その先にある広大な学びの世界に
昨日の夜は、学生たちと授業の打ち上げ。
国語科教育法と教職総合演習の学生たちと一緒に、良く乗り越えた記念で。
久しぶりに木屋町通りに向かう。週末と言うこともあり、なかなかの人出。あと一ヶ月もすると、この高瀬川沿いの桜が咲き始める。すると、またとんでもなく美しい季節が始まるんだなあ。
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大学の授業は、単位で行われる。
内田先生のブログにもあったが、1単位は90分×15回で認定される。しかし、これはその前に予習の90分。復習の90分もカウントされなければならない。
国語科教育法と教職総合演習は、どちらも2単位である。だから90分の授業で180分の内容がなければならず、予習にも180分、復習にも180分かかる内容であることが国際規準である。
『で、どうだった?』
「十分に国際規準をクリアされている授業でした」
『ん、大儀である』
女学生は謙虚に答える。
一年間一緒に過ごすと、色々な面が見えるが、こうしてリラックスして話すとさらに色々なことが分かって面白い。恋愛観やら男性観、さらには結婚観まで飛び交う中で、少しだけ授業の話等もする。
まあ、納め会だし、野暮な話はしないようにしていたつもりだ。良くやったねという話を基本に会は進んだ。
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ではあるが、まだまだだなあとも思う。やりきったという思いを持たせる授業は出来たかもしれないが、その次に向かっている学生を育てていない気がどうもする。それは、やりきった自分に満足してしまい、その先にある広大な学びの世界に突入するというところに達していないのではないかというものだ。
学ぶことは、自分が変わること。もっと学びたいと貪欲になること。
これである。私の授業がすべてではないのだから、そんなことを思うのは不遜ではあるが、でも、もうちょっと何か出来なかったかなあとも思う。
自分がやりきったと満足しているのだから、自分は最高であるという、あくまで自分を基準で考える学生。自分がやりきったとしても、基準に達していることとは別のことであるかもしれないという観点で物事を見ることが出来るようになってほしいものである。
過去の自分と成長の比較をするのは良い。だが、規準は別にもあると言うことだ。
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ではあるが、基本的には私が見てもよく取り組んできたと思う。
小さく自信を持つことを許す。
そして、
(折角ここまでやったんだから、教師にならないともったいない)
という自分に育っていれば嬉しいけどねえ。
春休みは、採用試験の勉強に集中するんだぞ。受験勉強で言うと、夏休みの感覚だぞ。春休みを制するものが、採用試験を制するんだぞ。
充実した良い春休みを。
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