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2007/06/12

授業の感想に答える46~54

S1 日本にいける(ママ)作文指導がいかに遅れているか、ということを思い知らされました。

調理実習で、家庭科の先生は「はい、作れ」とは言わないし、水泳の授業で、体育の先生は「はい、泳げ」とは言わない。

教師の役目は「指導すること」であって「命令すること」ではない。

池田先生のおっしゃる一言一言を噛み締めて、私ももう一度「教師とは何なのか」ということを考え、答えを出そうと思います。

また、文章を手書きする際のルール(単語は途中で改行しないこと、文頭に助詞・助動詞が来ないようにすること)を再確認することができました。

これからは内容的にも、またビジュアル的にも「読みやすい文章」が書けるよう、日々訓練しようと思います。

T 日本の作文指導には、「生活綴り方運動」など日本なりの作文指導の歴史があります。それはそれで素晴らしいものです。ですが、私はこの方法だけでは書けない子どもが多いと思っています。もっと実践は豊かに行えるものですし、書けない子どもに寄り添うことで書けるようになって行くものです。そのような指導を目指すのが教師なのではないかと思います。

S15 私は作文が苦手です。今まで学校の先生に詳しく指導してもらったことはなかったように思います。作文指導は担任が行うことが多いため、教師にとって専門外である作文指導がしっかりと出来ていなかったのだということを初めて気付きました。私のような作文が苦手な子供をつくらないためにも、国語の教師がしっかりと指導しないといけないのだとわかりました。
今日のお話の中で「感情を入れて怒ることが大切」というのを聞いて大変驚かされました。私は真逆のことを思っていたからです。「自分のそのときの感情で怒ってはいけない」と、このように思っていました。しかし、先生のお話を聞いて考えが改まりました。あの時、先生が感情で怒ったからこそ子供に伝わったのだと思うし、その子供は悪いことをして後悔していると思います。
怒るときだけではなく、感情的に何かを言うと想いが伝わりやすいのだと思います。子供に対してあつい想いを持っている教師を目指そうと思います。

S2 今日の授業で一番心に残ったのは、「生徒がイタズラをしたときに自分が教師だったらどういう風に怒る?」といった池田先生からの問いかけでした。私だったらとりあえず腹が立って「ふざけるな!何考えてるの!」と怒鳴るだろうなぁ・・と心の中で思いながら、「でも最近の子供は怒鳴っても伝わらないだろうし、どういう怒り方が適切なんだろうな・・」と考えていました。
しかし結果は『怒るときは感情をいれる』でした。結構意外で驚きました。今まで中・高校で怒鳴られるほど怒られたのはクラブの顧問の先生しかないし、担任やほかの先生には怒られたことはあっても怒鳴られたことなんて一回もありませんでした。やっぱり子供は真剣に怒れば先生の気持ちが素直に心に入ってくるんだなぁと思いました。そしてその後の池田先生の指導です。さすがだなぁと思いました。私もそんな先生にクラブの顧問以外で出会いたかったなぁと思いました。

T もちろん、いきなり怒るということは滅多にしません。1)教える 2)諭す 3)注意する と段階を経てからです。私の敬愛するザビさんと子どもたちに呼ばれていた学年主任の先生はこう言われていました。
「池さんさ、一年生を脅してぶん殴る先生ってのは、卑怯だよな。一年生はちゃんと教えてあげなきゃ。そして、指導して、それでもダメだったら、自分の指導力を反省しつつ、実践だ。それで、三年生になったらぶん殴るはありだよ。彼らは反抗できるし、ぶん殴った意味が分かるような指導を三年間かけてしなくちゃ。最初に脅すように殴るのは教育じゃない」
と。もちろん、ザビ先生は殴ったりしていませんよ。教えて怒ってだけでお仕舞いです。
やはり最初は教えるのが教師だと思います。そして、許せないことは、感情をたっぷりと込めて怒るのです。子どもが理解するとか納得するとかいうのは、その後でもいいと思います。今の自分しかみることのできない子どもに、未来の視点も持っている大人が、未来の視点から見た時にそれではダメだ!ときちんと怒ってあげないと、伸びる芽も伸びなくなります。相手は子どもですから反発もしますし、すべてがすべて上手く行くとは思いません。でも、怒るのが教師の仕事だと思います。

S2 池田先生の言っておられた、
『葉桜の季節に君を想うということ』
読みました!本当にびっくり仰天でした。最後の何ページかでやられました(笑)最後まで読んでから池田先生も言っておられたみたいに読み返してしまいました。とりあえずこの気持ちを誰かに言いたいのですが、だれにも言えず、ウズウズしてしまいました。
また面白い本があれば教えほしいです。いろんな本とめぐりあえたらなぁと思います。

T  そ、そうか。読んだか。ウズウズするか。うん、わかるわかる。でも、言えないんだよな。言ったら、作品に失礼だもんな。

ぜひ、仲間に貸してあげてください。
そして、ウズウズ仲間を増やしてください。

S16 「義務教育で履歴書の書き方を指導するべき」という考えに納得しました。最初聞いた時、"履歴書はアルバイトの為に使うもの"という観念を持っていた為、義務教育で教える必要はあるのかと、「Q」を書いてしまいました。しかし、履歴書は就職活動の時も必要になるし、その時になって学校での指導はないと思います。
履歴書の字や書き方で読んだ相手の気持ちを悪くさせ、就職に響く事もないとは言えないと思います。だから、この様な手書きの書類を書く時には、ペンで書くとか楷書で書くという基本の事から入り、書く分量なども国語教育の一つとして、早いうちから身につけさせた方がいいと思いました。
また、作文指導で担任に負担をかけない為に、「書け」と言ったら生徒達が原稿用紙を使い熟して、作文が書ける様にしておくのも国語教師の仕事なんだと改めてその重大さを感じました。

T 一回、みんなで履歴書を書いてきて、お互いの作品を見合って、その添削講座でもしてみますか?

S17 今日の授業の最後にした「初夏・お手製おみくじ」の結果にびっくりしました。このおみくじは他の生徒がどんなことを書いたかを互いに交換して学習するだけだと思っていましたが、結果を聞いてビックリしました。自分の思っていることを書く心理テストだったんですね。ちなみに私は学習欄に「課題はしっかりと提出。提出しないと自分にかえってくるよ」と書いていました。正にその通りだと思いました。

 今日の最後に学習した「仲間の教師のことを考える」という考え方に、私は理想の教師像が浮かび上がりました。学校は教師が生徒を成長させる場です。自分一人が「生徒の為に」と考えていても、自分の持っている能力だけでは全部の生徒の成長を助けることは出来ません。池田先生のおっしゃられたように、「美術の教師が絵の指導を」、「国語の教師が作文指導を」と、自分たちの持っている能力を互いに出しあう学校作りが必要だと思いました。

 最近のテレビの中で今村先生が、「最近の教師は熱意がない。力を持った先生の言うことは何でもはいはい聞くんです。」とおっしゃられていました。学校の中では実際に派閥が出来て生徒の為に教師同士が助け合うことなんて出来ないかもしれません。しかし原点に返って考えてみると、学校とは生徒が学ぶ場所です。その生徒が少しでも良い環境で学べるように、まず教える教師側が環境を整えていかなければいけないと思いました。

T だから、「授業にはタネも仕掛けもある」って言っているでしょ(笑)。さあ、授業を受けながら、(この授業のタネと仕掛けは何かな?)と批判的に考えながら受けてくださいね。

S3 今日一番印象に残ったのは「小学校などで作文指導をされていたように思うが、実は作文指導はされていない」ということでした。たしかに思い返してみるとどういう風に書きなさいとか、どういう点に気を付けて書きなさいだとか、具体的に指導をされた記憶が全くありません。ただテーマを与えられ、原稿用紙を配られ、「書きなさい」と言われただけでした。あれは指導ではなく命令だったのですね。その状態で自分はどうやって作文を書いていたのかすごく疑問に思いました。

T ということは、「出来る子は何もしないでも書けるし、出来ない子は出来ないままで放置される」という結論に達するのではないかと。「出来る子はもっと分かりやすい文章が書けるようになり、出来ない子は書けるようにする」というのが作文の指導のはずです。あなたはなぜ書けたのでしょうか。本当に書けていたのでしょうか。その辺りから指導の方法を見つめ直すきっかけを得ることが出来るかもしれませんね。

S4 ただ「書け」と言ってやらせるのは、指導ではなく命令だ、というのが今日の授業で印象に残りました。私は作文が苦手だったので、何か行事があるたびに、「何分以内に感想を書きなさい」というのがとても嫌いだったのを思い出しました。けれど、きちんと指導しようと思っても、作文を担当していたのは担任の先生で、その先生が国語の先生でなければ指導しようがなかったんだなと分かりました。今日授業でもあったように、国語の授業中に作文指導の時間をきちんと取ったり、先生方に指導して分かってもらったりすることが大切であり、もっと作文指導が重要であることを分かってもらう必要があるのだなと思いました。

T 私は、作文の指導ぐらいは「先生」であれば、教科を問わずに出来なければならないと思っています。実際、私の授業ほど文章を書かせる大学の授業は、文科系では珍しいかもしれませんが、理科系では毎週実験をしてレポートです。報告文の指導は余程理科の先生の方が上手いかもしれません。ですが、学校では作文指導はまだまだ国語の先生の仕事です。まず、貴方がきちっと指導できるようになり、そしてそれを学校に広めてください。

S5 今まで自分が、きちんとした作文指導を受けていなかったことが今日の授業でよくわかりました。また、私は手紙の書き方は教わったけれど、履歴書の書き方や電話のかけ方は教わりませんでした。今日の授業でこのことが聞けて本当に良かったと思います。自分が教壇に立つときには、国語の教師としてできることをしっかりしたいと思いました。
今は、そのためにいろいろな経験を積むこと、知識を増やすことが必要だと痛感しています。中学の資料集を頭に入れること、くだらないことも覚えておくことなど、できることはたくさんあるので実践していこうと思います。
書道の教師は学校の中の字を少しでも綺麗にということも印象に残っています。お世話になった先生が、時間をかけて丁寧にみんなの卒業証書を書いていたのを思い出しました。本当に綺麗な字だったのを覚えています。自分もそんな風に書けるだけの力をつけたいとも思いました。

T そう。きちんと力を付けましょう。それが、指導のための基礎です。文字を美しく書く書道を専門として選んだあなたですから、徹底的に字にのめり込んでください。自分の好きな字を書くことだけに没入できる時間があるなんて、人生のうちでもこの数年ではないかと思いますよ。

S6 「伝達の作文ができていない」という話を聞き、初めてアルバイトの面接に行く時、どうやって履歴書を書くべきか悩んだことを思い出しました。
手紙にしろ、報告文にしろ、実際に社会に出る前に身につけていなければならないことが身についていないのが現状なのだな、と思います。授業で扱うにはつまらない分野なのかもしれませんが、先のことを考えれば中学・高校の間にやっておきたい事柄だな、と感じました。
そして、「書くことは考えること」のお話が印象に残りました。きちんと考えて書く、ということをもっと意識していこうと思います。
それと、もっと雑学を身に付ける必要があるなと感じました。

「石山寺で紫式部が〜」の話は、中学の時、塾の先生に聞いたことがあり、興味は持っていましたが、見には行っていませんでした。今日の話を聞き、やはり滋賀に住んでいるからには1度は行っておきたいな、と改めて思いました。
琵琶湖博物館も小学校の時に行ったきりなので、今行くとまた違うものを感じるのだろうと思います。当時は生き物と地下水の仕組位にしか興味を持っていなかったので、先生が仰っていた石の記憶が全くありません。勿体ない・・・
夏休みに行けそうなら行ってみようと思います。

T 自分の通っていた小学校に中学生になってから戻ってみると
(え、こんなに狭かったっけ?)
と思うことがあります。同じものであっても、自分が成長すると全く違うものに見えてくるものです。琵琶湖博物館も同じものであっても、大学生になったあなたが見れば別物に見えることでしょう。確か、第三日曜日は滋賀県民は無料で入れるチケットがあったはずです。私はそれで入りました(笑)。ちょっとお得な情報です。

S7 指導の3段階、1)書き慣れる 2)書き込み 3)書き上げる、この指導の3段階は書道と共通するものがあって、確かにそうだな、と思いました。まず書き慣れないといけない、そして書き込んで仕上げる。すごく言葉にしてしまうと簡単な作業に思えました。自分が悩んでいるのが小さく感じました。しかしこの3段階はとっても大変な作業である事はよく理解しているつもりです。この3段階のステップをしっかり踏み、自分自身で努力することで、その後には達成感というやりきった者だけが味わえる感覚が待っています。そして苦しんだ分、以前より成長している事が目に見えて感じます。このことを語れる日が来るように、今はただ前向きに頑張りたいと思いました。

T 「書き込み」の量は人によって違うでしょうが、私も大学三年生の時には、気持ち悪くなるぐらい書き込みました。平仮名が書けなくてねえ。でも、突き抜けた時の感触はいまだにありありと手に戻ってきます。これが小さな自信に繋がるわけですが、自信というのは自分で突き抜けた経験からしか身に付かないんですね。

S8 今日の授業を受けて、中学校の時の恩師は、合唱も体育祭も修学旅行も遠足も、すべて指導していらしたことを思い出し、中学校の教師は何でもこなさなければならないことに気がつきました。
簡単に「中学校の教師になりたい」と口走っていた自分が恥ずかしくなりました。

国語科の教師だから、国語科の指導でしっかり同僚を助けつつ、他の教科の指導は同僚に助けてもらいながら専門分野以外のことも指導していかなければなりません。本当に骨の折れることだと思います。
しかし、それを乗り越えると生徒の成長だけでなく、自分の成長もあるのではないかと思いました。

今日の授業で私は、池田先生の雑談(?)にものすごく惹きつけられていました。
教師が話していることが、授業から多少逸れていても、生徒にとって新たな発見を得られることであるならば、生徒には教師への関心が生まれるのではないかと思います。
教師自身の“技術”を見せることによって、「この先生、すごいやん!」と生徒に感じてもらえれば、生徒の意欲も向上するのではないかと思いました。
生徒にただ寄り添うだけでなく、生徒から尊敬されるような教師になりたいと感じました。


前回の和綴じ本の授業が終わった後、色あわせのことを調べたくて、高校の時に使っていた国語便覧を使いました。
国語科のものなのに、当時の習慣や衣食住まで載っていて、興味深かったです。
原稿用紙の使い方もチェックできましたし、今回の和歌の板書についても役に立ちました。
手元に置いて活用していきたいなと思います。
しかし、新課程に変わってからのものではないので、新しいものを一冊買い求めるべきでしょうか?

T 雑談(?)を誉めて頂いてありがとうございます。私は雑談をしているつもりはないのですが、雑談(?)と思われます。一つの山を登るにはたくさんの道があるわけでして、そのいろいろな道を使って登っているんです。もちろん、山の全体が見えている人と見えていない人がいるわけで、見えていない人(多くは生徒)にしてみれば、
(この道どこにいくの?)
となってしまうわけです。
授業をしている私は、何処に行くのか多少の不安を残しつつ進み、ある程度のところで「ほーら、見晴らしの良いところに来たでしょ」としたいわけですね。だって、ゴールは遠くに見えても、なかなかたどり着かない道ばかりでは、変化がなくてつまんないでしょ。
便覧なんて非常に安いものです。最新版を数冊持っていても良いと思います。一冊1000円もしないのですから。

S9 最初の導入部分で再び『湯舟の法則』のお話がでました。“昨日までできなかった事が今はできる!”“する前は何もできなかったけど、してしまえば、なんでできなかったんだろう”と思う。それは湯舟からお湯が溢れる法則と原理は同じ、ということでした。そして先生は私達に、そういう経験が身に覚えあるか、と聞かれました。私はすぐに書道の事が頭をよぎりました。
 ちょうど今の時期、大きな展覧会に向けて作品制作に最も力が入ります。大きな作品を3つも書くため、毎晩書いて書いて書きこみます。しかし、最初に、どんな作品を書くか決め、初めてその作品を書き始める時は不安でいっぱいになります。手探りの状態で作品に取り掛かるのです。そうしながら1枚書き、2枚も書けば、全体像が一気に見えてきて、自分の作品像が理解できるのです。もちろんそれはまだまだ完成にはほど遠いものです。ですがそのワンステップにより、とても大きなものを得ることができるのです。まさに“1時間前にはできなかった事が、その時点ではできるようになっている”のです。私はまさに最近それを実感したばかりでした。
 しかしそれはまだ初歩的な事に済みません。もっと思いっきりお湯が湯舟から溢れることがあるはずだと思います。だからそれに向かって努力すると共に、自分のその経験を“語れる”ようにならなくては、と思います。

T 半紙、全紙。これから書こうとする真っ白い紙。そこにたっぷりの墨。
手本を見つめた時に、紙の上に完成図が浮かんでくる瞬間がありますよね。そして、そこに自動的に筆が運ばれるような感覚のときがありますよね。最後の落款を押して、充実のため息を吐くとき、一回り成長した自分を感じるんですよね。

S10 今日の授業では、作文の種類が考えていた以上に多くあったことがまず驚きでした。

体験の作文や小論文は今まででも馴染みがあるものですが、手紙の書き方や、履歴書までが作文指導に含まれているとは意識したことがありません。
しかし伝達の作文は、学習しておいて損がないほど身近なものだと思います。

私自身せっかく作文を書いてきたにも関わらず、その指導についてはあまり覚えていません。
それが“指導”ではなく“命令”だと思うと少し残念ですが、便覧で自分がこれと思える書き方くらいは勉強したいと思います。

また地球を一年に例える話は理科の授業で聞いたことがあります。
59分までは覚えていたのですが、こういう話はあまり日常で考えることがないぶん新鮮で興味深いです。

S22 今日は授業中、先生が滋賀県について話してくださったのが印象的でした。
石山に祖父がいることもあり、最近では半年に一、二度くらい足を運ぶのですが、本当にあの大きな岩には驚きます。
そして琵琶湖博物館。つい最近行ったのですが、チョウザメの餌やりをはじめとした淡水魚の展示ばかりに気を取られ、琵琶湖についてほとんど関心を持たずに帰ってしまったことを今更ながら少し後悔しています。是非、また行った時は琵琶湖についてもう少し学んで帰りたいです。

作文指導については、本当に履歴書の書き方や、電話のかけ方、メールの送り方などを指導してもらえていたらなあと思います。
なぜ勉強するのかと日々思っている子どもたちにとって、実践で使えることを学ぶのは、ひとつの答えなのではないかと思いました。

T ちなみに学習指導要領には「作文」という文字はありません。これはこれでいろいろと面白いですね。

S11 こんなにたくさんの作文の種類があるのに具体的に書き方の指導を受けていないことにショックを受けました。もし私が国語の教師になれたら、こんなふうに私は教えるというふうに指導したいと思いました。
先生は「書くということは考えるということ」とおっしゃいました。以前、「わくわく授業」という教育テレビ番組で自分の言葉で詩を書こうという内容の国語の授業をしていました。どうしても書けない子が他の書けている子の詩を真似て詩を書いていました。それは盗作ですが、書けている子の詩がなければできない詩だねと先生が言っていました。しかしその子は段々と他の人の詩では満足できなくってきて、本当に自分の中の言葉を見つけようとしていました。番組の内容が長くなりましたが、これが今日の「書くということは考えるということ」とリンクしているのではないかと思いました。
自分は文章を書く力がないと思っています。だから日記を書くことで、文章を書く力を少しでも身につけることはできないかと思い、毎日日記をつけています。今日の授業で、日記は伝達作文の種類に入っていました。質問ですが、伝達作文の種類でも、感想文などの文章を書く力を身につけることはできるのですか?

T ちなみに、私も中学高校と、作文の指導は受けていません。ただ、いつも
(これはおかしい)
と思っていました。だから、教師になった時にこれが指導できるように勉強しました。ときどき
「こんなことは学生時代にやっていないから指導できない」
ということを言う先生もいるのですが、私はいつも不思議な気持ちでいました。
(ってことは、この先生は社会が新しくなって行くということを受け入れていないのか? その割には新車を買い替えているけど)
のように。コンピュータだって、ディベートだって、総合的な学習の時間だって私は大学でいっこも習っていません。でも、指導するのが先生なんです。だから、自分で学ぶしかないのです。考えて、研究会に参加して、身につけるのです。公的な研修を待っていたら追いつかないから、自分で身銭を切って研究会に参加するんですね。勉強がさほど好きではない私も、やらないわけにはいかないと思ってやっていました。でも、やっていると楽しくなるんですけどね。
文章の力はいろいろとありますが、取りあえず、「書きなれる」ことにはなるでしょう。

S12 『話すことはネイティブを越えられないが、読むこと(=書くこと)はネイティブを超えられる』ことについて、解るような気がします。私が高校生の時に清水市の交換留学生としてアメリカへ訪問した時に、いくら学校の授業で会話重視で学んでいてもその壁は越えられないと感じました。私はそれ以降日本文化の中の書道を専門に学びたいと感じるようになったので、今この授業を受けていますが、以前に日本の人たちに多少の疑問を感じていました。
 先生が『英語では習う手紙の書き方を国語では教えていないのが現状』ということにたいして、とても関連していました。私も留学を通して、私たちは日本人であるのにどうして外国ばかり見るのか?と感じていたからです。日本には日本のすばらしい独自の伝統文化があるのにもかかわらず、それを知らないまま周りの国ばかりを見る・知るのはおかしいのではないかと感じていました。私も国際交流に参加し、それを通して解ったのですが、今の日本人は外人に日本文化を教える時に、まず教える本人が知らないので調べなくてはならないのです。(と言っている私もそうなのですが…)
 今回の授業で、私たちはもっと日本人として誇りを持つべきで、生徒にもその誇りを教えてあげたいと思いました。

T ま、そう息むことなく、淡々と事実を伝えると良いと思うのです。そして、子どもたちが
(ああ、日本て良い国だなあ.もっと良くしたいなあ)
と思えるようになってくれれば指導した甲斐があると思うのです。
「どうだ、良い国だろう!」
と教師がいうのではなく、子どもが
(良い国だなあ)
と自然と思えるような事実は、私たちの住む国には沢山あると思います。そして、それは他の国にもあるんだろうなあと思える想像力が、この世界を平和にそして豊かにしていくのではないかと思うのです。

S13 走れメロスのメロスが自己中心的な性格だ、という話が出ました。
もう一度どんな話だったかを思い出すと、確かにそうだと感じました。
しかし、走れメロスを子どもに教えるとき、国語の教師は「メロスはジコチュウな奴だ」とは言いません。子どもたちは、メロスが家族思いで友人を裏切らない、悪を許さない正義感の強い男だというふうに教えられます。例え教師がそんないい奴じゃないと思っていても、きっとそう教えなければいけないのでしょう。
教科書に載っている作品を大学で勉強しなおして驚く事がたくさんあります。高校までしていた作品の解釈が全く的外れだったり、作者の伝えたいことが自分の思っていたものとは大きく外れていたりします。そしてその作品・作家たちの深いメッセージを受けて、私は改めて文学は面白いと思いました。その面白さを子どもたちにも知って欲しいとも思います。
しかし日文の野村先生は授業中によく言います。「学校の先生になる奴は、こんなこと教えちゃ駄目だぞ」……どうしていけないのか最初はわからなくて、悩んでしまいました。

思うに、「国語教育における小説を読み取る学習」と「文学研究」は一見近いようで、別物なのでしょう。
国語の小説の単元で教えるのは、恐らく「文章の理解」です。正しい文法や珍しい表現を読んで身に付けると同時に、どうして場面がこんな展開を見せるのか、何故登場人物がこんなことを言うのかなどに理由を見出すことで、人間の思想や物事の流れ方がどうなっているのかを掴んでいくのが目的なのです。
それらと、「作品がどうやって出来たか、作者がどんな思想を持っていたか、本当は何が言いたかったか」という作品への突っ込んだ研究とは齟齬があります。
「小説の文章を読み取る」と「小説そのものを理解する」はイコールにはならないのだと思います。前者を優先させるべき子どもたちに、大学生がするような研究をさせることは、きっと相応しくないのだと感じました。

しかし、今日見せていただいた資料集に「作家紹介」が載っていました。有名な作家がどんな人間なのかを覚えさせるのも、国語教育の一つです。
作家の人物像を教えることは、作品の深いところを教えることにも繋がってはこないでしょうか?どこまで人物像を学ばせるべきなのでしょう。生い立ちや思想まで教えるのはタブーなのでしょうか。

一日考えたのですが、まだ自分の中で答えが出てきません。
このままだと、作品の内容や作家の深いところまでを教えたい欲求と、国語の表現法や文章理解を優先させて学ばせなければという気持ちで、ジレンマに陥りそうです。

T あれこれと教材研究をしてください。文学作品そのものを読み込むということと、それを授業にかけるということは、確かにちょっと違います。それは、授業を受ける人間に寄って違ってくるのではないかということです。文学作品を解釈するというのは、解釈する人と作品との関係が主になりますが、授業ではそうはならないからです。教師は、授業をします。ですが、その前提として作品の研究はとても重要です。授業で使うか使わないかは別ですが、しておく必要はあります。

S14 今日の授業の最初に先生がおっしゃっていた、『できなかった時の自分・できた時の自分・できるまでの自分を生徒に語れるように』という話にはっとした。生徒はたぶんこれを待っていたのではないかと思う。
生徒にとって大切なのは、「自分でも頑張ればできるんだ」と思えることだと思う。そして、教師は、「君たちでもやればできるんだ」と思わせることが大切なんだと思った。それを自分の体験をもとに語れるようになりたい。私は、何をするにも全部中途半端であり、苦しくなったら諦めるといったことが多かった。同時に何かにひたすら打ち込んでいる人がすごく羨ましくもあった。今日「そうだ、自分がうらやましく思われる存在、輝いた人間になればいいんだ」と思った。そして生徒にもやればできるんだということを身をもって語っていけたらいいな、と思った。また、それが先生の役割の一つなのではないかと感じた。

(2)先週の色合わせについて
色合わせは、平安時代の宮中で使われた配色形式で、装束や調度品などあらゆるものにあてはめられた。その配色は四季折々の自然や動植物の色彩と密接に結びついている。
詳しくは、サイトを見つけたので参考までに載せておきます。季節ごとの色の組み合わせも表示されており、和綴じ本の表紙を作るときの目安にもなるのではないでしょうか。
http://www.studio-tao.com/studio/asia/kasane.htm

T 教師の仕事の一つに、一歩を踏み出させるというのがあるような気がします。本当は本人も答えを出しているにもかかわらず、その一歩が踏み出せないとき、軽く手前に引っ張るのか、背中を押すのか分かりませんがそれをすることが許されているのが、教師のような気がします。その時に
「いやあ、先生もね、○○だったんだけどね」
と話すことが出来るのは、結構大事なのではないかと。
色合わせのHPありがとう。文化の凄さを思うね。

S18 小学校時代、私は確かに作文指導をされていた気がします。でも、そのほとんどを覚えていません。とてももったいないことだと思いました。いままで、参考になるものをいくつとなく教えられて、また見せられてきたというのに、どうしてもっときちんと見ておかなかったのか、悔やまれます。
今日は「正式な原稿用紙の使い方はない」という話に驚きました。では私が今まで習ってきた使い方はなんだったのかと。カッコの文章は一マス下げるなど、今まで聞いたこともありませんでした。これは大発見です。先生のおっしゃるように、国語便覧を買って真意を追求したいと思います。
ちなみに、「地球が誕生した46億年前を1月1日として、キリストが誕生した2000年前は何月何日何時何分何秒になるか」という問題で、私が基準にしたのは『一秒が一年を壊す』小学校五年生くらいの、国語の教科書に載っていた説明文です。人類が地球を壊し始めたのがだいたい200年前、一年のうちの約一秒だったので、単純計算で2000年前なら10秒前かなという考えでした。

スーツ、毎週着ていくようにしていますが、最近本当に暑くなってきました。皆さんも着てください、と切実に思います。

T 「正式な原稿用紙の使い方はない」というのは、決定版ということであり、一般的なものはあります。国語の資料集にもしっかりと載っています。ですが、多少の揺れはあるということです。大事なことは、指導する前に「ここはこのようにします」と生徒に指示をしてから書かせることです。

スーツ、今年は着ている人が確かに少ないですね。強制ではありませんが、三週間に一回ぐらいは着てくるようにしておいた方がいいと思いますよ。

S19 『話すことはネイティブを越えられないが、読むこと(=書くこと)はネイティブを超えられる』ことについて、解るような気がします。私が高校生の時に清水市の交換留学生としてアメリカへ訪問した時に、いくら学校の授業で会話重視で学んでいてもその壁は越えられないと感じました。私はそれ以降日本文化の中の書道を専門に学びたいと感じるようになったので、今この授業を受けていますが、以前に日本の人たちに多少の疑問を感じていました。
 先生が『英語では習う手紙の書き方を国語では教えていないのが現状』ということにたいして、とても関連していました。私も留学を通して、私たちは日本人であるのにどうして外国ばかり見るのか?と感じていたからです。日本には日本のすばらしい独自の伝統文化があるのにもかかわらず、それを知らないまま周りの国ばかりを見る・知るのはおかしいのではないかと感じていました。私も国際交流に参加し、それを通して解ったのですが、今の日本人は外人に日本文化を教える時に、まず教える本人が知らないので調べなくてはならないのです。(と言っている私もそうなのですが…)
 今回の授業で、私たちはもっと日本人として誇りを持つべきで、生徒にもその誇りを教えてあげたいと思いました。

T 人間の脳みそは、三歳以前と三歳以降では構造が変わるそうです。(『100歳先生の「生きる力」を伝える幼児教育 』昇地三郎 日本放送出版協会)それまでは、言語を脳の一つのエリアで処理しているため、日本語も英語も同じように認識されます。これが完全なバイリンガルです。ですが、三歳を超えると日本語は日本語、英語は英語として認識されるので二次的なバイリンガルです。

で、私達は多くはこの後者のバイリンガルとなります。その私達は母語としての日本語よりも、外国語が上手くなることはありません。同じように自分の国の文化よりも外国の文化を良く理解するということはないのではないかと思います。どの国の文化が優れてどの国の文化が劣っているということは、議論しても意味がありません。そうではなくて、今私達のところにある文化を受け継いで、味わう。そして、それを伝える。そのために学ぶのがいいのではないかと思います。

S20 授業最初に話された「ブレイクスルー」について少し考えてみました。突き抜けたと思う感触はこの大学生活であったかなと。小さな成長はありましたが、ブレイクスルーはまだ無いように思います。しかし今が一番の正念場。目の前にある問題は人生にとって意味があることなんだと受け止めていこうと思います。

「書き慣れる」についてのお話で「鉛筆対談」が出てきましたが、それは面白そうだなと感じました。
 私はよく授業中に手紙を書いて内緒でやりとりをしていました。休み時間や放課後にいくらでも話せるのですが、あえて手紙という形のほうが考えをきちんと伝えられることでお互いを知ることができ、楽しかったからです。そういった相手にきちんと考えを伝えることができることの楽しさを、書くことが嫌いな子どもたちも感じることができればと思います。

T 授業中に教師がやってはいけないと禁じているものの中に、実は子どもの学力を付けるために有効なものが隠れていることがあります。それを授業の文脈に載せて、授業としてやらせてみるのは、面白いものです。子どもの文化を理解して、それを学校の文化、授業の内容に載せてみると、子どもが今までとは違った学びを始めることがあります。授業は面白いですねえ。

S21 今日、生徒にしかる場合どうやって指導するかと自分に問われたとき、考えて結局答えがだせずにいました。
本番では、このような場面にすぐに答えをだして、指導しなくてはいけないのに答えられなかったのが、悔しかったです。
感情をいれて叱るのは、今の中高生にとって有効なんでしょうか?
私の中高生時代、クラスメイトは先生にしかられても、なにも感じていない人が多かったです。
叱ることは難しいことだと思います。私自身、感情をいれて叱ったり、怒鳴ったりするのが得意ではありませんが、どのようにすればいいのか考えていきたいと思いました。

S23 今日は作文指導?でしたが、もともと作文が苦手で改めて勉強したいと思っていたので、すごく参考になりました。来週も心して聞こうと思います。
国語の資料集も今度買おうかと思います。

T 苦手なものが上手にできるようになるとき、子どもの前に立ってする指導に説得力が出るようになります。

S24 偉そうな言い方になってしまうかもしれないが、今日の授業を受けて僕はこう思った。
「僕らが今の教育を変えなくてはいけないんだ…」と。
今まで作文指導を受けてこなかった。僕自信覚えていないのが事実。
命令ではなく指導すること、書けない子を書けるようにしてあげなくてはいけない。
これからの日本の教育の為にもまずは私たち国語の教師が教えるべきコトを見つめ直すことが大事なのかもしれないと思った。

T 何を今更(笑)。当たり前じゃないですか。そのために、君は教師になるんでしょ。出来ない子どもたちを出来るようにしていく。それが教師の仕事。そのための力を付けることを目指しているのが、この授業です。

         ■□■

今回はまとめてコメントという風に出来る感想文が少なかったな。私は大変だが、そうなる方が面白い。次回はいかがかな?

国語科教科通信 修学 NO47~55

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