今後に活かしてほしい。

                  ◆

教科書では、ディベートの授業を受けて「主張を書こう」という単元に入る。あなたの主張を文章にするのだ。では、主張とは何であろうか。宇都宮大学の香西秀信先生は、「すべての主張は、反論である」とおっしゃっている。現状にあるできごと、意見に対して賛成している時、人はただ黙っているものである。意見を言うということは、その現状や意見に対して反対の考えを持っているから言うのであるということだ。だから、すべての主張は反論であるというのだ。

そうだとすれば、ディベートで学んだ「反駁の四拍子」は主張の作文を書くためのガイドになるであろう。

反駁の四拍子とは、

1)引用「(相手は)〜で、××と言いました」
2)主張のレベルの反駁「しかし、違います」
3)根拠のレベルの反駁「なぜならば、〜だからです。証拠資料です。〜。」
4)結論「だから、違います」

というものである。さらに、「違います」の部分も詳しく述べることが出来る。

1)言っていることは、起こりません。
2)言っていることは、起こったとしても重要ではありません。
3)言っていることは、良いことよりも悪いことの方が大きいです。
4)言っていることは、良いことではなく悪いことです。(ターンアラウンド)
5)言っていることは、関係のない話です。

である。これらを駆使して議論を整理しつつ話を進める。主張文でも同じように考えてみると良い。

                  ◆

では、さらに主張文の固まりである論文とはどういうものであろうか。さらに、小論文とはどう違うのであろうか。私は論文と小論文は、次のように考えている。

論文:世の中にある様々な事象について、自らがテーマを選び、自ら問いを立て、その問いに対して自らが、先行論文、科学的データ、事例などで説明し、答えようとする文章。

小論文:与えられたテーマに対して自ら問いを立て、その問いに対して自らが、先行論文、科学的データ、事例などで説明し、答えようとする文章。

どういうことであろうか。これを考えるためには、中学校までの勉強と高校以降の学びの違いを考える必要がある。

                  ◆

以前私は、「頭の良い人とはどんな人のことなのだろうか」と君たちに問うたことがある。私は、この20年間ぐらいでこの定義がずいぶん変わって来たと考えている。かつては、たくさんの知識のある人が頭の良い人であるという時代があったろう。また、たくさんの知識をきちんと整理して取り出せる人が頭が良いという時代もあったと思う。

しかし、これらはパソコンとインターネットの出現でかなりの部分がコンピュータに追いつかれてしまった。つまり、コンピュータが蓄えられるデータの量と検索の正確さとスピードに、人間は、ほぼ太刀打ちできないということである。

じゃあ、人間はコンピュータに負けたのかというと、そうではないと考えている。それは今のコンピュータに出来ないものを人間は持っているからである。私は、それを「おや?っと思うこと」と「忘れること」と「喜怒哀楽を持つこと」だと思っている。現在のコンピュータはこれをもっていない。

この中でも、「なんか変だな?」と思えることが人間の人間たるゆえんで、この「なんか変だな?」をたくさん、かつ、誰もが気づかなかった疑問を出せる人が、いまの時代の頭の良い人ではないかと思うのだ。

これが論文の根本に関係しているのではないかという話は、次号で考えよう。

(教科通信「志学」 NO. 45 より)

2006/02/06

古稀の祝い

土日と、父親の古稀の祝いで伊豆に弟夫婦と一緒に家族旅行に出かけてきた。
土日に伊豆、しかも車でというのは、ちょっと無謀な気もしたが、
土日にしか、時間が作れないわけで、しかもこの日がちょうど父親の誕生日ということで
決行した。

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伊豆は、節分の頃には雪が降るということらしく、この日も少し舞っていた。
渋滞をよけようとして、山の中に新道で入ったのだがこれが、正解。
十国峠では、相模湾に沈んでいく夕日を見ることが出来た。
きれいだったなあ。

宿について、まずは風呂。温泉である。
露天風呂に入る。
上半身は凍えているのに、足下からは熱い刺激が来るので、
体全体としては、どちらに合わせてよいのか軽いパニックが起きる。
そして、だんだん熱い刺激が体の優勢となることで、落ち着いてくる。
この結果
「うーーーーーーーーーん」
とため息となって口から漏れる。
これが、露天風呂の醍醐味である。

夜は、古稀を祝う宴。
食事は相模湾の魚がメイン。
うまいねえ。
弟の子ども、私の甥っ子は一歳になったばかり。
まだ、日本語を理解しない。
食事も離乳食。一緒に食事である。
父親と同じような顔をした私であるが、違いは分かるようでそれが面白い。
そして、彼は自分の目につく小物をすべて手で確かめ、私にくれる。
なんか原初のコミュニケーションを体験した感じだ。
昔話などをしながら楽しい時を過ごした。

                  ◆

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翌日は、大室山に登る。
500メートルちょいのこの山はリフトで登ることになる。
このぐらいの山であるが、ここからの眺望はすばらしい。
この日は風もなく、快晴で富士山に伊豆七島も見渡すことが出来た。
いやあ、絶景であった。
このぐらい、これからがスッキリ見渡せると良いなあと思った私であった。

『次は喜寿だねえ』
と話したら、
「その前に金婚式があるよ」
と母親にいわれた。
そうか、そうなるか。
やりましょうやりましょう。

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