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2007/02/23

『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』

『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』(柳治男 講談社選書メチエ)を読み終えた。もちろん、再来年度の講義の準備の一環である。

私が講義で扱おうと考えているのは、学級担任の仕事を通して学級や教師の役割や意味を考えるというものである。学問として成立しているさまざまな教職関連の講義内容を、束ねる役割として学級担任とその仕事を考えて行きたいというものである。

であるので、
(そもそも<学級>とはなんぞや?)
という部分に深く触れることは想定していない。しかし、当たり前のことであるが授業で教える部分だけを用意してもダメなのが授業である。

この本とも対話をしながら読み進めることができた。
面白かった。

            ◆

本書では、学級が海外旅行のパックツアーと類似していることから論を始め、事前制御のシステムを持つ組織としての学級と、教育はかくあるべきであるという教育言説のダブルバインドの中で苦しむ子どもと教師の姿を学級の成立の過程を検証しつつ描き出している。

私は、
(自分が子どもの頃、学級や学校に対して感じていた居心地の悪さを丁寧に説明してもらっているな)
という感じも持った。私は教師になった時もこの居心地の悪さを学校で感じることが時々あった。愉快な職員室仲間とくだらない話をしながら、和気藹々と仕事を進めることができるときであっても、これはぬぐい去ることのできない、居心地の悪さであった。

この居心地の悪さの発生の理由は、うっすらとは感じていた。が、それをどうこうすることは学校教育現場で担任をしている私には手に負えない問題だとも感じていた。

ではあるが、これをあれこれ工夫して担任を続けていた。

            ◆

教師になるには、勉強ができなければなれない。そして、勉強ができるようになるということは必然的に学校のシステムに自分を従わせるということを許したということでもある。なんとなれば、この時代に学校という装置を使わずに勉強を身につけて行くということは、ほとんど不可能であるからだ。

これが適応であれば、まあさほど問題はない。私もぎりぎり適応だったのだろうと思う。問題は学校適応過剰である。学校の求めようとするところを先取りして、それに自ら進んで従おうとする姿勢である。

多くの場合、反抗期が効果的に作用して、この学校適応過剰が揺さぶられて、ほどほどの適応に落ち着くのだが、そうならないで成長してしまう人間もいる。そして、その学校適応過剰のまま教師を目指す学生、なるという先生たちが出てきているのではないだろうか。

            ◆

子どものころの私は、この居心地の悪さを説明する言葉を持っていなかった。ただ、不機嫌であった。
(なんでこんなことに従わなければならないのか)
(なんで「自分で考える子どもになろう」と他人に言われなければならないのか)
(自分で考えるのを強制されるって変じゃない?)
とかである。
あのころは、「考えさせられることは既に自分で考えるということと矛盾している」という言い方をすることができなかったので、ただ不機嫌なのであった。そして、時々説明しようとして大人に、先生に怒られていた。

            ◆

それらの私の不機嫌がどこから発生していたのかなどの説明がされていて、面白かった。そして、その一方で、
(さて、この不機嫌さを持っていない学生たちは、学級担任の仕事をする時に、居心地の悪さを感じている子どもたちに出会えるのであろうか?)
という思いを抱くのである。

学校適応過剰の教師たちからは、教室の中で暴れまくる子どもたちの感情も、論理も見て取ることは難しいだろう。そうしたとき、学級と言うパッケージのなかで担任の仕事を進めることは限りなく難しくなって行くと思われる。

私は学級や学校に対して居心地の悪さを感じたことのある学生が、もっと教師になってほしいなあと思う。それが今の教室で苦しんでいる子どもたちを救うことにもなると思う。

本書が提起している問題は、これから教師になって行く学生たちが確認しなければならない一つの前提になるのではないだろうか。

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