S1 「子どもは、たくさん書けばいいのだと思っている」……この言葉、身に覚えがあったので、自分のことを言っているのか!?とおっかなびっくりしてしまいました。
小さい頃から人より長く文章を書く癖があります。たくさん書くことで主題がぼけて、煩雑な文章になりがちです。
授業の感想文で、制限枚数に収まらなかったことで減点をもらい、非常にショックを受けた経験があります。短いと叱られ、長いと褒められるのが感想文の常だったからです。最近になってやっと、それだけに拘っては駄目だということに気付いてきました。
「文章を書くときに、ネタを吟味して良いものだけを使う」
これは作文だけでなく、論文を書くときにも実感することです。調べたことを一から十まで全部レジュメに書いてしまったら、何が大切なのかわかりません。伝えたい事が霞んでしまって、読み手への印象も薄くなりがちです。
私の尊敬する研究員の方が、「何ヶ月も調べてきたことを五分とか二十分で発表しなければいけない。どんなに苦労して時間をかけたところも、最重要でなければ発表内容から外さなければいけない。何が一番発表するに相応しいか選ぶのが、研究で一番難しいところだ」とよく言っています。
これは作文にも十分当てはまることだと思いました。
原稿用紙三枚に書くに相応しい内容を選び出す作業が、私には足りていなかったと感じます。美味しいカレー、即ち面白いと思ってもらえる文章を作るために、テーマを絞って内容の濃い作文が書けるように善処します。
今の自分にとってそれが一番鍛えられるのは、この掲示板の授業感想文です。徐々に良い文が書けるように訓練していきます。
T だってねえ、特に自然科学系の世界は、E=MC2で現せてしまう世界にいるわけですからね。社会科学系の教育学でも同じですよ。ちなみに私は20万字を修論に使いましたが、この研究を元にした学会での発表時間は準備も含めて20分でした。伝えるということは、切り捨てるということなんです。その苦しみを経て伝わる喜びを教えるべきだと私は考えています。編集されていないホームビデオなんて見せられるのは、苦痛でしょ(笑)。
もちろん、たくさん書くことを目標とする作文指導もあることを念のために記しておきます。
◆
S2 「相手を意識して書く」このことを私は全くできていなかったように思います。ただ自分が書きたいこと、感じたことをどうにか文章で伝えようとしていました。しかし、いつも文章がだらだらしてしまうので、先を読む気がしない文章になってしまっていたと思います。これからは相手を意識し、相手が読みたくなるような文章を書くよう心がけようと思います。
私の今までの作文づくりでは下準備がちゃんとできていませんでした。カレー作りで言うと、材料がそろっていないのに料理を作りはじめ、途中で材料が足りないことに気付き、あわてて買いに行くといったような感じです。これは最悪のカレー作りであるように、私の作文づくりは最悪であることがわかりました。これからは材料を集め、使えるものを吟味し、読む人のことを考えた作文づくりができるようにしたいです。
「作文づくり=料理」と例えることは、子供たちにもわかりやすく教えることができると思います。作文指導を「書け」で終わらせるような教師にならなくてよかったと思いました。
◆
S4 作文を書けと言われて、私は書き始めることができなかったことはないし、何かしら書くことはできたけれど、今日の話のように料理を作るのと同じ手順で考えたことはありませんでした。この話を小学校、中学校のときに聞いていたらもっと書きやすくなっていたと思うし、読者のことを意識することもできました。今日話を聞いて、自分が前回書いたものよりもいいものが書けるような気がしたし、書きたいと思えました。生徒を「書きたい」という状態にしてあげることが本当に必要だとよくわかりました。
そして今日はもう一つ、「賢くなることは社会と繋がること」ということも心に残っています。人を育てることができる人間になりたいと思いました。
S7 「賢くなることは社会と繋がること」とても印象に残っています。今の私は狭い殻に閉じこもっていると思います。学生のうちは貪欲になり、多くのことを学ぶことで知識を身につけなければならないと思いました。そして、たくさんの人と出会えるようなきっかけがある場にどんどん参加できる意欲を持ち、殻破りをしていかなければならないと感じました。
(作文指導の話での感想)
私は文章書くのが苦手なので、作文も苦手です。しかし、先週から作文指導について学んでいると、作文を書くということに少し抵抗がなくなったような気がしました。自分ができていなかった部分がよくわかったので、とても勉強になりました。
T 次は、子どもたちをその気持ちにするための指導方法を身につけることです。あなたが分かることと、あなたが出来ることは別の問題です。
◆
S3 「作文を書くことは料理に似ている」という話を聞いて、そう書けば良いのか!と思いました。
今回の授業で一番印象に残ったのは作文を書く上での読み手への意識です。
どんなに内容が素晴らしくても、タイトルが「読みたい」と思わせるようなものでなくては読んでもらえない。その通りだと思います。
その話を聞いて、「読みたいと思わせるようなタイトルを付けなさい」と先生から言われたのを思い出しました。ずっと、タイトルは一番最初に書くものという意識が強く、タイトルを決めることに時間をとられ、書きたいという気持が薄れてしまったこともあります。そこで一言、「最初に仮のタイトルをつけ、本文を書き終えた後で考えても良いんだよ」と言ってもらえたら私の作文への意識は違ったものになっていたと思います。
きちんと作文を書く力がつくように意味のある強制を行う、それが作文指導であり、ただ「書け」と言うことは指導ではないということがわかりました。
T 書けば読んでもらえるのが、学校です。ですが、そういう状況で育っている子どもたちは、いい加減に書くことも覚えてしまいます。「こんなものは読まない、読めない」というのも教える必要があるのではないでしょうか。
◆
S5 今日はいつも以上に頭がフル回転したような気がした。
“いい高校、いい大学、いい会社に入れば幸せな一生が送れる”という教育が過去にされてきた。果たしてその教育は正しかっただろうか。おかしくはないか?なぜおかしい?今日の第一問である。私はこう思った。『逆に“いい”ところに行けなかった者達は自分はデキナイ人間、不幸な人生になるのでは…という思考になってしまい、やる気をなくし、今の社会現象でもある“ニート”につながったのでは?』と。挙手してこの意見を言う勇気がでなかったのが、とてもくやしく感じた。
次に池田先生のお母さんの話がでた。なぜ池田先生が幼い頃、本を読むのをやめさせ、自分も本を読まなかったのか。『読む時間がなかったからよ。』そりゃそうだ、と思った。子育てがおわってから読書を始めたお母さん。池田先生を育てたお母さんに会ってみたいと思った。
そして作文指導の話になってからの問いが“作文は○○に似ている。さあ何か?”だった。まさか料理だとは考え付かなかった。しかし作文をカレーの作り方にたとえると、細かい工程まで見事にぴったりと合って素晴らしいなと思った。そしてなにより分かりやすいと思った。
この説明だったら“つまんない(嫌い)、書けない、分かんない作文”が生まれ変わって、“おもしろい(好き)、書ける、分かった、作文”になるんじゃないかと確信が持てた。
指導者の立場に立つときは、生徒の視点になって、生徒が壁に感じているものをひとつひとつ取り除いていってあげることが肝心なんだと思う。
T その時の魔法の言葉があります。
「君は何が分からないの?」「君は何が分かれば出来るようになるの?」です。生徒が話す「何」についての対策を、プロの教師として君が用意すれば良いのです。そして、だんだんと子どもが自分で出来るようにして行けば良いのです。「先生、自分で出来ます」と言われることを楽しみにして。
◆
S6 学んだことを僕たちは僕たちの為だけじゃなく社会の為に…。なんの為に学ぶのか、なんのために必死こいて覚えるのか、社会の貢献者になる為、そう言われるとなんだか意欲が湧きそうな気がした。自分がこの広い世の中を作るんだという気持ちになれる。社会に関わることの大切さや意義を学んだ授業になった。
カレー作りという具体的な例がすごくわかりやすかった。ちなみに僕は頭の中でご飯も炊いてました。
教え方の例として学んだが、これから先 まだまだ使えるテクニックや方法を学べてよかった。
今までこんなに丁寧に背中を押してくれるような指導を受けてこなかった。もしあの時このように学んでいれば何か変わっていたかもしれない…
今こうして学んだ以上絶対に子供たちにそのような思いはさせない。
T できれば福神漬けも用意して下さい(笑)。
私も小学校から大学まで詳しく作文の書き方指導は受けたことはないです。が、教師になったら指導しなければならないのです。自分で学んで教えるしかないのです。国語や教育の世界にはまだそのような部分が沢山あります。そこで活躍するときに十分に活躍できるように、十二分の力を蓄えなさい。
◆
S8 今回の授業を聞いて、私は自分の書いた作文が恥ずかしくなりました。
「****の***」というテーマでしたが、材料確認や買い物が不十分で最初の三行を魅力的にどころか読み手を考えることが全くできていなかったように思います。分量も全体的に短く改善点がいっぱいあるので、次に書く作文は一つ一つ気をつけて書きたいです。
また今日は社会との繋がりも改めて見直すことが出来ました。
今、私がしていることはほとんどが自分を中心で、目を向けても本当に近い人たちだけでした。そしてそれが当たり前だと思っていました。
でも、いろんな人の助けがあって今までの学習できていたと思うと、自分が返せる事を真剣に行っていきたいです。
T 今まで受け取ったものを返すことは、ほとんど無理です。恩は返すものではなく、次の世代に送るものです。恩返しではなく、恩送りという日本語があります。私の好きな日本語です。
◆
S9 今日の授業で印象に残ったことは二つ。
一つは、「学んだことを自分を生かすだけではなく、社会に生かすこと」。
これを聞いた時、先日ニュースでミスユニバースに選ばれた日本人女性が、今後の目標として「チャリティー活動を通じて社会に貢献できたらいいと思う」と話していたことを思い出しました。そのときは「その美貌があれば芸能界などで活躍することもできるのに…考えることが大きいなあ」と感心していたのですが、彼女こそ今日先生が話しておられていた「学力のある人」なんだなと今しみじみ感じています。
そして、二つ目は「数字など具体的なことを書くこと」。
私はいつも数字が聞き取れず、メモができないことが多いのですが…これからは具体的なものに注意を向けていきたいと思います。
T 具体的な事柄が、あなたの抽象的な思考を鍛えます。だから、具体的な事柄をメモするのです。詳しくは『大学授業入門』(宇佐美寛 東信堂)にあります。
◆
S10 今日は授業冒頭で、「社会と関わる」ことについて学びました。
学んだことを自分のためだけに活かすのではなく、社会をよくするために活かすというのは、すごくハードルの高いことだと思います。
ただ、これは私の好きな言葉「自他共楽」の意味に似ているなと感じました。この言葉は、少林寺拳法を習っていた時代に聞いた言葉なのですが、「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」といった意味があります。
学問もそれと同じで、決して自己完結せずに、そこから学び取ったものを地域や社会に活かす。これこそがほんとうに身に付く学習なのだと思いました。
また、作文指導については、今日は前回より格段に詳しい解説があったので、私自身、聞いている傍から「早く作文を書き直したい」と思ってしまうほどでした。小学校や中学校でこんな作文指導をしてもらえたら、もっと作文が好きになった子どもはたくさんいただろうにと思いました。
それから、物事を分かりやすく説明するときには、説明する相手にもっとも身近で臨場感のある例えが有効なんだなと感じました。
T 子どもの立ち位置に立つ。そこから大人の世界へ、学問の世界へ、子ども自身ではたどり着けないところに授業を通して導いて行く。そのガイドが先生ですね。
◆
S11 今日の授業で印象に残ったことは、「学んだことは自分のみにとどめず、社会に広げていく」ということでした。たしかに今は、いい学校いい会社へ入るために小さい頃から皆必死で教養をつけようとしています。親から「いい学校へ入れよ、そしていい会社に就職しろよ」といわれてきている子も多いと思います。
しかし、目標がそれだけとなれば、社会はたちまち崩れてしまうのではないでしょうか。
我が我がと自分の利益しか考えることのできない大人になってしまうと思います。そしてその結果として、今日先生がおっしゃていたような、堀江さんや、コムスンのような事件が起きてくるのではないでしょうか。
私が将来教える立場になったとき、子供達には、「今、勉強していることはね、将来君たちが社会に貢献するために必要なものなんだよ。君たちで協力しあって社会をより良いものにしていってほしい」と伝えていきたいと思います。
S20 今日の授業の中で『弱い人を助けられたり、勇気づけられる人が学力がある。』という先生がおっしゃられたことに、『確かにそうだけど、今の世の中には少ないな』と思いました。それは、“コムスン”や“ホリエモン”の事件のように、お金がある人が人を騙して金や利益を奪うといった悲しい事件が世の中でたくさんおこっているからです。
それはやはり教育のせいなのでしょうか。先生がおっしゃられたように、「学んだことを自分達の為に活かす教育しか習っていない」という教育がなされたために、このような悲しい事件がおこったのだと思います。本来なら、「社会につながる、社会を良くする人を育てる」のが教育です。それが間違った方向に進む人を作ってしまったのは、その教育方針とそのような流れを許してしまった社会にあるのではないでしょうか。
私の母は結婚してから苦労して私と妹を育ててくれました。私と妹は共に私立の高校を出ていますが、それも母親が自分の物をいっさい買わずに私と妹の教育費を出す為に働いてくれたからです。そのように考えると今でも涙が出ます。今でこそこのように考えることが出来ますが、高校生の頃はこのように考えることが出来ず、やんちゃばかりしていました。母親に苦労かけた分、これから恩返しをしていきたいです。また、親や社会のことを考えられる生徒を育てたいと改めて思いました。
T 親御さんに恩返しをするのは、当然です。
が、それでは足りません。
私がいつもカチンと来るのが、
「オレも(私も)若い頃は悪さをして、社会に迷惑をかけたけど、今は普通に頑張っている」
という台詞です。何を言っているのですか。悪かったのが普通になって何が偉いのですか。ぐれたくてもじっと我慢して、真っ当に若い時代を過ごしている人の方が圧倒的に多いはずです。
悪かったのなら、その悪かった分だけプラスに良くなっていなければなりません。それでいて、やっと普通です。悪かった分の二倍プラスに良くなって社会に貢献しているのであれば、
(頑張っているなあ)
と思いますが、普通ではダメです。この辺りのことは、恩送りではなく恩返しして貰いたいものです。
教師は仕事としてこれが出来る、ありがたく素晴らしい仕事です。
◆
S12 『意識』ということについて改めて考えました。
『書けば良い』ではなく『読まれなければならない』ということをしっかり念頭に置きたいと思います。
また、『意識』の話で「授業は〜」という話が出ましたが、本当にそうだなと実感しました。
T これ感想ではありません。あなたの呟きです。具体的に何がどうなっているのか、これでは、授業をした私ですら思い起こせません。
◆
S13 体験作文と小論文は何が違うのだろうと思っていましたが、今日の授業でよく解かりました。何か文章的に大きな違いがあるのだろうと思っていたので、タイトルの付け方が違うと知り驚きました。私は作文を書く際にタイトルはまず始めに書いてしまうため、次回から改めなければと思いました。
また最近池田先生の授業を受けていて「教師の声」の講義内容でやった、減り張りをつけることを思い出します。「最近の若者の喋り方には感情が入っていない」と言われたのがきっかけなのかも知れませんが、感情が入っていないと生徒から本当に信頼される教師にはなれないのでは?と感じました。実際に授業中に嬉しそうに先生が、現役時代の話しているときの笑顔に、私は強く惹き付けらますし、説得力があります。私も身に付けられるようになりたいと思いました。
T 人を引退したご隠居のように言わないように(笑)。
言葉と感情。どちらが原初の人間にあったと思いますか。感情でしょう。理論ですら、感情の発露の上に生まれるという言い方もできるのではないかと思っています。もちろん、感情は理性でコントロールされなければならないものでもありますが、嬉しい時に嬉しい顔をする、楽しい時に楽しい体の動きになる。そして、それが言葉に載るということを、がしっと受け止めましょう。あなたは書道をやる人なのですからね。
◆
S14 高校の時まで、作文というと適当に書いていたような気がします。「読者を意識して書く」ということを、していなかったのだと思います。大学に入ってからは、レポートやレジュメは書いても作文は書かないので、気にしていませんでしたが、昨年の池田先生の特別活動論で作文の書き方をかじり、目から鱗が出ました。そしてまた、今日の授業を聞いて、作文も人に読まれるために存在する文章なのだと感じました。
作文は、一人ひとりの能力によって上手な子とそうでない子の幅が大きいものではないでしょうか。その幅のある子供たちのために、上手に書けなくてもまずは書くことができるようにという指導であり、書ける子はもっと書けるようになるための指導が、今日の授業内容なのだと思いました。
T それもそうですが、人類が手にすることができた学習の権利の、根幹をなすものです。
引用開始 ーーーーーーーーーー
学習権宣言(1985年 UNESCO 国連教育科学文化機関)
学習権とは、
読み書きの能力であり、
質問し、分析する権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の権利を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手立てを得る権利であり、
個人および集団の力量を発達させる権利である。
引用終了 ーーーーーーーーーー
です。
◆
S15 作文指導に限らず、生徒にやる気を起こさせる。作文ならば、書きたい書きたい状態にすることが大事だと分かりました。そして、そのためには、教師が、その効果的な道筋・やり方を示してあげることが重要であると思いました。
学んだことを自分のために活かすことしかしらないと、勉強する意味が見えにくく、勉強する気が起きにくいと思いました。
今、中学・高校生は、勉強したことが社会のためになることを知らないと、今後、勉強したことが役に立つかどうかも分からないまま勉強しているというよりさせられている状態ではないかと思いました。なので、自分の学んだことが、社会にいかせることを知ってもらうような教育を目指し、生徒に勉強する気を起こさせるような指導をしていきたいと思いました。
T 「やる気」はどのようにして生まれるのか、考えたことはありますか? 調べたことはありますか? 現在の科学によってかなり解明されてきています。仮説を立ててから、調べてください。
◆
S16 今日の授業で、学校に通っている子供には年間100万円ものお金がかかっていることに驚きました。かつては、私にもそれだけのお金がかかっていたということです。
親には勿論のこと、名前も顔も知らない、働いて税金を納めてくれる人たちに感謝しなければ、と思います。
そして、そこで勉強した知識を人のために使えるようになりたいです。持っている知識を人に教えて社会のために役立てるのは、おいしいものを分け合って幸せを広げるようなことだと思います。
今日先生が質問された時は、視野が狭すぎました。自分とその周りにしか関心が向いていなかったです。これからは意識をもっと遠くまでのばして考えようと思います。
また、教師は次の世代を育てることもでき、自分の知識を直接社会に返すということもできる職業だと、改めて良さを感じました。
S24 今日の授業で最も印象に残ったのは、勉強するということは支えてくれている誰かがいる、という言葉です。
現在、中学生一人あたりに年間約百万円の税金が使われているということに驚きました。
先生がおっしゃった「学んだことを自分のためだけにつかうのではなく、社会をよくするために使うことが必要だ」という言葉も胸に残りました。
一生懸命に働いて税金を納めている人がいるからこそ私たちは勉強できます。そのことに感謝し、自分のためだけの学び、社会とのつながりの学びについて考えてみたいと思いました。
T だから、勉強しない中学生は「税金泥棒」なのです。もちろん、勉強をするように指導しない教師はもっと責任があります。
◆
S17 作文とは今までなんとなく書いていたものでした。でも「読者を想定し、相手を意識して書く」ということを学び、今まで書いた作文や今日の授業で提出した作文がいかに自分の中だけの作文だったかということに気付きました。
作文も小説とおなじで「読みたい!」と思わせるテクニックもあり、面白いものだなぁと感じました。
作文指導とは関係ないのですが、もう一つ今日の授業で思ったことがありました。それは池田先生の生徒を見る目です。授業中で先生は話しておられるのに一人の生徒が少し苦しそうにしているのをすぐに見つけたり、足を組んだりあくびをしている生徒を見つけたり・・・。本当に目は二つなのかな〜と思うことがよくあります。前の授業で「教室を大きく視野を広く見る」ということを教わりました。おそらく先生はそれが出来ているから生徒一人一人を見ることが出来ているんだと思います。
私も日頃からそういうトレーニングをしていこうと思いました。
T まあ、一昨年まで400人相手に話すなんてことをしていましたからね。25人ぐらいであれば、丸見えです(笑)。秘訣もあるのですが、それは奥義ですので、後期に君たちが気がつけば解説してあげましょう。
◆
S18 今日一番印象に残ったのは「作文は読み手を意識しなければならない」ということでした。
私は今まで、作文というと自分が書きたいことだけを書いてきたように思います。「先生が読みたいと思っているようなことを考えて書く」のではなく「先生が書かせるから私の書きたいことを書く」という感じでした。
今日の課題であった「***の***」も、正直に言うと、「授業中に使うのだから先生は読まないだろう」と考えて書いていました。手を抜いた訳ではないのですが、「読まれる」ということを知っているのと知っていないのでは、書き方が変わるように思います。
中学の時、選択授業の国語で小説を書くことになった時は「読まれる」ということをすごく意識して書いたのを覚えています。けれど、作文となると、「読まれるものだけど読み手を意識せずに書いていたもの」だったなと今日の授業を聞きながら思いました。
今後は文章を「読まれる」ということをもっと意識して書くようにしたいと思います。
インターネットで枕詞を調べてみたのですが、やはり「なぜか」が書かれているサイトは出てきませんでした。
一度きちんと文献で調べてみたいと思います。
そして、蛇いちご。以前、清友館の傍の竹林のところで見つけたのですがそこでしょうか?
フとした時に植物や風景を見るとすごく癒されるように感じます。なので、載せてくださるきれいな写真がいつも楽しみです。
T はは、残念でした。これは図書館の裏です。
「内なる他者」という言い方があります。自分の心の中にいる他人です。この他人がどんな他人なのかによってその人の行動の規範が決まってくることがあります。抑圧的な他者であれば、あなたはオドオドした他者になりますし、適当な他者であれば行動も適当になります。イージャン、イージャンということになるわけです。私の恩師は、自分の授業を振り返り
「教室の一番後ろに、恩師が見ていると思えば、いい加減な授業は出来ないんだな」
と呟いていらっしゃったのを私は覚えています。私もこの言葉を受け継いでいるつもりです。内なる恩師を教室の後ろに見てやる授業、結構大変ですが(笑)。
◆
S19 コトバを文字にして書き残すということは、自分も含めた誰かの目にとまることなのだと改めて感じました。
読んでくれる相手を意識して書くということが、今日提出した作文には抜けていたのではないかと思います。
それは、今までここに書いてきた授業の感想や、課題についてのコメントなどにも当てはまることだと思います。
それに気づけたことで、自分の中の意識が変わり、少しずつでも読者を意識した文章が書けるようになりたいと思いました。
読む相手を意識したものを書くということは、字の読みやすさにも関係があると感じました。今日返却された提出物に、先生から「もっと濃く」とのコメントがありました。
今回のものは提出する前から、(ちょっとうすいよな)と思っていたのですが、書き直すことをしませんでした。
そうやって、自分が「まぁいいか」と妥協してしまうことは簡単ですが、相手を意識しているとはいえません。自分本位なものです。
自分にとっても、相手にとっても、ベストなものにするために、「これでいい」ではなく「これがいい」と言い切れるものにしていこうと思いました。
T 東井義雄先生の「小さな勇気をこそ」という詩を捜してみてください。インターネットでも見つかるでしょう。あなたの背筋を伸ばしてくれるでしょう。私も時々読み返しては、同じように伸ばしています。
◆
S21 作文指導と聞いて、私はそれが=原稿用紙の使い方だと思っていました。今日の授業を聞いていて、作文は料理と同じという事をどこかで聞いたのを思い出しました。思い出した時にちょうど先生の質問が出たので、答えられて良かったです。
生徒の気持ちを「書きたい」にしておくと聞いて、自分が作文を書く時の気持ちを思い出してみました。私は小学校の頃から、行事の後に書く作文が好きでした。書く前の先生の話を聞いている時から、『あの事書こう』とか『あの時の気持ち書きたい』と頭の中に浮かべて、「書け」と言われたら、すぐ書き出せる事が多かったです。
しかし、私には「必要な材料を選ぶ」ということが出来なかったため、自分の書きたい事を次から次に書き続けていました。そのため、1−8−1の最後の1が指定の枚数に収まらない事がよくありました。
今日の授業を受けて、『読者が読みたい』と思ったものを書くと言うのが私には必要だったんだとわかりました。
本屋で読みたい本を探すのにも、中身よりまず題名で面白そうか見比べてしまいます。作文もその心理と同じで読み手は題名を見て、読み出しの気持ちが変わるものだとわかりました。
T 習ったことを、我がごととして捉える。自分の経験にくぐらせることは大事な作業です。これを行って、自分との違いを確認するわけです。疑問を発見するのです。世の中の学問は、実際に体験できないことなんていくらでもあります。「宇宙空間における〜」なんてのは、ほとんどの学者が体験できません。体験できることを活用できる教育はなんて良いのかと思います。活用してください。
◆
S22 今日一番印象に残ったのは、先生のお母さんの話でした。私は「本をいっぱい読みなさい」と学校などで散々言われてきたので「本なんか読んでないで家の手伝いをしなさい」という言葉はとても衝撃的でした。先生はお母さんに言われた後本を読むのをやめて家の手伝いをしたのでしょうか?もし自分が親に同じセリフを言われてもおそらくやめずに抵抗して、本を読み続けたと思います。
また「ヒマがないと本は読めない」というのは今現在すごく私が実感している言葉でした。こどもの頃はたとえ本を読んでいて寝る時間が遅くなっても、次の日に影響があるだけで、その次の日にはいつもどおりの生活に戻れていました。でも今は、一回生活がずれると一週間ぐらいはおかしいままになってしまいます。今は本を読む時間よりも睡眠時間を優先したい気持ちが強く、なかなか本を読むことができません。それでも最近は意識して本を読むようにしていますが、それでも買ったまま読めていない本があります。時間が欲しいと切実に思います。
でも大学生のうちからこの状態ではいざ教師になった時、どうなってしまうのだろうとすごく不安になります。おそらく教師なれば今よりももっと時間の余裕はなくなるのでしょう。激務の間をぬって自分の趣味の時間を持っている先生たちはすごいと思います。
T やめないでいたら大変なことになります。私の母を侮ってはなりません(笑)。
ヒマがないから本が読めない。そうです。だから読む時間は作るのです。ちなみに、私は児優館の一階でエレベーターを待っている時に本を読んでいますが、君はそういう時間のときはどうしていますか? いま、さっと取り出せる本は何冊ありますか。ヒマを作る、ヒマな時に本を読むということはそういうことでもあるのですよ。
◆
S23 私の母も中学を卒業してすぐ、一人で名古屋の方で就職をしたそうです。母はすごい苦労をしてきた、と回りの人は私に言いますが私は「ふーん」と母に深く追求する事もなく流していました。苦労話を聞いたのは中学二年の時でした。母の涙を初めて見た日でもありました。私は服が買えなくて、ぶっきらぼうな態度で母と接していた時にこの話を聞きました。
私はその時の母が忘れられません。私は初めて言葉が出てこないという胸の痛さが分かりました。この事を今日思いだしました。
私が今ここにいられるのは、家族を始め様々な人たちのおかげです。だからこそ頑張らなければならないし、頑張れるのだと思います。このような事を生徒に語れる教師になりたいと改めて思いました。
T 言葉を越える何かを感じることが、言葉をきちんと理解する土台になるのではないでしょうか。君はその言葉にならない何かを、言葉で、書道でなんとかしようとすることに挑戦しているわけです。是非書き込んでそれは何なのかを探し当ててみてください。
◆
S25 先生のお母様の話が印象的でした。
「学習者は『学び』を学習者だけのものにしない」ということが重要なのだと感じました。
学んだことをどう社会に活かすのか、ということを子どもに教えることも、教師の役割のひとつなのかもしれない、とも思いました。
「教師は種蒔きの仕事だ」という言葉も印象的でした。
その通りだと思います。改めて、教師という仕事は「目に見えないもの」を相手にしているのだと思いました。
そういう意味では、教師にはある種の悠然とした態度が必要なのかもしれません。
「気長に待つこと」。今からそのような考え方の癖をつけていきたいと思いました。
T バランスですね。その場でやらせなければならないことと、20年後に出来るようになっていれば良いこと。色々な内容があり、色々な指導のレベルがあります。簡単に「これ」と行かないのが人間を相手にするということです。
■□■
一回目の体験作文の評価を行った。予め伝えてあるように、「読みやすい字(濃く、太く、大きく)で書けてあること」「正しい文字で書いていること」「原稿用紙の使い方が適切であること」「指定の枚数(3枚)」で書けていることなどで評価した。内容に立ち入っての評価はしていない。
ここではa,b,cで評価したが、実際はこのaの評価を受けたものしか本文、つまり内容の評価はしないと判断するように。
内容以前の問題をきちんとするように。
君たちは国語科の教師になるのです。
■□■
そうです、国語の教師になるのです。今回私の母の話を授業でした。それで諸君の感想に何回か母が登場した。それを引用してみよう。
次に池田先生のお母さんの話がでた。
子育てがおわってから読書を始めたお母さん。池田先生を育てたお母さんに会ってみたいと思った。
今日一番印象に残ったのは、先生のお母さんの話でした。
先生はお母さんに言われた後本を読むのをやめて・・・
先生のお母様の話が印象的でした。
私の母親は、怖いが、特に偉いというわけではない。ではあるが、大学生の諸君、しかも、国語の教師を目指している諸君、その諸君を指導している私の母親に対して使う言葉としては、どれが適切であろうか。分かるであろう。どれが不適切であるかも分かるであろう。
言葉は簡単には治らない。
もう、10回も国語科教育法1の授業をしているのに、10回も感想文を書いているのに、上記のようになるのだ。
咄嗟の時に、日頃の言葉が出てくるのである。だから、日頃の言葉遣いが大事なのである。採用試験の面接で
「私のお母さんが」
なんてつい、言ってしまうぞ。
■□■
私のいた大学では、古典の研究室でとんでもないことが日常的に起きていた。共同研究室ということで、一つの研究室に数人の先生方がいらっしゃった。そこでの会話である。
「先生はもう、召し上がりましたか?」
「先生はもう、食べられましたか?」
「先生はもう、お食べになられましたか?」
を先生によって使い分けているのである。動詞の違いだけで動作の主体が誰なのかが分かるのである。これで研究室の会話は成立しているのである。
(ひえ〜、とんでもないところに来てしまった)
と心底思ったものである。だが、いまでは実にありがたいと思っている。
■□■
(池田はいちいち細かいことを言う)
と思っている諸君もいるだろう。だが、心して読むが良い。教師は怒ってくれる。間違いを指摘してくれる。しかし、この先、間違いがあっても君たちは放置されることの方が多くなってくるのだ。
誰も好き好んで人間関係を壊してまで、相手を怒ろうなんてことをしてくれる人は、そうそういない。
(ありゃあ、ひでーなー)
と思いながら、
「いやあ、こんにちは。いい天気ですね」
などという会話を続けるものなのだ。
いちいち相手のことを構っているほど、世の中の人は閑じゃないのである。逆恨みでもされたら大変だから放っとくのである。
君たちは国語科の教師になるのです。
国語科教育法通信 修学 NO.56〜64