« 自分の中をくぐり抜けた感想 | トップページ | オーダーメイドのレッスン »

2007/05/31

感じたことを考えたことへ

研究入門ゼミを終え、ぽつぽつ届く君たちの感想を読みながらつらつら考える。
(今日の授業はどうだったのか、来週の授業をどうしようか)
の二点である。

           ◆

学ぶとは、未知なる状態へ自分を投げ出し、学ぶ前と学んだ後で自分の変化があることをいう。授業の感想文は、君たちが授業を受ける前と受けた後での変化を気づかせる目的もあって書かせている。

そろそろ変わって行くかなと思って少し期待を持ちながら読んでいるのだが、まだ、変わらない。前期の研究入門ゼミも半分まできたので、待つのをやめて少し書いておこう。

君たちの感想文は、思ったことをポンと書くだけの感想文が多くて、はっきりいって面白くないものが多い。

学校教育と言う場は、特殊な場でそこで学んでいるものは平等に扱われる。つまり、どんなに詰まらない文章を書いても、読まれるのだ。いま、私は全員のを読んでいる。しかし、世の中は違う。

面白い文章、センスのある文章、ためになる文章、読みやすい文章、読まなければならない文章。これらだけが読まれるのである。

           ◆

私が読んでいていて面白いと感じる文章は、「自分の中をくぐり抜けている文章」である。

たとえば、それは私が授業中に出した小さな疑問について、自分で調べて答えを出したものでもいい。または、こうしてはどうだろうかとした提案を実際にやってみたことでも良い。さらに、私の考えに自分の考えをぶつけて、違うのではないかと疑問を提出するものでも良い。

名刺を作ろう、靴のつま先を前に向けて入れてみようなどいくつかの、小さな提案をそれぞれ理由を付けて話して見ている。くだらない、ちいさな提案である。だが、それをやってみて感想文に載せることが出来ているものは、面白いなあと思う。仮に、「意味がない」「つまらなかった」でも、これはこれで面白い。

一方で、これは脊髄反応か?と思うような簡単な反応。つまり、あなたが書かなくても誰かが書くであろう反応、感想を書くような感想文もある。ここういう文章を書き続ける人は、やがて誰も読まない文章を書くことになって行くだろうなあと思う。

感想文を求めているが、そろそろ感想から思考へと文章が深化していかないかなと思っているのだ。

           ◆

教師は、基本的には「関わっている相手を良くしよう」と思って行動する。だから、自分の今まで経験や考えで、こうしたらいいと思うことを言う。

この時に、諸君は素直に受け入れるべきである。
君たちには「生意気だが、謙虚である」ということを求めた。それが若者だと思うからだ。同じように「素直だが、批判的思考は持っている」という諸君でもあってほしい。

なんか矛盾しているなあと思うだろうが、人間とは矛盾している存在なのだ。君たちが教師になると、また親になるとわかることがある。

「この子のためになら、死ねる」
「この子のために、死ねない」

という矛盾した思いである*1 。

*1 内田樹先生の名言である。

           ◆

君たちは、何かの縁で京都橘大学の児童教育学科の一期生になり、しかもCクラスとなった。その授業担当者が言うことを、取りあえずは素直にやってみることである。そして、その上で批判的に考えるべきである。

まずは受け入れるべきである。なぜならば、君たちはその受け入れるべき内容の価値を理解しきれていないからである。

北海道の中学校国語の教師で畏友の堀先生は、このことについて、以下のように説明している。

「先生、なんで勉強しなければならないのですか」
『お前は、かけ算の九九は大事だと思うか?』
「はい」
『何年生の時に習った?』
「小学校2年生ぐらいです」
『その時は、大事だと思ったか?』
「え?」

つまり、学んでいる時にはその大事さが分からないことがあるのだ。嘗ては、先生がやれと言えば子どもたちはやった。怖いからやりました。親もやれと言うからやりました、誉められたのでやりました。みんながやるのでとりあえずやっていましたなど、いろいろな理由があるが、多くの子どもが結果的にやっていました。

が、いまは、
「私は納得しないからやりません」
とやらない子どもが増えている。

まてまて。成長する前の人間が成長した時に理解できる価値観を理解できるわけがない。納得しないからやらないなんていっていたら、いつまでたってもできやしない。そして、気がついた時には圧倒的な差がつくのだ。

学ぶとは、未知なる状態へ自分を投げ出し、学ぶ前と学んだ後で自分の変化があることをいう。そうだとすれば、納得できない状態は未知なる状態であり、不安な状態である。この状態に自分を投げ出すのは、人間の本能として怖いと感じる部分かもしれない。

しかし、ここを乗り越えない限りは学びは成立しないし、学びの向こう側にある、成長やら喜びやらにもたどり着けない。

だから、大人は
「先生がやれと言えばやりました。怖いからやりました。親もやれと言うからやりました、誉められたのでやりました。みんながやるのでとりあえずやっていましたなど」
手を替え品を替えやらせていたのです。

           ◆

とくに、毎週毎週感想文を求めているわけで、ここで君たちに感じたことを考えたことに高める機会を用意しているつもりでもある。

携帯電話からの書き込みは、通学時間の長い君たちに取って便利であろうという思いもあって、この方法をやっているが、ひょっとしたら考えない諸君を育てているのではないかとも思い始めている。

あの連想単語検索機能だ。打ち込むのではなく、今まであった単語を選んで並べるだけの機能であれば、今まで使った言葉を並べてお仕舞いという「感想文」になっているのではないかとも思うのだ。

毎回の授業は、違うものであると思うのだが、または違うように準備しているはずだが、君たちの「感想文」を「見る」と、
(うーん、考えたのかな)
と思う文章が多くなってきているような気がする。(きちんとした調査はしていないけど)

どう? 考えるトレーニングをしている?

           ◆

さあ、話が広がったぞ。大丈夫か、理解している? 簡単にまとめる。

1)学ぶとは、未知なる自分に向けて変革を求める行為である。
2)そのためには、素直で批判的でなければならない。
3)理解できないからやらないでは、進むことはできない。
4)面白い感想文を読みたい。感想文は、思いの文章から自分をくぐり抜けた思考の文章へと深化してほしい。
5)考えるトレーニングをしてほしい。

というところである。アンダスタン?

           ◆

次週は企画作り。
さあ、良い企画を楽しみにしています。
プレゼンのコンぺも楽しみにしています。

5/24

研究入門ゼミ通信 起筆 NO.11~12

« 自分の中をくぐり抜けた感想 | トップページ | オーダーメイドのレッスン »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 自分の中をくぐり抜けた感想 | トップページ | オーダーメイドのレッスン »