話し言葉の思考から、書き言葉の思考へ
本日は、大人論の二回目。
前回は、学生たちの大人の定義を検証しつつ、「大人とは何か?」の外堀を埋める作業をした。
今回は、私がどのようにして「大人とは何か?」の問題について解決を図って行ったのかについての説明をした。
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「物事を考える」というとき、教師の出す指示は
・自分でよく考えなさい。
・仲間と話し合いなさい。
・辞書を調べて考えなさい。
などが多いのではないかと思う。それはそれで良いのかもしれないが、私はもう一つ大事な指示があると思っている。それは、「見本を示す」というものである。
もの作りの授業等では、特段変わったものではない。完成品を示したり、作っている途中の作品を示したりして、子どもたちの活動を支える。私の分野で言えば、書写の授業で私が書いた作品を見せたり、書いているところを生徒に見せたりするなんてことは当たり前のことだ。
ところが、この「物事を考える」というとき、「見本を示す」ということはあまりされていないのではないかと思う。
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この場合の「見本を示す」というのは、何を意味するのかというと、思考の過程を示すことではないかと思っている。多くの場合、それは論文によって示されている。しかし、その論文に至る前の、話し言葉で思考されている部分を、示すことは大事でないかと考えている。
その話し言葉で思考されている部分から、書きことばでの思考へと導くのが特に大学での論文指導には大事だと考えるからだ。私だってなにもいきなり書きことばで思考しているわけではなく、話し言葉での思考から入っていることを示すことは、彼らを同様に書きことばへの思考へと導くプロセスになるのではないかと考えている。
今日の授業は、私がどうやってこの「大人とは何か?」を答えようとしてあれこれ挑戦したことを述べたのだが、そこに意味があると考えてのことである。
・何をきっかけにして考えたのか
・きっかけをどのように展開して行ったのか
・調べるときに押さえるポイントは何なのか
そんなことを学生たちが具体的に手にしてくれればいいなあと思って授業を行った。論文を書くときのヒントになれば良いなあと思って授業を行った。
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来週は、この教職総合演習の最後の授業である。
私の「大人とは何か?」の定義を示し、学生たちからの質疑を受け、授業全体をまとめて終わる予定である。
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