茎わかめ饂飩の法則
午前中はいくつかの文章と格闘。
こういう時に限って学生から急なメールが入る。
「文章と格闘中につき、30分待ってほしい」
と伝え、仕事を進める。
京都大学にいらっしゃった数学者の森先生は、
「本日頭脳明晰のため、休講」
という伝説の張り紙を出したということだが、私とて一度ぐらいこうしてみたい。
が、森先生と私を比べるのも烏滸がましい。
「ちょっと待って」
のメールが関の山である。
◆
ではあるが、そんな私にも閃きがあった。
それはお昼ご飯の「茎わかめ饂飩」を食べている時のことである。
茎わかめの炒め物は、このブログでも以前紹介したが、あれは一度食べると癖になるので、無くなっては作り、無くなっては作りをしている。
で、今日の昼は塩を抜いた茎わかめをちょっと手に取ってザクザクと切り、饂飩の中に入れて食べたのだ。
(ああ、美味い)
と思う一方で
(ん? 思ったよりも茎わかめの感触が無いな?)
とも思った。そして、閃いたのである。
(あ、これが学習行為か)
と。
とある高僧は、アリが歩いて行く姿を見て悟りを得たということだが、そこまでは凄くなくても、いっぽうでそれに近いなあと思う私であった。
◆
「授業で教えきることは可能のだろうか」
ということは、つい先日西川先生へのコメントで問題にしたものだ。私の結論は不可能である。しかし、授業者は教える精度を高めなければならないとも思っている。
問題は、どこまでその精度をあげるかなのだ。
茎わかめ饂飩を食べながら、私はこの精度問題には二つのポイントがあると気がついた。
1)伝える技術の精度は、できるだけ高める。
2)どこまで伝えるかは、判断による。
ではないかということをだ。
◆
茎わかめは、ご存知のようにわかめの茎であり、細長く固い。この茎わかめを食べごろのサイズに刻んで、食す。だから、切るための技術は優れているほどよい。これが、1)である。しかし、どのぐらいのサイズで切るのかは考えなければならない。これが2)である。
今日、茎わかめを食べていて(ん? 思ったよりも茎わかめの感触がないな?)と思ったのは、2)を失敗していたのである。私が楽しみたいと思っていた「噛み締めの総量」よりも、細かく刻んでしまっていたのである。だから、感触が足りなかったのだ。
そして、これは感触だけの問題ではない。
お腹を壊した時に食べるお粥が思いのほか消化に悪いことがあると言う話を聞いたことがある。十分に柔らかくなっているので、噛まないで飲み込む。そうすると唾液が混ざらないので、消化がしにくいと言うのである。
そうだとすれば、今日の茎わかめ饂飩における茎わかめは、噛まなくても飲み込めると言うことと同じになる。
◆
んで、これを学習行為に展開して考えれば、
「理解しやすいようにするための教師の技術の向上は、とても大切である。しかし、なんでもかんでも分かりやすいようにとしてはダメなのである。ある程度、理解の手応えを学習者に残すように学習内容を用意し、学習者が自らの咀嚼で内容を手に入れるようにしなければならないのだる」
ということになるのではないだろうか。
だから、どの程度の噛みごたえを残すのか、つまり、自らが学ぼうとちゃんと手に入れることが出来ないような学習課題の設定するのかということである。その設定の具合が授業のある種の質を決めるのだろう。
うーむ、恐るべし「茎わかめ饂飩」である。
これからこのことを「茎わかめ饂飩の法則」と呼ぶことにしよう。
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