『大学授業の病理 FD批判』
『大学授業の病理 FD批判』(宇佐美寛 東信堂)を読む。
んーん、いかん。
学生たちを甘く指導しているかもしれない。
宇佐美寛先生の本を読んでいると、そう思う。
授業の奥深さを改めて思う。
◆
ディベートの指導をしているときに思うのだが、私が分かりやすく話せば話すほど、学生たちは楽をしているのではないかと思うことがある。
(ん? 何を言っているんだ? この先生?)
と思いつつ、自分で話を整理しつつ聞くのと、先生の頭で丁寧に整理されているものを順番に聞くのを比較すると、後者の方が「分かりやすい授業」になると思われる。
しかし、これが「分かった授業」かどうかというと、果たしてそうなのか私には疑問が残る。
◆
文章の読解の指導をしているときに、
(読解の授業の目的って何だ?)
と思う
読解とは何か?
三省堂「大辞林 第二版」より
引用開始 ーーーーーーーーーー
文章を読み、その内容を理解すること。
「長文を—する」「—力」
引用終了 ーーーーーーーーーー
通常は、文章を書いている人に知識や知恵の集積があり、その知識や知恵は読み手には及ばないものがあるから、うーうー言いながら「読解」するというものである。が、世の中には読み手を意識しない読みにくい文章もたくさんあるわけで、読解の授業をするよりも「書き方」の授業を重視した方が、いいのではないかと思うのである。
良い文章が増えれば、読解の授業はこうなる。
「この文章は、ダメだ。だから、書き直しなさい」
◆
答えは学生が自らの頭で作り出す作業である。それを私が我慢しきれずに伝えてしまうのは、結局、学生を育てたことになっているのだろうかと思う。
もちろん、時間切れもある。
が、私自身、大学生の時に貰った問いに自分で答えを出すのに20年近く掛かることがいくつもあった。何も授業中に理解を求めるのが大学の授業でもあるまい。
大学教員二年目。
改めて授業の奥深さを感じ、中学生ではなく大学生に合わせた授業をつくって行こうと思う。
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