『子どもの荒れにどう向き合うか』
『子どもの荒れにどう向き合うか 〜いま、教師でありつづけるために〜』 (杉田雄二著 高文研)を読む。
一気に読んだ。
全生研の有名な実践家である杉田先生(ペンネーム)の実践記録である。遠目に拝見したことはあるが直接お話ししたことはない。一人一人の子どもを丁寧に指導される先生であることは、実践記録から十分分かっていた。
その杉田先生が退職願を書き残して、修学旅行のあと「失踪」した。
実践の記録はここから始まる。
◆
今の中学校の痛み、切なさ、喜び、苦しみ、つまりは現実が語られている。すべての学校がこうではないし、すべての先生がこうでもない。
だが、同じような思いをしながら、毎日学校にいる先生たちが確実にいる。そして、助けを求めている子どもたちもいる。
杉田先生が生徒指導のストレスで、円形脱毛症になって禿げたという記述を読み、
(オレもそうだったよなあ)
と3年前を思い出した。
過ぎてしまえば、
「これも教師の勲章」
なんて言われたのも笑って受け入れることが出来るが、その時はそれどころではなかったなあと思い出した。
◆
(今の時代に教師として生きるとは、こんなにも大変なのか)
と思うか
(今の時代に教師として生きるとは、こういうことか)
と思うか意見の分かれることだろう。
できれば、どちらの思いも持って
「さあ、待っていろよ子どもたち」
という思いで、力を抜いて笑顔で教室に向かう教師に育ってほしいと、学生たちのことを思いながら読み終えた。
◆
分からないこともあった。携帯電話の指導の場面である。杉田先生は、学年の先生に
「みんなができるやり方にしようよ。私は『携帯をすぐにしまいなさい。十数える間にしまわないと預からせてもらうよ』と言ってカウントダウンするようにしている。そうすると、何とかしまうよ。これなら誰でもできるでしょう。」
と言う。
ダメなものはダメと言って取り上げる指導をする先生の正しさを認めつつ、その指導が出来ない先生でも出来る指導を提案する。実際強い先生がいると、生徒は強い先生には従うが、弱い先生は舐めてかかることが多い。だから、みんなが出来る指導というのだ。
これは、分かる。分かるがこの先が分からない。
つまり、杉田先生の「みんなができるやり方にしようよ。」と言われる、携帯電話の指導は分かるが、本全体を通して貫かれている杉田先生の指導は、「みんなができるやりかた」なのかなあと。私には出来そうにもない。
どうして杉田先生は出来たのだろうか。
そして、それはどうしたら学生に伝えることが出来るのだろうか。
ちょっと考えてみたい。
教師を目指す学生諸君。
とってもいい本です。
読もう。
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