« メモの効用 | トップページ | 嬉しいことがいくつか »

2007/05/16

学ぶ主体に育つ

さて、諸君には昨日の授業の感想として、二つの課題を与えた。

1)授業の感想
2)授業に関する疑問

である。

私は言いたいことが二つある。
一つ目は、構成の問題である。課題として1)〜、2)〜という形で掲示版に書くことを指示してある。しかし、君たちの掲示版の書き込みを見ていると、この形式になっていないものを散見する。
授業では、ナンバリングとラベリングを教えた。これは知識として持っていろというものではない。使うものとして教えている。

君たちは、書けば読んでもらえると思っているのではないだろうか。それでは駄目だ。読んでもらいやすいように書くことを心掛けなさい。文章を読む側に回ると分かるが、読み手のことを考えて書いている文章と、そうではない文章の差はとても大きいものと感じる。書きなぐったような文章というのは、ワープロであっても分かるものである。

そういう文章は読まれなくなる。書きなぐりの文章を書いている人は、少しずつ、本当に少しずつ読まれない文章を書くことを「身につけて」いくことになる。そして、それに気がついた時には、それを取り返すには、ほとんど不可能なくらいの膨大な時間と努力が必要であることにも気がつくのだ。

         ◆

二つ目は、学ぶということに付いてである。疑問を出せば、先生が答えてくれると思い込んでいる諸君はいないか? それは高校生までであり、大学生になる、教師になる諸君は、自らその疑問に答える姿勢を持っていなければならない。

「論文とは、自らの疑問に自らが答えることだ」と教えた。疑問を持てば誰か、多くの場合は仲間や先生が答えを教えてくれるものだと当たり前に思い込んでいる、そんな体になっていないか? 
自らの疑問を自らが調べたであろうか。
例えば、「接続詞の種類は何種類あるのでしょうか」という疑問が多く出された。この疑問であれば図書館に行けば15分も掛からずに答えは出る。いや、本格的にやろうとしたら、1時間では終わらないかもしれない。でも、ちょっと努力をすれば答えは出る。これを先生から教えてもらうのを待つのか、自分で動くのかでは、天と地の違いがある。

例えば、「似ている接続詞の使いわけをどうすればいいのか」という疑問も多く出た。さて、矢野茂樹 『論理トレーニング101題』産業図書は注文しただろうか? 課題のプリントには「<以下の練習問題、ならびに先週の宿題プリントの練習問題は、野矢茂樹『論理トレーニング101題』(産業図書、2001年)より採ったものです。論理的思考を鍛えたいと願う諸君は、夏休み前にこの本を熟読しなさい。トレーニングなのでやればやっただけの効果があがります。>」と詳しく書かれている。

例えば、「先生が今知っている事はどうやって学んだのか。教科書に書いてあるとは思えない」という疑問があった。これに対応するには、二つの方法がある。一つは想像することで、一つは直接聞くである。前者は、格好良くいえば「仮説を立てる」という言い方になるかもしれない。これはこれで大いに「あり」である。仮説を立てて、検証することで学問は進歩して行く。後者は仮説を立てたあとに、本人に聞ける場合は聞くってのがいいだろうなあ。
 
         ◆

たとえば、(私が事務局をしていて、児童教育学科の児優館を使って行う7/7に研究会の講師で来てくださる)佐藤正寿先生は、先生のブログで「気になることば」というテーマで、なんと接続詞の「なので」について書いていらっしゃる。http://satomasa5.cocolog-nifty.com/jugyo/2007/05/post_84d6.html
そして、気になったということでさっと調べているのが分かる。日本の最先端の先生であってもこのように時間のない中で日々努力をされている。(いや、日々努力をされているから日本の最先端の先生になったという言い方も出来るが)

         ◆

一週間経った今、図書館に行ったであろうか、本屋で手に取ってみただろうか、買っただろうか。
君たちは自分で、学ぶために、そして先生を目指すために京都橘大学文学部児童教育学科を選んだはずだ。

教える主体になるということは、実は学ぶ主体になるということであり、繰り返し言うが自らの問いに自らが答えることが論文を書くと言ういうことである。四年生になれば急に卒業論文が書けるという根拠のない甘い幻想は持っては行けない。いまから少しずつ、自らを学ぶ主体に作り上げて行かなければ、間に合わないのである。

         ◆

さらに、人間は感情の動物でもある。これだけ丁寧に資料の取り方、学び方を説明されていてそれを無視するような諸君であれば、
(ま、この子たちはいいか)
と思われることもあるだろう。そして、その情報にリンクした、またはリンクしようとした学生にもっと指導をしてあげようと思うこともあるのではないかと思う。

君たちからすればちょっと長生きしている私は、人間関係の中に流れてくる情報を手にしないのを非常にもったいないと思う。君たちの目の前には、さまざまな縁が通り過ぎて行く。それをちょっとでも手にするか、それとも全く気にしないで行くかというのでは、大きな違いになる。

         ◆

折角なので、「先生が今知っている事はどうやって学んだのか。教科書に書いてあるとは思えない」にちょこっと答えておく。
私は、学生時代には塾でアルバイトもしていた。その当時、一緒のチームを組んでいた先生たちは、みんな大学院生。学部生は私だけであった。

週に三回の授業が終わると毎回食事に行き、その食事が終わると近くの先生の家に行ってあれこれと談義をした。
「いやあ、あの村上春樹は良かったよね」
「そうだね。あれは〜で××だよね。で、池ちゃんはどう思う?」
『え? そうですねえ。私も〜で××だと思います』
などと答えてみるが、実はそんな本は読んでいない。それで次の日に本屋に走り、本を購入し読みまくる。で、次の日に
『あの本は〜で××ですけど、○○な面もありますね』
なんて言いながら乗り越えて行ったわけである。こういうのを「泥縄式」と呼ぶ。もちろん、良い表現ではない。だが、これを二、三年も続ければそれなりに力が付く。

「仲間、読書、議論」これがポイントだね。

         ◆

私は、この二つについて諸君に「一回、教えたんだからできるだろ?」という姿勢を取るつもりはない。メモの取り方だって、「たくさん書きなさい」という指示を出して、メモを取る課題を15分という時間で区切ってやったところで、取れない学生諸君がたくさんいたね。

「教えたら出来る」。こんな簡単だったら教師は要らない。人間はそんなに簡単ではない。「分かると出来る」の間には大きな隔たりがあるのだ。だからことある度に教える。しかし、君たちはそれに甘えてはいけない。分かったのなら、出来るように努力をしなければならない。訓練をしなければならない。分かると出来るの間にある隔たりを埋めようとしなければならない。

君等が先生になった時、おそらく子どもたちも同じように「分かっても出来ない」状態であることが多いだろう。その時に、「なんで君たちは出来ないんだ!」なんてことをいう先生になってほしくはない。なってはいけない。

出来ないから子どもなのだ。それを出来るようになりたいと思っているのが子どもなのだ。だから、そこに手を差し伸べて出来るように指導して行く。これが先生なのだ。

         ◆

だが、君たちは大学生だ。手取り足取り教わるのではなく、自ら学ぶことを身につける必要がある。

この文章は、5/10に書いている。来週の5/16の授業で君たちがどれだけ自らやっているか確認してみたい。

どきどきするなあ。

研究入門ゼミ通信「起筆」NO.7,8

« メモの効用 | トップページ | 嬉しいことがいくつか »

コメント

サトマサです。例に出してくださり、ありがとうございます。疑問に思った言葉はよく調べます。今日は5年生の学級に入って、「コシヒカリ」の名前の由来は何か?とふと思いました。調べたら、予想は全く違っていました。
それにしても、このような通信を読める学生さんたちは幸せです。私も教科通信を出してみようと思いました。

コメントありがとうございます。京都橘大学の児童教育学科の学生たちは、熱心に前向きに取り組もうという姿勢があるのですが、一部に、純朴に「大学に入れば良い先生になれる」と思い込んでいる学生もいると感じています。

当たり前ですが、
「努力すればうまくいくとは限らないが、うまく人は必ず努力をしている」
ということを具体的に指導したいなあと思っています。「待っていれば、教えてくれる」それは大学生の姿勢ではない、分からないことを見つけ、自分で仲間と解決の道を探る。これをさせたいのです。

そのため、私もあれこれ考えていますf(^^;。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« メモの効用 | トップページ | 嬉しいことがいくつか »