生意気だけど、謙虚である
ということで、昨日は大阪教育大学の教職サークルから呼ばれて講座。朝起きた時は、耳の調子も比較的いいのだが、時間が経つと元に戻ってしまう。そこで、会場に向かう電車の中ではぐっすりと寝る作戦にした。目が覚めれば耳の調子も良くなるだろうというもの。多少は効果があった。
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講座は、「コミュニケーション 担任のしごと、授業のしごと 〜教師になる、担任になる、教師である、担任であると言うこと〜」
というタイトルで行った。
大きなタイトルであるなあと、自分でも思ったのだが、先様のリクエストに応えて授業をつくったらこのようになってしまった。
ワークショップも入れて2時間ちょっと。途中、体温のコントロールが出来なくなって、ちょっと活舌が上手く行かなかったり、キッチンタイマーを押すのを忘れて、予定していた時間が過ぎてしまったとか不手際もあったのだが、参加していた学生、教師になったばかりの若手のみなさんの熱心な受講で、乗り切ることが出来た。
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この時代に教師を目指そうというみなさんは、熱いものを持っている。さらに、わざわざ休日に学びにこようとするぐらいだから、さらに熱はある。だが、その熱だけでやっていけるような時代ではなくなってきているのが、今の学校教育の現場だ。
経験のない若手諸君は、知識、理論、方法、技術を身につけることが大事だ。こうして勉強会に参加して身につけることも大事だし、自分の頭を使って自分なりの方法で身につけることも大事だ。
何回も言うが、教育の世界は限りなく素晴らしいものである。その世界を仕事としてかかることの出来る先生という職業もたまならなく魅力的である。であるから、是非、じっくりとやってほしいなあと思う。気持ちのよい彼らだった。私も協力できる範囲で、彼らに協力しようと思う。
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懇親会では、さらにいろいろと教育のことを。国語の教師をめざす学生や非常勤講師の先生の近くに座り、いくつかの国語の追求ネタを話す。すると面白いことに、国語の教師は当たり前すぎることなので、どこが問題なのかがわからない。理科や数学の教師を目指す学生の方が
「あ〜〜〜〜〜〜、ほんまや。おかしい、おかしい!」
と叫んでいる。
一つだけ例を言えば
「彼の性格を一言で言えば、負けず嫌いということである」
の文。これ、良く考えるとおかしいですよね(^^)。
だんだん、どこがおかしいのかが分かってくるのだが、そこで私が一言。
『家に帰ってすぐにインターネットで、調べては「だめです」よ』
「え?」
『まず、自分の頭を使って、持っている知識を総動員して仮説を立ててください。そして、その仮説が立ったら、ネットに向かってください。そうすれば、ネットでの作業は調べるではなく、検証になります。子どもたちにもこれをさせてくださいね』
「はい。でも、・・・」
『でも?』
「気になります。気持ち悪いです」
『はい。結構結構。それが学ぶことの始まりです(^^)。子どもたちにもその「健全な気持ち悪さ」を、授業で味合わせてあげてください』
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店を変えて話を進めると面白いことに。
「思うんだけど、みんなな。先生の話にすべてうなずくだけでなく、ここは違うとかいう【噛み付くこと】が大事なんじゃないか」
と話す元気のいい受講生がいる。
『その通り(^^)』
そうこなっくっちゃ学びはない。
(ああ言っているけど、本当のところはどうなの? オレの身近な例ではそうななっていないけど、それはどうして?)
と「我がごと」に引き寄せて考えることが、将来子どもの前に立つときに大切な練習になると思う。先生は、自分の目の前の子どもに具体的に働きかけるのである。
「生意気だけど、謙虚である」
若者はそうでなくっちゃ。
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朝、起きるとメールが複数届いている。
昨日の受講生からの御礼のメールだ。
こういうことが、できる若者が少しずつだけど増えてきていると私は感じている。折角メールというツールがあるのだから、使わなければもったいない。
さあて、返事を書くか。
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