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2007/05/31

感じたことを考えたことへ

研究入門ゼミを終え、ぽつぽつ届く君たちの感想を読みながらつらつら考える。
(今日の授業はどうだったのか、来週の授業をどうしようか)
の二点である。

           ◆

学ぶとは、未知なる状態へ自分を投げ出し、学ぶ前と学んだ後で自分の変化があることをいう。授業の感想文は、君たちが授業を受ける前と受けた後での変化を気づかせる目的もあって書かせている。

そろそろ変わって行くかなと思って少し期待を持ちながら読んでいるのだが、まだ、変わらない。前期の研究入門ゼミも半分まできたので、待つのをやめて少し書いておこう。

君たちの感想文は、思ったことをポンと書くだけの感想文が多くて、はっきりいって面白くないものが多い。

学校教育と言う場は、特殊な場でそこで学んでいるものは平等に扱われる。つまり、どんなに詰まらない文章を書いても、読まれるのだ。いま、私は全員のを読んでいる。しかし、世の中は違う。

面白い文章、センスのある文章、ためになる文章、読みやすい文章、読まなければならない文章。これらだけが読まれるのである。

           ◆

私が読んでいていて面白いと感じる文章は、「自分の中をくぐり抜けている文章」である。

たとえば、それは私が授業中に出した小さな疑問について、自分で調べて答えを出したものでもいい。または、こうしてはどうだろうかとした提案を実際にやってみたことでも良い。さらに、私の考えに自分の考えをぶつけて、違うのではないかと疑問を提出するものでも良い。

名刺を作ろう、靴のつま先を前に向けて入れてみようなどいくつかの、小さな提案をそれぞれ理由を付けて話して見ている。くだらない、ちいさな提案である。だが、それをやってみて感想文に載せることが出来ているものは、面白いなあと思う。仮に、「意味がない」「つまらなかった」でも、これはこれで面白い。

一方で、これは脊髄反応か?と思うような簡単な反応。つまり、あなたが書かなくても誰かが書くであろう反応、感想を書くような感想文もある。ここういう文章を書き続ける人は、やがて誰も読まない文章を書くことになって行くだろうなあと思う。

感想文を求めているが、そろそろ感想から思考へと文章が深化していかないかなと思っているのだ。

           ◆

教師は、基本的には「関わっている相手を良くしよう」と思って行動する。だから、自分の今まで経験や考えで、こうしたらいいと思うことを言う。

この時に、諸君は素直に受け入れるべきである。
君たちには「生意気だが、謙虚である」ということを求めた。それが若者だと思うからだ。同じように「素直だが、批判的思考は持っている」という諸君でもあってほしい。

なんか矛盾しているなあと思うだろうが、人間とは矛盾している存在なのだ。君たちが教師になると、また親になるとわかることがある。

「この子のためになら、死ねる」
「この子のために、死ねない」

という矛盾した思いである*1 。

*1 内田樹先生の名言である。

           ◆

君たちは、何かの縁で京都橘大学の児童教育学科の一期生になり、しかもCクラスとなった。その授業担当者が言うことを、取りあえずは素直にやってみることである。そして、その上で批判的に考えるべきである。

まずは受け入れるべきである。なぜならば、君たちはその受け入れるべき内容の価値を理解しきれていないからである。

北海道の中学校国語の教師で畏友の堀先生は、このことについて、以下のように説明している。

「先生、なんで勉強しなければならないのですか」
『お前は、かけ算の九九は大事だと思うか?』
「はい」
『何年生の時に習った?』
「小学校2年生ぐらいです」
『その時は、大事だと思ったか?』
「え?」

つまり、学んでいる時にはその大事さが分からないことがあるのだ。嘗ては、先生がやれと言えば子どもたちはやった。怖いからやりました。親もやれと言うからやりました、誉められたのでやりました。みんながやるのでとりあえずやっていましたなど、いろいろな理由があるが、多くの子どもが結果的にやっていました。

が、いまは、
「私は納得しないからやりません」
とやらない子どもが増えている。

まてまて。成長する前の人間が成長した時に理解できる価値観を理解できるわけがない。納得しないからやらないなんていっていたら、いつまでたってもできやしない。そして、気がついた時には圧倒的な差がつくのだ。

学ぶとは、未知なる状態へ自分を投げ出し、学ぶ前と学んだ後で自分の変化があることをいう。そうだとすれば、納得できない状態は未知なる状態であり、不安な状態である。この状態に自分を投げ出すのは、人間の本能として怖いと感じる部分かもしれない。

しかし、ここを乗り越えない限りは学びは成立しないし、学びの向こう側にある、成長やら喜びやらにもたどり着けない。

だから、大人は
「先生がやれと言えばやりました。怖いからやりました。親もやれと言うからやりました、誉められたのでやりました。みんながやるのでとりあえずやっていましたなど」
手を替え品を替えやらせていたのです。

           ◆

とくに、毎週毎週感想文を求めているわけで、ここで君たちに感じたことを考えたことに高める機会を用意しているつもりでもある。

携帯電話からの書き込みは、通学時間の長い君たちに取って便利であろうという思いもあって、この方法をやっているが、ひょっとしたら考えない諸君を育てているのではないかとも思い始めている。

あの連想単語検索機能だ。打ち込むのではなく、今まであった単語を選んで並べるだけの機能であれば、今まで使った言葉を並べてお仕舞いという「感想文」になっているのではないかとも思うのだ。

毎回の授業は、違うものであると思うのだが、または違うように準備しているはずだが、君たちの「感想文」を「見る」と、
(うーん、考えたのかな)
と思う文章が多くなってきているような気がする。(きちんとした調査はしていないけど)

どう? 考えるトレーニングをしている?

           ◆

さあ、話が広がったぞ。大丈夫か、理解している? 簡単にまとめる。

1)学ぶとは、未知なる自分に向けて変革を求める行為である。
2)そのためには、素直で批判的でなければならない。
3)理解できないからやらないでは、進むことはできない。
4)面白い感想文を読みたい。感想文は、思いの文章から自分をくぐり抜けた思考の文章へと深化してほしい。
5)考えるトレーニングをしてほしい。

というところである。アンダスタン?

           ◆

次週は企画作り。
さあ、良い企画を楽しみにしています。
プレゼンのコンぺも楽しみにしています。

5/24

研究入門ゼミ通信 起筆 NO.11~12

2007/05/30

自分の中をくぐり抜けた感想

前期も半分授業が終わった。
学生たちには毎回授業後の感想を書かせている。
指導を重ねてきた結果が出てきたか、このところ少しずつ良くなってきている。
うれしい。

            ◆

脊髄反応のような感想文はいらない。
そうではなくて、自分の中をくぐり抜けた感想を書けるようになってほしいのだ。

90分の授業があれば、自分に何かしら反応する部分があるはずである。ざらっとしたものや、おやっ?としたもの。さらには、ん?とか、違うんじゃないの?などのものがあるはずだ。

それを授業後に考え直して、何が反応したのか、なぜ反応したのかを自分の体験や経験に引きつけて考えたものを感想文に求めていたのだが、それが少しずつ出てきた。感想文は一つのエッセイになっていってほしい。

            ◆

もう一つは、おやっ?とか、ん?と思ったことに関して、自分で授業後にきちんと調べて、それも含めて感想文に載せる諸君が出てきたことだ。

私が授業中に坂本竜馬の名言を話したところ、
(他にもあるはずだ)
と『竜馬が行く』を読んでみて、探してみる学生が出てきたりしている。

さらに、これらの参考図書関連のURLをクラス掲示版に貼付けてくれている。こうして、一人の学びが仲間の学びにもなっていく姿が、授業後の感想文から始まるのはとてもうれしい。

            ◆

情報は、出す。
情報を出したところに、情報は集まる。人は集まる。

そんな学びを実感してほしい。
さあ、前期もあと半分である。

2007/05/29

ものを作らせる時は

午前中に急用が入って京都市内の北の方に向かう。山中越えをして向かったのだが、山藤の花はもうすっかりと散ってしまい、緑が深くなった山に隠れてしまったかのようであった。一気に夏が迫ってきていると感じる。

            ◆

前回食べられなかった東龍の「中華ラーメン」を昼ご飯に食す。私には合っているラーメンだ。満足。

            ◆

授業の前に、ある打ち合わせ。
この打ち合わせが上手く転がると良いなあ。

            ◆

授業では、国語科教育法1で「和綴じ本」の作り方の実習。
私の授業では、メモと資料をすべて最後に和綴じ本にして提出することにしている。そのやり方を教える。

書道科の学生は作ったことがあるというので、彼女等を小先生にして進める予定であった。どうやって作ったのかと聞くと、
「このプリントを見て作っておくように」
という指示で作ったとのこと。

そうか、大学生にはそれでいいんだ。
だが、「作っておけ」で良いのかもしれないが、私は「作り方を教えるにはどうやればいいのかを教える」という部分があるので、実際に作らせて解説をしなければならない。手品をしながら手品のネタとやり方を教えるようなものである。

学生の作っているのを見ながら解説を入れる。
生徒にものを作らせる時は、

1)完成したものを見せる。
2)いくつのプロセスがあるかを示す。
3)いまがどのプロセスの段階なのかを示す。

ということをしながら、作って行く。

学生の進度に差が出てきたのであるが、小先生の動きを期待してなるべく手を出さないようにしていた。これがいろいろな効果を出す。ふむふむ。

            ◆

授業後は、実習に向かう学生の相談に乗る。なんか駆け込み寺になってきているなあ。まあ、一生懸命にやろうとしている学生の応援はするつもりだ。

自分はこうしたい。それについて、先生はどう思われますか?

そういう姿勢の学生はウエルカムである。

2007/05/28

その目を閉じて

ZARDのボーカル坂井泉水さんが亡くなられていた。結構ショックである。
彼女の歌は、瑞雲中学校時代に軽音楽部の顧問をしている時に、生徒が良く歌っていたので知った。なんというか、切々と歌う歌い方が印象的であった。

当時の教え子で、作詞にもの凄い才能を持っている生徒がいた。旺文社の主催する中高生の作詞作曲大賞の作詞部門でその年のグランプリを取ってしまった生徒がいた。その彼女が理想としていたのが、坂井泉水さんであった。

            ◆

itunesを調べてみたら、「負けないで、揺れる想い、Don't You See、君に逢いたくなったら…」などの名曲を見つけた。

実は、私は、ZARDに曲を提供していた織田哲郎さんのファンでもある。彼のデビューアルバムのオープニング曲の「Lucie My Love(1984/05/21)」に衝撃を受けて以来、ファンなのである。(最近は聞いていないが)。

その曲を思い出すと、あの当時のあの場所が、色や温度、いや湿度までもが、ありありと目に浮かぶ。
そして、その曲の向こうに彼女の歌う姿も目に浮かぶ。

その目を閉じて、彼女の冥福を祈ろうと思う。

2007/05/27

只管書きまくる

久しぶりにゆっくりと起きる。
風呂を洗って、湯を貯めて、つかる。ふう。
昨日からの黄砂が少しあるかもしれないが、良い青空だ。

            ◆

今日は琵琶湖のブラックバスを駆除するための釣り大会があるので、参加しようかと思っていたが、やーめた。たまには、何もしないで家にいよう。

なんてことにはならないのが、私。
パスタの昼食をとってから、原稿執筆に没入。今年は今のところ3冊を予定していて、その内2冊はほぼ原稿が出来ているのだが、こちらの本の出版のタイミングは今年の後半か、年度の後半。原稿の出来ていないこの本の出版予定を七月の末に目指して、今書いているという状況です。

今日の午後は。この原稿をずーっっと書いていました。
プロットは出来ているので、あとは只管書きまくるわけです。
うーむ。頑張れ、オレ。

            ◆

6時になると琵琶湖は花噴水があがる。
この時期の6時はまだ昼間の明るさだ。琵琶湖は青く輝いている。

(さて、PCを止めて買い物でも行くか)

と電源を切ろうと思ったところで、itunesからキースジャレットのケルンコンサートが流れてきた。うひゃあである。全くシャッフルってのは意表をつくなあ。

ケルンコンサートを聞きながら、青い琵琶湖を見る。うひゃあ、何とも贅沢だあ。

            ◆

本屋に出掛けてうろうろしていたら思っていたよりも時間がたってしまった。そのまま久しぶりに奥さんと外食とした。

怒濤の一週間の終わりに相応しい、良い日曜日であった。

第三回 明日の教室 ご案内

第三回 明日の教室 ご案内

第三回のご案内をいたします。今回はお笑い教師連盟の重鎮で、日本教育ミニネタ研究会代表の土作彰さんを講師にお招きします。是非多くの方にこの「笑撃」のワークショップを体験して頂きたいと思います。

なお、大笑いする都合から、当日はハンカチ等をご用意下さい(笑)。

日時:6月23日(土)  13:30~17:00
会場:京都橘大学児優館 理科室
http://www.tachibana-u.ac.jp/official/information/access.html
講師:土作彰さん@奈良県広陵町立広陵西小学校教諭
会費:一般2000円、学生1500円

申し込み:http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754  ◆3

昼食:大学の生協食堂が開いております。安くて美味しい本学の生協の食堂をご利用ください。

講師略歴  
土作彰さん@奈良県広陵町立広陵西小学校教諭

著書には、『ミニネタで愉快な学級を創ろうよ』 土作彰編著、『ミニネタ&ゲームで面白い授業を創ろうよ』 土作彰編著、『ミニネタ&ワークショップで楽しい道徳授業を創ろうよ』 土作彰著、『基礎学力がつくワークショップ型授業』 土作彰著などがあり、日本教育ミニネタ研究会代表も務められています。

内容 「明日から使えるミニネタ授業(仮題)」
土作先生による、明日から使えるミニネタを可能な限り、楽しく、多く紹介してもらう予定です。
(こんなに笑い続けながら学べる理科の授業があるのだ)
とみなさんは衝撃を受けることでしょう。

              □■□ 

今後の予定:

7月7日(土)
講師 佐藤正寿さん@岩手県奥州市立水沢小学校教諭

8月25日(土)  
講師 野中信行さん@横浜市立大池小学校教諭

9月15日(土)
講師 蓮行さん@劇団衛星代表

◆1 研究会の日程は講師の都合等により、変更する場合もあります。
◆2 時間はすべて13:30〜17:00を予定。会場はすべて児優館を予定。
◆3 申し込みはすべて、http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754から。なお、グーグルで、「池田修」と検索して頂ければ「国語科・学級経営のページ」というHPが出ます。そこを開いて頂ければ「メールはこちらへ」とあります。そこのことです。

東京へ 2

泊まったホテルは、神田駅の近く。24時間入れる大浴場があるのが決め手。結局水生生物の私。朝、風呂に入り、用事を済ませ、いざ研究会へ。

            ◆

東京は奇麗な青空であった。
そして、夏だなあと思う。

東京駅には、ビジネスマンに混じって旅に向かう人たちの姿も見ることが出来た。その人たちの出で立ちが、白を中心にしたものが多いのだ。夏らしい。
その姿を見ながら、京都も、滋賀も暑いんだろうなあと思う。

            ◆

研究会は西川純先生の提案される「学び合い」についてのもの。「第1回 『学び合い』を学ぶ研究会 in 埼玉」である。全国大学国語学会と日程が重なってしまったのだが、今回はこちらに参加。第一回ということもあるし、事務局が昔お世話になった杵淵先生ということもあって。先縁優先とした。スケジュールがどうなるかちょっとごたごたしていたが、それを調整して伺った。

会場の本庄早稲田駅にたどり着くと、あべたかさんとばったり。あべたかさんが参加するのはブログで分かっていたが、私の日程がうまく都合がつくかどうか分からなかったので、私のブログには書いていなかった。

で、駅でいきなり対面。
いやあ、びっくりしたでしょう、あべたかさん。

            ◆

本庄の早稲田大学は、本庄早稲田から歩いて3分のところにある。周りには何もない。本庄高等学院と大学の二つだけある。近代的な建築物で奇麗である。

着いた時には、西川先生の講演がちょうど始まったところ。ふう、なんとか間に合った。「学び合い」と特別支援教育の関係を話されていた。

西川先生のお話を聞いていると、本当に勇気がわいてくる。そこまで戦うかと思う。

今までの教育、教育行政に対すして全面的に叛旗を翻しているとも思える授業方法であるが、それでも子どもたちに現状の方法より優れた学習方法を示すことを考えると、この方法が良いと腰を据えて取り組まれている。

また、先生のお話は私にたくさんの「はてな」を与えてくださる。納得を与えてくれる話は、まあ大事なのだが、それよりも「はてな」を与えてくださる話の方が、いい。

            ◆

その後、西川研究室のみなさんによる学び合いに関する研究発表が三つあった。画像データによる事例説明、文字起こしなど実にしんどい作業をまとめられた発表に、上手く行ったときとそうではないときの話の比較などが行われ、ますます「はてな」を貰うことが出来た。嬉しい。

            ◆

その後、フリートークの時間をはさみ、懇親会に突入。
早稲田の校舎には、「馬車道」というレストランが入っていて、そこで行う。いやあ、奇麗なパーティ会場だ。ガラス窓の向こうに海が見えるかのようだ。本当は畑だけど。

会場には色々な飲み物があった。ドライバーのためにソフトドリンクもあり、コーラのことを「黒麦酒」と呼んで雰囲気だけでも楽しもうとしていた。

そこに西川先生登場。
「を、黒麦酒? いいですね」
と我らのジョークに乗っかってくださる。
しかし、しばらくすると
「ぷう!」
と吹き出す音が。
先生、本気で黒麦酒と思っていたようでした。
流石。

会場には、ネットや授業作りネットワークで知り合いの先生たちがたくさんいた。久しぶりに顔を見る人や初めての人もいたが、たのしい。

あっという間に2時間が過ぎて、帰宅の時間。さすがにここで二次会はない。調べておいた時間によれば、今ならまだ滋賀の自宅に戻れる。19:49の新幹線に飛び乗れば、乗り継ぎが良くて23:28に西大津駅に着く。3時間39分だ。早い。

ちなみに、移動した経路はこれ。グーグルトランジットである。面白いなあ。

http://www.google.co.jp/transit?sa=X&oi=ja_train&hl=ja&ie=UTF8&f=d&saddr=%E6%9C%AC%E5%BA%84%E6%97%A9%E7%A8%B2%E7%94%B0&daddr=%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E6%B4%A5

            ◆

色イトな人と出会って、たくさん学ぶことので来た一泊二日でした。
ありがたや、ありがたや。


東京へ 1

といういわけで、久しぶりに東京に向かっている。研究会への参加だ。

            ◆

昨日集中して準備をすることが出来たので、なんとか間に合ったのが、今日の一つ目のお仕事、京都府立高等学校図書館協議会での講演である。いろいろなことがあって、私が話をすることになった
。正直も仕上げて、図書館のことについて詳しく語れるほどの知識はない。だが、依頼された以上、やるしかない。

本学の図書館関係者にヒヤリングをしたり、書籍を読んだり、法律を検討したり。みなさん、文字・活字文化振興法(平成十七年七月二十九日法律第九十一号)という法律ご存知でしたか? 私はこの依頼があるまで良くわかりませんでした。

ですが、これを機会に勉強してみると。
(なんだ、そういうことなのね。それなら、あれとあれの繋がりからきているのね)
と勉強できたわけで、嬉しかったりもしました。

            ◆

図書館部会の講演の前に、大学に寄ってちょっと仕事をしようと思ったら、研究室の前の教室で教育実習に向けての模擬授業が行われていました。これは少しでもアドヴァイスをしないと。

模擬授業は終わっていたので、板書についての指導だけする。つくづく思うが、板書は初心者には難しい。だいたいからして、腕を前や上にして動かすなんて動作は、指揮者にでもならない限りは普通しない。そして、チョークで字を書くということは、鉛筆や筆、はたまたボールペンで書くのとはかなり違う。

私も大学時代に吹野先生に「強制的に」修行させられたが、書けるようになったのは1年ぐらいたってからのことであった。

教育実習に行くとき、または、新卒で教師になったとき、きちんと板書が出来るということは、彼ら彼女等がサバイブしていくためには、とても大切な技術だと思っている。現在、国語科教育法ではこれについて厳しく課題を出しているが、書かないことには上手くならんのだよ。学生諸君、私も1年かかったのだから、頑張れ。

            ◆

新幹線の中でこの文章を書いていたら、奥さんから携帯電話にメール。北朝鮮が日本海にミサイル発射。うーん。追いつめられた感があるな。だけど、こうして東京と滋賀で離れてている時になにかあったら偉いことだな。

しかし、新幹線の中にはニュースが電光掲示板で流れるのだが、このニュースは一切流れないな。
あ、新横浜あたりで流れた。

            ◆

東京に着いたら、約束していた人と会って食事。美味しい魚。さすが品川は海が近い。いろいろな打ち合わせをして、時間を過ごす。
その後ホテルに。明日の研究会に備える。もっとも、研究会の前にも予定はあるのだが。

仲間がいて、仕事が会って、家族がある。ありがたいありがたい。あ、学生も卒業生もいるなf(^^;。

2007/05/24

批判的思考の入り口

授業では、批判的思考というものの入り口を追い続けている。批判であって、非難ではない。

この違いは何か。一言で言うと、「相手の主張の根拠の確からしさを確認しながら読もうとする姿勢のこと」を批判的思考と言い、「相手の主張の主張そのものを気に食わないと反対する」のが、非難である。

簡単に言えば、主張とは「言いたいこと」であり、根拠とは「なぜならば、〜である」の部分である。「今日は午後から雨になる。なぜならば、天気予報で言っていたからだ」という形で語られる時、それは主張と根拠がセットになっていると言う。このセットを議論と呼ぶこともある。

この議論を考えるとき、「雨なんか降らねーよ」と言い続けるのが、非難であり、「なぜ天気予報で降ると言えば、降るのか。そもそも、この天気予報はいつの時点で出た予報か? どこの地域の予報か?」と考えられるのが批判的思考である。

私達の研究入門ゼミは、いま、この批判的思考を獲得するレッスンの入り口にいる。

            ◆

残念ながら、どきどきした結果は、あまり良いものではなかった。だが、君たちの感想から見ると、

今日一番「あっ!」って思ったことは、いつも感想で〜できるようになりたい。とか〜を知りたい。とか書いておきながら全然行動にうつせてなかったという事です。口ばっかりじゃだめだなとすごく感じました。

先週、感想掲示板に書いた疑問の答えは授業中に出てくるのではと期待してしまっていた。相手にまかせっきりでいるのではなく、自分が行動しなければならないとわかった。

とある。これに気がついてくれた諸君が多くいた。ああ良かった。とても嬉しい。

授業中にも話したが、人間は習慣の動物である。要は同じことをダラダラと続けやすいということである。であるとすれば、そのだらだら続けることを利用すれば良い。悪いことをだらだら続けるのではない。良い子をとだらだらやるのだ。たとえば、

「大学を後にする前30分は必ず、図書館かパソコンルームに行って今日の疑問を調べてみる」

と決めてしまう。ま、一日一回が理想だが、週に一日でも良い。これを続けるのである。だらだらと続けるのである。習慣になってしまったら、なんの違和感もなく続く。「湯船の法則」の水道の水の部分である。半年後には、やっている人とやっていない人の差は、とんでもないことになるはずだ。

            ◆

ただ、嬉しいこともあった。授業中に

『君たちは大学生である。大学生であるということは、大学で学ぶということであるが、大学の中だけにいてはならない。大学の外、社会と繋がりながら学ぶことも必要である。そのためには、名刺を持とう。なければ作ろう』

と話したところ、早速作ってきた諸君が何人かいた。良いことである。良いと思ったことは、その根拠を確認し、それでも良いと思ったら行動だ。

            ◆

折角なので、感想にコメントしよう。感想は全員分ではありません。また、全部でなく、一部のものもあります。

S1 高校までは問いと答えは一対になっていた。しかし、大学では答えと思っていた説は多くの学説の中の一つでしかない。

T 君たちが学んできた国語の文法でも、あれは橋本進吉先生という先生が唱えられた学説であり、他にも有名どころだけでも山田先生、時枝先生などの文法もあります。
動詞を学ぶとき活用形の種類ってのを学んだでしょう。ほら、「未然、連用、終止、連体、仮定、命令」ってやつですね。でも、学者の中には「日本語の動詞は活用はない」という人もいるんですよ。その中で根拠の確からしさを確認して、高校までは教えているというというところでしょうか。

S2 今日自分が学んだ事は根拠を否定するということだ。主張を批判するには根拠を批判しなければいけないというのは、言われてみれば当たり前の事だが自分は気づいていなかった。だから今日の授業は本当に勉強になった。
今日の授業の時池田先生が「大人の方が楽しい」とおっしゃったが自分はみんなと一緒に学ぶ事が出来る今が一番楽しい。というか自分は何歳になってもその時を楽しむ自信がある。

T ま、感想文だからいいのだが、私はこの文章を読んで(なんで自信を持てるのか。その理由が抜けている。これは根拠がないと言われるな)と思ったわけである。(みんなと一緒に学ぶことが出来ているようだ。それも楽しくやれているようだ。けど、だからといって何歳でもこれができるということには大きな論理の飛躍があるぞ)と思うわけだ。
もちろん、書いている本人にはその論理の飛躍を埋めるだけの根拠があるのだろうが、もしあるのならそれをきちんと書いてほしいなあ。そこを読みたいのであるから。

S3 今回の授業で子供か大人かどっちがいいかという質問がありましたが、私は絶対こどもがいいです。確かに海外旅行に行ったりなどの大人の遊びも楽しいと思います。でも、それはやろうと思えばお金があれば子供にだってできます。一方体力がなくなった大人にとって、子供と同じように体を動かす事はできません。だから思いっきり運動ができないのです。私はスポーツが大好きなので、やはりこのまま子供でいたいです。

T なるほど。それも一理ある。しかし、この大人問題はなかなか難しいのだよ。まず、大人が良いか子どもが良いかというのは、子どもには判断できにくいということだ。大人は子どもと大人の両方ともを体験しているが、子どもは子どもの体験しかしていないからね。さらに、体が自由に動かなくともスポーツが大好きな人はいくらでもいるし、動くけれども苦手な人もいる。そしてポイントは、大人になりたくなくても大人にはならざるを得ないということだ。さあ、どうする?

S4 名刺を今週中に作りたいと思った。そして、出来あがった第一号は池田先生と交換したい。四年間でたくさんの人と出会い、交流の輪を広げていきたい。何かあったときのために、今からコツコツ交換したいと思っている。

T 名刺ありがとう。有言実行でしたね。偉い。

S5 今日の授業で決めたことが2つあります。1つめは、生んでくれと頼んで生まれてきた人は誰一人いないということです。当たり前のことなのかもしれない。けれど、この話を聞いた時、不思議な感情で胸がいっぱいになりました。このこみ上げてきた感情がなんなのか、今はわかりませんが、毎日少しずつ考えたいです。

T ここにヒットか、なかなかだ。そのこみ上げてきた感情を丁寧に見つめてみてください。ひょっとするともの凄い発見があるかもしれませんよ。

S6 「何のために生きているか」という問いに対して、自分は何を考えたか。
人生に興味がない自分としてはこの答えが見つかるかとても不安だ。子供に聞かれたらなんと答えればいいのか?4年間のうちに少しでも糸口を見つけたいと思う。

T 人生に興味がないなんて、なかなか言えませんよ。正直ですよ。なんで興味がないのか、考えてみたことがありますか? 教育の文脈で言えば東井義雄(とういよしお)先生のいくつかの本を読むとヒントがあるかもしれません。

S7 今日は二つのことが心に残りました。まず1つ目は、大学は何かをする場所である。自分で学ぼうと思い、疑問に思ったことは自分から調べる。学ぼうと思わないと折角大学に入ったのだからもったいないと思いました。

何かをする、何かをしない。これをある程度自分の意志で出来るのが高校との大きな違いでしょうね。私は大学に入った時に、自分との感覚感性が違う人がいる、そしてその人たちはその人なりに幸せに生きているというのを具体的に知るようになり、衝撃を受けた覚えがあります。そして、世の中は私ではなく私が(ちがうなあ)と思っている人を中心に動いているのを見て、さらに衝撃を受けました。ですが、人まねをしても意味がないと思っていたので、人様とは違うことをしていました。わざわざ違うことをしているつもりはありませんでしたが、結果的に違ってしまうのは、まあしょうがないかと。無理に回りに合わせれば、自分が辛くなるのは分かっていましたから。ああ、なんて我侭な私。でも、それができるのも大学生ですね。

                             研究入門ゼミ通信 起筆 NO.9,10

授業の感想に答える33から36

S1 学習ゲーム方法、これはとてつもなく共感できる。子供心をうまく理解した学習方法だと思う。実際にやってみても虜になっている自分がいた。常に子供の気持ちを理解しようと努力すればこのような学習方法にたどり着くのかもしれないと思った。

T 授業をつくるというのは、簡単には行きませんね。私の場合は、教科書を使って「○○しましょう」なんてことを言ったところで、教科書を持ってこない、なくした、捨てた取られたなんて子どもたちもいる中で、どうやって国語の力を付けたら良いのかと考えて授業を作っていましたから、こうなりました。ですが、これが正解かどうかは分かりません。しかし、正解の一つに入れても良いのではないかと思います。

            ◆

S2 今日の一番の印象は、ゲームの『四字熟語でポン』でした。ゲーム感覚で学習ができ、勝負という感覚を持つことで必死になる生徒の心情をうまく使っているなと思いました。
 普通に『明日小テストをします』と指示を出しても、予習する子としない子に分かれてしまいそうだけれど、ゲームと聞いたら、興味を持って予習に取り掛かる生徒が増えてきそうだと思いました。
 しかしこのようにゲーム感覚で楽しんでいると、教師が『やめ』と声をかけた時に、すぐに切り替えができない子が多く出てきます。その様になる前に、自分の声でどこまで生徒をコントロールできるかという力が必要になってくるのだと思い、私にとっては新たな大きな試練どと感じました。
 今日の初に聞いた、名刺を持つという話に驚きました。名刺というのは、社会人になってから持つのが当たり前だと思っていたので、大学生でも持つと聞き、もう社会の中で色々な人達と関わっていく立場になったんだと感じました。

T 子どもたちは、緩やかな競争を好みます。始めから勝負がついているような競争には参加しません。ちょっと頑張れば勝つかもしれないと言う競争に乗ってきます。そこの加減を見抜き、ゲームバランスの設定をするのが教員の腕の見せ所です。

            ◆

S3 「5分が大事」この言葉がとても心に響きました。その時は面倒くさがって5分を惜しんでしまいがちであるが、長い目でみればたった5分である。だからこれから、少しでも疑問に思ったこと、わからないこと等をながさずに、時間を惜しまず調べて、自分のものにしていこうと思いました。
ぜひ名刺を作って、積極的に人脈を作りたいです。
四字熟語ゲームが真剣になって盛り上がりました。なかなか理解できない自分たちが恥ずかしかったです。

S5 今日の授業の中で一番印象に残っているのは、「たった5分で差がつく」ということです。以前の授業の中で池田先生は「授業の中でたくさんの“はてな”を見つけなさい」とおっしゃいました。今日の授業を受けて、この「はてな」を活かす為には「5分」という時間を一日の中で作らないといけないと思いました。
 たくさんの「はてな」を見つけも一日の中で「5分」を見つけなければ、その見つけた「はてな」も意味がないものになってしまうからです。今日の授業の中で池田先生が疑問に思った「すやし、ですし」という関西地方(?)で使われているこの「し」という文末表現について私も疑問に思ったので、さっそく調べてみようと思いました。

T なかなかこの5分が出来ないんだよね。ぼーっとしていれば5分なんてあっという間に過ぎて行くのに。明確な意識を持った毎日の5分を作り出してみてください。

            ◆

S4 最初に名刺の渡し方、渡され方を教えていただき、とてもためになりました。前にテレビの番組で、マナーをとりあげて名刺の渡し方などを放送していましたが、正直すっかり忘れていました。もう忘れないように長期記憶に保存したいです。
 学習ゲームは教師になったらぜひ取り上げたいです。生徒の意欲を引き出せることは、教師にとって本当にうれしい事だと思います。体育の先生の話を聞いて、“国語を実技授業にしよう”とひらめく先生は本当にすごいと思いました。<ひらめき><発想>をたくさん持てる教師になりたいです。
 加えて、“ブレーキ”をかけられるようになること、というのにも留意しながら、生徒を止められる<声><指示>を自分なりに考えていきたいです。

T 子どもの現実をきちんと理解することですね。ここから始まります。共感し、受け止め、子どもたちの願いを分かる。これらをまとめて言うと「理解」ということになると思います。その上で、指導を重ねて行くわけですね。もちろん、理解しても「それは駄目だ」という指導をする場合もあります。でも、やはり理解から始まると思います。
ちなみに、理解から始まるというのは、理解から指導の一歩目を踏み出そうという意味と、理解から始めない指導もあるということの二つの意味で使っています。

            ◆

S6 今日の授業でやった四字熟語ポンボールはおもしろかったです。
ゲーム感覚で授業をするのは初めてだったのでとても楽しかったです。四字熟語だけでなく内容を変えると他の教科でも使えるので、書道でもやってみたいと思いました。
また名刺の話が印象に残りました。
私は学校の他に書道のお稽古とドイツ語会話に通っています。よく考えるとお稽古の人ともドイツ語教室の人とも挨拶程度の関係で名前も知らない人ばかりです。これから少しずつ人脈を増やしていき、たくさんの知識を身につけたいと思います。

T 折角何かのご縁で出会った人たちですから、通り過ぎるだけではもったいないと思います。人は人との交流の中で色々なことを学びます。交流して楽しく身に付けてください。

            ◆

S7 「四字熟語でポン」をやったのは、15分という短い時間だったのに、とても熱中して取り組んでいました。
誰からともなく、ルールを確認して、いつの間にか盛り上がっていたことにびっくりしました。
初めは、ルールの理解に苦しみ、知らない四字熟語に悩まされ、ドキドキしましたが、慣れてくるときっと、白熱したときの「ドキドキ」に変わってくるように感じました。
楽しくなれば、遊ぶ時間が増え、その結果として学習時間も増える。
それは、よい循環のように感じます。
しかし、先生がおっしゃっていたように、盛り上がっている時にブレーキがかけられなければ意味がないようにも思います。
そして、学習ゲームがマンネリ化しないことも大切だと思いました。
同じゲームでも応用すれば、たくさんの遊び方があるのだから、いろいろ工夫して利用できればいいと思います。

また、名刺を持つことに興味がわきました。
名刺は、自分をどんどんアピールできる素敵な道具だと感じました。
今日6限の、介護等体験特別講演会のときに、池田先生と北村先生の名刺交換の瞬間を見て、今日の授業でのお話にさらに実感を持つことができました。

S10 ゲーム感覚で学習する、というのは英語の学習に多かったので、国語でもそういった学習ができるのだなと実感しました。「四字熟語でポン」のゲームはルールが理解できずに苦闘しましたし、そもそも漢字が苦手なのでゲーム自体も苦戦しました。おそらく、初めてこのゲームをする中学生と同じ感覚になっていたのでしょう。生徒の気持ちを知るためにも、今日のこの授業はとても有意義だったと思います。
また、名刺のお話を授業で聞いた後、介護等体験の授業で実際に先生方の名刺交換を見て、なるほど、こういう風にするのか、と実際の例を見て学習できました。

T よく見ていましたね。君たちに教えた通りに私が出来ていたでしょうか。たぶん、大丈夫だと思うのですけど。

ポンの学習は、君たちに子どもが学ぶということを疑似体験するように指導計画を作ってみました。子どもというのは、「学び方を学ぶ」と「学ぶ内容を学ぶ」の二つのことを同時進行で行っているのです。教師は、もうとっくに「学び方を学ぶ」ことができています。だから、「学ぶ内容を学ぶ」を中心に授業をしてしまいがちですが、子どもたちは「学び方を学ぶ」も同時にやっているので、教師が想定している二倍の負担、二倍の努力を強いられているということなのです。

今回のポンの学習では、ゲームのルールを書いた紙を与えただけで、「さあ、やれ」と指示を出しました。これは、学び方までも自分で獲得しなければならないということを強く実感してもらうことも目的の一つでした。

たくさんのことを子どもたちに教えなければなりません。だから、教師は明確な指示ができなければならないのです。子どもたちを混乱に陥れることなく、学び方を学ばせ、学ぶ内容を身につけさせるためにです。

            ◆

S8 楽しみながら学習できる「学習ゲーム」は、すごく良い方法だと思いました。確かに、自分が学生の頃、先生が「大事だ」と言って長々説明していた古典の文法などは、なかなか覚えられませんでした。でも、今日やった「四字熟語でポン」みたいに遊び感覚、ゲーム感覚で出来たら、やっている間に覚えたり、生徒自ら覚えようとしてくれたりするので、良いと思います。覚えなければいけない、とか、やらなければいけない勉強よりも、覚えたい、やりたい、と生徒に思わせる事が大事なのだとわかりました。

S9 『ゲームをしながら学べる』なんて、子どもたちにとってはとても楽しい授業だろうな、と思いました。遊び感覚で受けられる、友達とわいわいできる、勝てば嬉しい、そして力が付くなんて、いいことづくしです。
集団のゲームなので、みんながやる気になれば、クラス全員の学力アップにつながりますよね。四字熟語だけでなく、応用もきくようなのでいろんなバージョンを考えてやってみたくなりました。

T 「大事だから勉強しよう」と、先生の言葉を理解して勉強する子どもたちは、「大事だ」と長々言わなくてももう勉強しているはずです。問題は、「大事だ」と長々言ったのに、「別に」とか「え? なんか言った?」と言っている子どもたちへの指導です。私は面白いからやるを基本的な考えに据えてこの授業を開発しました。みなさんは、なにを基本的な考え方に据えるのでしょうか。

            ◆

S11 「教師が熱心に教えれば教えるほど子どもは退屈する」という言葉が印象的でした。授業というものは子ども主体でなければならない、ということを改めて思い知らされました。

「徹底的に遊ぶ」という言葉も印象的でした。真剣に遊ぶ、というと何か矛盾しているようにも思えますが、実はそれはもっとも理想的な学習方法なのではないかと思います。

T 「教師が熱心に教えれば教えるほど子どもは退屈する」ということもあるということです.全面的に否定しているわけではありません。ただ、
(なんで先生、あんなに一人で燃えているんだろう?)
と思う子どももいますよね。私もそういう生徒の一人でした。

勉強とか学問とかというのは、成績が上がるから、または上がったから楽しいというのものではなく、勉強や学問をする時間そのもののが楽しいというものなのだと思います。さらに、遊ぶという行為は、人間の行為の中でもかなり人間的な行為です。犬はボールにじゃれますが、遊んでいるかというとどうでしょう。遊ぶというのは本能だけで生きることから解放された人間だけに許される行為ではないでしょうか。だとすれば、適当に遊ぶのはもったいないなあと私は、思うわけです。

            ◆

S12 今日の授業は「四字熟語でポン」に熱中してしまいました。最初はルールがわからずなかなかゲームが進まなかったので苦労しましたが、二回戦目ではルールもある程度把握でき、楽しかったです。でも肝心の四字熟語の意味がわからないものが多く、なかなかペアを合わせられませんでした。先生のかつての生徒のように資料集などで再確認したいと思います。
この学習ゲームによる指導法は負けず嫌いな人の方がより効果的だと思いました。

T 当たり前ですが、指導する側の人間は指導する内容についてきちんと理解しておく必要があります。私の直感からすると、指導する内容の5倍ぐらい知っていて、なんとか教えられる。10倍ぐらい知っていて普通に指導できるという感じでしょうか。

ちなみに、「負けず嫌い」って変な言葉だと気がつきましたか?

            ◆

S13 自分の四字熟語の知識の足りなさに衝撃を受けました。勉強します。なんだか授業を受けるたびに自分の学習不足に気付いている気がします。
“授業を参加型にする”試みはすごく魅力的で、是非自分もやってみたいと思いました。先生が説明するよりも、実際にやらせてみたほうが身に付く、という話にも納得しました。
しかし実践の場では、どう進めていくのか様々なパターンを考えるなど、しっかりとした準備が必要そうです。盛り上がりすぎたときや、逆に盛り上がらなかったときのこと。どうすれば盛り上げることが出来るか。このゲームをして生徒はどんな食いつき方をするだろう?とちゃんと考えられる自分でありたいです。
例えば参加型のゲームが嫌いだったり、気が弱くてクラスメイトと競うのが苦手だったり、負けたり間違えるのが恥ずかしくてたまらない子もいるはずです。そういった子にも楽しんでもらえるゲームの進め方を考えるのは難儀だと感じます。そこを頑張るのが教師の腕の見せ所だとも思いますが。

『四字熟語でポン』はルールが難しくて、理解するのに時間がかかりました。「学び方を覚える」「学習内容を覚える」を同時にするのは確かに負担です。最初は四字熟語カルタぐらいのシンプルな遊びからやらせてみたいです。
ただ、ルールを理解するときに班員とああでもないこうでもないと言いながら考えあうのは、仲良くなるのにいい方法だなと思いました。

名刺を使ってのコミュニティの広げ方の話を聞いて、「今までの自分はなんてもったいないことをしていたのだろう」と思いました。と言うのも、サークルで他の団体と名刺交換をする機会がここ数年何度もあったのに、交換したっきりで連絡をとらないことがほとんどだったからです。
確かに名刺をもらったあと交流に繋げようと努力している人は、携帯のメモリが500人を越えていたりします。そういった例を間近に見ながらも、自分はいいやと思ってネットワークを広げるのを放棄していました。
自分自身のためにもう少し努力してみたいと思います。

T 気づくだけ立派です。気づけばそこから努力が出来ますから。
(君は、国語の教師を目指すのだろ? そのぐらい知っていて当然じゃないか。そんなレベルのことを知らないでいて、教師を目指すなんて烏滸がましい。それに気が使いないのか!)
ということを言われかねない学生もいると思っています。

これからの時代、10年前なら絶対に合格しないレベルであっても、教員が足りないという理由で合格して教師になって行く学生がどんどん出てくることでしょう。教師になろうとする人たちからすれば、それはなりやすいのですから、良い時代です。しかし、子どもたちから見た場合、日本の社会、人類の発展から見た場合はどうなのでしょうか。ま、私が教師になった時にも、先輩たちはそんな風に思っていたのかもしれませんが。

中学二年生が覚えている内容を理解していないというのは、相当気合いを入れて勉強しないと「うっかり合格」してしまっても、その後がとっても大変ですよ。

             ■□■

同じ授業を受けているのだから、感想が同じようになるというのも分からないでもない。しかし、あまりにも同じだと、コメントをする意欲もなくなって行く。

掲示版では先に書き込んだ人の感想を読むことが出来るのだから、ちょっと確認してみると良いね。

だから、すぐに感想を書き込む人は、自分が思ったことをそのまま書けるわけだ。これが、すぐに書き込みをした人の特権である。

締切の時間ギリギリになって、しかもそれまでに何回も書かれていた感想を書くようであっては、採用試験の面接の答えで失敗するのが目に見えるようであるぞよ。

読む側の気持ちになろう。
あなたの感想は、ユニークか。即ち、あなただけにしかか書けない文章になっているか。これが大事なのである。

コメントをされる文章であることをしっかりと理解して、読者を意識しましょう。

                             国語科教育法通信 修学 NO34〜37

教師のスケジュール

中学校の教師の時も思っていた。
(こどもたちは、教師のスケジュールを知っているに違いない)
と。

『っじゃあ、今晩は軽く行きますか?』
と同僚と決めて、いつもより仕事をてきぱきとこなして、いざゆかん!
というときに
「先生、○○コンビニから電話です」
と生徒指導を告げる電話がある。
絶対、彼らは教師のスケジュールを知っているとしか思えなかった。

            ◆

ま、そこまでひどくはないが、昨日は集中して仕事をする予定であった午後に、大挙して学生が押し寄せてきた。教育実習前の相談や欠席の報告やらその他もろもろであった。予定していたお客さんは二組あったので、その前に終わらせようと思って板であるが、できなかった。

うむうむ。
明日やりきろう。

            ◆

夜はほんとうに久しぶりに雑誌を買って、ページをめくる。
ああ、旅をしたくなってきた。

2007/05/22

「大丈夫です」

気に入らない言葉がある。
「大丈夫です」
である。
これを聞いて、みなさんはイライラしないのであろうか。

最近学生がこれを使うとイライラする。別に学生でなくてもイライラすることもある。なんでこれを聞くとイライラするのか昨日から考えていた。一つの仮説が出たので、書いてみる。

通常私(と奥さん。奥さんとも話したのだ)が使うのは、以下のような場合である。

引用開始 ーーーーーーーーーー

私が重たい荷物を持って、研究室から図書館に移動している時、先輩の先生が声を掛けてくださった。
「池田先生、大丈夫? 少し持ちましょうか?」
『ありがとうございます。ご心配には及びません。このぐらい大丈夫です』
と言って御礼を述べた。

引用終了 ーーーーーーーーーー

これである。
ところが、最近学生たちが使うのは、

引用開始 ーーーーーーーーーー

『ここは多くの人が通るところだから、そんなにだらしのない格好で椅子に座っているのではない。みっともないぞ』
「あ、大丈夫です」

引用終了 ーーーーーーーーーー

というのものである。何が大丈夫だ?

            ◆

この違いが分かって頂けるだろうか。
本来、大丈夫?というのは、相手を心配して掛ける言葉である。そして、その言葉掛けに御礼を述べて、「(心配には及びません)、大丈夫です」と答えるものである。

ところが、学生たちは注意を受けているのに、「大丈夫です」と言う。まるで、こちらが相手を心配しているかのようである。

違う、心配なんぞしていない。注意をしているのだ。

私は上記のようにイライラの原因について仮説を出してみた。そして、少し落ちついた。

            ◆

この手のイライラは、言っている本人には、自分が相手をイライラさせているという自覚がなく、イライラする側だけ、イライラするという問題を含んでいる。だから、ますますイライラする。調度電車の中でイヤフォンから音を漏らしながら、ノリノリになっている輩を睨みつける時に似ている。

原因が分かると少し落ち着くものだ。イヤフォンでも、周りが迷惑しているぞというオーラが本人を感じるようだと、こちらのイライラのテンションが下がるのと同じかもしれない。

            ◆

言葉は変わるものである。だから、仕方がないとも思う。だが、こういう文脈を無視した変わり方はイライラさせる。

「見られる」が「見れる」に、「食べられる」が「食べれる」に変わって行くのとは、性質が違うように思う。文脈ごと間違った使い方をしているということは、もう今までの文脈が存在竹刀と言うことにもなりかねない。

「(心配には及びません)、大丈夫です」という思考なり、文脈なりがないとなると、これは結構由々しき問題である。

はしかで休講でも?

私は早稲田は好きな大学である。イメージが良いなあと思っている。ところが、最近の早稲田はどうしたんだと思うことが多い。

引用開始 ーーーーーーーーーー

猛威「はしか」早稲田大学も休講…影響学生数では最大規模

 首都圏を中心に猛威をふるう「はしか」が学生に流行しているとして、早稲田大は21日午後から29日まで休講すると発表した。人気の斎藤佑樹投手(18)が所属する野球部など運動部は、部員に検査などを受けさせた上で、条件をクリアした者に限り、活動させることを決めた。

 大学本部がある東京都新宿区の西早稲田キャンパスをはじめ、都内と埼玉県内にある計8カ所のキャンパスが対象で、研究施設なども含まれる。影響を受ける学生は約5万5000人。日大や上智大が休講となり、この日も東京農業大が休講措置を取るなど、今月に入りはしかの感染が広がっているが、影響学生数で早大は最大規模となる。

 休講期間中、学生の敷地内への立ち入りを禁じ、大学施設利用やサークル活動も休止する。6月2、3日に行われる東京六大学野球、早慶戦の学生券計約1万4000枚を学内で販売する予定も延期した。

 運動部は公式戦を控えていることなどに配慮し、部員が(1)既にはしかにかかったことを証明できる(2)抗体検査を受け、はしかにかかる恐れがないと医師が判断した−のいずれかの場合は練習などへの参加を認める。東京六大学野球連盟は「現時点で早慶戦は予定通り」としている。野球部は現在8戦全勝で、早慶戦で1勝すれば東京六大学リーグ連覇が決まる。

 同大広報課によると、4月下旬から今月21日までに計30人の学生がはしかに感染していることが確認され、急きょ休講を決定した。国立感染症研究所は「流行は今後も継続、もしくは拡大する可能性が高い」と注意を呼び掛けている。

★卓球の愛ちゃん「私は大丈夫」

 今春から早稲田大に入学し、卓球部に所属する福原愛選手(18)は21日、世界選手権のため滞在しているザグレブで「(ニュースは)聞きました。わたしは予防接種を受けているので大丈夫です」と冷静に話した。福原選手は15日に日本を離れており、大会終了後の29日に帰国する。男子代表の松下浩二選手(39)も大学院に在籍しているが、「メールで休講を知りました」と驚いた様子はなかった。

http://www.sanspo.com/shakai/top/sha200705/sha2007052211.html

引用終了 ーーーーーーーーーー

早慶戦はやるそうだ。たしかに「早慶戦の学生券計約1万4000枚を学内で販売する予定も延期した。」とあるけど、優勝がかかっていれば、どっかから手に入れて見に行くでしょう。たしかに「部員が(1)既にはしかにかかったことを証明できる(2)抗体検査を受け、はしかにかかる恐れがないと医師が判断した−のいずれかの場合は練習などへの参加を認める。」とあるけど、応援に来る人たちはどうするの?

学校は集団を扱っている場所。だから、予想される悪い状態の、もう一歩踏み込んだところで線を引く必要があるはずだ。この早稲田の判断では
「早慶戦のために休講にしました。応援に来てね」
と言われても仕方がないような気がする。

どうしたんだ、早稲田?

『とめはね! 1』(河合克敏 小学館)

『とめはね! 1』(河合克敏 小学館)を読んだ。文科系青春コメディーである。高校の書道部が舞台の漫画である。

まだ一巻しか出ていないが、まあ、それなりに楽しめそうである。書道の上達に向けてさまざまな話が出てくるものと思われる。「永字八法」「三折法」などの基礎的な書法の説明や、「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんのめい)」などのお手本の話が出てくるわけで、それはそれで勉強になる。

が、しかし。残念ながらその作品中で使われている書道の作品が、上手くない。わざわざ大学の書道部の学生に書いてもらったりしているのだが、びっくりするぐらい上手くない。これが上手い字だと思って若者が読んだら、駄目でしょ。

うちの大学の書道科の学生の方がよっぽど上手い。書かせてくれれば良いのに。それに、お手本なら、古典から集字(しゅうじ)して、それを使えば良いのに。

そこだけ(というか、そこが駄目だと駄目という説もあるが)だめだが、あとは勉強になる本かもしれません。>Nekoskeyさん。

小さい勇気をこそ

「明日の教室」に参加している学生さんから、冊子を戴いた。『ほんものはつづく つづくとほんものになる ー東井義雄伝ー』(村上信行 株式会社タニサケ)東井先生に指導を受けたという著者の先生が、書かれた冊子だ。学生さんの故郷の大先輩が東井先生だというのだ。

私は東井義雄先生のことは、ほとんど知らない。いくつかの素晴らしい実践と、詩を知っているだけだ。折角だったので今日はその冊子をじっくりと読んだ。

涙が出てきた。
こういう教育をする先生がいて、こういう教育ができる時代もあったんだなと。いや、楽をしているというのではない。厳しい厳しい教育をしている。でも、あたたかいのだ。

私も勇気をもらった。私は、だらしなくてなんとか教師をやり続けているという思いが強いが、東井先生であってもそうであったのかと思った。

先週の研究入門ゼミで学生たちに、五分間の大切さについて話した。大事なのは、一時間頑張ることではなく、五分間頑張ることである。その五分が一年後にはとんでもない差異になるのだと。

それと同じようなことが、書かれている詩があった。

引用開始 ーーーーーーーーーー

小さい勇気をこそ

                  東井義雄

人生の大嵐がやってきたとき
それがへっちゃらで乗りこえられるような
大きい勇気もほしいにはほしいが
わたしは
小さい勇気こそほしい
わたしの大切な仕事をあとまわしにさせ
忘れさせようとする小さい悪魔が
テレビののスリルドラマや漫画にばけて
わたしを誘惑するとき
すぐそれがやっつけられるくらいの
小さい勇気でいいから
わたしはそれがほしい
もう五分くらいねていたっていいじゃないか
けさは寒いんだよと
あたたかい寝床の中にひそみこんで
わたしにささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
明日があるじゃないか
明日やればいいじゃないか
今夜はもう寝ろよと
机の下からささやきかける小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそほしい
紙くずがおちているのを見つけたときは
気がつかなかったというふりをして
さっさといっちまえよ
かぜひきの鼻紙かもしれないよ
不潔じゃないかと呼びかける
小さい悪魔を
すぐやっつけてしまえるくらいの
小さい勇気こそわたしはほしい
どんな苦難ものり切れる
大きい勇気もほしいにはほしいが
毎日小出しにして使える
小さい勇気でいいから
それがわたしは
たくさんほしい
それに
そういう小さい勇気を軽蔑していては
いざというときの
大きい勇気もつかめないのではないだろうか。

引用終了 ーーーーーーーーーー

本当に、教育って奴は小さな勇気をきちんと使えるかどうかなんだと思う。面倒くさくて、かったるくて、しんどいのが日々の教育実践。この面倒くさくて、かったるくて、しんどいのを乗り越えるために必要なのが、小さな勇気だと思う。

東井義雄先生でもそうだったんだ。
私ぐらいで、めげていては駄目だと改めて思う。

2007/05/21

日曜日であった

日曜日はまず車を取りに大学に向かう。親睦会でお酒を飲むので一度家に置きに行きたかったのだが、時間がなく置いて行ったので取りに行ったのだ。平日ならバスがあるのだが、日曜日はない。そこで椥辻(なぎつじ)駅から歩くのだ。

去年の四月、五月はこうして歩いて大学に向かっていたのだが、久しぶりに歩くと結構距離があるなあと実感。もちろん、たったか歩いたのではなくフラフラ歩いたので時間が掛かったのもあるが。

でも、
(へ〜、こんなのがあったの)
と地元再発見。これも昨日のWSで学んだことが生きているのだろう。

            ◆

日曜日の大学は、とても気持ちがよかった。
体育館で学生がクラブ活動をしている以外は、シーンとしていて、昼休の時間になるとごった返す中庭もほんとにひっそりとしていて、いい。

研究室棟に繋がる道は、緑のトンネルになっている。
うぐいすも鳴いている。
一人森林浴だ。

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            ◆

研究室で片付けをして家に帰る。
午後からは琵琶湖博物館に行くのだ。

第三日曜日は、滋賀県の文化施設、大津市の歴史的建造物等が県民、市民は無料で入れるのだ。新入生キャンプで琵琶湖博物館には行ったのだが、もう一度見たいと思って行った。やっぱりここは凄く良い。

普段の生活であれば、地球の歴史の中で滋賀県がどのような位置にあるのかなんて考えもしない。その辺にこがっている石が、一つは珊瑚から出来たもので、一つがマグマの吹き出しから出来たものだなんて思いもしない。でも、それが滋賀県なのである。そんなのが簡単に分かるのが凄い。

            ◆

じっくりと、2時間ちょっとの時間をかけて見た。
美しい景色と、知的な興奮を手に入れた日曜日であった。

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2007/05/20

自分の世界を広げようとして社会と懸命に格闘している方

第二回明日の教室の開催でした。

午前中は歯の具合が悪くなったので飛び込みで歯科医院に向かう。その後、大学に向かって研究会の準備をする。準備の後、一度車を家に置きに行こうと思ったのだが、参加されるみなさんが集まってきたので、これで事務局がいなくなるのもまずいと判断して、そのままいることに。

生協で食事をしていると、参加するE君に会う。いろいろと話しながら食事。一ヶ月に一回こうして会うってのは、いいなあ。

            ◆

岩井さんをお迎えしての「明日の授業」は、二部構成。一部は、光が丘団地で取り組んだ実践の紹介。そして、二部は粘土で実作。「幣のフィールド」だ。自分の作った作品が、北海道の十勝千年の森で、千年間保管される。その作品を作るのだ。

自分の作った作品が自分の手元に戻らずに、千年間保存される。もちろん、千年後なんて誰も分からない。が、その千年と言う時間に自分を一度置いてみるイマジネーションを持てるだけで素晴らしい。

            ◆

私も作ってみた。
「○○○を粘土で作ろう。それは□□□だから(のために)、完成後は手元を離れて北海道の森の中に置かれます。」
という指示の下に考えてみた。

私は「酒器を作ろう。それは平和のためだから」という考えを持った。千年後発掘した人がいたとして、私の作った酒器で一杯やってくれるようなことがあれば、それは平和な時代、平和な時間なんだろうと思ったからだ。

ところが、実際に作ってみるとこれが難しい。薄くて口当たりの良い酒器を作るつもりだったが、粘土の厚みが上手く出せない。

そこで、途中で考え直す。じっと粘土を見て思いついた。
(餃子を作ろう)
である。自分が好きなものを作る。千年先の人に伝える。白で伝える。なら、餃子が良いとおもったのだ。

            ◆

餃子の具は何にしようかなあと思った。
結論。夢とした。見えないけど、夢だ。これはいい。

そしたら、もう一つ作りたくなった。ショウロンボウだ。包む繋がりだ。ここには、希望を包もう。なんか楽しくなってきたぞ。

さらに作る。参加者のみなさんは、人間を立体的に作ってる人が多い。私も作ろうかと思ったが、やめた。石碑にした。石碑を作り、そこに最後に「こども」と文字を残した。

そして最後の最後。粘土を右手でぐーっっと握ってお仕舞い。テーマは「ガッツ」。千年後に、
(これなんだ?)
と手にした人が、私の手の形に合わせてこの作品を握ってくれる人がいるんじゃないかなと思って作った。

            ◆

だんだん、このワークショプの凄さが体にしみ込んできた。
言葉を扱う国語の世界から離れ、ものの世界にはまり込む。そして、千年後にこの「もの」から、新しい言葉を手にする。これは壮大な手紙なんだなあと思う。いやあ凄い凄い。

            ◆

会の後、懇親会に向かう。参加されたみなさんとお話。いつも思うが、研究会はここまでがセットだということ。あれやこれや話しながら深めて行くのが良い。

私の周りには国語関係の参加者が集まり、短歌の指導法、漢字の指導法などを中心にミニ講座。さらに、書道の話やらなんやらを続ける。これは一度国語スペシャルをやるか?と思ったな。

            ◆

楽しい時間はあっという間に過ぎ、地下鉄に乗る。私は、講師の岩井さんと一緒に山科で降りる。

で、次の電車の時間まで30分あり、まだ話をしたかったので、もう一軒岩井さんと行くことにする。ここでもヒジョーに良い時間を過ごせた。自分の世界を広げようとして社会と懸命に格闘している方との会話というのは、本当に楽しい。

ああ、事務局としての役得かなf(^^;。

2007/05/19

隔世の感

児童教育学科は一年目である。だからもってして、一年目にやらねばならないことや、一年目にしか出来ないことをどんどんやる。学科の会議ではこの二つのことを精力的に話し合い、計画を立てて実行に移して行く。それぞれの先生のカラーを活かしつつ分担が決められて、前に進んで行く。こういうのが大人の会議だよなあと思う。

            ◆

で、その一年目にしか出来ないことの一つとして、記念樹がある。これからどんどん成長していく児童教育学科を見守るように成長していく木を植えたいと思った。学科の会議で話し合い、購入を決定。これを昨日私が買ってきた。

どこに植えようか、どのように植えようか。

そんなことをまだ丁寧には考えていない。が、昨日まで三井寺でお祭りが行われていて、植木市が同じ期間に開かれていたので、まずは買ってきた。来週以降植えましょう。

            ◆

ちょっと乱れてきた研究室の片付けをしていたら、学生がやってくる。私がアドヴァイザーをするクラスの学生だ。
『どうしました?』
と聞くと、
「名刺が完成しました」
とのこと。ああそうか。

先週の授業で、
『君たちは、学生である。学生であるということは、大学の中だけで満足するのではなく、外との繋がりをたくさん持つべきである。そのためには、名刺を持ちなさい。ワードや筆まめで簡単に作れます』
と言って、渡し方や受け取り方。さらには、戴いた後のメールの書き方まで教えた。
これを受けて作ってきたというのだ。最初の名刺は私にくれるというのだ。この辺りがうちの学生の良いところである。

さっそくその名刺を使って具体的に指導する。よしよし、いいぞ。

しかし、私が最初に名刺を手にしたのはいつだったろうか。Macを手に入れてからだ。ということは、教師になって数年経っているな。学校の外で人と会うことが多くなり、自分で作ったのである。学校の教員は、当時名刺等持っている人はいなかった。校長は経費で学校が名刺を用意してくれていたが、ヒラ教員はなし。自分で作るしかなかった。ま、多くの教員は、持つ必要がないというのが実際だったと思うが。

全国教室ディベート連盟が出来てから、自作ではなく印刷所が作った名刺を手にしたことになる。そして、今は大学の名刺。去年まで助教授だったが今年から准教授になり研究室も変わったので、去年までの名刺はなしにして、新しい名刺だ。

そう思うと名刺一つでも隔世の感があるな。今の学生は良いなあ。
もちろん、今の学生は良いなあと思えることが、社会が進歩したと言う一つの証拠である枯らして、それはそれでいいのだが。

まだ作っていない学生諸君、作るんだよ。

            ◆

夕方、文化政策学部の木下先生が学生と一緒に研究室にいらっしゃる。滋賀県の文化施設と学校教育との繋がりをボランティアを中心に回しているらしいのだが、そこにうちの学生を中心として関わるお仕事をされている。そこに児童教育学科の学生の参加を紹介してもらえないかとのことであった。

最初は関心を示さなかった学校も、今ではもの凄い数の学校がこの取り組みに参加しているそうで、文化庁長官も視察に来るぐらいだそうだ。この取り組みはまだ全国的には滋賀県だけでしか行われていないが、やがて全国的な広がりを目指したいとのことであった。

滋賀県の美しさを愛する私は、なんとか協力できないかなと思うものである。

            ◆

で、8時過ぎまで明日の「第二回 明日の教師」の事務方の仕事をして帰宅。窓の外、琵琶湖上空では雷が光っていた。明日の天気が安定することを願って、おやすみなさい。

2007/05/18

教育実習が始まっている

教育実習が始まっている。昨日は、実習に行く前の相談と模擬授業の指導を行った。

            ◆

実習で扱う単元が知らされ、それについての指導案を書いているのだが、行き詰まって研究室に駆け込むと言うわけである。主に去年の国語科教育法で指導した学生たちがやってくる。昨日も一人。

夜の学科会議のために準備をしていたところにやってきた。結局マンツーマン(ん?マンツーウーマン?)で90分指導していた。前向きに取り組もうとする学生であるから、こっちもきちっと指導する。

こっちは、小説の読解。

            ◆

その後、「自主的に模擬授業をするので指導してほしい」と言う学生の模擬授業を見に行く。行ってみると、一回生が生徒役でたくさんいる。授業をする学生は、新入生キャンプでオリターをしており、その時のクラスの新入生に案内を出して、生徒役をやってほしいと伝えていたそうだ。

一つの教材を二つのパターンで、模擬授業をする。導入部の二つのパターンを実際にやってみるというのだ。一つ目は、自分で考えたオリジナルのもの。もう一つは、私に相談にきたときに私がアドヴァイスしたものだ。

プロジェクターを使いながらテンポの良い導入から入る授業が、一つ目。基本的な授業の展開は押さえられていた。去年みっちりと模擬授業をやった成果が出ている。実習でこの続きをやれば、それなりの及第点は出るだろう。

もう一つはタイトルを読み開き、そのタイトルに隠されている秘密を本文から読み解くという授業。本人は私がアドヴァイスした方の授業をしたいというのだが、なかなか難しいとのこと。教材研究が丁寧にされていないと、難しいからなあ。

ではあるが、良い取り組みである。下回生からもガンガン意見を貰っていた。
(をー、そこまで言うかね、下回生)
と思う意見もあったが、しっかり聞いていた。
(下回生諸君、自分がやるとき、びっくりするぞ。この先輩の凄さに)
と言いたかったがやめておいた。ま、そのうち分かるだろう。

模擬授業の後、参加してくれた仲間のためにお茶とお菓子を用意して、インフォーマルな振り返りもしていた。やるなあ。

            ◆

夜は学科会議。
目の前の取り組みを振り返りつつ、短期的な展望、長期的な展望についてヴィジョンとプランを話し合う。うしゃあ、である。

2007/05/17

嬉しいことがいくつか

会議の日の水曜日。嬉しいことがいくつか。

日頃感じていた問題点を、会議でトピックとして出したところ多くの方から意見を戴き、検討をしてくれました。

実はみなさんも同じように感じていたことらしく、なんとかしなければなあという思いがあったそうです。そこにたまたま私が口火を切る形で話を始めたのですが、これが大学全体で取り組む課題としてみなさんが受け入れてくれたのです。いやあ、嬉しかったなあ。私一人が思いついたところで、みなさんの賛同を得られなければ動くことはあり得ません。良い大学を作りたい。この気持ちが教職員で共有できたのはとても嬉しかったなあ。

            ◆

学科の会議もあった。児童教育コースの会議である。これが楽しかった。予算も人員も気にすることなく、まずは夢を語ろうということで将来小学校の教師を目指す学生たちに、どういう学びをチャンスを与えて行くかを、ばーっと出した。

すると、それをきっかけにして次から次へとアイデアが出る。荒唐無稽で突拍子もないものばかり。しかし、このメンバーとならなんか出来そうな気がしてくるのが面白い。企画が実現したとき、学生たちのびっくりする顔が目に浮かんできて、それも面白い。たのしみにたのしみ。

            ◆

私が顧問をする軟式野球サークルのメンバーが、西大津にある皇子山球場を借りて試合をすることが出来ました。プロ野球も使う本格的な球場です。本来なら応援に駆けつけるのですが、今日は大学全体の歓送迎会。応援ならず。でも、そうやって学生がどんどん自分の活動エリアを広げて行くのを見るのは嬉しいなあ。

            ◆

歓送迎会では、辞められた先生を大量に上回る新しい先生のスピーチでありました。ですから歓送迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎迎会ぐらいの感じでしょうか。いや、漢字か?

大学の生き残り、どこも言われていることだと思います。算数の苦手な私には良くわからないのですが、少し解ることは「お金を大事に使い、学生をきちんと教育する。そのために研究も進める」というのが、今の私のスタンスです。それが評価されれば大学は質を高めて行くのではないかと考えています。

新しい仲間を迎え、ますます質の高まる予感を抱きました。

            ◆

二次会は、S先生とK先生と。
私のバリュウームにおける研究内容をお話ししたところ、科学的な見地からご指導を戴く。
「池田さん、それは植物性の色素では難しいのではないか.動物性がいいね。でも、動物性の色素は白が多いんだよな」
私の下らない実験に真剣に付き合ってくれる仲間がいることを、心から喜ぶ。

            ◆

終電で帰ってきて、学生からのメールを一気に読みました。今日の授業の感想がメールで届くようにしてあるのです。

嬉しかったなあ。説教の多い私の授業でありますが、説教が届いたなと思える感想を書いている学生が多くいたのです。反省ではなく、内省をしている学生が増えてきたなあというのが、嬉しい理由です。

私は、自分をみつめ、その自分を受け入れることが学びの土台になると思っています。これは子どもを見つめ、子どもを受け入れることから指導が始まるということの裏表であるとも。

            ◆

嬉しい一日だった。

2007/05/16

学ぶ主体に育つ

さて、諸君には昨日の授業の感想として、二つの課題を与えた。

1)授業の感想
2)授業に関する疑問

である。

私は言いたいことが二つある。
一つ目は、構成の問題である。課題として1)〜、2)〜という形で掲示版に書くことを指示してある。しかし、君たちの掲示版の書き込みを見ていると、この形式になっていないものを散見する。
授業では、ナンバリングとラベリングを教えた。これは知識として持っていろというものではない。使うものとして教えている。

君たちは、書けば読んでもらえると思っているのではないだろうか。それでは駄目だ。読んでもらいやすいように書くことを心掛けなさい。文章を読む側に回ると分かるが、読み手のことを考えて書いている文章と、そうではない文章の差はとても大きいものと感じる。書きなぐったような文章というのは、ワープロであっても分かるものである。

そういう文章は読まれなくなる。書きなぐりの文章を書いている人は、少しずつ、本当に少しずつ読まれない文章を書くことを「身につけて」いくことになる。そして、それに気がついた時には、それを取り返すには、ほとんど不可能なくらいの膨大な時間と努力が必要であることにも気がつくのだ。

         ◆

二つ目は、学ぶということに付いてである。疑問を出せば、先生が答えてくれると思い込んでいる諸君はいないか? それは高校生までであり、大学生になる、教師になる諸君は、自らその疑問に答える姿勢を持っていなければならない。

「論文とは、自らの疑問に自らが答えることだ」と教えた。疑問を持てば誰か、多くの場合は仲間や先生が答えを教えてくれるものだと当たり前に思い込んでいる、そんな体になっていないか? 
自らの疑問を自らが調べたであろうか。
例えば、「接続詞の種類は何種類あるのでしょうか」という疑問が多く出された。この疑問であれば図書館に行けば15分も掛からずに答えは出る。いや、本格的にやろうとしたら、1時間では終わらないかもしれない。でも、ちょっと努力をすれば答えは出る。これを先生から教えてもらうのを待つのか、自分で動くのかでは、天と地の違いがある。

例えば、「似ている接続詞の使いわけをどうすればいいのか」という疑問も多く出た。さて、矢野茂樹 『論理トレーニング101題』産業図書は注文しただろうか? 課題のプリントには「<以下の練習問題、ならびに先週の宿題プリントの練習問題は、野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書、2001年)より採ったものです。論理的思考を鍛えたいと願う諸君は、夏休み前にこの本を熟読しなさい。トレーニングなのでやればやっただけの効果があがります。>」と詳しく書かれている。

例えば、「先生が今知っている事はどうやって学んだのか。教科書に書いてあるとは思えない」という疑問があった。これに対応するには、二つの方法がある。一つは想像することで、一つは直接聞くである。前者は、格好良くいえば「仮説を立てる」という言い方になるかもしれない。これはこれで大いに「あり」である。仮説を立てて、検証することで学問は進歩して行く。後者は仮説を立てたあとに、本人に聞ける場合は聞くってのがいいだろうなあ。
 
         ◆

たとえば、(私が事務局をしていて、児童教育学科の児優館を使って行う7/7に研究会の講師で来てくださる)佐藤正寿先生は、先生のブログで「気になることば」というテーマで、なんと接続詞の「なので」について書いていらっしゃる。http://satomasa5.cocolog-nifty.com/jugyo/2007/05/post_84d6.html
そして、気になったということでさっと調べているのが分かる。日本の最先端の先生であってもこのように時間のない中で日々努力をされている。(いや、日々努力をされているから日本の最先端の先生になったという言い方も出来るが)

         ◆

一週間経った今、図書館に行ったであろうか、本屋で手に取ってみただろうか、買っただろうか。
君たちは自分で、学ぶために、そして先生を目指すために京都橘大学文学部児童教育学科を選んだはずだ。

教える主体になるということは、実は学ぶ主体になるということであり、繰り返し言うが自らの問いに自らが答えることが論文を書くと言ういうことである。四年生になれば急に卒業論文が書けるという根拠のない甘い幻想は持っては行けない。いまから少しずつ、自らを学ぶ主体に作り上げて行かなければ、間に合わないのである。

         ◆

さらに、人間は感情の動物でもある。これだけ丁寧に資料の取り方、学び方を説明されていてそれを無視するような諸君であれば、
(ま、この子たちはいいか)
と思われることもあるだろう。そして、その情報にリンクした、またはリンクしようとした学生にもっと指導をしてあげようと思うこともあるのではないかと思う。

君たちからすればちょっと長生きしている私は、人間関係の中に流れてくる情報を手にしないのを非常にもったいないと思う。君たちの目の前には、さまざまな縁が通り過ぎて行く。それをちょっとでも手にするか、それとも全く気にしないで行くかというのでは、大きな違いになる。

         ◆

折角なので、「先生が今知っている事はどうやって学んだのか。教科書に書いてあるとは思えない」にちょこっと答えておく。
私は、学生時代には塾でアルバイトもしていた。その当時、一緒のチームを組んでいた先生たちは、みんな大学院生。学部生は私だけであった。

週に三回の授業が終わると毎回食事に行き、その食事が終わると近くの先生の家に行ってあれこれと談義をした。
「いやあ、あの村上春樹は良かったよね」
「そうだね。あれは〜で××だよね。で、池ちゃんはどう思う?」
『え? そうですねえ。私も〜で××だと思います』
などと答えてみるが、実はそんな本は読んでいない。それで次の日に本屋に走り、本を購入し読みまくる。で、次の日に
『あの本は〜で××ですけど、○○な面もありますね』
なんて言いながら乗り越えて行ったわけである。こういうのを「泥縄式」と呼ぶ。もちろん、良い表現ではない。だが、これを二、三年も続ければそれなりに力が付く。

「仲間、読書、議論」これがポイントだね。

         ◆

私は、この二つについて諸君に「一回、教えたんだからできるだろ?」という姿勢を取るつもりはない。メモの取り方だって、「たくさん書きなさい」という指示を出して、メモを取る課題を15分という時間で区切ってやったところで、取れない学生諸君がたくさんいたね。

「教えたら出来る」。こんな簡単だったら教師は要らない。人間はそんなに簡単ではない。「分かると出来る」の間には大きな隔たりがあるのだ。だからことある度に教える。しかし、君たちはそれに甘えてはいけない。分かったのなら、出来るように努力をしなければならない。訓練をしなければならない。分かると出来るの間にある隔たりを埋めようとしなければならない。

君等が先生になった時、おそらく子どもたちも同じように「分かっても出来ない」状態であることが多いだろう。その時に、「なんで君たちは出来ないんだ!」なんてことをいう先生になってほしくはない。なってはいけない。

出来ないから子どもなのだ。それを出来るようになりたいと思っているのが子どもなのだ。だから、そこに手を差し伸べて出来るように指導して行く。これが先生なのだ。

         ◆

だが、君たちは大学生だ。手取り足取り教わるのではなく、自ら学ぶことを身につける必要がある。

この文章は、5/10に書いている。来週の5/16の授業で君たちがどれだけ自らやっているか確認してみたい。

どきどきするなあ。

研究入門ゼミ通信「起筆」NO.7,8

メモの効用

今日のゼミでは、日直さんが研究室まで日直の仕事をしに、授業の前にやってきました。そして、Cクラスの日直の順番を一覧にしてみんなに配ってくれていました。

うれしいねえ。

こういうのを主体的な行動といい、仲間のためにちょっとお世話をするというのだね。集団というのはルールと文化の両方が必要で、これを自分たちで作るか、誰かに与えられてそれに従うかで、その集団の質は全然違ったものになるんだな。

前者を自治と呼び、後者を従属や隷属というのだね。君たちは、やがて子ども集団をまとめる仕事に就く.その時に、子どもたちに自治を目指すことを教えてほしい。

もちろん、小学校に入る前の子ども、さらに小学校の子どもたちに完全な自治は難しいと思う。しかし、それを目指すことは大事だし、なにより今大学生の君たちが、自治を身につけることがとても大事であると考えている。

そのための小さな一歩だ。でも、大きな一歩だよ。一覧を作ってくれた君、ありがとう。

            ◆

授業は、夏服に移りつつある君たちの姿を見て、私が白い服を小さい時に「自主規制して」着なかったのが、結婚してから着出したことから話は始まった。

途中で、「発達課題」という用語を使った頃から少しずつメモを取りはじめる諸君が出てきた。しかし、周りを見回すと、泰然自若(読めるか?)として聞いているだけの諸君もやはりいた。

研究入門ゼミでは、必ずメモを取って授業を受けること。これは授業を受けるときのルールとして厳しく伝えたはずだが、どうもメモを取る習慣がついていない諸君がいると、前回までの授業で感じていた。
            ◆

そこで、今日はメモがどのぐらい取れるのかを確認した。15分ほどの話をA4の紙にメモする課題だ。このメモは、

1)たくさん取ること。
2)自分にだけ理解できる文字の形で良いこと。

を条件にして行った。話の内容は、「湯船の法則」である。この話は、学習に置ける「閾値(いきち)」の問題を考える時に、重要な「たとえ」だと思っている。誰が考えたかといえば、それは私だ。

余談開始。子どもたちに説明をするとき、子どもの事実と指導者の事実とを刷り合わして、そこに共通に浮かび上がってくる事象で「たとえ」を作って、それで説明する能力というのは、先生にはとても重要な力だと思っている。余談終了。

で、諸君がメモを取り終わったところで、クラス全員のメモを回覧して自分との違いを発見させた。明らかに、メモの分量に差があるのが分かったであろう。

メモには三種類ある。1)記録、2)思考・発想、3)まとめだ。このうち、今回行ったのは主に1)のメモである。

人間の脳みそは、短期的に記憶できる部分と長期的に記憶することが出来る部分に分かれていることが最近の研究で分かってきている。短期的に記憶できる場所は、少量の記憶しかできない。外に出さないと新しい記憶が出来ない仕組みになっている。

だから、メモなのである。
記憶するのではなく、記録するのである。
書くことによって、記憶から開放されるのだ。

いや、正確に言うとメモを取ることで記憶は強化されつつ、思考の領域を刺激する。書くことは考えることに直結しているからである。ほかにも2)や3)についてもメモの効用はある。

研究入門ゼミでは、必ずメモを取って授業を受けること。

意味もないことを諸君に強要するつもりはない。1年後、自分が書くことなしに話を聞くことが出来ない君に生まれ変わることを楽しみにしている。そしてその時は、考える君にもなっているはずだ。

研究入門ゼミ通信「起筆」NO.6

研究成果は、まだ出ていない

白は穢れなき色である。こんなになってしまった私でもよーくわかる。
そして、今日はその白に染まる日であった。
こんな私でも穢れのない白に染まることが出来る。
ただし、外側ではない。
内側である。

            ◆

年に一回の健康診断。
バリュームである。

            ◆

数年前、私はふと思いついたのであった。
(バリュームを飲んだ後、イカスミスパゲティを食べたらどのようなことになるのであろうか?)
と。
思い立ったらいても立ってもいられない。早速検査の後レストランに走り、イカスミスパゲティを注文した。

人類の神秘を、トイレで確認することになる。

            ◆

本日は、いちごを用意しておいた。
しかし、出がけに大学に持って行くのを忘れてしまった。

だが、私はめげなかった。
そんなことで研究を諦めては、研究者の道をあゆんだ甲斐がない。

昼休を利用して近くのスーパーに走り、「豊の香」ワンパックを購入した。
そして、昼ご飯としてワンパックを食した。

            ◆

研究成果は、まだ出ていない。

ここで吸ってくれてありがとう

私はタバコは嫌いだ。だから私の身の回りからタバコが無くなるのは、嬉しい。だが、それを一斉に取り締まるのはいかがなものかと思う。吸いたい人は、自分のリスクを考え回りの人の様子を見て据える場所で吸えば良いと思う。

が、全面禁煙もやむ得ないなあと思うこともある。
指定された場所以外で平気で煙草を吸う学生が少し増えた気がする。その度にその場所に行って注意をする私。昨日は同じ場所で三回も。頭に来たので三回目は厳しく。感情を抑えてまで注意する必要はないと判断した。

これが続くようだと、全面禁煙になるのもやむを得ないだろう。
昼休は職員のみなさんと一緒に学内のクリーンキャンペーンでゴミ袋を持って歩く。
指定された場所で吸っている学生を発見。
『ここで吸ってくれてありがとう』
なんてへんな言い方をする私であった。
で、
『こういうところ以外で吸う学生に、君たち吸う人たちがきちんとしないと、全面禁煙になるぞ』
と言うと、
「数場所が減らされたのが痛いっす」
と言う。
『ま、それでも吸う場所が用意されている分だけいいじゃないか。全面禁煙になったらどうする』「校門の外で吸います。ゴミが増えると思ういます」
『甘いこと言うな。そんなのは処分されるだけだぞ』
「あ、そういえば関○大学でも、そういう学生が処分されたらしいですね」

ふーん、そうなんだ、やっぱり。

今日も注意することになるだろう。
面倒くさいとは思うが、仕方がない。
奇麗な京都橘大学を守りたいし、こういう小さなところを許すと、大きな問題が生まれるというのは中学校も大学も変わらないはずだ。

なんで大学の教員になってまでとも思うが、吹野安先生も大学でやっていたしなあ。恩師がやっていたのに、教え子がやらないってのは駄目だよなあ。

うし、「隗より始めよ」である。

2007/05/15

まだ、間に合うようになりました。「明日の教室」

今週末5/19に、教職希望の大学生、若手教員を対象にした教育研究会「明日の教室」の第二回目が開かれます。連絡です。

1)定員を越えましたが

粘土を多く用意することが出来ましたので、もう少し受付が可能になりました。
(もう、定員をオーバーしてしまったかな)
と諦めてしまった方、大丈夫です。お申し込みください。

2)事前資料が届きました

登録して頂いたメールアドレスに、事務局からワードの添付ファイルが届くと思います。ですが、携帯電話のメールアドレス等、添付が受け取れない場合があるかと思います。その場合は、ここに添付ファイルを受け取れるアドレスをお知らせください。

2007/05/14

The New MINIを試乗

懸案の草津に出掛けていく。ついでに三大神社に足を伸ばし、藤を見学。大きな藤棚があるのだ。もう盛りは過ぎてしまっていたが、なかなか見事なものであった。神社の境内では地元の老人会が毎週一回の昼食会を開いていた。仕出し弁当を食べながら四方山話をしている。いいなあ。

食べている部屋には、昭和天皇、平成天皇の若い頃の写真が飾られていた。時代が50年前からとまっている感じであった。

            ◆

昼ご飯は蕎麦。国道一号線の通りにある店に入る。
何気なく天井を見たら、それこそ昔ながらの作りでもの凄く高い。壁面を見たら
「この欄間は草津の本陣の宿の階段の欄間に使われていたものです」
と説明がある。そういわれてみると将軍家の紋所が使われている。

流石、草津は東海道の宿だけある。
このそば屋の横には、名物の「うばがもち」という小粒のあんころ餅が売っている。試食をしたところ、なかなかの美味。歩き疲れた旅人にはちょうどいい甘さだろう。

            ◆

折角草津まで来たので、MINIのディーラーに寄る。ちょこっと気になるところを点検してもらっている間に、The New MINIを試乗する。
(ああ、私のよりも良かったらどうしよう)
とドキドキしながらCOOPERSに乗り込む。

スタートは、ボタン式に変更されていて、スイッチを押す感じ。バックする時の音、ウインカーの音は変更されている。クラッチも軽い。ふむふむ。スピードメーターはもっと大きくなり、メーターの下にラジオのチューナー等がある。ちょっとごちゃごちゃしているかな。

さて、エンジンである。
一言で言えば、別物である。OHCのスーパーチャージャーからDOHCのターボ付きへの変更である。トルク重視から高回転型への変更である。ドッカンターボではなくそれなりに下から回るが、ドッカンならドッカンでもいいのではないかと思った。でも、良く回る。しかし、あのスーパーチャージャー特有のサウンドはない。

顔つきは慣れとか、好みとかがあるだろうから何とも言えないが、ちょっと尖って長くなったし、バックビューは重心が上に上がった感じに見える。安定性が弱くなったイメージがする。

結論。
(ああ、良かった。私のOHC COOPERS方がいいや)
である。ま、身びいきの文もあると思うがf(^^;。

            ◆

夕ご飯は、スーパーで安くなっていた甘鯛の干物を炙って、日本酒をちびちび。
皮の部分がカリカリに焼けてこれが美味いんだな。
夜景を楽しみながらちびちび。

さ、来週もすることがたくさんあるぞ。
たのしみたのしみ。

2007/05/13

「哲学」が大事になってくる

火照りすぎた頭をクールダウンしつつ、熱そのものは保ち続けたいと思いながら過ごす一日だった。

昨晩は急に夕食を家で食べられなくなったという電話をしたのにも関わらず、いってらっしゃいと言ってくれる奥さんに感謝。今日は奥さん孝行しようと決める。が、流石、私。ま、上手く行かないわけだ。

            ◆

朝風呂に入って、昨日のことをあれこれ思い出し、自分なりに落としどころ、課題を考える。西川先生にも話をしたが、この「学びあい」を行うには、「語り」と「哲学」をきちんと持っている方がいいのではないかと思うのだ。

これは、「コミュニケーション」と「自分と人類が、生きて行くための基本的な考え方」と言い直しても良い。

教育は、「知識」に偏重していた時期があった。そして「技術」に傾いていた時期もあった。だが、これはどちらも大事である。傾くのではなくどちらも大事である。だが、さらに思うのだが「哲学」が大事になってくると、このごろ感じている。

「なんで教育をするのか。なぜ勉強するのか、させるのか。なぜ学ぶのか」

教師を目指すもの、続けるものは、これに自らの答えを出すことが大事になってくると私は思っている。だから、教育ってなに? 勉強ってなに? 学ぶってどういうこと?と学ぶ必要があるのだ。

朝風呂に入りながらあれこれ考えていた。

            ◆

昼過ぎから歯の治療に出かける。一時間ぐらい掛かるので、その間奥さんには四条の街を楽しんでもらう。

その後、上賀茂神社の境外摂社の大田神社に向かう。ここが奥さん孝行。
自生している杜若の群生が見頃になっているので、でかけたのだ。いやあ、奇麗。藤原俊成も「神山や大田の沢のカキツバタ ふかきたのみは 色に見ゆらむ」と詠んでいる。満足。

ではあるが、お腹がすいた。
食事の時間を逃してしまった。
なんとか美味しそうなラーメン屋さん「東龍」を捜して、食事。ふう。

            ◆

草津に行く予定をキャンセルして、結局自宅に戻る。
暑かったのでまた風呂に入りさっぱり。ほとんど水生生物のようである。

2007/05/12

車の中で吠える私

大学へは、昨日大学に残して行った車を拾うためだけに向かったつもりだった。そうしたら、私の研究室の前の教室で、教育実習に向かう四回生が自主的に「模擬授業」をするという。これは通り過ぎるわけにはいかない。二人の導入の10分を見る。そして、指導。まだ実習には時間があるので、大きな課題を与える内容で行う。しっかりな。

            ◆

窓を閉めて研究室を出ようと思ったら、中庭の禁煙場所で煙草を吸っているのを目撃。
(ったくもう、ここから注意か?)
とも思ったが、目撃しておいてスルーすのはいかん。五階から下に向かって
「そこは煙草を吸うところではないぞ」
と指導。あわてて消す学生。
指導への返事が適当な感じもしたが、あれだけ大勢の前で怒られているのだから、ま、今回は許す。

            ◆

午後から、樟葉西中学校の校内研修会に参加させて頂く。西川純先生が、講師をされる。無理を言って参加させて頂いた。研究授業を受けて校内研修会。いろいろな感想が出て、それを西川先生がバッサリと切りながら、学び合いの理論と実践について語られる。

おそらく、その場にいた先生方は目から鱗が何枚も落ちたことだろう。だって、今までの学習指導を根底から覆すわけだから。

樟葉西中学校の校長先生は若い。46歳で校長になられて今年50歳だとか。私も今までに敬愛できる校長に何人も出会っているが、初対面にしてそのオーラを感じさせてもらう校長先生であった。

校長になったらあがりで、その後自分が校長会でどのぐらいのポジションになれるかを考えるだけの校長もいるという噂を聞いたことがあるが、この校長先生は違った。前に進むことを求めている。それが分かる。

職員集団は、良い意味で
(この校長が言うなら、まあ、仕方がない、進むか)
という感じ。
それが研修会での質問の数の多さに現れていた。半分けんか腰の若手教員もいれば、熟慮の上言葉を選びつつ自分の今までの実践に寄り添いながら発言する先生もいた。そんな発言を引き出している西川先生、校長先生、そして職員集団。その瞬間にいる喜びをビシビシ感じていた。

その校長先生と西川先生が、研修会の最後でシンポジュームのように、または一対一でぶつかるように意見を交換し、授業というものの可能性を探っていた。とてもスリリングであった。

             ◆

校内研究会が終わってから校長室で歓談していたところ、その後の飲み会にもお誘いを受けた。
(いいんだろうか?)
と思いながら
(ありがたい)
と思って、喜んで参加させてもらった。

ウーロン茶5杯で楽しく食事。
お酒飲まなくても飲み屋で大丈夫なんだと初めて知った夜。

             ◆

そしてこの飲み屋で、歴史が動く瞬間に立会った。
こんなことなかなかないよなあと思いながら、
(うっしゃあ。授業だ授業。研究だ研究)
と一人盛り上がっていた。

             ◆

京都のホテルに宿を取った西川先生を車で送る。
全然アルコールは飲んでいないのに、ちょっと上気した私は何かに酔って感じであった。

勢いで、琵琶湖を見て頂こうと思った。
高速を降りて161号を走り、西大津まで足を伸ばした。
そして、人生初の琵琶湖に触って頂いた。
私の感謝の気持ちである。

            ◆

その後、駅前のホテルまで再び車を走らせ、お別れする。
なんとも充実した一泊二日であった。
「うっしゃあ。授業だ授業。研究だ研究」
と自宅に向かう車の中で吠える私であった。

2007/05/11

え、それを。うーん、私が? うひ〜

午前中、草津方面に向かう予定だったが凄い風と雨だったので、キャンセル。
家で仕事をすることにした。これがラッキーの始まりだった。

昼ご飯を食べてさらに仕事をしていたところ、奥さんが叫んだ
「虹!」
慌てて外を見ると奇麗な虹である。
強風と雨の隙間を縫って比叡山方面から光が射し、それが琵琶湖の上に虹を作ったのだ。しばし、見とれる。ありがたやありがたやである。

            ◆

夜はあるお方と会う予定になっていたので、車を家に置いて大学に電車で向かおうとしたところ、この大風で湖西線のダイヤが乱れているとのこと。

東京みたいに本数が多いわけではないので、乱れると大変。いつ電車がやってくるのかがわからなくなってしまい、山科駅からのバスに間に合うかどうかが分からなくなってしまう。

そこで、足を車に切り替えて大学に向かう。
夕方からの会議が二つ。重なってしまっているので全学的な会議の方から。FD委員会に参加。

大学教員は教員免許を持っていなくともなれる。研究業績で大学教員になるのであって、授業が上手いからなるのではない。しかし、大学教員の仕事は、研究、授業、学内行政、社会貢献の四つが求められていて、その中でも授業の占める比率は大きい。

授業方法について学ぶことなく、大学の講義を担当する先生たちの大変さは、新卒の先生と同様に厳しいものだと思う。少ししか力になれないと思うが、なんとか協力したい。

昨年度はそんなこともあって、大学で本学の先生方を対象とした「学生をひきつける授業づくりの基礎・基本」のような講演も行った。その時の様子が冊子にまとめられた。10部程度予備があるので興味のある方はお譲りします。まず、メールを下さいね。

            ◆

で、学科会議に10分だけ参加して、タクシーで山科駅に向かう。19:45である。20:00に待ち合わせなのだ。

なんとか間に合った。今日お会いするのは上越教育大学の西川純先生。出張でこちらに来ることが分かり、メールを差し上げたところ
「一緒に食事をしませんか?」
とお世話になっている先生からのありがたいお誘い。それで学科会議を失礼したのだ。

改札口を出たところで久しぶりにお会いする。私の髭があった時の顔が印象的だったようで、最初は違和感があったようだ。私は全く違和感なく先生とお話。大きな声で笑われる姿に、やっぱり親近感を持つ。

山科のいつもの店のYの方に行く。注文しようと思って、困ってしまった。いつも
『ん、何か頼んでくれ』
と学生たちに任せている店なので、何を頼んだらいいいか分からない。ひえ〜。知り合いの店員さんに
『すみません。うちの学生たちがいつも頼んでいるものお願いします』
なんて間抜けな注文をしてしまった。
西川先生、すみません。

            ◆

先生とのお話は、本当に楽しい。
あれこれと刺激的な切り口を提示して下さる。また、過分な評価を戴いたり、
「池田さん、もうあきらめて、次はこれをしなきゃ」
とこれから私がやらなければならない大きな課題も提示してくださる。
(え、それを。うーん、私が? うひ〜)
と思うような大きな課題である。

そして、何より心から喜んで頂いたことがある。
幸せだった。
そのことでもいろいろとアドヴァイスを戴いた。

気がついたら10時30分近く。
先生の明日のお仕事に差し障りのないように、切り上げる。
いやあ、良い時間だった。

            ◆

虹から始まる、良い一日だった。

Biwakoniji

2007/05/10

ロトのテーマ

旅に出たいと思う時はどんな時だろうか。

昨日の研究入門ゼミでは、ひょんなことからドラゴンクエストの話になった。今年の一回生はドラクエ的に言うと5の辺りだそうだ。

私は5は最後のボスキャラまでたどり着いたが、あのゲーム設定が許せず、倒さないままで終わっている。私にとってのドラクエは3と4だ。その4の第四章のラストシーン、双子の踊り子が港に走ってくるシーンが感動的なので、その話をする。

ま、この話はまたどこかで(というか、もう既にどこかに書いていると思うが)するとして、そのドラクエである。旅である。

            ◆

今朝方、「交響組曲「ドラゴンクエスト」ザ・ベスト」を聞いた。オープニングは、「01_序曲のマーチIV-OvertureVII-(VII)」もあるが、「ドラゴンクエストⅢ ロトのテーマ」(久石譲)が一番良いかな。

これを聞くと
(ああ、旅に出たい)
というか、
(旅に出なければならない。オレはこんなところにいては駄目だ)
という思いになる。

さて、今日はどんな一日を過ごそうぞ。

2007/05/09

水曜日は会議の日

水曜日は会議の日。
日本全国の学校という学校は会議だろう。大学とても同じである。なんで水曜日なのか、誰か調べてほしいなあ。

            ◆

午前中の研究入門ゼミの授業の後、学科会議、学生部委員会会議、教育実習対策会議、うんぬん・・・。と会議は続く。

これらの京都橘大学の会議に出ていていつも思うことがある。それは「なんとか学生を育てよう」という基本的な考え方で一致しているということである。私が出るどの会議でもこれを感じる。気持ちがよいし、こっちもやる気になる。

自らの研究で次世代に贈り物をし、授業を通して学生を鍛える。そのための会議である。疲れないかと問われれば、疲れると答える。しかし、それを上回る心地よさがあるなあ。

            ◆

さあて、会議も終わり、授業のまとめも終わったし、本を読むか。

ドミトリーにでも泊まって

で、昨日の学生との卒業論文執筆に関する会話である。

「先生、私まだ卒業論文のテーマが決まっていないのですが」
『ん、何かい。君は大学五年生までやるつもりなのかい?』
「いいえ、きちんと今年で卒業するつもりですが」
『その割にはまだテーマが決まっていないというのは、ちょっと遅いのではないかい?』
「いえ、まあ、その。いろいろとありまして」
『ま、なんとなくは分かっているが』
「それで、卒論なのですが、日本語と留学生に付いて書こうと思っているのですが、それについて何か良い本などございませんか?」

彼女は日本語教師を目指しているのであり、それについての卒論を書くつもりである。

『んー、どうだろう。京都には若者の外国人が世界各地からやってきて旅をしている.彼らが寝泊まりをしているドミトリーにでも泊まって交流を深めてくるってのは?』
「?」

んー、伝わらないか。

『あのね。もう一度、君が話したことを言ってくれる?』
「日本語と留学生に付いて書こうと思っているのですが、それについて何か良い本などありませんか? ですけど」
『そう。ここだ。ここが君の卒論のスタートになっているのだが、これは君は疑問を持たないだろうが、私は疑問だらけなのだよ。なんだか分かる?』
「?」

『君は、卒論のテーマとして、そう数ある卒論のテーマになる可能性のあるものの中から「日本語」「留学生」というキーワードを選んでいる。君に取ってはこのキーワードは自明のことであるな』
「はい」
『だがな、私にとっては疑問だらけなのだよ。なんで君が「日本語」「留学生」というキーワードを選んだのかが、全く分からない。卒業論文を書く時に、意識してかむ意識かは別にして、君たちは自分が選んだテーマを、相手は疑問に思ってくれていて当然という構えで始めるのだが、そこが駄目なんだな』
「・・・」

『君は既に、「日本語」「留学生」というキーワードの眼鏡でこの世の中を見始めようとしている。いや、見ている。しかし、私からすれば、君が見ているその世界は、極極小さな世界でしかない。なんでその小さくて特殊な世界に興味があるのかを、君自身が理解して、その理解したものを読者に伝えなければ論文は論文になりにくいのだ。少なくとも卒業論文はそこの作業が必要だと思うぞ』
「はあ」
『でだ。そのためには内省という作業が必要になる。自分の中を見て歩くことだ。それができると自分の問題意識が分かる。でだ。その内省のためには紙にマッピングで書き出すなんて方法もあるが、私は体ごとその環境に自分を投げ出してみるというのも良いのではないかと思うのである。そうすることでそこでの肌触りが君に内省を促してくれるんじゃないかと思うのだよ。それが、「ドミトリーにでも泊まって交流を深めてくる」ってことを勧めた理由なのだがな』
「鱗が数枚取れました」
『をを、そうか。良かった良かった』

            ◆

って、そりゃあいきなり「ドミトリーにでも泊まって交流を深めてくる」って言われても伝わらんよな、分からんよな。

でも、最終的には伝わったようで良かった。


佇む私

久しぶりに父親が夢に出てきた。
昨日メールを書いたからだろうか。

父は夢の中で神妙な顔をしていた。
そして、意を決したように私に何かを言い出した。

            ◆

「修、おまえには、・・・」

(な、なんだ。腹違いの兄弟がいるのか?)

「おまえには、本当の・・・」

(な、なんだ。別の親がいるのか。まあ、もうこの年になればそのぐらいはきちんと受けて立ちましょう)

と身構えたところ、

「おまえには、本当のキャベツがいるんだよ。ほら、これだ」

と、半分輪切りにしたキャベツを冷蔵庫から取り出して見せてくれた。

            ◆

(きゃ、キャベツ?)

さすがの私もどうリアクションして良いのか分からないままであった。

(「おまえには、本当のキャベツがいる」って言われたって、なんでオレにキャベツが「いる」んだ? しかも本当のキャベツってことは、偽物のキャベツもいるのか。そもそもなんでキャベツなんだ。確かにかの国では子どもはキャベツから生まれるという国もあるが)

            ◆

割と瑞々しい切り口のキャベツを見ながら、
(うーん、本当のキャベツねえ)
と佇む私であった。

今年初めてのジントニック

授業は一つだけだったのだが、疲れたなあ。
大学から帰るときには、水を貼ったばかりの田圃から蛙の鳴き声がする。これがこの疲れを心地よく解してくれるんだなあ。やっぱり、立夏を過ぎたら蛙の鳴き声だよな。

            ◆

今日の授業は国語科教育法1。国語の教師を目指す、または書道の教師を目指す学生たちが集まっている。これまでの授業は、授業を受けるための、または教師を目指すためのガイダンスをしてきたが、今日からは国語の指導の専門的な部分に突入である。

15回の授業で国語のすべてを語ることなんて出来ない。だから、私はこの授業では国語の教師になった時に直面する大きな問題に付いて、その指導方法に付いて扱うことにしている。すなわち、漢字、作文、読書、スピーチの各指導である。

学生たちが、この4つの内の一つでも、きちんと指導できるようになれば、学校教育現場に入ってからやっていく自信が持てると思うので、大きな四つの問題を中心に扱うことにしている。

で、今日は漢字を扱った。

            ◆

授業後、4回生が研究室に残ってあれこれと時間を過ごしていた。いつもなら、こんな感じにはならない。何か一人一人が言いたそうな雰囲気。
(なんだ〜?)
と思ってみていたら、いろいろと相談があるようだ。

教育実習が迫ってきていて、授業をする範囲が決まったことからその相談をしたい学生。また、卒論のテーマが今ひとつ決まらないでいて相談したい学生。このような学生が残っていた。それぞれにあれやこれやと話し、関連する本を貸し出したりして相談に乗る。

            ◆

それぞれの質問にヒントを与え、さあ、もう一仕事をして帰るかと思っていたところに、一回生が数人やってくる。「明日の教室」の申し込みをしたいというのだ。

そうかそうか。

で、いろいろと話す。夢を目的にして、目的をかなえるための方法についてである。

中学生に限らず、大学生であっても、自分を伸ばそうとする彼ら彼女等はいいなあと思う。

            ◆

琵琶湖に上がる花噴水を見ながら、今年初めてのジントニックを飲み、
(授業は良いなあ)
(伸びようとする学生たちはいいなあ)
と思う私であった。

2007/05/08

授業の感想に答える20から26

続いて、5/1の授業に関する感想への答え。

S1 小学校から今まで授業を受けてきた中でメモを取りながら受けるといったことはした記憶がない。しかし今日メモの意味について学んだことによって今までの授業を少しばかり後悔した。
“記憶ではなく記録”することで私も少しは“頭のいい人”に近づけたかもしれない。以後がんばる。
そして初めて聞いた言葉ではあるがノンリニアというものを大事にしたい。人間が人間であるBig Pointをこれからの世界を生きていく上で最高の武器にしたい。

T ノンリニアの発想を持てると、随分楽になります。私の経験上では、ノンリニアで出てきたアイディアは、かなり使えるものの場合が多いです。

S2 今日の授業の中で一番印象に残っているのが、「大人と子供では物の見え方が違う。それを伝えていうのが、教師の仕事だ」という池田先生の言葉でした。この言葉を聞いて、生徒の長所を活かすも活かさないも教師の腕次第だ、ということに気づきました。
知識のある大人が子供に教えることは簡単です。しかし子供が大人のことを考えることは、教師がその機会を与えてあげない限り自発的に行えるものではありません。「教える」ということは、時に子供の「考える」という能力まで奪ってしまう、ということを念頭におきながら授業に臨まないといけないのだと思いました。
かつての「頭の良い」とは、記憶が良い何でも知っている人という意味でしたが、今は「ナゼ」と問いをたてれる人が「頭の良い人」です。頭の良い人に一歩でも近づけるように、授業の中でひとつでも多くの「?」を見つけていこうと思います。
今日の「自主練習会」は5限に授業があった為、参加することが出来ませんでした。また次回「自主練習会」という形をとって頂けたら嬉しいです。

T 「「教える」ということは、時に子供の「考える」という能力まで奪ってしまう」とあります。まさにそうですね。子どもは「勉強する」と「学ぶ」の二つの活動をします。そこで教師は子どもが今はどちらの活動をしているのかを判断して、「教える」と「支援する」を使い分けます。これが出来るといいのですが、なかなか難しいんだなあ。

S3 「教師が枠を与えることで、子どもは安心して自由にすることができる」という言葉が印象的でした。
ただ「自由にしなさい」という指示を出すだけなら誰にでもできるし、それは学習にはつながらない。しかし教師が何らかの意図をもって子どもに枠を与えることで、初めて子どもの能力を引き出すことができるのだろうと思いました。
そして、「頭がいい人は、疑問を持つことができる人」ということに、深く同感しました。どんなことに対しても「疑いの目」を持ち、そして生まれた疑問に対してきちんと答えを見つける。このような子どもを育てることこそが、真の教育の意味なのではないかと思いました。

T 「教師が何らかの意図をもって子どもに枠を与えること」とあります。これを「活動の目的」と考えてみてはいかがでしょうか。

S4 メモの技法の話を聞き、「まず書きなさい」→「発表しなさい」という方法や、「思いつきメモ」の話が印象に残りました。
また、メモの種類の中にある、記録のメモ・思考のメモ・まとめのメモは授業を受ける上でとても重要なメモの方法だと思いました。その中で、思考のメモにある、「疑問や質問」は、頭のいい人=「なぜ?」と思える人に繋がる大きな鍵だとも思いました。
ただ授業を聞くではなく、先生の話に「なぜ?」と思えて、自分なりに「Q」を探していける思考力を付けていきたいです。

T 大学の授業は90分です。理想としては、5分に一つの「Q」がメモできると良いなあと思います。20個出れば見事です。

S5 今日の授業ではマンダラートが一番印象に残りました。説明を聞いたときは簡単そうに思えたのですが、実際にやってみると意外と言葉が思いつかなくて、予想より書けた言葉が少なかったです。自分にはあまり発想力や思いつきの力がないのだと知り少しショックでした。少しも考えることなく次々と言葉を思いついていかないとマスを全部うめることは無理なんだと思いました。


S21 今までは意識しながらメモをするのではなく、ただメモする、というだけだったように思います。そして、授業中、集中していたつもりでも、別のことを考えてしまうと「いけない、集中できていなかった」と思っていました。
しかし、それはいけないことではなく、集中しているからこそなるのだということには驚きでした。
自分は「メモを取る」ことに必死で「考える」ということが出来ていなかったように思います。
これからは、フとした瞬間の思い付きや疑問もメモし、後々に生かせるようにしたいです。
そして「コンピュータにできないことは考えること、疑問に思うことだ」と「記憶することではなく記録すること」ということばがすごく頭に残っています。
きちんと考えられ、記録できる人間になりたいと思います。

T ノンリニアの発想を封印して生活してきた人たちは、いると思います。ノンリニアの発想は、ちょっと間違えると不真面目に取られることがあるからです。トレーニングしてみましょう。この発想を使えないのは、人生の半分を活用していないことになるかもしれませんよ。

S6 私はメモを取るのがとても下手です。高校までは先生が板書してくれたことを写していて、大切だと思ったことを少しだけメモする程度でした。どちらかというと美しいノート作りということばっかりにこだわっていたと今になって気づきました。そのせいだと思うのですが、大学に入ってからのノート作りは最初は大変でした。板書をしてくれる先生は少ないから、メモを取ることがとても苦痛でした。自分の字が汚いとか読みにくいとか思いました。しかし、メモを取り、そしてそれをまとめる事は考える力になると思うと、先生の話したことに加えて、どんどん思ったことや急に頭の中に浮かんできたと思うことをメモしたいと思いました。まだまだメモの取り方は下手ですが、整理して要領よくまとめる力をつけていきたいと思いました。
また、私は先生の話を聞いているのに、なぜか皆と違うことをしてしまうことがあります。例えば今日の授業で『「きく」には3つあって、「聞く」と「聴く」とあと1つわかる人』と先生がおっしゃった時、私は「効く」と答えてしまった、ということです。もっと頭の中で理解する力をつけなければならないと思いました。

T その程度の間違いは、愛嬌です。大丈夫大丈夫。
高校までの授業では、先生は君たちが理解しやすいように概念を咀嚼し、構成し直して提示してくれます。板書にしても生徒諸君が分かりやすいように先生がまとめてくれます。しかし、世の中にあるさまざまな情報は整理されて提示されているわけではありません。バラバラにあるわけです。人にその情報を伝えるためには、そのバラバラなものを記録し、整理していく力が必要になります。そのトレーニングが大事です。
私の授業では、板書はほとんどしませんが、ナンバリングやラベリングなどを使って、話の構造は示しているはずです。ですから、「高校までの板書」→「私の話」→「世の中の情報」という風に位置づけています。これに時々ノンリニアな私の思い付きがスピーチに加わり、多少メモを取る側からすると混乱するという仕掛けになっているはずです。そういうつもりで授業をしているのだと分かれば、理解しやすいでしょう。

S7 私が今日の授業で一番印象に残ったのは、頭がいいってどういうこと?という話です。疑問を持つことの素晴らしさを初めて知りました。
人間は疑問を持つことができるがコンピューターにはそれができない、と池田先生がおっしゃった時、人間だけの特権を最大限に使わなければと思いました。ぜひ授業中のメモにQを取り入れていきたいと思います。
これからは話を丸飲みするだけでなく、疑問を持って勉強していきたいです。

T 今は「人間は疑問を持つことができるがコンピューターにはそれができない」であるが、これも可能になるのではないかと思っています。擬似的に疑問を持つというのは、もうすでにアイボで可能になっているからです。そこから先はどのような世界が待っているのか、私も興味を持ちつつ考え中です。

S8 今まで受けた授業のなかで国語科教育法の授業が1番メモをとっていて、1番頭に入りやすくわかりやすいです。疑問に思ったのですが、国語の授業の際、この授業のように先生が話すことを生徒に記録させ、板書はせず、次の授業の時にメモ(記録)をまとめたノートを提出させるというような授業方法は私達大学生だから成立するのでしょうか?やはり中学校や高校でこの授業方法をとるのは難しいですか?

T 可能です。むしろするべきだと私は考えます。ただし、いきなりは難しいと思います。中学校では三年間かけて少しずつ伝えて行きます。なぜ、このような方法をしているのか、また、どうやってメモを取るのかの両方を、少しずつスモールステップで行います。

S9 授業中にメモを取り、家に帰ってからノートにまとめるという作業は、大学に入ってからし始めました。記録を元にすると、授業中の記憶を辿りやすくてどの授業でもしています。が、思いつくことや疑問に残ったことはあまりないか、あってもそのまま通り過ぎてしまっています。マンダラート、イメージの花火で思いつきの力を鍛えたり、常に疑問を持つ心を意識していきたいと思います。
また、「頭のいい人とは」という問題も印象的でした。頭がいい、賢い、分かっていたはずなのに、その定義では人である必要はないと言われ、ショックを受けました。今日は、殊更考えることの多い授業でした。

T 君たちが社会に出るこの数年は、売り手市場の就職活動になるでしょう。その点ではラッキーですね。ですが、入りやすいということと仕事がしやすいということは別でしょう。あなたが他でもないあたなであることを、自分や仲間が理解して、社会から必要な人間になるためには、人類から必要だと言われる人間になるにはどういう学びをしたら良いのでしょうか。たまには、大きな問いを立てて考えてみるのも、大学には必要だと思います。

S10 「メモは記憶ではなく記録である」そのとおりだと思いました。もし、メモをとらないで話を聞き、記憶することに専念すれば後にどれだけのことを思い出せることができるのでしょうか。私は半分も覚えている自信がありません。記録し、あとで見なおすことによって考えることができるのだと授業を通して感じています。
でも、「話を聞くときは先生の目を見なさい」と言われたことがありました。先生の目を見ることで、話を聞いているという態度を示すことも必要だと思います。池田先生のように「前に注目するとき」「メモを取ることに集中するとき」など、切り替えを上手くしなければならないと思います。

T 子どもをよく見ることです。教師の出した指示に従って子どもが作業をしている時に、その指示を否定するかのような次の指示を出しては駄目です。これを続けると、子どもたちは、
(なんだ、指示はやらなくてもいいんだ)
と思うようになります。ひとつの指示は責任を持って出し、やらせきる。すると切り替えのタイミングが分かるようになります。

S11 今回の講義で一番印象に残っているのは、メモを取るということは記憶から解放されることだということです。ぱっと思いついたことを後でやろうと思っていてもすぐ忘れてしまいます。授業中に何かを思いついて書いておこうと思っても、その場に授業のノートしかないとメモするのをためらってしまいますが、なんでも書ける物があれば残しておくべきだと思いました。

T 人間のワーキングメモリーは大きくないので、このワーキングメモリーに短期記憶として情報を溜め込んでいると、ノンリニアな思い付きが出にくくなります。重たい荷物を持って旅をしているとき、珍しそうなものがあっても見に行こうとは思いませんが、手ぶらだと行ってみようと思うではありませんか。それと同じでしょう。
他にもメモを取ることは、意識や記憶を外化させることで短期記憶から長期記憶へと導くきっかけを与えることにもなると思います。

S12 私が今回の授業で印象に残ったことは、「20歳の時に考えた事は25の自分には書けない。」ということである。だからこそ、今疑問に思ったこと、感じることを記録していくのは大切なことだと思う。私は毎日ではないが、気が向いたとき、日記帳にその日感じたことを書いている。引き出しの中にしまってあるので、たまにしか見ないけれど、過去の日記を見てみると今の自分では考えないであろうことがずらずら書かれており、気恥ずかしさと共に自分の成長が感じられる。これからも是非続けていきたい。また、日々感じた事は手帳などになんとなく綴っておきたい。メモは些細なことでも、読み返した時、当時の情景が鮮明に思い出されるので良いものであると感じた。

S13 メモを取ることの大切さ。小中高と、私は「メモを取る」ことは授業の中でほとんどせず、書くことといえば板書内容をノートに写すことだけでした。私の知る限り、周りもそんな感じで、メモを取り始めたのは大学に入ってからでした。
でも、今日の授業で改めてメモを取ることの意味を再確認しました。
断片だけでもメモを取ることによって、その周囲の記憶が呼び起こされるのです。
また、意見を聞くときにまずメモを取らせてそれを読ませる。簡単なことだけど、とても有効だと実感できました。

T 今の学生が良いなと思うのは、ちょこっとしたことでもエクセルにメモしておけば、後で簡単に見ることが出来ることです。大事なことはメモしなくても思い出すかもしれません。しかし、ちょこっとしたことは忘れます。ちょこっとしたことはいいや、と思うのでしょうが、このいいやと判断しているのは、まだ勉強の足りない若い貴方です。そのいいやと思ったことが実はとても価値のあることというのが、分からないかもしれません。だから、今はメモをしておくのです。

S14 今日のメモの方法のうち、マッピングメモが印象に残りました。実は数日前、まったく同じ『イメージの花火』のプリントを見つけました。プリントの整理をしていたのですがそれを見つけた際、配布されたのが昨年度の特別活動論の授業だということはわかりました。しかし、いったいどこで使用したのかまったく覚えていませんでした。またそれを見てもいったい何の教材なのかも解らず、ノートを見ても解りませんでした。そして今日、その内容をメモの技法を学んで思い出しました。
 そのため、今日自分自身で『メモすること=記録・人の記憶を呼び覚ますもの』だと実感しました。また、メモをすることが日々身についてきたので、昨年度の特別活動論よりもメモの取る速さも早くなり、聞き取れる情報の量も多くなりました。続けることで身につき、自分の力になっていると感じました。
 また、「Q」を持つことの意味を再確認しました。このことも昨年度の先生の授業で教えていただいたのですが、その時の疑問や感じたことをメモすると教わり、それ以降何度か自分の中で意識してをいました。しかし、実際にはそれをすることはあまりなかったです。今日改めて、なぜ「Q」が必要なのかを知り、これからの授業に取り入れるようにしたいと感じました。

「きく」の違い 
聞く:hear:自然ときこえる
聴く:listen:まともに耳を向けてきく
訊く:質問をする

なぜ国語を学ぶのか?の問いに対して、「ことば(=超能力)を使って考えてみる・使ってみる・上手くなる(4月10日の授業)」と学びました。しかし最近私は次のようにも考えられると思います。特に古典に対してですが、やらなければならないと感じています。はっきり言って、現在、書道をやっていて私自身が必要だとも感じていることも原因のひとつですが、それ以前に中学・高校生でも必要だと感じます。
最初は、これから古典を学びたいと感じる人がいないから、学ぶ必要があると考えましたが、今は、古典への関心がなくなればなくなるほど、古典が必要だと感じます。例えば、パソコンが浸透したら浸透したほど、習字・書道などの手書きの良さが再確認されてきました。それと古典は同じなのではないかと思えます。
そういった時に、もし、古典を学ぶ者がいなかったら、古典は衰えていくだけです。今の若者の中には古典に関心のある子も少なからずいます。そういった子のためにも衰えさせてはいけないのでは…と感じました。
さらにそうすることによって、関心のなかった子に興味を与えるきっかけにもなると思います。

国語側から考えさせるためにはどうすればよいか?の問いについてはまだわかりません。これからじっくり考えてみようと思います。

T なぜ古典が大事なのか? これを小学校4年生にもわかるたとえ話を使って、話し言葉で説明できれば、あなたが本当に理解しているということだと思います。上記の文章は、ま、大人は(そうね)と思ってくれるかもしれませんが、子どもは(よくわかーんないー)だと思います。語れること。これが教師です。

S15 私はメモをとることが苦手です、
何故なら、メモであっても(きれいに書きたい!)という意識が働くからです。
だから、時には肝心なことを逃してしまいます。
それではメモをとる意味がないと感じます。

しかし、今日の授業を受けて、考えが少し変わりました。
記憶を引き出すために記録のメモをとるのなら、キーワードを押さえれば多少汚くて読みにくくてもいいのではないかと思ったからです。
そう考えられるようになったこれからは、どんどんメモをとりたいと思います。

(記憶の引き出しの取っ手は、自分で作らないといけない)と感じた授業でした。

T 文字を書くとき、奇麗に書いている人たち、書ける人たちは「奇麗に書かねばならない」という考えにとらわれがちです。ですが、状況によって変えればいいわけです。今は、スピード優先なのか美しさ優先なのか。使い分けが出来ると便利です。

S16 記録のメモは、最近少しずつ出来るようになってきたなと思います。でも、思考のメモはまだまだ出来ていません。というよりも、忘れてしまっていました。「なぜ」と思うこと、「こうだ」と考えること、それが人間をより人間らしく豊かに成長させるのかもしれません。
教育法の授業は、なかなか早くて「なぜ」と思う暇がないのですが、頑張って意識的に取り組んでみたいと思います。

T スピードの中で考えることもやってみてください。じっくりと考えなければ思いつかないというのだけでは、駄目で走りながら考えるということも出来るようになった方がいいですね。

S17 コンピュータと人間との違いで「人の心が分かる」について「勿論コンピュータはできない。人間とは違う」と言い切ったあと、先生に「本当に人の心がわかるの?」と返されてしまったときは、目から鱗状態でした。論文についてのお話も、卒論で悩んでいる今の私には目が覚める思いでした。
思考がひっくり返されたときは、本当になんというか世界がちょっと違って見えてきますね。先生の授業ではそれを毎回体験させて頂いています。
「なぜなのか」考えることは人間しかできないこと。国語を勉強する理由に繋がるように気がします。まだモヤモヤして掴めませんが、常に心において自分なりの答えを導き出せたらと思います。

T 大きな問いは心の中で持っていて、暇があれば取り出して考えてみるといいですね。そして、答えが出たら自分でも(本当か? 逆じゃないの?)と疑ってみることです。なかなかただひとつの答えというものは見つかりにくいし、おそらくいくつものの何ものかの間にバランスよくあるものが、大事なような気がしています。 

S18 今まで先生の講義を聞き、私なりにまとめてメモを取っているつもりでしたが、今日の講義を聞いて考えが改まりました。
疑問や思いつきは不意に頭をよぎっても今まで記録されることなく、頭を流れて行っていましたが、これからはきちんと記録していきたいと思います。
記憶の呼び覚ましや、思いつきがスムーズに出来るようこれから取り組みたいです。
また今回の授業で行ったマンダラードはとても面白かったです。漢字を考えてしまい、あまり数は書けませんでしたが、これがどんどん早く書けるようになったら嬉しいだろうと思います。

T 自分の思い付きを捨てるのがもったいないと分かってくれたのであれば、嬉しいね。他の人の考えも大事だけど、自分の中から浮かんできたものも大切にしてほしい。

S19 自分は日常的にメモをよくとります。
それは、学習的なことではなくても、約束や自分がしたいこと、スケジュールなど、忘れっぽいので、とりあえず、書きます。
今日、メモの話でメモは短期記憶の容量を増やす働きをしていると聞いて、なるほどと感じた。
メモを書かなければ、あいまいで変化しやすい記憶でしか保存されないので、その引き出したい情報を出力するときに不確かなものとなってしまう。メモを取ることによって、記憶でなく記録=事実として書き留めておけるので、出力する際、正確な情報を引き出せるので、思考や学習の手助けになると分かった。

T やりきったことを消して行く快感もメモにはありますね。

S20 自分の思い付きをメモしてあとでゆっくり考える、というのは昔の方が出来ていた気がします。特に高校までは、周りに不満ばかりあったので、そうやって自分の考えを膨らますのが好きだったのだと思います。
大学に入ってからは先生方の話すこと全てが珍しくて、聴き取ることと書き残すことが得意になりました。しかしその代わり、そういえば「考える」ということを全然しなくなってしまっている!と今日の授業を受けて気付きました。
先生の話が面白ければ面白いほど、ためになればためになるほど、意見を鵜呑みにしすぎて自分で新しいことを考えなくなります。もっと先生が言う事にも疑問を持たなくては、常に考える立場にいなければ、と思いました。「否定的な聞き方」は自分にとってしばらくの課題になりそうです。
前回からの声や板書で先生がおっしゃった「あえて書かない・言わない」ということがどれだけ大事か自覚できたし、「頭が良い人は問の立てれる人」と聴いて自分もそうなりたい!と思いました。
書く時間を与えてから発表させる、ゆっくり呼吸をしながら書写をさせる、などの池田先生の実践的なテクニックを授業で教えていただくたびに、思うことがあります。
「教師になりたい、子どもたちにこんなことを知って欲しい」と情熱的に思っていても、それだけでは駄目なのだな、「どう教えるか・どう授業を進めるか」の工夫を考えることが大事なのだな、ということです。
過去の授業で先生が「教師はプロデューサーでありディレクターだ」とおっしゃっていたのが思い出されます。教師の仕事が人相手なのだということをもっと意識して勉強していかないと、教育実習のときに気持ちだけ空回りしそうだと思いました。
今日の板書練習では、「自分の字はどうしようもない」と思っていたところから一歩抜け出せそうな気がしました。今下手くそでも、練習すればもっと上手くなれそうだ、もっときれいな字が書きたい!と気持ちが溢れました。
字は人に見せるものであること、「他者に向けて読みやすくわかりやすく」を大事に、地道に練習していきます。

T 「否定的な聞き方」とありますが、これは違います。「否定的な聞き方」ではなく「批判的な聞き方」です。「否定的な聞き方」は、(これは駄目だ。間違っている)と聞くことで、「批判的な聞き方」は、(これは本当だろうか?)と聞くことです。で、違っていれば正しいものを受け入れ、合っていればそのまま受け入れるわけです。
子どもに力を付けて上げたい。まずは、そう思うことです。そして、そのためにはどう指導したら良いのかを考える。調べる。考える。その繰り返しです。教育の世界では指導の技術について、未だに否定的な考え方を持つ先生もいますが、私は「思い」と「技術」と両方とも必要だと思っています。おいしい料理を作りたい!と思っているだけで出る分けない。技術も必要です。ですが、なぜか教育の話になると技術が軽視される傾向にあります。私は君たちにどちらも身につけてほしいと思います。

さてと、これでひとまず国語科教育法1、2の授業全体のガイダンスを終える。

30回の講座の4回、1割ちょっとを使って、国語の教師を目指す諸君にこの授業を受けるための基礎的な約束事や技術をガイダンスしたことになる。次週からがいよいよ国語科に固有な内容に入ることになる。

君たちは教師になったとき、このガイダンスで苦労すると思う。ガイダンスは、その授業の受け方を提示することで授業のルールを確立し、この授業を先生の言う通り受けて行けば力が付くと思わせられなければならないからだ。それも子どもたちに媚びることなく、教師と生徒としての適切な距離感を保ちつつである。

今、若手の教師が悩んでいることで良く聞かれるのが、この距離感である。友達感覚というのが「親と子」にしても「先生と生徒」の関係にしても良いような感じで広まっているが、これは非常に危険である。なんとなれば、「親と子」にしても「先生と生徒」は友達にはなれないからである。

大人である親と先生は、あるときは友達であるときは友達を止めることが出来るが、子どもにはこれが無理。一度友達になったと思った先生が、急に叱り出したり指示を出したりするようになると、子どもたちは
(裏切られた)
という気持ちになる。だから、距離感なのである。近くなったのは離れにくい。子どもに裏切られた感が残る。ある先生は「教師は子どもにとって優秀な上司になるべきだ」と言われたが、私は「憧れられる先達」というのも含めておきたい。

教育と言う営みは、長丁場である。少なくとも一年はその子どもたちを担当する。そんな営みに向けて、ルールを示しつつ学ぶ意欲を持たせ、ゴールの姿をイメージさせてというのが、授業のガイダンスである。じっくりとやるのが良いと私は思っている。

そんなものを踏まえてのガイダンスだったわけである。さすがに二十歳を超えた君たちと中学高校生へのガイダンスとは、私も多少やり方を変えた。簡単に言えば中高の方がもっと丁寧である。

諸君は中高の国語の教師になる。もっと丁寧に的確に子どもたちを国語の世界にガイドしていく力を身につけてほしい。

メモとして記しておく。

国語科教育法1、2通信『修学』NO21~NO27より

紙の上で推敲するのが正しい

経験的にそうだろうなと思っていることを、科学が証明してくれると嬉しい。

引用開始 ーーーーーーーーーー

http://www.asahi.com/science/update/0507/TKY200705070084.html?ref=rss

「やったー」細胞と「しまった」細胞 脳に別々で存在か

2007年05月07日19時18分

 脳には自分の行動が正しかったときに働く細胞と、間違ったときに働く細胞が、それぞれ別々に存在しているらしいことを、理化学研究所のグループがサルの実験で見つけた。将来、効果的な学習法の開発につながるかもしれないという。米科学誌ネイチャー・ニューロサイエンスで報告した。

 テレビ画面でサルに正解の図形を覚えさせたあと、左右どちらのレバーが正解か当てさせてみた。最初の1回は当てずっぽうでも、そこで表示された図形を見て選択が正しかったか誤っていたかを知って、2回目以降は正しいレバーを押すようになった。

 この間、おでこの内側にあって、行動の柔軟性と関係が深いとされる大脳の前頭前野内側部での神経細胞の活動を記録した。調べた約350個の神経細胞のうち、16個は正解が表示できたとき活発に活動し、別の32個は不正解だったときに活動していた。

 正解だけに反応する神経細胞は、左右どちらが正解かわかった後にはあまり反応しなくなった。正解がわからない課題を与えることが、脳細胞を活発に働かせるポイントらしい。

 理研脳科学総合研究センターの松元健二研究員は「学習効果を高めるには正解をほめるだけでなく、間違いを指摘することも大切かも知れない」といっている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

子どもたちにノートを取らせる時に、

「間違いは消しゴムで消しては駄目だよ。残しなさい。そして、正しいと思うものを近くに書きなさい」

と指導してきた。

子どもたちは、自分が間違っていたという過去を残すことにプライドが許せないのか、親に怒られるのが困るのか、奇麗なノート作りに関心があるのか、はたまた全部か、とにかく間違いをノートに残そうとしない。

間違いのないノートは、頭に残りにくいわけである。考えるという行為を刺激しないのである。

            ◆

と考えて、さてワープロはどうなるのかと思った。
手書きの文章の時は、あれこれ推敲の後が残った。しかし、ワープロであれば打ち間違いはその場で直され、さらに推敲のあとも(基本的には)残らない。

やはり一度プリントアウトして、紙の上で推敲するのが正しいのだろうな。
うむ。ひとつ勉強になった。

やはり人生は戦いである

うーん。研究の方にシフトしようと思うのだが、どうも授業の方に集中してしまう。正確には授業の準備だけどね。

だけど大学の授業は難しいなあと思うときがある。その根本原因は、授業時数が少ないことにあるように思う。

いま大学はどこでも授業に関してはシラバスを公開することになっている。私ももちろんそうしているが、この公開というのがなんとも。いや見られるのが恥ずかしいとかそんな中学生のようなことを言っているのではない。このシラバスが自らにかける拘束力がどうも居心地悪いという話である。

「学ぶとは、学ぶ前と後で自分が変化したことによってでしか証明できない」というようなことを内田先生は書かれているが、これはまさにその通りで、そうだとすればシラバスに書かれた通りにやるということは、自分が変化する先が見えるということである。これは学びではない。

だが、いまはこれを提示するのが基本。うーむ。

15回の国語科教育法1で教えられる内容を精選しても、教えきれないことがたくさんある。であるがなんとかやりくりをして15回に納めてある。そこに、学生の学びの様子を見ながら追加したり削除したりしながら授業をつくって行くのだが、授業字数が少ないために車で言うところのハンドルの遊びが足りない。

さあ、明日の授業も準備は出来ているのだが、これもあるものを加えたため、あるところにしわ寄せが来てしまうと言う結果になっているのが、すでに分かっている。だけど、これで行くつもりだ。

学生諸君、頑張ってくれ。

            ◆

最近メールを下さる方は、
「耳と歯とお大事に」
と一言添えてくださる。ありがたやありがたやである。

兎に角なんとかしてもらわなければと、歯医者に駆け込んだところ、これが取りあえず何とかなったのである。凄いなあ。これで明日の授業はなんとかなるぞ。

人生は戦いだなあと思う。耳も歯も大丈夫な人だってどこかに困っているところがあるだろう。私なんか能天気なので、自分の症状をたらたらと誰が見ているか分からないブログに書いているが、誰にも何にも言えずにただ抱えている人もいるだろうなあと思う。

もちろん、自慢じゃないが私にもブログに書けないことぐらいあるが(変な自慢だなあ)、なんとか戦いに挑んで行こうという意欲が保てるぐらいには毎日を過ごせているのだから、良しとしよう。

            ◆

と思って夕ご飯を食べたら、また歯が壊れた。
やはり人生は戦いである。
うむ。

2007/05/06

体の調子を整えるぞ

目覚めたら琵琶湖は雨に包まれていた。
いつもなら見える大津プリンスホテルも全く見えない。
なんというか、目の前がすべて雲の中に在るようでこれはこれでいいなあ。

なんとか工夫して朝ご飯を食べて、台所の片付け。
一気に洗いまくる。奥さんが拭きまくる。
現在食洗機を物色中だが、こういうのも良いもんだ。

            ◆

この数日で、第二回明日の教室の申し込みを戴いた方に、受付完了のメールを送る。今回は粘土の用意をしなければならないので、早めの申し込みが欲しいが、まだちょっとゆとりがある。参加を考えている方、お早めにどうぞ。自分の作品が北海道に1000年残るというのは、凄いことでっせ。

            ◆

伸び放題に伸びていた髪の毛を切ってくる。本当は東京で懇意にしている美容室でお願いしたいのだが、行く機会がなかなかない。このまま放置しておくと恐ろしいことになりそうだったので、大津まで出かけてカット。ふう。座ったとたんに寝てしまう。1時間半ほぼ寝ていた。

            ◆

帰ってきて何気なく久しぶりにテレビを見ていたら今村克彦先生が出演されていた。相変わらず良いコメントだよなあ。短時間でポイントを捕まえて、分かりやすく効果的に学校教育に付いて説明できる。それも、子どもの成長の事実から語ることが出来る。だから説得力があるんだよな。あの政治評論家の三宅さんも「良し」と評価するぐらいだ。

            ◆

その後、久しぶりに書斎にこもり、授業の準備に原稿書きなどを進める。学研の「NEW教育とコンピュータ」の連載7月号分を一気に書き上げる。一週間寝かせて原稿の粗熱を取って、編集者に送りましょう。7月号は6月15日発売ということで、新人の先生方に贈る「通信簿の書き方」である。一年目の先生、必読よ(^^)。

なんだかんだ言って教育の仕事が好きなんだなあと思う。この連休は15冊ぐらい本を読んだかな。それも楽しい時間であったが、そのアウトプットとして授業を作る。楽しいなあ。

全力でこの楽しさに没入できるように、体の調子を整えるぞと思う。

のんびりの一日

5/5

昨日は深い反省の後、大津市の牧場に行ったりして気持ちの良い空気を体に入れていた私であった。
青紅葉が本当に奇麗だった。Aomomiji


今日は、午後から雨が降るという予報だったので、午前中に動き出す。蹴上にある浄水場のつつじが見頃になり無料で見ることが出来る期間になった。これを見に行ったのだ。

ウエスティン都の駐車場に車を停めて歩く。かなりの人だ。
浄水場は思ったよりも広く、思ったよりも強い日差しで足取りも重い。だが、水を無料で配布してくれていて、これを飲みながら歩くのはなかなか良い。

浄水場で作った非常用のボトルの水をこういう時に無料で配ってしまう。備蓄の水があることを知らしめつつ、期限前に消費するというなかなかのアイディアである。

ツツジはものによっては満開。中には三部咲きも。無料開放は5/8まで。

            ◆

昼食をなんとか取ってから、草津市まで車を走らせる。調度品を探しにいくドライブである。まあ、日差しが強い。車外の温度を見てみると26度。ああ、夏日だ。でも、窓を開けて5〜6速で1500回転ぐらいでトルクを使って走るのも悪くない。

昨日、新型のThe New MINIのOOPER-Sとすれ違い様に挨拶をされた。そうか、もう新型が走っているのかと思いながら、やっぱりこっちの方が良いなと思った。当然向こうはこれがいいと思っているし、さらに昔のMINIでなければMINIでないと言う人もいて、実に面白い車だと思う。

            ◆

琵琶湖東岸のさざ波街道を、琵琶湖大橋まで走らせ堅田方面に抜ける。真野を流れる川に手作りの鯉のぼりが泳いでる。そうだ、今日はこどもの日だもんな。菖蒲湯を楽しもう。
歯のことを気にしながらも、のんびりの一日。

2007/05/04

反省

久しぶりに飲み過ぎた。
いかん。
歯の具合が悪いので、つい固体より液体に手が伸びてしまった。
反省。

             ◆

にしても、いよいよにっちもさっちもいかなくなってしまった。(をを、すごいぜんぶひらがな)
話すのが商売だからこれはなんとかせにゃあならん。

今日は休日診療をしてくれる病院に駆け込んで、痛みの原因を取り除いてもらったが、さて、火曜日の授業はどうしてくれよう。一切話さないでやる? そんなの90分は難しいよなあ。

でも、こうやってキーボードに打ち込みながら授業をするってのはありかな?うーむ。挑戦するか?

どうなる、オレ。

2007/05/03

論文とは何か?

今日の研究入門ゼミでは、ワークショップに入る前の時間帯で良い質問が出ました。君たちの時間割を配りながら、「そう、一年間で50単位も取るんだ」と話す一方で、(今日のワークショップは時間がかかるな)と思っていた矢先でした。

(これに答えるとなると、どうなるかな)と授業の時間配分を頭の中でもう一度一瞬でしなおして、(よし、行ける)と思ったので、説明を始めました。

その質問は、「論文とは何か?」です。

            ◆

簡単に言えば、論文とは
「自らが立てた問いがあって、その問いに自らが答えている文章」
のことです。定義は非常に簡単です。ですが、この「自らが立てた問い」は、今まで誰もが考えたことのない問いでなければなりませんし、同じように「自らが答えている」答えも、誰もが答えていなく、そして誰が読んでも(なるほど)と思える答えでなければなりません。

その方法を身につける一歩目をこの研究入門ゼミでは行っているわけです。あんだすたん?*1

            ◆

さて、今日のゼミはスピーチに質問するというものでした。質問には

A: 分からないことを聞く
B: 分かっていることを聞く

の二種類があることを確認して、小グループとなり「お国自慢スピーチ」をメモすることから、聞くことのレッスンを始めました。

お国自慢スピーチは、傍で聞いていてもなかなか面白いものが多く、特に美味しいもの情報に付いては私もつい質問してしまいました。

今回の質問では、

【〜と言いましたね。それは〜ですか?】

という型を意識して行いました。「〜と言いましたね」という部分は、「引用」(と確認)と呼ばれるものです。この部分がきちんとなされることが、質問ではとても大事です。君たちに毎週出されている本を読むと言う課題でも、引用から文章を書くということになっていますね。これは議論を組み立てるために必要な手続きなのです。考え方はどちらも同じです。

「〜と言いましたね。」と区切ることで、相手が「はい」と答えやすくなるので、会話にテンポが出るということを指摘しました。「〜と言いましたが、〜ですか?」と続けると、相手が「はい」と言えないので、場合によっては追及されている雰囲気になることも実感したのではないでしょうか。

            ◆

さらに、聞く側がうなずきながら聞くということが大事なことも理解できたのではないでしょうか。

会話は、質問をしている人、答えている人だけで作っているのではなく、それを聞いているグループの人も作っているのです。聞いているグループの人がうなずきながら、またはメモを取りながら聞いていると、話をしている人はとても話しやすくなるというのも実感できたのではないでしょうか。

これが「質問は、聞く側にも責任がある」ということの内容です。

            ◆

みなさんは、小学校の先生になれば班会議や、班長会、学級会などを指導することになります。どうやったら、気持ちよく会話が続けられるのか子どもたちに指導しなければなりません。

今日みなさんに指導した内容は、これらの指導方法のごく一部です。指導法の学びは始まったばかりです。

*1  もう少し詳しくレポートや論文の書き方を学びたい人は、『論文の教室 〜レポートから卒論まで〜』(戸田山和久 NHKブックス954)をお勧めします。非常に読みやすく分かりやすいです。

                               平成19年度 京都橘大学文学部
 児童教育学科Cクラス 研究入門ゼミ通信 5月  2日 「起筆」NO. 4 より

2007/05/02

学生たちはぐんぐん力を

うう。歯が痛い。
もう、絶望的に歯が痛い。
根本治療をどの歯医者でするか決めるために三つぐらい回っている。その間に限界が来ているのが分かる。根っこがヒビいってしまっているようだ。

なんかGWになると歯の調子が悪くなる気がする。じっくりとGWを楽しむことはできないなあ。今年はじっくりと根本治療をするつもりだが、スタートから難儀しているなあ。

            ◆

そんな私ではあるが、学生たちはぐんぐん力を付けているので嬉しく思う。

その1

先日、句会のDVDを収録したが、その時に俳句の指導を受けた学生の一人。
「先生、俳句が分かった気がします」
と言っていた。NHKの俳句王国に応募しては落選していたそうだが、その学生が昨日研究室にやってきて
「先生、やりました」
という。
『ん? 笑いながら怒るというあの技を習得したか?』
竹中直人の初期の芸を、授業の小技として指導していたのだが、それに真剣に取り組んでいた彼女だったので、そう聞いた。そしたら、
「違いますよ。NHKで紹介されたんです」
とのこと。

なんのことかと思ったら、NHKの俳句王国であの金子兜太さんに作品を選んでもらったというのだ。しかも、彼女は金子兜太さんが何もの課を知らない。ひえ〜、若いって良いねえ。怖いもの知らずだねえ。

一つの授業だけで変わるとは思わないが、何かのきっかけになったようである。
うれしい。

            ◆

その2

『チャンスなのにピンチヒッターって変じゃない?』
と私が顧問をする軟式野球サークルの学生に話をしたことがある。
『ここで一発打てば、勝つというチャンスの時に、なんでピンチヒッターなの?』
と話していた。

そしたら、
「池田先生!」
とグラウンドの遠くから走ってくる男子学生。
『なに?』
「先生、こないだ先生がピンチヒッターのことを話しているときに、近くで聞いていたんです。それで、(確かにおかしいなあ)と思ってあれこれ考えたんですけど、それって・・・」
と説明を始めた。そして、私が思っている仮説のことを話し始めた。それを受けてしばし野球に関する用語を通して文化論を交わした。
疑問をそのままにせず、考え続ける学生が教職を目指す学生にいることを嬉しく思う。

            ◆

その3

板書特訓を行った。国語科教育法の課題で毎週板書をさせているのだが、これが書けない。普段机に文字を書いているのとは、全く違う世界なのであるにもかかわらず、
(ま、ノートに文字が書けるのであれば、書けるだろう)
ぐらいに思っていて、板書の練習をしない学生たちが多い。というか、ほとんどだろう。

だが、教育実習前に黒板に書くのは難しいと分かっても、その時点では教育実習には間に合わない。これでは、生徒も学生も不幸なだけである。だから、せめて実習に行く一年前から板書の指導をしたいと考えていた。そして、毎週課題を出して書かせている。

ところが、この板書が根本的に厳しいと思われる学生が数人いる。そこで、
「板書の特訓をする。都合のつく人で興味ある学生は授業後参加するように」
と告知したところ、数人が申し込んできた。90分、自分の名前の漢字とふりがなについて特訓した。

分かったことが急にできるようになるということは、あまりない。人間は習慣の動物である。一つの動きを90分程度で根本的に変えることが出来るのであれば、おそらく人間は絶滅していたであろう。少しずつトレーニングを重ね

だが、指導した学生たちは、グンと上手くなった。素直って大事だなあと思う。また特別に指導してあげようと思う。

            ◆

歯医者の帰りにちょっと遠回りをして今宮神社に向かう。
歯と耳とその他諸々のことを祈る。

そして、例の岩を持ち上げる。
(あれ? 軽い)
初めて軽かった。
なんか良いことあるかも。

            ◆

満月。
琵琶湖にのぼる満月を見ながら、一日を振り返るのであった。

2007/05/01

授業の感想に答える13から20

なんだか半分意地になってきていますが、まだ書き続けます。

S1 生徒に見えるように書くポイントが分かってきました。今日、文章を前で書いたとき、まず間違えて写してしまった時点で論外なのですが、字のバランスの悪さと速さが特に気にしなければいけないポイントだと思いました。また、生徒への意識と板書の意識を6:4にしなさいというのも、板書がしっかりしていない今の段階では、どちらもできなくなってしまう可能性が大きいので、とにかく板書の練習はどんどんするのみだと思います。
それから、板書について質問があります。前回の詩の板書などのとき、私は「詩の一行を分けて書いてはいけない」と思って書きました。でも、一行をそのまま黒板に書いてしまうと、文字を下まで書くことになるので、生徒からは見えないと思います。こういった場合、どうしたらいいのでしょうか?

T 良い質問です。
来週授業中に質問し直してください。その答えは教室でやらないとやりにくいので、そこでやります。
そのとき質問がなければ、スルーします。

S2 今日の『走れメロス』の板書は、この前課題で板書したときと違って、後ろに何人もの人がいるんだ…という緊張感や、一番後ろの人までこの字で見えるのかな?と心配になりながら書きました。
そんな緊張感から、6:4の視線のことをすっかり忘れてしまっていて、実際の場面になったら、わかっていてもできなくなったしまうんだなと実感しました。
また、『話す技術』の中の、「話さない」というのは、私も生徒として前にいる先生が5秒も黙ったら、あれ?と思い、つい自分のしていたことを辞めて、先生の方を見てしまうと思った。それによって、生徒を自分に集中させるというのは、すごく活用的な方法だと思いました。 
生徒に自分でまとめる力をつけさせるために、「今日は、授業内容のキーワードだけ言っていくので、自分なりにまとめてみましょう。」と話し、まずは内容を生徒にまとめさせる。後日板書としてまとめたプリントをしっかり配布する。という授業をたまに行ったら、自分でまとめるという力が少しづつついていくと思いました。

T とても良い学びをしましたね。「分かると出来るは違う」ということを理解したことです。この差を埋めるのがトレーニングなんです。簡単に言うと練習ですね。教師はつい、
「分かったのなら何で出来ないの!」
と言いたくなるのですが、分かったって出来ないのが子どもです。いや、むしろ分かったことをちゃんとやろうとして失敗するのが子どもです。そんな子どもの前に立った時
「こら!」
という貴方が
(そうそう、そういうこともあるよね。これから鍛えるからちゃんと付いてらっしゃい)
という温かい目で見ているのか
(なんでこの子は分からないの)
という目で見ているかでは全く違います。
繰り返します。「分かると出来るは違う」。そして、その差を埋めるのがトレーニングであり、教師の指導なのです。

S3 今までの経験の中で板書をするのは限られた時しかなかった。チョークに種類があること、メモに種類があること、何気なく受けてきた授業に隠された技術をしっかり身につけたい。
私は教育実習に行くんだという意識をもう一度高め、練習に励みます。

T 物事には目的があり、目的があればそれを達成しようとする方法があります。良い授業をしたいと思えば、それを行うためにいろいろと工夫するわけです。その一つが板書であり、チョークであるのです。あれこれと工夫してみてください。

S4 『5秒間黙る』だけで、重苦しい雰囲気が流れ、威圧感がありました。
実際の授業でも先生が話さなくなった瞬間、生徒が黙るということは多々あるのでなるほどな、と感じました。
板書については去年はほとんどできなかった6:4の構えを意識してやりたいと感じました。
教育実習まであまり時間がありませんが、何度も何度も練習して、早く正確に書けることを目指します。

T 教師が黙ると子どもも黙り、いろいろと考えるものです。それも大事なんですね。しかし、教師はなかなか黙れない。空白、沈黙の時間が怖いのは教師なのかもしれません。黙るに挑戦してみることをお勧めします。

S5   今日の授業の中で一番印象に残っているのは、「分からない事を分からないと言う」ということです。先生も人間です。知らないことがあって当然だと思います。その「分からない」ことを「分からない」と生徒に向かって言えないことは、勇気がない自分自身の責任だと思います。
 重要なことは、「分からない」というその状況で、生徒に対してどう対応するかにあると思います。池田先生がおっしゃったように、「先生も分からないから次回までの先生の宿題な」と言い、「分からない」で済ませるのではなく、何らかの対応を教師側がするということです。
 その様に対処することは、生徒の不満を解決し、知識習得にもつながります。大切なことは、生徒に何を伝えるかということです。このことをつねに念頭に置きながら、これからの授業に望みたいと思います。

T 子どもたちは、学ぼうと努力を続けている先生たちは、受け入れます。成長するのが仕事である子どもたちは、成長に憧れています。成長し続けようとする先生を尊敬します。言葉では上手く言えない子どもも居ますが、そうなんです。先生にもわからないことがある。そして、その先生も学んでいる。学ぶ姿を見せることが、子どもの指導にはとても大事なんです。

S6 今日の授業で一番印象に残ったのは「話さない技術」と「書かない技術」のことでした。
今まで授業を受ける立場でいた時は、どうして先生はきちんと書いてくれないのだろう、急に黙ってしまうのだろう、と不満と疑問に思っていました。
しかし、それが実は私たちのためを思っての技術だということを知り、驚くとともに、教師というのは本当に一歩以上の先を読んで物事を進めているのだ、ということを知ることができたように思います。
他にも、板書する時の立ち位置や、視線の位置、チョークの種類についても、教える側に立とうとして改めて気付かされることばかりでした。
今後どんどん増えていくであろう、そういった事柄をひとつひとつきちんと身に付けていきたいと思います。

S7 今日の授業で、先生がXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)のにはびっくりしました。こんな風に生徒を驚かせ、楽しませて引き付けるやり方は、すごいし、真似出来たらなと思いました。
また、板書は立ち位置や文字の大きさ、書く速さなど、色んな事に気をつけてしなければいけないのだなと分かりました。

T 子どもの状態、授業の目的、教師の指導力の力量によって授業はさまざまに変化します。だから、いろいろな技術、いろいろな道具を持っていることは大事だと思います。教室の教卓の向こう側とこちら側では、おなじ教室でも全く違うんですね。

S8 あんなに太いチョークを見たのは初めてでした!
もちろんXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)先生を見たのも初めてです。
チョークに補助軸をつけて、書かれる先生はよくいらっしゃったのですが、チョークに種類があり、用途も違うなんて考えてもいないことでした。

教師になったら黒板全面に読みにくい自分の字が並ぶのかと思うと、今のままではだめだと感じます。
今日も早速、練習していましたが、なかなか思うように書けず、消してばかりです。
練習中に先生からアドバイスをいただいたので、心がけながら練習して、着実に上手くなりたいと思います。

S9 今日、『走れメロス』の板書をみていて、書き順が気になりました。
どの書き順が正しいのかわからなくなるのです。
それは、自分の書いている文字に自信が持てていないのではないかと感じました。
自分のやることには自信を持ちたいと思います。
そのために必要な努力は惜しまずに実行したいです。

T 「天才ほど努力をする」「自分に才能のあると分かっているものほど、自分を磨く」という言葉があります。悔しいけど事実です。天才が年間に100冊本を読むのであれば、私のような凡才は150冊、200冊と読まなければ太刀打ちできないと思うようになったのが、大学三年生の頃でしょうか。
いまその時の天才を上回るような私になっているかどうかと問われれば、疑問です。しかし、あの時の私と今の自分を比べてどちらが成長しているかと言えば、今の私だと言えます。
天才であれば努力をしています。ということは、努力をしていない人は天才ではないということかもしれません。であれば、天才になりましょうw。

S11 今日の授業で特に印象に残ったのは「老人ホームにいる老人は二種類の人間に分かれる」という話です。
子供の大人を見る観察力の鋭さに本当に驚きました。それと同時に自分は今、笑っている人間なのか怒っている人間なのか考えさせられました。明るく前向きに失敗をおそれず笑って生きていける人になりたいと思います。
子供は瞬時に教師の人間性を見抜くということを今回の授業で学び、子供を育てていく教師という仕事のすごさを改めて感じました。

S18 今日和歌を黒板に書いたのですが、自分の席に戻ってみてみると、思っていたより字が小さくて驚きました。これでは後ろの方の席の子が見えないなと感じました。見る側への配慮が欠けていたと反省しました。
また、筆順ですが、和歌を書いているだけで二度も指摘されてしまったので、日頃から気をつけて直していきたいです。生徒を指導することから考えると、最低限当たり前のことは当たり前にできるようになりたいです。
今日の授業で一番印象に残ったことは老人ホームでの『笑って過ごす人・怒って過ごす人』の話しです。ほとんどの人が人生の最後は笑って過ごしたいと願っているのではないでしょうか。ちょっと嫌なことがあっても、次には笑い飛ばすくらいの強さとおおらかさをもって生きていきたいです。人生は楽しく、そして自分に正直に。

T だからなるべく嘘をつかないで済むような生活をすることをお勧めします。子供は教師の失敗は許してくれますが、ウソは嫌います。ウソをついて指導していると、そのうち指導が入らなくなります。

S12 林竹二先生の朝礼の話から(池田注:これは蛭田先生ですね)『プロとは?』という題をもとに、ほんの数分で道徳の授業が出来るなんて池田先生はすごいなぁ…と思いました。ただでさえ国語の授業案を考えるだけでも一苦労だと思うのに、すごいです…。
国語の教師といえども担任を持てばHRもあるし授業以外のところでも生徒に指導する場が山ほどあるだろうし、どんな場面においても対応できる力が必要だとすごく感じました。そしてチョークを飴とかえて生徒を楽しませたりと、ちょっとした工夫で生徒の興味や関心を引き出せるような技なども池田先生の授業からたくさん盗んでいきたいと思いました。

T もちろん、その場で考えたのではなく、そのことを折に触れて考えていたから出来たわけです。義務教育の教師というのはしんどい仕事で、生徒に質問されたらとにかく何かを答えなければならないのです。それは自分の専門と違うとか言い訳は出来ません。そして、その答えは「先生が言ったから正しい」と子どもたちに理解されます。これに耐えられる力量をつけるには、本を読むのが一番だし、読まないでいて教師を続けられる程私は賢くはなかったわけです。

S13 『どのように書くのか』の話で、6:4ということでしたが、実際今日『走れメロス』を板書した際、実行することができませんでした。三分という時間制限に焦っていたのもあり意識できていなかったです。
でも、黒板に全ての視線をむけていると、どうしても自分と黒板だけの世界になってしまい、やはり言われたように書き終わるまでは生徒が取り残されてしまうと感じました。板書をしている間も休憩時間などでなく、授業時間の一部であるということを意識しなければと思いました。

T 一つ、板書をするという行為だけでも授業の中での位置や、授業そのものの重要性が見えてくると思います。授業を受けると、授業をするでは同じ教室にいて同じ時間を過ごすのでも、全く違うということが分かり始めてきたことだと思います。

S14 活下調音が楽しかったです。こんなに口にまわりが疲れるとは思いませんでした。言葉をはっきりと話すことは意識をしないと話せないなぁ、と思いました。普段いかに口にまわりの筋肉を使っていないかということを実感しました。
板書の字の大きさに目安ができたので次から書きやすくなるような気がします。書道という武器が生かせられるよう、チョークが筆のように使えるまでたっぷり練習したいと思います。同時に六四の構えができるように訓練したいと思います。やらなければならない事が多すぎてパニック状態です。
必ずXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)ネタを教壇に立ったらやりたいと思います。一気に生徒のアイドルになれそうです。

S17 今日、走れメロスを板書しました。3分という時間内に書くことができなかったし、6:4の構えを意識して書くこともできませんでした。席に戻って自分が書いたものを見たときに、行の歪みや自分の字が読みにくいこともショックでした。早く正確にわかりやすい字が書けるようにこれから本当にたくさん練習が必要だと実感しています。
あと、今日はXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)がとても印象的でした。そういうものがあることを初めて知ったし、生徒の前でXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)ときの反応がすごく見てみたいと思いました。

T 勘違いしてはなりません。教師が生徒のアイドルになる必要はありません。教師に必要なのはアイドルになることではなく、生徒を指導する力を持つことです。
確かに、XXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)をしてアイドルになれば指導が通りやすくなるということもあるでしょうが、そんなもの一瞬でなくなります。あっという間に手に入ったものは、あっという間に無くなるのが世の常です。じっくりと身につけたものは急には悪くなりません。
生徒の受けに力点を置いて、自らの指導力を高めることを怠れば、若さが無くなった時に、とても辛いことになります。
君たちがやることは、「濃く太く大きく」字を書き、「適切な声量、活舌、表現」で説明できる声を持ち、つまらないを面白くし、分からないを分かるに、出来ないを出来るに導く指導力を身につけることです。勘違いしてはなりません。

S19 「のど自慢に出演していたご当地歌手」の話が印象的でした。

1対1→全体というように視線と体勢を変化させることで、子どもの注意をひくことができる。池田先生に実演していただいて、納得しました。

自分が中学校や高校で受けてきた授業について、今まで漫然としか考えていませんでしたが、思い返せばそこには実に多くのヒントがあるのだと感じました。

T それが分かれば、学校教育現場に入ってボランティア等をしながら先生方がどのような配慮をしているのかを、少しずつ見ることが出来るようになって行くでしょう。
そして、その次は自分で出来るようになって行くためのトレーニングをすることです。

S15 今日の授業を受けて、板書は本当に難しいものなのだと感じました。
そして学校の先生があんなに細かく気をつかって板書をしているなんてぜんぜん気がつきませんでした。
思い返してみるとほとんどの先生は色分けを二色でしていたし、赤色は使っていませんでした。
様々な人が集まる学校ではあらゆる配慮や気遣いが必要なんですね。
先生の「板書はきれいな字で書かなくてもいい。読みやすい字で書け」という言葉を心がけたいと思います。

T 先生たちは、児童・生徒の個人情報を元にしてさまざまな配慮をしています。それは児童・生徒であるときには分からないのです。なぜならば、その個人情報が他の生徒に伝わることで、虐めが発生したり不利な立場に立たせてしまうことが内容にするために隠すわけです。
だから、教える側に回ると、その気の使い方に驚くことになるでしょう。赤のチョークを使わないなんてのは、ほんの序の口です。

S16 書くにしても、話すにしても、常に相手の気持ちを考慮することが最優先事項なんだと思いました。
授業はただ一時間ずっと先生が講演をする場ではないのだから、「確認」を怠らないことが大切なんですね。
また、あえて「話さない」「書かない」というのは、すごく難しい技術だと思いました。
板書の際の「6:4の構え」も難しそうですが、今回の課題から早速実践してみようと思います。

T 相手の気持ちを考慮するというよりも、現状を確認するというのが正しいかな。いま、指導の対象にいる子どもがどんな状態にあるのかを理解していないと、方針は立てられないし、指導もおかしなものになってしまいます。だから、子どもをよく見て理解することです。

S20 今日の授業ではチョーク一つ、板書の仕方一つでも生徒たちの集中を促す技術、方法があることを知りました。
自分の学生時代を思い返してみても、先生たちは板書の合間、私たちに背を向けていたことはほとんどなく、また背を向けた際には友人と話していたことを覚えています。
6:4の構えは意識が行かないとなかなか出来るものではないと思うので、漢詩を書く際に一度やってみたいです。
友人に先生から頂いたXXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)何だか変な感じがしました。

T 自分が生徒の時に、どういう先生の授業は集中していて、どういう先生の時はさぼっていたか。それをまず考えてみることです。別に怖い先生だけ集中(ま、この場合は緊張ですが)していたわけではないと思います。怖くない先生で、集中していた授業には何が隠れていたのかを考えてみましょう。

S21 今日の授業で二つのことが印象に残りました。一つ目は視線についてです。先生の目線に注意して見ていました。すると、Z目線になっており常に教室全体を見ていました。そのため、一瞬のあくびも直ぐに注意することができたのだなと思いました。
 また教卓に置いてある、本日の授業の指導内容のプリントを見る際も、顔は下げず、目線だけを下に下ろし一瞬だけ見ていました。私だったらきっとジッと見てしまうだろうと思いました。先生の凄さを垣間見た気がしました。
 二つ目は、声の向かう大きさの加減についてです。先生が声の向かう方向の違いについて実践してくれましたが、私が実践しても先生のようにならないなと思いました。今はまだ講義形式なので、先生が言うことのほとんどが知識として吸収していますが、自分がそれらをできるのかと考えるとまだできないものがほとんどだなと思います。なので、本当の意味で様々な技術・知識を吸収し、実践できるようにしたいと思いました。

T いやあ、出来ていてほっとしていますf(^^;。
この授業が私にとってしんどいのは、
(言っていることとやっていることが違っていたらまずいよなあ)
ということがあるかも知れないことなのです。
この授業では私が出来なかったことも君たちには教えるつもりでいます。オリンピックの選手を育てるコーチは、自分が現役時代に出来なかったことを選手に教えますよね。若者を育てるということは、自分に出来ないことであっても正しいと思ったことは教えるということでもあると私は思っています。ですが、あまりにも出来ないと子供は信じませんからね。
いやあ、良かった良かった。

S22 今日は帰ってから「笑いながら怒る」の表情を鏡を見ながら練習してみました。難しい。確かに難しい。色々試しましたが、何か企んでいるような恐ろしい顔になってしまいます。訓練しなければ…。
 板書については、やはり背の低い人は三脚などが必要なのですね。私は教師が三脚や踏み台などを使って書いたら、生徒たちは冷やかしそうだなと思っていたのですが、先生の「教師が一生懸命であればそんなことはない」という話を聞いてやる気が出てきました。
 読みやすい字で板書する、これから心がけていきたいと思います。

T そう、そうやってまずはやってみることが大事です。やることを強制する教師が、まずは自分がやってみることを習慣づけることが大事です。
「先生の「教師が一生懸命であればそんなことはない」という話を聞いてやる気が出てきました。」とありますが、これは基本的にはその通りです。ですが、中には笑う子供もいるでしょう。そのときは、思い切り怒りなさい。
「真剣にやろうとする人を笑うのは失礼だ」
とね。そこが怒れないと教育は成立しにくくなります。また、
「本人が努力すれば直るところを文句言うのは良いが、本人が努力しても直らないことを茶化すのは、人間として最低だ」
とね。でないと、クラスに真面目が育つ空気ができません。

S23 とても印象に残ったのは『立ち位置』でした。横の席に座る0さんに対し話す先生の位置の違いを見て、全然印象が違いました。又Sさんと話している先生の話し方は、先生もおっしゃっていたように七里さんと話しているのにクラス全体に話しかけているという印象を受けました。実習では少しでも違いを意識して行動していきたいと思います。他にも、Zの視線、全体に届く声を意識したいと思っています。
 『6:4の構え』も意識しないと忘れてしまいそう・・・。学んだことがどこまで実習で出来るかと考えると不安ですが頑張って来たいと思います。

T 課題はたくさん与えた。どーんとやっておいで。

S24 今日の講義を受けて、中学のときに弁論大会の練習中、視線について注意されたことを思い出しました。私は話すときにどこを見て良いのかわからなくて視線がきょろきょろしていました。それでは聞いているほうも落ち着かないし、内容も伝わりにくくなると言われました。
そこで先生から教わった方法が視線をZに動かすと言うことでした。実際にそうしてみると、聞き手がどのような状態で聞いているのかを把握できることができ、とても話しやすかったです。聞いていない人の注意を自分に向ける、というところまではできなかったのですが・・・。
話すということはその人の人間性が出ると言っておられましたが、その通りだと思います。技術ばかりでなく、自分の人間性も磨いていかなくては思いました。

T 「問うに落ちず、語るに落ちる」「うわさ話は、人のうわさ話をしているようでいて、実は噂をしている人の人間性をうわさしているのだ」ということです。厳しいですけど、私もその通りだと思います。

S25 「先生の話を聞く、メモを取る」という作業に慣れてきたせいか、授業がとても楽に感じました。90分の授業も長く感じず、時計を一度も見ることもありませんでした。私にとっておもしろくない授業は、時間が過ぎるのが遅く感じるし、とてもしんどいです。それに比べ、池田先生の授業は自然に集中でき、とても楽で楽しいのです。
私もこのような生徒にとって楽な授業ができたらいいなと思いました。

今日の授業で印象に残ったのは、「正直にわからないことは、わからないという」ということです。でも私はこれを聞いて、自分が「わからない事だらけの先生」になってしまうような気がしました。「わからない」と言う事を避けるためには、自分の持っている知識を増やさなければならないことに気づきました。

黒板の板書はとても難しいです。何回も練習が必要だと思いました。6:4の構えもうまく出来るように意識しながら、課題に取り組もうと思います。

T 教師になりやすい時代に君たちは生まれてきました。教師になるのが夢であれば、その夢は実現しやすい時代です。ですが、残念ながら学校教育現場は私が教師になった教師になりにくかった時代とは比べ物にならないほど厳しくなっています。
もし、君たちが本当に教師になりたいのなら、そして教師として仕事を続けて行きたいのなら、きちんとした基礎的な指導の力を学生時代に身につけなさい。そのための授業です。

S26 XXXXXXXXXXXXXXX(注:一子相伝の技のため、非公開)にとても驚いたのでとても印象に残っています。
板書って簡単そうに見えてけっこう難しいと思いました。チョークの使い方に早く慣れるためにたくさん練習が必要だと思いました。
教師が頑張って喋れば喋るほど子供たちは聞いてくれるのかと思ったけど、逃げていってしまう。しかし5秒ほど話さなかっただけで視線を集めれる。確かに今まで授業を受けてきた中で、先生が喋っていたのに急に話さなくなってしまったら「あれっどうしたんやろ?」と先生の方を向いていました。でも、先生の長い話を聞いているのはつまらないと思うことがありました。前回から学んでいる声の大きさや技術の面を研かないといけないのかなぁと思いました。「声」って難しい。何から何まで難しいことだからだけど、努力していこうと思います。

T 少なくとも国語科教育法1の最初の3回は、多くの大学では扱っていない内容だと思います。教科教育法の内容に入る前に、授業をする教師の体、基礎的な技法を確認しています。分かったらすぐにできるものであれば、教育実習の直前に指導します。しかし、そんな簡単に出来ないから教科教育法の内容の前に説明しています。君たちは実習までにまだ1年あります。1年あればなんとかなる、いや、なんとかしていく時間的な余裕はあるはずです。分かったら、つぎは「できる」あなたに成長してください。

S27 チョークの書き方ひとつにしても教師は注意しなくてはいけないんだなと、教師の仕事の技術の細かさを感じた。この生徒に気づかれない小さな技術の一つ一つが、教師にとって重要な仕事・技術なんだなと思った。
あと、板書で、気になったのが漢字の書き順でした。
私が習った時と、書き順が変更になっているものもあるときいたことがあるので注意しなくてはならないと思った。

T チョークの書き方などは、大したことないと思っている学生諸君が多いと思うのだが、やってみればわかるでしょ、その難しさと重要性が。教育実習に行ったとき、初めて教室に入り、黒板に自分の名前を大きく書く。この間1分間。この1分で
(を、この実習生は何か違うぞ)
と思わせることが出来るのが、板書の字です。
そこが勝負です。

S28 「マッピングメモ」がどんなものなのか、去年の夏期集中講義で教えてもらっていたにも関わらず、今日の今日まですっかり忘れていたことにびっくりしました。今までの三回分の授業、何の疑いもなく箇条書きでメモしていたのですが、次からは真ん中の丸を活用してメモを取ろうと思います。

教師が説明したがり、という話の中にあった「話したがっている生徒を見極める」ことに興味を持ちました。自分も先生に当ててもらいたがりであったり、先生が欲しい答えを考えたりする子どもでした。でもそればかりでは駄目ですよね。
勉強は誰かのためでなく自分のためにするものなはずです。そういうことも子どもに教えていけたらいいなと思います。

T 「勉強は誰かのためでなく自分のためにするものなはずです。」では不足です。これで教えて行くと世の中はますますおかしくなります。私は
『勉強の「できる」諸君。もっともっと勉強をしてください。君には勉強に向いている才能がある。そして、その才能を社会を良くすることに使ってください。君が社会を少しでも良くすることが出来たのなら、君は本当に勉強ができると認めましょう』
と話していました。自分のためだけにする勉強なんて、自己中じゃないですか。自分が生きている社会、これから生まれてくる人類が活躍する社会を良くする。そのための土台を作る。これが勉強の醍醐味でしょう。人間にしか出来ないことです。

とまあ、いろいろと感想に対する私の考えを書いてきているわけである。納得する部分もあるだろうが、違うんではないかと思う部分もあるだろう。それは全く構わない。いや、むしろ違うと思う不部分があるのが当然であろう。それは君たちの若さと私の経験の差であろう。

私は君たちに、
「若者よ、生意気であれ。そして謙虚であれ」
という名言を贈りたい*1 。

だいたいからして10年、20年経験してみてやっと分かることだってある。私が学生時代、または新卒の頃に考えていたことと、今の考えが全く変わってしまったことも珍しくない。
(ああ、見えていなかったなあ)
と思うことだ。

しかし、その一方で小学生の頃に感じていた大人のおかしさ、先生の授業の下手さなどで、いまだに(あれは先生がおかしいだろう)
と思うものもある。

つまり、経験がないと実力がないと見えない世界がある一方で、素のままで感じられることがあるということである。

(んなこと言ったって、池田先生間違えているんじゃないの?)
と思うことがあるのなら、君たちは自分で代案を考え、その考えの元に学問を進めれば良い。それが「生意気であれ」の意味である。

そして、
(でも、ひょっとしたら私が間違っているかも)
と聞く耳を持ってその方向でも学問をしてみる。これが「謙虚であれ」の意味である。

その比率はその人の性格やら、学んできた事柄によって違うのだろうが、どちらも持つことが大事だと私は考えている。

*1 もちろん私の作った名言である。

国語科教育法1、2通信『修学』NO14~NO21より

久しぶりに、あの悪夢

ぬああああああぁ。
久しぶりに、あの悪夢を見た。
テストの悪夢である。
4時に起きてしまった。

遠藤周作さんは、50歳を過ぎても入試で落ちた夢を見続けていたが、私の場合は入試ではない。出題ミスである。

テスト問題を作る。
モニター上で確認する。
印刷をして確認する。
試験問題を解答用紙に解いてみて確認する。
点数を合計して確認する。

とまあ、このステップのどこかで間違いは発見されるのだが。忙しい学校教育現場である。このうちのいくつかが抜けることがある。
また、どっかで
(このテストは合っている)
と思い込んでいるので、チェックも甘くなりがちである。

それで、試験が始まってから
「先生、この問題おかしくないですか?」
と質問を受けることになる。
そして、その質問はほとんど私の出題ミスである。

いや〜な汗が出る。
大体夢はこのいや〜な汗が出た辺りで、目が覚める。
今朝は4時だった。
はあ、でも良かった。

            ◆

それなら過去に作った試験問題を使えば良いじゃないかという話もあるが、私は学校教育現場にいたときは一回も同じ問題を使い回したことはない。理由は二つ。

1)授業が違う、子どもが違う

同じ単元の同じ教材を扱っていても、授業が違い、子どもが違う。だから同じような問題は作れても、過去の問題を使うってのは難しいと思ってきた。

2)情報量の格差が出る

それは商売だからしょうがないのだが、地元の補習塾では地域の学校の定期考査の問題をストックしてあり、テスト前になると「○○先生の中2一学期中間のテスト問題」として配られるのである。そして、対策も行われるのである。

こうなると塾に行っている子どもと、行っていない子どもに本人の努力とは違うとことで差が付いてしまうことになりかねない。だから、同じ問題は使わないと決めたのである。

            ◆

今年教壇に立った新人の中学高校の先生たちよ。
そろそろ中間テストを作りはじめる時期だね。
私のようにうなされないためにも、GWの一日を使ってテスト問題を作り始めた方が良いですよ。

もう一つの文章修行

今日も早起きの私。もう、5時台に起きるのはデフォルトになっている感じ。日の出とともに起きる生活。ああ、20年前の私に言って聞かせてあげたい。

その1「日の出とともに起きる生活は気持ちいいぞ。なんだ、日の出とともに寝る生活しておってからに」
その2「いいから、今生活を続けてろ。黙っていてもその内に日の出とともに起きる生活に変わるから」

さて、どちらを言うかな。ま、その2だろう。

            ◆

読書三昧の連休をしようと思っているが、今日は原稿を書いていた。
ゲラのチェックである。私が話した内容をライターさんが原稿にしてくれたものをチェックする。

このところ、話した内容をライターさんがまとめて文章にして私がチェックと言う原稿が増えてきた。
(へえ、そうやって原稿って作られて行くの)
という感じである。

だって、今までは
(ここに句読点を打ちたいが、そうすると行が変わるときに単語がちょん切れてしまうから、最初にこっちの漢字をひらがなにひらいてと)
のように限られた時数の中で自分で工夫をしながら文章を書いていたのだから。

            ◆

テープ起しをするライターさんの場合は、まるで私が書いたかのような文章に仕上げてくれることが多い。先日も大学のFDとして行った講演を扱ってくれたライターさんの文章は、まるで私が書いたかのようなものであった。きちんと録音して書いているんでしょうね。

しかし、そうではないライターさんもいる。ライターさんの言いたいことが先にあって、私の言いたいことをそこに入れ込みたいと思っているかのようなライターさんの場合、出来上がった文章は
(これ書いたの誰? オレの考え方に似ているけど、オレはこんな風に書かないしな)
と思うような文章になることが多い。

こうなると、結構大変である。何処がどのように私が納得しないのかを説明できるように考えながら、文章に手直しをして行く。場合によっては自分で全面的に書き直してしまう方が楽なのではないかと思う時もある。

            ◆

しかし、それはしない。
どこがどのように納得しないのかのやり取りをすることが、私の勉強にもなるし、そもそも私がこのようなまとめをする話をライターさんにしているわけでだから、私の説明の弱さがあるのだと思う。

一人のライターさんは、私の最初の読者である。この人に伝わらないような話し方、文章のありかたであることは私が力不足だ。
(んーっと、えーっと)
と書き直す私であった。

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