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2007/06/30

ああ、今日も戦いである

研究室にこもって昨日の分まで仕事に勤しむ。
んが、外から楽しそうな歓声。
ああ、今日も戦いであるf(^^;。

実は、今日は学生たちが自主的に行う大学の運動会である。体育会のクラブが主催してのようなものではなく、学生の有志が実行委員会を組織して運営する運動会である。去年に引き続き二回目。共学になって大学に良い勢いがついたことの一つの現れであろう。

我がクラスのメンバーは二チーム作り全員参加。傍で応援してあげたいが、そんなことしたらまたまた仕事が進まないので、必死に堪えて仕事をする。

しかし、楽しそうな歓声がf(^^;。

             ◆

昼ご飯を挟んで、さらに集中して仕事を進め、一段落したところで我慢しきれずにグラウンドに向かう。いくつかの競技でクラスの作っているチームは決勝に進出している。

私が見に行った時の百足リレーも一つのチームが決勝進出を決めていた。新入生キャンプの時の小運動会ではぼろ負けだったのが嘘のようであるf(^^;。

             ◆

夕方から吉田神社に出掛ける。『鴨川ホルモー』の舞台になったあの神社である。吉田ということで、吉田兼好にも関係のある神社である。

今日は6月30日。満月である。
関東人の私にはまったく知られていなかった行事が、この日に京都の神社と言う神社で行われるので、体験しにいったのである。

「夏越しの祓い」(なごしのはらい)という。一年の半分を無事に過ごしてきて、そして後半を無事に過ごすために行う行事である。

人事を行った後、茅で作った大きな輪っかの中を三回くぐり抜けるのである。大宝律令でそのやり方が決められていたと言う由緒正しい行事なのである。

東京にいる時は全く知らなかった。去年奥さんが参加してきて、今年は私も一緒にというので参加したのだ。

終了後、魔除けの茅を戴く。一家に一本と言うのに、もの凄い量を貰っていく人もいた。私は家と研究室用に二本戴く。そろそろ採用試験だもんな。縁起を担げるものは担いでおこう。

             ◆

さて、あとは満月を楽しもうぞ。

2007/06/29

嬉しい来客があって

今日は午後から研究室にこもって、仕事をする予定であった。
一つの仕事は進んだ。
七月末に出版する本のゲラが届いたので、
そのチェックをした。

が、もう一つは、嬉しい来客があって
そちらと一緒に時間を過ごしてしまって終わらなかった。
教育実習に行って帰って来た学生たちの報告。
研究の方向性を相談しにいらっしゃった先生。

たっくさん、話をした。
とても面白かったなあ。
目の前の仕事は、自分だけでもできる。
だけど、話はできない。

教育ってのは、こうして実際に人と話をすることで
何らかのものを生み出すことが大きいと思う。

それが、研究室で行えるのはうれしい。
これも、研究である。

大雨の後の東山上空には美しい夕日が顔を出してきた。
さて、もう一踏ん張り頑張るか。

アイディアを活用

面談と会議の一日だった。
朝の九時からお昼過ぎまでずっと面談。夕方の四時から九時ぐらいまで会議。会議の最中は、久しぶりに耳鳴りが激しくて参った。体は正直であるf(^^;。

だが、一方で楽しみがある。学生に課した課題のことである。先週の課題は、以前から考えていた課題である。が、その以前とは中学校の教員をしていた数年前のことで、その時は私が大学の教員になるとは思ってもいなかった時である。

このアイディアが、大化けするんじゃないかなと感じている。

            ◆

「○○をするために、アイディアを考える」ということもあるが、一方で「突然出てきたアイディアを取りあえず記録する」ということもある。なんのためにこんなの使うのかと思うようなアイディアでも、取りあえず記録しておく。

そういうアイディアは、環境が整っていないから活用できないだけであって、ちょっとした環境の変化だけで突然有効になることもある。これが心地よい。さすがに今は環境の変化を待つ、というだけではなく、環境の変化を作り出すことも覚えた。そうすると、ますます過去のアイディアを活用できるのだろうなあと、嬉しく思う。

このわくわく感がいいんだな。
実践に入る前の、プランニングの時のなんとも言えないわくわく感ね。

            ◆

面談と会議の間の時間で、読書もしていた。
宇佐美先生の本を書き写しながら読んでいた。

学生たちには、
『「濃く太く大きく」書くように』
と言っているのだが、なかなかそうならない。私の見る限りでは「普通の濃さで、普通の太さで、普通の大きさで」書けるようになった程度である。

(あー、学生を甘やかしているな)
と思いながら、「濃く太く大きく」ってのはどのようなものかを実際に見せてやろうと思って書き写していた。ま、私の大学時代の書道の恩師、佐野光一先生も、学生に示す課題は実際に自分でやられたものを提示されていたからいいか。原稿用紙13枚。一枚あたり30分かかったかな。6時間半。一日一時間やれば、一週間で書ける分量だ。

あ、これも学生への課題で良いかも。
また、アイディア一つ見っけ(^^)。

2007/06/28

面談始まる

児童教育学科で学ぶ諸君は、後期から児童教育コースと幼児教育コースに分かれて学ぶことになる。そのコースを選択するための個人面談を今週から始めている。もうすでに、10人の予定のうち、「8.5人」が終わった。

          ◆

自分の進路を決めていく。これは、今の時代に生きている私達に許されている贅沢な行為なのかもしれない。150年前にこの国に命を受ければ、生まれた瞬間にほぼ仕事は決まっている。

しかし、私達は少なくとも、自分はどういう仕事に就きたいのかと考えることを許されている。そして、それに向かって努力することも許されている。私達は当たり前と思っていることだが、150年ではなく、50年前だって限られた進路しか選べない人はいたし、いまだってそんなこと想像すらできない生活を送っている若者がこの世界にはいる。

職業選択の自由は日本国憲法で守られている。しかし、その一方で勤労は義務でもある。諸君はそんな中で教師・保育士という仕事に進もうとしている。

          ◆

もちろん、選んだらなれるというのは、甘い。採用試験に合格するのは、この仕事のスタートであり、そこから1万時間の努力が必要であることは、最初のガイダンスでも述べた。

また、研究入門ゼミでさまざまな基本的な学び方を伝え、考えるという作業もさせている。

そういう流れを受けての「面談」だと私は理解している。

          ◆

で、その面談だが、考え方が甘い諸君がいる。面談への取り組みの姿勢がたるんでいる諸君である。

1)服装
2)原稿用紙の文字 その1
3)原稿用紙の文字 その2

1)自分の進路を相談する面談であるにもかかわらず、私がネクタイにブレザーを着て対応しているにも関わらず、だらしのない服装、サンダル履きで平気で面談を受けようとする者がいる。

研究室の扉に張ってある「研究室に入る際の心得」にはなんと書いてあるか。第一項目に「研究室に入る時は、脱帽、脱コートをして身だしなみを整える。」とあるはずだ。自分の進路に真剣な学生諸君は、普通の身嗜み以上で来るはずである。指導者がネクタイをして、上着を着て対応するのにも関わらず、きちんとした格好で面談に臨まないのは、失礼極まりないことだと認識しなさい。

2)「濃く、太く、大きく」書くが、できていない。美しく書けとは言っていない。美しく書くのは、難しい。また、美しすぎると読めない字になってしまうこともある。

「濃く、太く、大きく」書くことは、やればできる。時間をかけてやればできる。それをやっていないのは、私の指示を聞いていないか、無視をしているかのどちらかである。正しい指示に従った学生が損をするような指導を私はするつもりはない。

3)字が幼い。手書きできちんと文章を書いてきた経験が少ないのだろう。あなたが今作文に書いた文字で、子どもの連絡帳に説得力のある文章が書けるだろうか。

ワープロで文章を書く時代ではあるが、子どもの持ち物、連絡帳、教室の掲示物などなど、まだまだというか、これからもずっと手書きは残る。作文の字がこの程度であれば、板書はおそらく目も当てられないだろう。練習を要する。

          ◆

もちろん、きちんとできている諸君もいることはいる。だが、まだまだである。

順番が先だったがために怒られ、このように書かれている人もいるやも知れない。だが、それはそれ。できている人もいるのだから、自分の問題として引き受けるように。

これからの諸君は、「やり直し」のないように。

研究入門ゼミ通信 起筆 NO.20

授業の感想にこたえる55〜63

S1 「子どもは、たくさん書けばいいのだと思っている」……この言葉、身に覚えがあったので、自分のことを言っているのか!?とおっかなびっくりしてしまいました。
小さい頃から人より長く文章を書く癖があります。たくさん書くことで主題がぼけて、煩雑な文章になりがちです。

授業の感想文で、制限枚数に収まらなかったことで減点をもらい、非常にショックを受けた経験があります。短いと叱られ、長いと褒められるのが感想文の常だったからです。最近になってやっと、それだけに拘っては駄目だということに気付いてきました。

「文章を書くときに、ネタを吟味して良いものだけを使う」
これは作文だけでなく、論文を書くときにも実感することです。調べたことを一から十まで全部レジュメに書いてしまったら、何が大切なのかわかりません。伝えたい事が霞んでしまって、読み手への印象も薄くなりがちです。

私の尊敬する研究員の方が、「何ヶ月も調べてきたことを五分とか二十分で発表しなければいけない。どんなに苦労して時間をかけたところも、最重要でなければ発表内容から外さなければいけない。何が一番発表するに相応しいか選ぶのが、研究で一番難しいところだ」とよく言っています。
これは作文にも十分当てはまることだと思いました。

原稿用紙三枚に書くに相応しい内容を選び出す作業が、私には足りていなかったと感じます。美味しいカレー、即ち面白いと思ってもらえる文章を作るために、テーマを絞って内容の濃い作文が書けるように善処します。
今の自分にとってそれが一番鍛えられるのは、この掲示板の授業感想文です。徐々に良い文が書けるように訓練していきます。

T だってねえ、特に自然科学系の世界は、E=MC2で現せてしまう世界にいるわけですからね。社会科学系の教育学でも同じですよ。ちなみに私は20万字を修論に使いましたが、この研究を元にした学会での発表時間は準備も含めて20分でした。伝えるということは、切り捨てるということなんです。その苦しみを経て伝わる喜びを教えるべきだと私は考えています。編集されていないホームビデオなんて見せられるのは、苦痛でしょ(笑)。

もちろん、たくさん書くことを目標とする作文指導もあることを念のために記しておきます。

S2 「相手を意識して書く」このことを私は全くできていなかったように思います。ただ自分が書きたいこと、感じたことをどうにか文章で伝えようとしていました。しかし、いつも文章がだらだらしてしまうので、先を読む気がしない文章になってしまっていたと思います。これからは相手を意識し、相手が読みたくなるような文章を書くよう心がけようと思います。
私の今までの作文づくりでは下準備がちゃんとできていませんでした。カレー作りで言うと、材料がそろっていないのに料理を作りはじめ、途中で材料が足りないことに気付き、あわてて買いに行くといったような感じです。これは最悪のカレー作りであるように、私の作文づくりは最悪であることがわかりました。これからは材料を集め、使えるものを吟味し、読む人のことを考えた作文づくりができるようにしたいです。
「作文づくり=料理」と例えることは、子供たちにもわかりやすく教えることができると思います。作文指導を「書け」で終わらせるような教師にならなくてよかったと思いました。

S4 作文を書けと言われて、私は書き始めることができなかったことはないし、何かしら書くことはできたけれど、今日の話のように料理を作るのと同じ手順で考えたことはありませんでした。この話を小学校、中学校のときに聞いていたらもっと書きやすくなっていたと思うし、読者のことを意識することもできました。今日話を聞いて、自分が前回書いたものよりもいいものが書けるような気がしたし、書きたいと思えました。生徒を「書きたい」という状態にしてあげることが本当に必要だとよくわかりました。
そして今日はもう一つ、「賢くなることは社会と繋がること」ということも心に残っています。人を育てることができる人間になりたいと思いました。

S7 「賢くなることは社会と繋がること」とても印象に残っています。今の私は狭い殻に閉じこもっていると思います。学生のうちは貪欲になり、多くのことを学ぶことで知識を身につけなければならないと思いました。そして、たくさんの人と出会えるようなきっかけがある場にどんどん参加できる意欲を持ち、殻破りをしていかなければならないと感じました。
(作文指導の話での感想)
私は文章書くのが苦手なので、作文も苦手です。しかし、先週から作文指導について学んでいると、作文を書くということに少し抵抗がなくなったような気がしました。自分ができていなかった部分がよくわかったので、とても勉強になりました。

T 次は、子どもたちをその気持ちにするための指導方法を身につけることです。あなたが分かることと、あなたが出来ることは別の問題です。

S3 「作文を書くことは料理に似ている」という話を聞いて、そう書けば良いのか!と思いました。
今回の授業で一番印象に残ったのは作文を書く上での読み手への意識です。
どんなに内容が素晴らしくても、タイトルが「読みたい」と思わせるようなものでなくては読んでもらえない。その通りだと思います。
その話を聞いて、「読みたいと思わせるようなタイトルを付けなさい」と先生から言われたのを思い出しました。ずっと、タイトルは一番最初に書くものという意識が強く、タイトルを決めることに時間をとられ、書きたいという気持が薄れてしまったこともあります。そこで一言、「最初に仮のタイトルをつけ、本文を書き終えた後で考えても良いんだよ」と言ってもらえたら私の作文への意識は違ったものになっていたと思います。
きちんと作文を書く力がつくように意味のある強制を行う、それが作文指導であり、ただ「書け」と言うことは指導ではないということがわかりました。

T 書けば読んでもらえるのが、学校です。ですが、そういう状況で育っている子どもたちは、いい加減に書くことも覚えてしまいます。「こんなものは読まない、読めない」というのも教える必要があるのではないでしょうか。

S5 今日はいつも以上に頭がフル回転したような気がした。
 “いい高校、いい大学、いい会社に入れば幸せな一生が送れる”という教育が過去にされてきた。果たしてその教育は正しかっただろうか。おかしくはないか?なぜおかしい?今日の第一問である。私はこう思った。『逆に“いい”ところに行けなかった者達は自分はデキナイ人間、不幸な人生になるのでは…という思考になってしまい、やる気をなくし、今の社会現象でもある“ニート”につながったのでは?』と。挙手してこの意見を言う勇気がでなかったのが、とてもくやしく感じた。
 次に池田先生のお母さんの話がでた。なぜ池田先生が幼い頃、本を読むのをやめさせ、自分も本を読まなかったのか。『読む時間がなかったからよ。』そりゃそうだ、と思った。子育てがおわってから読書を始めたお母さん。池田先生を育てたお母さんに会ってみたいと思った。

 そして作文指導の話になってからの問いが“作文は○○に似ている。さあ何か?”だった。まさか料理だとは考え付かなかった。しかし作文をカレーの作り方にたとえると、細かい工程まで見事にぴったりと合って素晴らしいなと思った。そしてなにより分かりやすいと思った。
 この説明だったら“つまんない(嫌い)、書けない、分かんない作文”が生まれ変わって、“おもしろい(好き)、書ける、分かった、作文”になるんじゃないかと確信が持てた。
 指導者の立場に立つときは、生徒の視点になって、生徒が壁に感じているものをひとつひとつ取り除いていってあげることが肝心なんだと思う。

T その時の魔法の言葉があります。
「君は何が分からないの?」「君は何が分かれば出来るようになるの?」です。生徒が話す「何」についての対策を、プロの教師として君が用意すれば良いのです。そして、だんだんと子どもが自分で出来るようにして行けば良いのです。「先生、自分で出来ます」と言われることを楽しみにして。

S6 学んだことを僕たちは僕たちの為だけじゃなく社会の為に…。なんの為に学ぶのか、なんのために必死こいて覚えるのか、社会の貢献者になる為、そう言われるとなんだか意欲が湧きそうな気がした。自分がこの広い世の中を作るんだという気持ちになれる。社会に関わることの大切さや意義を学んだ授業になった。
カレー作りという具体的な例がすごくわかりやすかった。ちなみに僕は頭の中でご飯も炊いてました。
教え方の例として学んだが、これから先 まだまだ使えるテクニックや方法を学べてよかった。

今までこんなに丁寧に背中を押してくれるような指導を受けてこなかった。もしあの時このように学んでいれば何か変わっていたかもしれない…
今こうして学んだ以上絶対に子供たちにそのような思いはさせない。

T できれば福神漬けも用意して下さい(笑)。
私も小学校から大学まで詳しく作文の書き方指導は受けたことはないです。が、教師になったら指導しなければならないのです。自分で学んで教えるしかないのです。国語や教育の世界にはまだそのような部分が沢山あります。そこで活躍するときに十分に活躍できるように、十二分の力を蓄えなさい。

S8 今回の授業を聞いて、私は自分の書いた作文が恥ずかしくなりました。
「****の***」というテーマでしたが、材料確認や買い物が不十分で最初の三行を魅力的にどころか読み手を考えることが全くできていなかったように思います。分量も全体的に短く改善点がいっぱいあるので、次に書く作文は一つ一つ気をつけて書きたいです。

また今日は社会との繋がりも改めて見直すことが出来ました。
今、私がしていることはほとんどが自分を中心で、目を向けても本当に近い人たちだけでした。そしてそれが当たり前だと思っていました。
でも、いろんな人の助けがあって今までの学習できていたと思うと、自分が返せる事を真剣に行っていきたいです。

T 今まで受け取ったものを返すことは、ほとんど無理です。恩は返すものではなく、次の世代に送るものです。恩返しではなく、恩送りという日本語があります。私の好きな日本語です。

S9 今日の授業で印象に残ったことは二つ。
 一つは、「学んだことを自分を生かすだけではなく、社会に生かすこと」。
 これを聞いた時、先日ニュースでミスユニバースに選ばれた日本人女性が、今後の目標として「チャリティー活動を通じて社会に貢献できたらいいと思う」と話していたことを思い出しました。そのときは「その美貌があれば芸能界などで活躍することもできるのに…考えることが大きいなあ」と感心していたのですが、彼女こそ今日先生が話しておられていた「学力のある人」なんだなと今しみじみ感じています。
 そして、二つ目は「数字など具体的なことを書くこと」。
 私はいつも数字が聞き取れず、メモができないことが多いのですが…これからは具体的なものに注意を向けていきたいと思います。

T 具体的な事柄が、あなたの抽象的な思考を鍛えます。だから、具体的な事柄をメモするのです。詳しくは『大学授業入門』(宇佐美寛 東信堂)にあります。

S10 今日は授業冒頭で、「社会と関わる」ことについて学びました。
 学んだことを自分のためだけに活かすのではなく、社会をよくするために活かすというのは、すごくハードルの高いことだと思います。
 ただ、これは私の好きな言葉「自他共楽」の意味に似ているなと感じました。この言葉は、少林寺拳法を習っていた時代に聞いた言葉なのですが、「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」といった意味があります。
 学問もそれと同じで、決して自己完結せずに、そこから学び取ったものを地域や社会に活かす。これこそがほんとうに身に付く学習なのだと思いました。

 また、作文指導については、今日は前回より格段に詳しい解説があったので、私自身、聞いている傍から「早く作文を書き直したい」と思ってしまうほどでした。小学校や中学校でこんな作文指導をしてもらえたら、もっと作文が好きになった子どもはたくさんいただろうにと思いました。
 それから、物事を分かりやすく説明するときには、説明する相手にもっとも身近で臨場感のある例えが有効なんだなと感じました。

T 子どもの立ち位置に立つ。そこから大人の世界へ、学問の世界へ、子ども自身ではたどり着けないところに授業を通して導いて行く。そのガイドが先生ですね。

S11 今日の授業で印象に残ったことは、「学んだことは自分のみにとどめず、社会に広げていく」ということでした。たしかに今は、いい学校いい会社へ入るために小さい頃から皆必死で教養をつけようとしています。親から「いい学校へ入れよ、そしていい会社に就職しろよ」といわれてきている子も多いと思います。
しかし、目標がそれだけとなれば、社会はたちまち崩れてしまうのではないでしょうか。
我が我がと自分の利益しか考えることのできない大人になってしまうと思います。そしてその結果として、今日先生がおっしゃていたような、堀江さんや、コムスンのような事件が起きてくるのではないでしょうか。
私が将来教える立場になったとき、子供達には、「今、勉強していることはね、将来君たちが社会に貢献するために必要なものなんだよ。君たちで協力しあって社会をより良いものにしていってほしい」と伝えていきたいと思います。

S20  今日の授業の中で『弱い人を助けられたり、勇気づけられる人が学力がある。』という先生がおっしゃられたことに、『確かにそうだけど、今の世の中には少ないな』と思いました。それは、“コムスン”や“ホリエモン”の事件のように、お金がある人が人を騙して金や利益を奪うといった悲しい事件が世の中でたくさんおこっているからです。

 それはやはり教育のせいなのでしょうか。先生がおっしゃられたように、「学んだことを自分達の為に活かす教育しか習っていない」という教育がなされたために、このような悲しい事件がおこったのだと思います。本来なら、「社会につながる、社会を良くする人を育てる」のが教育です。それが間違った方向に進む人を作ってしまったのは、その教育方針とそのような流れを許してしまった社会にあるのではないでしょうか。

 私の母は結婚してから苦労して私と妹を育ててくれました。私と妹は共に私立の高校を出ていますが、それも母親が自分の物をいっさい買わずに私と妹の教育費を出す為に働いてくれたからです。そのように考えると今でも涙が出ます。今でこそこのように考えることが出来ますが、高校生の頃はこのように考えることが出来ず、やんちゃばかりしていました。母親に苦労かけた分、これから恩返しをしていきたいです。また、親や社会のことを考えられる生徒を育てたいと改めて思いました。

T 親御さんに恩返しをするのは、当然です。
が、それでは足りません。
私がいつもカチンと来るのが、
「オレも(私も)若い頃は悪さをして、社会に迷惑をかけたけど、今は普通に頑張っている」
という台詞です。何を言っているのですか。悪かったのが普通になって何が偉いのですか。ぐれたくてもじっと我慢して、真っ当に若い時代を過ごしている人の方が圧倒的に多いはずです。
悪かったのなら、その悪かった分だけプラスに良くなっていなければなりません。それでいて、やっと普通です。悪かった分の二倍プラスに良くなって社会に貢献しているのであれば、
(頑張っているなあ)
と思いますが、普通ではダメです。この辺りのことは、恩送りではなく恩返しして貰いたいものです。

教師は仕事としてこれが出来る、ありがたく素晴らしい仕事です。

S12 『意識』ということについて改めて考えました。
『書けば良い』ではなく『読まれなければならない』ということをしっかり念頭に置きたいと思います。
また、『意識』の話で「授業は〜」という話が出ましたが、本当にそうだなと実感しました。

T これ感想ではありません。あなたの呟きです。具体的に何がどうなっているのか、これでは、授業をした私ですら思い起こせません。

S13 体験作文と小論文は何が違うのだろうと思っていましたが、今日の授業でよく解かりました。何か文章的に大きな違いがあるのだろうと思っていたので、タイトルの付け方が違うと知り驚きました。私は作文を書く際にタイトルはまず始めに書いてしまうため、次回から改めなければと思いました。
 また最近池田先生の授業を受けていて「教師の声」の講義内容でやった、減り張りをつけることを思い出します。「最近の若者の喋り方には感情が入っていない」と言われたのがきっかけなのかも知れませんが、感情が入っていないと生徒から本当に信頼される教師にはなれないのでは?と感じました。実際に授業中に嬉しそうに先生が、現役時代の話しているときの笑顔に、私は強く惹き付けらますし、説得力があります。私も身に付けられるようになりたいと思いました。

T 人を引退したご隠居のように言わないように(笑)。

言葉と感情。どちらが原初の人間にあったと思いますか。感情でしょう。理論ですら、感情の発露の上に生まれるという言い方もできるのではないかと思っています。もちろん、感情は理性でコントロールされなければならないものでもありますが、嬉しい時に嬉しい顔をする、楽しい時に楽しい体の動きになる。そして、それが言葉に載るということを、がしっと受け止めましょう。あなたは書道をやる人なのですからね。

S14 高校の時まで、作文というと適当に書いていたような気がします。「読者を意識して書く」ということを、していなかったのだと思います。大学に入ってからは、レポートやレジュメは書いても作文は書かないので、気にしていませんでしたが、昨年の池田先生の特別活動論で作文の書き方をかじり、目から鱗が出ました。そしてまた、今日の授業を聞いて、作文も人に読まれるために存在する文章なのだと感じました。
作文は、一人ひとりの能力によって上手な子とそうでない子の幅が大きいものではないでしょうか。その幅のある子供たちのために、上手に書けなくてもまずは書くことができるようにという指導であり、書ける子はもっと書けるようになるための指導が、今日の授業内容なのだと思いました。

T それもそうですが、人類が手にすることができた学習の権利の、根幹をなすものです。

引用開始 ーーーーーーーーーー

学習権宣言(1985年 UNESCO 国連教育科学文化機関)

学習権とは、
読み書きの能力であり、
質問し、分析する権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の権利を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手立てを得る権利であり、
個人および集団の力量を発達させる権利である。

引用終了 ーーーーーーーーーー

です。

S15 作文指導に限らず、生徒にやる気を起こさせる。作文ならば、書きたい書きたい状態にすることが大事だと分かりました。そして、そのためには、教師が、その効果的な道筋・やり方を示してあげることが重要であると思いました。

学んだことを自分のために活かすことしかしらないと、勉強する意味が見えにくく、勉強する気が起きにくいと思いました。
今、中学・高校生は、勉強したことが社会のためになることを知らないと、今後、勉強したことが役に立つかどうかも分からないまま勉強しているというよりさせられている状態ではないかと思いました。なので、自分の学んだことが、社会にいかせることを知ってもらうような教育を目指し、生徒に勉強する気を起こさせるような指導をしていきたいと思いました。

T 「やる気」はどのようにして生まれるのか、考えたことはありますか? 調べたことはありますか? 現在の科学によってかなり解明されてきています。仮説を立ててから、調べてください。

S16 今日の授業で、学校に通っている子供には年間100万円ものお金がかかっていることに驚きました。かつては、私にもそれだけのお金がかかっていたということです。
親には勿論のこと、名前も顔も知らない、働いて税金を納めてくれる人たちに感謝しなければ、と思います。

そして、そこで勉強した知識を人のために使えるようになりたいです。持っている知識を人に教えて社会のために役立てるのは、おいしいものを分け合って幸せを広げるようなことだと思います。
今日先生が質問された時は、視野が狭すぎました。自分とその周りにしか関心が向いていなかったです。これからは意識をもっと遠くまでのばして考えようと思います。

また、教師は次の世代を育てることもでき、自分の知識を直接社会に返すということもできる職業だと、改めて良さを感じました。

S24 今日の授業で最も印象に残ったのは、勉強するということは支えてくれている誰かがいる、という言葉です。
現在、中学生一人あたりに年間約百万円の税金が使われているということに驚きました。
先生がおっしゃった「学んだことを自分のためだけにつかうのではなく、社会をよくするために使うことが必要だ」という言葉も胸に残りました。
一生懸命に働いて税金を納めている人がいるからこそ私たちは勉強できます。そのことに感謝し、自分のためだけの学び、社会とのつながりの学びについて考えてみたいと思いました。

T だから、勉強しない中学生は「税金泥棒」なのです。もちろん、勉強をするように指導しない教師はもっと責任があります。

S17 作文とは今までなんとなく書いていたものでした。でも「読者を想定し、相手を意識して書く」ということを学び、今まで書いた作文や今日の授業で提出した作文がいかに自分の中だけの作文だったかということに気付きました。
作文も小説とおなじで「読みたい!」と思わせるテクニックもあり、面白いものだなぁと感じました。
作文指導とは関係ないのですが、もう一つ今日の授業で思ったことがありました。それは池田先生の生徒を見る目です。授業中で先生は話しておられるのに一人の生徒が少し苦しそうにしているのをすぐに見つけたり、足を組んだりあくびをしている生徒を見つけたり・・・。本当に目は二つなのかな〜と思うことがよくあります。前の授業で「教室を大きく視野を広く見る」ということを教わりました。おそらく先生はそれが出来ているから生徒一人一人を見ることが出来ているんだと思います。
私も日頃からそういうトレーニングをしていこうと思いました。

T まあ、一昨年まで400人相手に話すなんてことをしていましたからね。25人ぐらいであれば、丸見えです(笑)。秘訣もあるのですが、それは奥義ですので、後期に君たちが気がつけば解説してあげましょう。

S18 今日一番印象に残ったのは「作文は読み手を意識しなければならない」ということでした。
私は今まで、作文というと自分が書きたいことだけを書いてきたように思います。「先生が読みたいと思っているようなことを考えて書く」のではなく「先生が書かせるから私の書きたいことを書く」という感じでした。
今日の課題であった「***の***」も、正直に言うと、「授業中に使うのだから先生は読まないだろう」と考えて書いていました。手を抜いた訳ではないのですが、「読まれる」ということを知っているのと知っていないのでは、書き方が変わるように思います。
中学の時、選択授業の国語で小説を書くことになった時は「読まれる」ということをすごく意識して書いたのを覚えています。けれど、作文となると、「読まれるものだけど読み手を意識せずに書いていたもの」だったなと今日の授業を聞きながら思いました。
今後は文章を「読まれる」ということをもっと意識して書くようにしたいと思います。

インターネットで枕詞を調べてみたのですが、やはり「なぜか」が書かれているサイトは出てきませんでした。
一度きちんと文献で調べてみたいと思います。

そして、蛇いちご。以前、清友館の傍の竹林のところで見つけたのですがそこでしょうか?
フとした時に植物や風景を見るとすごく癒されるように感じます。なので、載せてくださるきれいな写真がいつも楽しみです。

T はは、残念でした。これは図書館の裏です。

「内なる他者」という言い方があります。自分の心の中にいる他人です。この他人がどんな他人なのかによってその人の行動の規範が決まってくることがあります。抑圧的な他者であれば、あなたはオドオドした他者になりますし、適当な他者であれば行動も適当になります。イージャン、イージャンということになるわけです。私の恩師は、自分の授業を振り返り
「教室の一番後ろに、恩師が見ていると思えば、いい加減な授業は出来ないんだな」
と呟いていらっしゃったのを私は覚えています。私もこの言葉を受け継いでいるつもりです。内なる恩師を教室の後ろに見てやる授業、結構大変ですが(笑)。

S19 コトバを文字にして書き残すということは、自分も含めた誰かの目にとまることなのだと改めて感じました。
読んでくれる相手を意識して書くということが、今日提出した作文には抜けていたのではないかと思います。
それは、今までここに書いてきた授業の感想や、課題についてのコメントなどにも当てはまることだと思います。
それに気づけたことで、自分の中の意識が変わり、少しずつでも読者を意識した文章が書けるようになりたいと思いました。

読む相手を意識したものを書くということは、字の読みやすさにも関係があると感じました。今日返却された提出物に、先生から「もっと濃く」とのコメントがありました。
今回のものは提出する前から、(ちょっとうすいよな)と思っていたのですが、書き直すことをしませんでした。
そうやって、自分が「まぁいいか」と妥協してしまうことは簡単ですが、相手を意識しているとはいえません。自分本位なものです。
自分にとっても、相手にとっても、ベストなものにするために、「これでいい」ではなく「これがいい」と言い切れるものにしていこうと思いました。

T 東井義雄先生の「小さな勇気をこそ」という詩を捜してみてください。インターネットでも見つかるでしょう。あなたの背筋を伸ばしてくれるでしょう。私も時々読み返しては、同じように伸ばしています。

S21 作文指導と聞いて、私はそれが=原稿用紙の使い方だと思っていました。今日の授業を聞いていて、作文は料理と同じという事をどこかで聞いたのを思い出しました。思い出した時にちょうど先生の質問が出たので、答えられて良かったです。
生徒の気持ちを「書きたい」にしておくと聞いて、自分が作文を書く時の気持ちを思い出してみました。私は小学校の頃から、行事の後に書く作文が好きでした。書く前の先生の話を聞いている時から、『あの事書こう』とか『あの時の気持ち書きたい』と頭の中に浮かべて、「書け」と言われたら、すぐ書き出せる事が多かったです。
しかし、私には「必要な材料を選ぶ」ということが出来なかったため、自分の書きたい事を次から次に書き続けていました。そのため、1−8−1の最後の1が指定の枚数に収まらない事がよくありました。
今日の授業を受けて、『読者が読みたい』と思ったものを書くと言うのが私には必要だったんだとわかりました。
本屋で読みたい本を探すのにも、中身よりまず題名で面白そうか見比べてしまいます。作文もその心理と同じで読み手は題名を見て、読み出しの気持ちが変わるものだとわかりました。

T 習ったことを、我がごととして捉える。自分の経験にくぐらせることは大事な作業です。これを行って、自分との違いを確認するわけです。疑問を発見するのです。世の中の学問は、実際に体験できないことなんていくらでもあります。「宇宙空間における〜」なんてのは、ほとんどの学者が体験できません。体験できることを活用できる教育はなんて良いのかと思います。活用してください。

S22 今日一番印象に残ったのは、先生のお母さんの話でした。私は「本をいっぱい読みなさい」と学校などで散々言われてきたので「本なんか読んでないで家の手伝いをしなさい」という言葉はとても衝撃的でした。先生はお母さんに言われた後本を読むのをやめて家の手伝いをしたのでしょうか?もし自分が親に同じセリフを言われてもおそらくやめずに抵抗して、本を読み続けたと思います。
また「ヒマがないと本は読めない」というのは今現在すごく私が実感している言葉でした。こどもの頃はたとえ本を読んでいて寝る時間が遅くなっても、次の日に影響があるだけで、その次の日にはいつもどおりの生活に戻れていました。でも今は、一回生活がずれると一週間ぐらいはおかしいままになってしまいます。今は本を読む時間よりも睡眠時間を優先したい気持ちが強く、なかなか本を読むことができません。それでも最近は意識して本を読むようにしていますが、それでも買ったまま読めていない本があります。時間が欲しいと切実に思います。
でも大学生のうちからこの状態ではいざ教師になった時、どうなってしまうのだろうとすごく不安になります。おそらく教師なれば今よりももっと時間の余裕はなくなるのでしょう。激務の間をぬって自分の趣味の時間を持っている先生たちはすごいと思います。

T やめないでいたら大変なことになります。私の母を侮ってはなりません(笑)。

ヒマがないから本が読めない。そうです。だから読む時間は作るのです。ちなみに、私は児優館の一階でエレベーターを待っている時に本を読んでいますが、君はそういう時間のときはどうしていますか? いま、さっと取り出せる本は何冊ありますか。ヒマを作る、ヒマな時に本を読むということはそういうことでもあるのですよ。

S23 私の母も中学を卒業してすぐ、一人で名古屋の方で就職をしたそうです。母はすごい苦労をしてきた、と回りの人は私に言いますが私は「ふーん」と母に深く追求する事もなく流していました。苦労話を聞いたのは中学二年の時でした。母の涙を初めて見た日でもありました。私は服が買えなくて、ぶっきらぼうな態度で母と接していた時にこの話を聞きました。
私はその時の母が忘れられません。私は初めて言葉が出てこないという胸の痛さが分かりました。この事を今日思いだしました。
私が今ここにいられるのは、家族を始め様々な人たちのおかげです。だからこそ頑張らなければならないし、頑張れるのだと思います。このような事を生徒に語れる教師になりたいと改めて思いました。

T 言葉を越える何かを感じることが、言葉をきちんと理解する土台になるのではないでしょうか。君はその言葉にならない何かを、言葉で、書道でなんとかしようとすることに挑戦しているわけです。是非書き込んでそれは何なのかを探し当ててみてください。

S25 先生のお母様の話が印象的でした。

「学習者は『学び』を学習者だけのものにしない」ということが重要なのだと感じました。

学んだことをどう社会に活かすのか、ということを子どもに教えることも、教師の役割のひとつなのかもしれない、とも思いました。

「教師は種蒔きの仕事だ」という言葉も印象的でした。

その通りだと思います。改めて、教師という仕事は「目に見えないもの」を相手にしているのだと思いました。

そういう意味では、教師にはある種の悠然とした態度が必要なのかもしれません。

「気長に待つこと」。今からそのような考え方の癖をつけていきたいと思いました。

T バランスですね。その場でやらせなければならないことと、20年後に出来るようになっていれば良いこと。色々な内容があり、色々な指導のレベルがあります。簡単に「これ」と行かないのが人間を相手にするということです。

■□■

一回目の体験作文の評価を行った。予め伝えてあるように、「読みやすい字(濃く、太く、大きく)で書けてあること」「正しい文字で書いていること」「原稿用紙の使い方が適切であること」「指定の枚数(3枚)」で書けていることなどで評価した。内容に立ち入っての評価はしていない。

ここではa,b,cで評価したが、実際はこのaの評価を受けたものしか本文、つまり内容の評価はしないと判断するように。

内容以前の問題をきちんとするように。
君たちは国語科の教師になるのです。

■□■

そうです、国語の教師になるのです。今回私の母の話を授業でした。それで諸君の感想に何回か母が登場した。それを引用してみよう。


次に池田先生のお母さんの話がでた。
子育てがおわってから読書を始めたお母さん。池田先生を育てたお母さんに会ってみたいと思った。
今日一番印象に残ったのは、先生のお母さんの話でした。
先生はお母さんに言われた後本を読むのをやめて・・・
先生のお母様の話が印象的でした。


私の母親は、怖いが、特に偉いというわけではない。ではあるが、大学生の諸君、しかも、国語の教師を目指している諸君、その諸君を指導している私の母親に対して使う言葉としては、どれが適切であろうか。分かるであろう。どれが不適切であるかも分かるであろう。

言葉は簡単には治らない。
もう、10回も国語科教育法1の授業をしているのに、10回も感想文を書いているのに、上記のようになるのだ。

咄嗟の時に、日頃の言葉が出てくるのである。だから、日頃の言葉遣いが大事なのである。採用試験の面接で
「私のお母さんが」
なんてつい、言ってしまうぞ。

■□■

私のいた大学では、古典の研究室でとんでもないことが日常的に起きていた。共同研究室ということで、一つの研究室に数人の先生方がいらっしゃった。そこでの会話である。
「先生はもう、召し上がりましたか?」
「先生はもう、食べられましたか?」
「先生はもう、お食べになられましたか?」

を先生によって使い分けているのである。動詞の違いだけで動作の主体が誰なのかが分かるのである。これで研究室の会話は成立しているのである。
(ひえ〜、とんでもないところに来てしまった)
と心底思ったものである。だが、いまでは実にありがたいと思っている。

■□■

(池田はいちいち細かいことを言う)
と思っている諸君もいるだろう。だが、心して読むが良い。教師は怒ってくれる。間違いを指摘してくれる。しかし、この先、間違いがあっても君たちは放置されることの方が多くなってくるのだ。

誰も好き好んで人間関係を壊してまで、相手を怒ろうなんてことをしてくれる人は、そうそういない。
(ありゃあ、ひでーなー)
と思いながら、
「いやあ、こんにちは。いい天気ですね」
などという会話を続けるものなのだ。

いちいち相手のことを構っているほど、世の中の人は閑じゃないのである。逆恨みでもされたら大変だから放っとくのである。

君たちは国語科の教師になるのです。

国語科教育法通信 修学 NO.56〜64

という流れの一日だった

6/27 準備、面談、研究入門ゼミ、植樹祭、会議、面談、会議、野球の試合応援という流れの一日だった。

            ◆ 

面談は、コース分けのための面談。研究室に入ってきた瞬間に、その学生のやる気が伝わる。もちろん、前向きなやる気とそうではないやる気である。

そこを指摘することから、面談は始まる。

            ◆ 

研究入門ゼミでは、文章の書き方指導を徹底して行っている。一文一義で書けるように指導である。

今週の課題は、A4の裏表に書いた自分の文章をクラスの人数+学科の教員分印刷して提出すること。これを元に、授業中に一番簡単な製本方法を教えた。

今朝、面談の前に書いておいた名前のお手本を全員に渡す。朱墨で彼ら彼女等の氏名を筆で書いたものだ。多少甘やかしかとも思うが、面談の時に読む彼らの作文の字を見ると、まだまだ幼い。子どもの字である。四年間掛けて大人の字に育てなければならない。まずは、自分の名前である。しっかり練習すべし。

            ◆ 

児童教育学科は一期生ということで、学内にいくつかの木を植えた。植樹祭である。桃、サクランボ、ブルーベリー、酢橘。すべて実の成る植物である。それぞれに意味を込めて学科の学生全員で少しずつ手をかけて植えた。

彼らの成長とともに成長してほしいものだ。

            ◆ 

昼休に食事をとりながら学生が印刷してきた文章を読む。
いやあ、面白い。
あるテーマを設定して書かせたのだが、非常に面白い。
彼らにこういう才能があったとは。
この文章、ひょっとするとひょっとするぞ。

            ◆ 

会議、面談、会議。
ふう。

            ◆ 

顧問をしている軟式野球サークルの試合を応援しにいく。私の住む西生鬱には、皇子山球場という立派な球場がある。そこで試合をすると言う。前回は会議で見ることができなかったのだが、今回は何とか行けた。車を自宅に置いて着替えて向かう。

球場には教員4人、職員1人、学生たちが数十人応援に来ていた。私は上半身はユニフォームに着替え、帽子も被り、観戦。熱くもなく、寒くもなく、絶好のナイター日和。中学校のクラブと違って、全部学生がやるので私は見ているだけ。いや、応援の声を張り上げるだけだ。

            ◆ 

9時過ぎに自宅に戻る。
いやあ、いろいろあった一日だったなあ。

2007/06/25

明日こそはと思う

昨日の雨が美しい朝の風景を作った。うーん、カラーなのにモノクロみたいな硬質な画像だ。

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さて、久しぶりの神戸である。伊丹市経由でやってきたわけだが、ま、高速に乗ればあっという間である。久しぶりにクーパーで高速を流すのは実に気持ちがよい。トルクとパワーの両方ともを使いながら運転。2000回転から4000回転ぐらいでゆっくりと流す。

昼ご飯をどうしようかと思って海辺を走っていたらでかいビル。
こういうところには、意外と安いランチを出す店が最上階にある。
予想通りであった。

神戸港を眼下に見ながらの昼食はなかなかである。フェリーや日本最大の帆船も停泊している。外は30度Cを超えているが、店の中はひんやり。食事の後の冷たい麦茶も美味である。

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            ◆

神戸での約束の時間まで2時間ほどあるので、カーナビで図書館を捜す。神戸中央図書館なるものが大倉山にあるという。いやー、カーナビは便利ね。

車を停めて、図書館に向かう。木陰の中にあってなかなかいいねえ。ふむふむ。
ところが、がーんであった。
はい、月曜日は休館日なのでした。

でも、面白い花を発見。豆科だろうが、なんだろう。

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さて、どうやって時間をつぶそうか。
本当は、図書館で一つの仕事をしてしまおうと思っていたのに。
どっか、ゆっくりと休めつつも仕事のできるを改めて捜さなければ。

            ◆

ということだったが、上手いこと見つからず。ではあるが、用事が早く終わったので、当初予定していなかった大学に向かうことにした。

夕方大学に着いたらクラスの学生に、
「おはようございます」
と言われてしまった。
ここは芸能界ではないので、流石におはようございますは違うだろ。

            ◆

本来する予定であった仕事はできないで、
明日の授業の準備で終わってしまった。
ああ。

明日こそはと思う。


学校に一つ置く

久しぶりに午前中はだらだら過ごす。ああ、休み。
本当は書かねばならないもろもろのもの、作らなければならないもろもろのものがあるのだが、御免。オフとする。

            ◆

午後からは、草津方面に買い出し。
関東の人間は、草津というと、「よいと〜こ〜一度はぁおいで、あ、どっこいしょ」の草津しか思い出さないのだが、東海道の宿として京都の一つ手前にあるのがこちらの草津である。

MINIのディーラーもあるので、ちょっと点検をお願いし家電量販店でいろいろと物色。前から手にしたいと思っていた家電を現物でチェック。というかチェックしているのは奥さんで、私はマッサージチェアでリラックス。

うーん、リアルプロGはそうとう進化したなあと思う。
こう見えても私は学校帰りに量販店に寄ってはマッサージを受けて家に帰るということをして板敷きがある。どう見えるかは別にどうでも良いのだが、八王子の学校に通っているときは、途中でムラウチ家電に立ち寄って、PCを見てマッサージチェアを試して、というか寛いで帰宅していた。そこから考えると随分の進化だ。

マッサージチェアは、自分で買って家に置くには大きすぎると思う。だが、欲しい。私が言っていたのは、学校の親睦会費で買おうというものだ。学校によってはこの繰越金が非常に余っている。これを使って学校に一つ置くのが良いのではないかと思うのだが。

5分でもこれに癒されれば、随分仕事もはかどると思う。

            ◆

修理に出していたランタンを受け取り、研究室に忘れてきてしまった携帯電話を発見し、発掘された財布とご対面し、新しい一週間を始める準備はできたぞ。

今日は神戸に行かなければ成らないし、
さあ、本当に作らないとまずいぞ。

2007/06/24

学生たちは思い描くことができたかなあ

昨日も、土作ワールド爆裂であった。
いやあ、いいなあ。
第三回明日の教室であった。

授業の奥深さを参加者全員が実感できたのではないかと思う。
特にうちの一回生の諸君は衝撃的だったと思う。
(こんな理科、こんな社会科、こんな授業・・・)
って感じであろう。
今までにこういう授業を受けたことのある児童、生徒は数少ないはずだ。
だけど、こういう授業であれば子どもたちは楽しく学ぶことができるであろう。

            ◆

代表の糸井先生が解説してくれていたけど、一回生の学生たちは分かったかな。
http://susumu.exblog.jp/5780347より引用。

「土作先生のパフォーマンスにだけ目を奪われてはいけないですよ。それを支える学級経営、子ども達を見る目・・・そういったものが土作ワールドを支えているのです。後半、土作先生が語られたそいういった話をきちんと整理しましょうね。」

ちょっと考えれば分かるのだが、あれだけの授業のネタをあれだけのクオリティーで提示するためには、膨大な教材研究が必要になるわけだ。昨日の授業はその膨大なネタの中から、安定しているものを提示してもらったわけだか、そこに至るまでの失敗がどのようなものであったのかを学生たちは思い描くことができたかなあと思う。

私も恩師に言われた。
「20代は若さだけで教師ができる。30代もそのおつりでなんとかできる。しかし、30代に勉強をしなかった教師は40代、50代がつらいぞ」
と。

昨日の土作先生も同じようなことを言っていた。
そして、今が楽しくて仕方がないとも。少なくとも教師になってから10年の修行をしなければ、楽しさは分からないだろう。

パッと見て分かる楽しさは、価値が少ないというようなことを言っている学者もいたと思う。努力した先に発見できる興味に、価値のあるものがあるということだ。

充分楽しませて戴きました。

そこで、学生諸君。
今度は君たちが子どもたちを楽しませて学ばせる番なのだよ。
そのために、たっくさん学ぶのだぞ。

            ◆

食事会でもさらに土作ワールドは続き、実に楽しい一日だった。
楽しく学ぶことができて、美味しく仲間と食事。
実にありがたいことだ。

第四回 「明日の教室」のご案内

第四回 「明日の教室」のご案内

第四回のご案内をいたします。今回は社会科教育、ICT教育の分野で先端を行く、授業づくりの名人佐藤正寿さんを講師にお招きします。是非多くの方に「授業をつくるとはどういうことか」を体験して頂きたいと思います。

日時:7月7日(土)  13:30~17:00

会場:京都橘大学児優館 臨床教育実践スタジオ
http://www.tachibana-u.ac.jp/official/information/access.html

講師:佐藤正寿さん@岩手県奥州市立水沢小学校教諭

会費:一般2000円、学生1500円

申し込み:http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754  *1

昼食:大学の生協食堂が開いております。安くて美味しい本学の生協の食堂をご利用ください。

            ◆

講師略歴  

佐藤正寿さん@岩手県奥州市立水沢小学校教諭

ITを活用したオリジナル教材作成・授業実践の第一人者。「授業づくりネットワーク」の中心メンバー。「地域のよさ・日本のよさを伝える授業」を主なテーマに、授業ではオリジナル教材を多数活用。そのユニークな授業づくりには定評があり、テレビ、雑誌などでも多数紹介されています。著書には、「ぐんぐん伸びる学力のつくノート指導のコツ」「授業のアイデア3・4年―授業を楽しむコツ70 」「手軽に発行学級通信のアイデア40―実践に生かせる! 」(以上、全て、ひまわり社)等があります。

「地域のよさ・日本のよさを伝える授業」http://satomasa5.cocolog-nifty.com/jugyo/

*1 申し込みはすべて、http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754から。なお、グーグルで、「池田修」と検索して頂ければ「国語科・学級経営のページ」というHPが出ます。そこを開いて頂ければ「メールはこちらへ」とあります。そこのことです。

2007/06/22

大規模メインテナンス事業開始

児童教育学科は、入学してからコース決める。主に小学校の教師を目指す児童教育コースと、主に保育士を目指す幼児教育コースである。後期からこの二つに分かれて勉強を開始するために、今、そのガイダンスと面談を始めている。我がクラスも今日から始まった。

            ◆

しかし、それにしても学生たちは私のスケジュールを知っているに違いない。一番忙しい日に、一番多くの面談のスケジュールを組んでくるとは。うーむ。そういう攻撃かf(^^;。とまれ、こうしてクラス全員と話す機会があるのも良いことだろう。

            ◆

夕方から、歯医者に。
私の歯の、大規模メインテナンス事業の本格スタートである。口の中は思い切り違和感の固まり。ふう。

そのために、しばらく話しにくい状態が続く。半年ぐらい続くのではないかと思われます。関係各方面にはご迷惑をかけることになりますが、よろしくお願いいたします。

通常の授業の他に、ディベート甲子園、集中講義とあるのだが、これは毎年のこと。今踏ん切らないと(あれ、踏ん切るってこう変換するの?)、いつまでたってもキリがない。人生の後半のためにもきちんと大規模メインテナンスをしなければならないと決断した。

耳鳴りで聞きにくいところに、話しにくいとなって、最近では目もしょぼしょぼしている。さあ、人生は何があるか分からないぞ。人生は戦いだぞと思う。

            ◆

明日は、第三回明日の授業です。13:30スタート。まだ1、2席は余裕があります。良かったらどうぞ。

2007/06/21

たちまち一艘の帆船

引っ越しして結構経つのだが、やっとカーテンがついたf(^^;。
いえ、琵琶湖に面しているのでカーテンがなくても他の人が部屋の中を見るということはないので、のんびりとというか、じっくりと選んでいたのだ。

で、ついたカーテン。これがいい。
レースのカーテンとカーテン。
いやあ、なんともいい。

レースのカーテンは、風を孕むとまるでヨットの帆のようになる。琵琶湖の青と青空とがそのレースの帆につつまれて、我が家はたちまち一艘の帆船になる。

一枚の布なのに、違うなあ。

            ◆

と心地よいことばかりではない。
これから三週間、とんでもなく忙しくなる。
たぶん、大学に籍を移してから一番忙しくなると思われる。

ふう。
頑張って乗り切ろう。

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写真は、研究室からの夕日です。

先生、会議が始まっています

午前中に研究入門ゼミを終え、高校の模擬授業に向かう。昼ご飯を食べている暇がないので、生協でパンを購入。
「先生、お忙しいですね。でも、その割にはしっかりとパンを選んでいますね」
と鋭い学生の発言。
『当たり前だ。カレーパンを食べたいと言う強い意志を持っているのだ』
が、発見できずその反動で甘いパンを購入。ふう。

            ◆

高校での模擬授業は昨年度30回ぐらい行った。今年は児童教育学科のスタッフが増えたので分担し合って行う。だから、今年度初めてである。2時間行った。非常に落ち着いている女子高で、一瞬、大正時代ぐらいの女学校ってこんな感じかなと思ってしまった。

これから教師を目指そうと思っている生徒諸君と授業をするのは、楽しいなあ。

            ◆

出張後、大学に引き返す。教授会は間に合わなかったが、学科会議がある。
研究室で、一息つこうと思ったところに内線。
「先生、会議が始まっています」
『?』
出張に行っている間の教授会で、ある委員に選出されていたらしい。ひえー。その会議が始まっているとのこと。うーむ。

            ◆

その後、学科会議。まったくもって学科の立ち上げですから、いろいろな案件がある。でも今日は3時間ちょっとで終わる。

昨日たくさん飲んだので、今日は休肝日。
さ、明日も会議だ。

2007/06/20

昨日は、平田オリザさんと

昨日は、平田オリザさんと一日を過ごす。
二年前に、和田中学校で授業をして頂いた時に校長室でお会いした。少しお話をしたぐらいであったが、しっかりと覚えていてくれた。

『いやあ、こんなところでお会いするとは』
「本当に。お久しぶりです」
『ご縁ですね』
「はい」

平田さんと繋がりのある演劇人は、日本の演劇人のどのぐらいを占めるのか分からないが、こうして身近で話が出来るなんてのは、なかなかない経験だよなあと改めて思う。

            ◆

夜は、京都芸術センターでコミュニケーションティーチングについての実践報告に、シンポジューム。平田さんの講演は、圧巻であった。知識や情報としては私も知っていることがかなりあったが、それを芸術、演劇、教育の三つの観点に照らし合わせながら、コミュニケーションティーチングの必要性を説いていた。

そして、その後私も登壇してシンポジューム。
ほとんど、っていうか本当に打ち合わせなしでのシンポジューム。
登壇者5人のうち、演劇関係が3人。教育関係が2人。教育関係のうち一人は演劇関連の実践あり。私の演劇体験と言えば、保育園の5歳の時にお遊戯で副酋長をやったぐらいである。良いのか、オレで。

ではあるが、これは教育畑の人で、演劇に近くない人が加わることで、深めて行こうと言う狙いがあって、しかも、打ち合わせではないところから来る瞬発力でいこうというコーディネーターの狙いがあったようだ。

私はいくつかの目的を持って、平田さんに話を振ることができて、一つの一致点を確認することが出来たのが収穫であった。私が行っているディベートや作文指導に「平田メソッド」と共通する哲学を見いだすことが出来て、実に楽しかった。平田さんもそれを感じてくれていた。いやあ、うれしい。

調子に乗って、ダメもとで「明日の授業」の講師をお願いしてみた。すると、「はい」との返事。これは凄い。スケジュルールを調整して、平田オリザさんを「明日の授業」の講師にお迎えしましょう。

            ◆

その後、懇親会。
ここでも延々と話を聞いて話をする。
いやあ、充実した時間だった。

気がついたら終電は終わっていた。スタッフの方が家まで送ってくれた。
感謝。
ご縁にも感謝。

            ◆

なお、「明日の教室」第三回は、今週の土曜日です。
まだ申し込み可能です(^^)。

2007/06/19

『大学の授業』(宇佐美寛 東信堂)

『大学の授業』(宇佐美寛 東信堂)を読む。
研究日ということで、読書。今日の読書は、書き写しという方法で行った。宇佐美先生の著書を400字詰めの原稿用紙に書き写して読んでいた。

丁寧モードで書き写していたので、一枚当たり二十五分かかっていた。やっぱり時々書き写しながら読むのは良いなあ。スピードを落として読むことで、ただ読んでいるだけでは気がつかないことに気がつく。

宇佐美先生は、原稿をボールペンで書いている、ということを違う本で読んでいた。ということは、手書きで書き写すことは、宇佐美先生の文章のリズムを体に入れられることになる。実際は、推敲を重ねた結果が本になっているので、推敲の過程を経た文章を受け入れることになる。どっしりとした思考が体に入ってくることになる。

この感覚がいい。
上手く言葉にしづらいのだが、私の体に少しずつ刻まれて行く何かがあると感じられるのだ。

当たり前だが、読むスピードと書くスピードでは、前者の方が一般的には速い。そして著者と読者とでは、前者の方が上回っている。宇佐美先生と私では言うのも憚られるほど、この原則が当てはまっている。だとすれば、書く人のスピードよりも遅いスピードで読むぐらいがちょうどいいのかもしれない。

書き写しと言う読書は、これに合致している。もちろん、読書とは「書を読む」であるが、私は最近、いろいろな意味で「読む、書く」が読書ではないかとも思っている。


2007/06/18

学生が(あ、わからない)という顔をした時

ディベート甲子園の近畿大会が行われた。
私はジャッジとして3試合に参加した。高校2試合に中学校の決勝の合計3試合。主審は2試合行った。

高校では、一昨年度全国優勝を果たし滋賀県立膳所高校が僅差で全国大会出場を逃すなど波乱があった。良い議論を組み立てていたが、ジャッジにきちんと届いていなかったためジャッジの解釈の介入を導いてしまったこともあったようだ。

初出場の高校もあった。
凄い。
その場で立論や反駁を考えていた。
『君たちは、その場で考えていたろ。凄いな。それは普通は準備してくるもんだぞ。準備してくれば、来年は強くなるな。その場で考えることはもう出来ているのだから』
と話した。期待の持てる一年生集団である。

中学校の決勝は、良好とも全国大会の出場を決めているため、ぴりぴりした空気はない中でのびのびとディベートを行っていた。特に、否定側の神戸大学付属明石中学校の議論は奇麗であった。対戦中学校の京都教育大学付属桃山中学校の立論は、かなりインパクトがあった。あのプレゼンを全国大会でもしてほしいと、私は個人的には思っている。

            ◆

大会終了後、打ち上げに。ちょっと人数は少なかったが,楽しい時間をすごした。ディベートをやる学生たちとの飲み会は楽しい。会話の流れがきちんとしていて、尚かつ話題が豊富である。私の間違いもきちんと指摘してくれる。

私の間違いについては、ありがとうと言って直すが、誤解や勉強不足からの発言は、厳しく指摘する。飲み会であってもそれは授業と同じ。その方が面白い。

「先生、先生をしていて嬉しいときってどのような時でしょうか?」
という質問があった。
『それは、中学校の先生のとき? 大学?』
「大学です」
中学校の教員の時と大学の教員の今では、「嬉しいとき」が変わってきているなあと思っているのだ。

『んー、学生が(あ、わからない)という顔をした時かな』
「え? 分かった!ではないのですか」
『それは中学校の時は、分かったの顔の方が嬉しいが、大学は違うかな』
「それはなぜでしょうか」
『んー、分かったつもりでいる学生が、実は良くわかっていなかったということが分かることの方が、勉強するでしょ。学びはじめると思うのですね。だいたいからして、君、分かっていることを改めて勉強しようと思う?』
「いいえ」
『でしょ。中学生ぐらいまでは、分からないことにコンプレックスを持っている子どもが多いから、そのわからないを取り除くことが、勉強にやる気を出させるけど、さすがに大学生はわかったをするよりは、分かっていなかったを分からせる方が大事でしょ。基本的に、学問は最終的には独学にたどり着くわけですが、そのためには自分が分かっていないことを自覚することから始まると思うのです。(やっばい。こんなことも分かっていないのか、オレ)と思うところから始まることが多いので、そういう顔をすると嬉しいんだな』
「なるほど」

酔っぱらいながら話し続けた夜であった。
気持ちの良い学生たちであった。

            ◆

さ、各地で全国大会出場の切符を手に入れた学校が出始めている。
また、今年も暑い、熱い夏が待っている。

2007/06/16

いやあ、仕事が溜まってきた

梅雨に入ったと思ったら心地よい晴ればれとした朝。窓を開けると少し空気が部屋の中を流れる。比叡山から下りてきた風が琵琶湖に抜けるのだ。これがなんとも良い風だ。

            ◆

午前中は、我が家の庭と思っている琵琶湖大津館のイングリッシュガーデンを散歩。二週間前ぐらいに行ったのだが、花は移り変わっていた。前回は咲いていなかった鶏頭や百合が咲いていた。そして、今回は人が少ない。

ハーブ類から良い香りがする。
芝生の緑が目に心地よい。

年間パスポートを買ったから、ちょくちょく散歩に来よう。

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            ◆

歯の調整をしてもらいに市内に。
その後、やっとのことで「あかつきラーメン」を味わうことに。
うむ。美味。「東龍ラーメン」と交代で食そうぞ。

            ◆

学生のいなくなったであろう大学に向かう。
いやあ、仕事が溜まってきた。それをやるためだ。

大学の大きな仕事の閉切りがあるし、学科のこともね。
そして、嬉しいことも。
『中学校・高等学校ディベ−トワ−クシ−ト 』(学事出版)が売り切れてしまったとのこと。それで、この際、研究の成果を元に全面改訂をして、出し直そうと言うことになったのです。

ワークシートの原稿作り、本の第二校正、実践スタジオのPCの調整、面談のスケジュール立案、その他諸々を一つやっては次をやってとやっていたら、いやあ外は夕焼け。なんと奇麗な夕焼け。6時間があっという間に過ぎて行った。

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            ◆

さて、明日はディベート甲子園、近畿支部の大会だ。
関東甲信越支部も明日だ。
イクトスさんはじめ、顧問のみなさんはひりひりを越して、チクチクしているんじゃないかなあ。顧問の先生、ディベーターのみなさん、ディベーターを支えるスタッフのみなさん、頑張ってくださいね。

本当はうちのクラスの学生たちに紹介しようと思っていたが、ディベートを教えていないのに見せるのもと思ってそのままにしておいた。

おーい、ブログ見ている諸君で時間があるのなら、明日の10:00に膳所高校にいらっしゃい。すごいぞ。

            ◆

おまけ:6/19に私も出るシンポジュームの記事が、新聞に載っていた。これも時間があったらいらっしゃい。たぶん、君たちなら無料で招待できると思います。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007061500102&genre=F1&area=K10

2007/06/15

『大学授業の病理 FD批判』

『大学授業の病理 FD批判』(宇佐美寛 東信堂)を読む。

んーん、いかん。
学生たちを甘く指導しているかもしれない。
宇佐美寛先生の本を読んでいると、そう思う。
授業の奥深さを改めて思う。

            ◆

ディベートの指導をしているときに思うのだが、私が分かりやすく話せば話すほど、学生たちは楽をしているのではないかと思うことがある。
(ん? 何を言っているんだ? この先生?)
と思いつつ、自分で話を整理しつつ聞くのと、先生の頭で丁寧に整理されているものを順番に聞くのを比較すると、後者の方が「分かりやすい授業」になると思われる。

しかし、これが「分かった授業」かどうかというと、果たしてそうなのか私には疑問が残る。

            ◆

文章の読解の指導をしているときに、
(読解の授業の目的って何だ?)
と思う

読解とは何か?

三省堂「大辞林 第二版」より
引用開始 ーーーーーーーーーー

文章を読み、その内容を理解すること。
「長文を—する」「—力」

引用終了 ーーーーーーーーーー

通常は、文章を書いている人に知識や知恵の集積があり、その知識や知恵は読み手には及ばないものがあるから、うーうー言いながら「読解」するというものである。が、世の中には読み手を意識しない読みにくい文章もたくさんあるわけで、読解の授業をするよりも「書き方」の授業を重視した方が、いいのではないかと思うのである。

良い文章が増えれば、読解の授業はこうなる。
「この文章は、ダメだ。だから、書き直しなさい」

            ◆

答えは学生が自らの頭で作り出す作業である。それを私が我慢しきれずに伝えてしまうのは、結局、学生を育てたことになっているのだろうかと思う。

もちろん、時間切れもある。
が、私自身、大学生の時に貰った問いに自分で答えを出すのに20年近く掛かることがいくつもあった。何も授業中に理解を求めるのが大学の授業でもあるまい。

大学教員二年目。
改めて授業の奥深さを感じ、中学生ではなく大学生に合わせた授業をつくって行こうと思う。

2007/06/14

「問うに落ちず、語るに落ちる」か

「問うに落ちず、語るに落ちる」か

引用開始 ーーーーーーーーーー

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20070614k0000e040021000c.html

放火:男ら3人逮捕 保険金詐欺容疑でも追及 栃木

 栃木県さくら市(旧喜連川町)で03年1月、会社事務所が全焼した火災で、県警捜査1課とさくら署は14日、同市早乙女、自動車修理販売業、小林広容疑者(58)ら3人を非現住建造物等放火の疑いで逮捕した。小林容疑者は火災後、火災保険約600万円を受け取っており、県警は保険金目当ての放火の可能性が高いとみて詐欺容疑でも追及する。

 調べでは、小林容疑者はすでに同容疑で逮捕されていた元従業員の伴義雄容疑者(47)=日光市上鉢石町=らと共謀し、03年1月7日午前2時半ごろ、同町葛城の自身の会社事務所に放火し、木造平屋建て約25平方メートルを全焼させた疑い。小林容疑者は否認しているという。

 火災後、事務所に住み込んでいた伴容疑者が行方不明になっていた。今年に入り所在が判明し、任意で事情聴取したところ、「(小林容疑者に)報酬をもらい、火を付けた」などと供述したため、県警は13日、伴容疑者を同容疑で逮捕していた。

 一方、小林容疑者の家族のうち、次男(当時7歳)は04年2月、当時住んでいた同市蒲須坂の県営住宅4階の自宅ベランダから転落死し、妻(当時41歳)も今年2月、自宅倉庫で首をつった状態で死亡しているのが見つかった。2人にはそれぞれ約8000万円と約9000万円の生命保険がかけられ、次男の保険金は既に支払われたという。次男は当時、たこ揚げ中に誤って転落した事故死とみられていた。県警は保険金殺人の疑いも視野に、慎重に捜査を進める方針。【山下俊輔、吉村周平】

毎日新聞 2007年6月14日 10時55分 (最終更新時間 6月14日 12時18分)

引用終了 ーーーーーーーーーー

という事件があった。6/14の報道ステーションでは、その火をつけたとされるB容疑者は、お酒を飲んだ後、火が出た物置にいたという。そして、インタビューでは、

「火がつく方とは違う方に・・・」

と言っていた。

私は、119番に電話したことは一回もないが、3回ほど火事を発見したことがある。その体験からすると、火事を発見したときは「火が出てるいる」「煙が見える」「あれなんだ」という感じである。

「つく」というのは、火事ではない。

2007/06/13

感想文の変化から君たちの学びの成長を少し確認する

一回目の合同の研究入門ゼミが終わった。君たちの感想を読みながら、(ほうほう、少しは成長したかな)と嬉しく思っている。

第一回目と第二回目の授業の感想にはこんなのがあった。特に誰ということではなく、ランダムに抽出してみた。

引用開始 ーーーーーーーーーー

大学生活を実りぁるものにするかどぅかは自分次第☆知りたいコトは調べたり・ゃってみたぃコトには進んで参加したい!!本をたくさん読むコトをがんばりたいです☆

本を読むのゎ嫌いゃけど、4年間本を読み続けたいと思いました!! 力を付けるを目標に頑張ります。

無駄なコトがなぃよぅに〜いろんなコトに挑戦し、体験して自分を成長させてぃきたぃです!!ぁともっとぃろんな本を読んでぃきたぃです☆〃

今日の授業では先生になるためにとても重要なことばかり教わったと思います。
基本的に言葉遣いが悪いと言われるので、正しい言葉を使うだけでなく言葉遣いにも気をつけていこうと思いましたヾ(o´∀`o)ノ

今日のゼミではとにかくメモって大切だと思いました。今までは板書を写すだけだったけど、先生は口で色々言って書かないので頭を使います。聞き取り、書き取る事が上手くなれたらいいと思いました。静岡県民としては長澤まさみは自慢の芸能人です!!アンルイスのあぁ無情カラオケでよく歌いますよ。

引用終了 ーーーーーーーーーー

ま、初々しくて良いと言えばそれまでであるが、最近の感想と比べてみると違いが分かるのではないかと思う。

            ◆

今日の合同ゼミで、教員の安定性は具体的にはどのようなものなのか、疑問に思い、最も関係性が強い給料(公務員)について調べました。参考URLです。http://www.pref.ehime.jp/010soumu/030jinji/00001232020926/002.html

都道府県により給与額に、少し差違があるのですが、約44歳での平均給与月額は、431,673円です。また、初任給での平均は、198,120円です。

池田先生が40代の女性でこれほど安定する職場はないと、おっしゃっていましたが、実際に調べてみて、本当に、女性は対等に優遇されるんだと感じました。安定性があるということは、それだけでも仕事が続けやすい環境におかれている。安定性だけを求めて仕事を決めてしまうのは、不都合が出てくると思うけど、自分のやりたい職業を何十年と続けるには、不可欠だと感じました。

            ◆

今日の合同ゼミでは、教員採用が増えた「なりやすさ」の裏に、「辞めやすさ」があるという教師の厳しい仕事内容に不安を感じました。しかし、ボランティアなどに積極的に参加し、何事も体験・経験して、芳田先生おっしゃっていた「仕事に対して柔軟に対応する力と的確に判断する力」を身につけていきたいです。

また、一発試験について興味を持ったので調べてみました。
次に引用するのは、小学校2種免許の一発試験の受験資格です。

引用開始

※大学(短期大学を含む。)に2年以上在学し、かつ、62単位以上を修得した者及び高等専門学校を卒業した者並びにこれらの者と同等の資格を有すると認められる者

※高等学校を卒業した者その他大学に入学する資格を有する者で、平成15年4月1日における年齢が20歳以上の者

引用終了

さらに、受験手数料は5,600円で、その他もろもろの費用を含めても数万程度です。大学へ入学するよりもはるかに安価ですが、そこには合格率10%という厳しい現状があり、一発受験は狭き門だなと思いました。
参考URLです。(http://allabout.co.jp/children/kidsenglish/closeup/CU20031003a/

壁画のことを全体の場で話して下さり有難うございました。とても嬉しく、やる気が出ました。大勢の前で誉められるのはいくつになっても嬉しいです。それでは、ごきげんよう。

            ◆

今日の合同ゼミでは、感じたことは二つあります。

一つ目は、「なぜ、教師を目指すのか?」と池田先生がおっしゃられていたことについてです。私は、まだはっきり考えを言えないと思います。きっかけではなく、根本的な考えを言えるよう、これからしっかりと考えていきたいと思いました。

二つ目は、疑問に思ったことです。
保育士の資格を持っていれば働けるところで、母子生活支援施設とは、どのようなことをする施設か?についてです。調べてみると分かったことです。
母子生活支援施設は、児童福祉第38条に基づいて、配偶者のない女子及びその子供を保護し、母と子が一緒に安心して生活し自立できるように援助を行う児童福祉施設です。
参考URL
http://www11.ocn.ne.jp/~asunnaro/boshiseikatushiennshisetutoha.htm

保育士の資格を持っていれば、保育園に就職するというだけでなく、このような母子生活支援施設でも働けるということです。もし、自分がこのような施設に興味があれば、保育士の資格を取得することによって、幅広いところで働けるということがわかりました。

以上で合同ゼミの感想を終わります。

            ◆

今日の合同ゼミで感じたことは2つあります。

まず1つ目は、教師の魅力とはなにか?ということです。
池田先生は「成長する人間のそばにいること」とおっしゃいました。私もそうおもいます。しかし、私はまだ教師の魅力を語れません。これから教育について勉強し、知識をつけて、教師の魅力をもっと見つけていきたいと思いました。

2つ目は保育園の民間と公立の違いについて、気になったので、詳しく調べてみました。
そこでわかったことは、
・公立保育所は民間保育所に比べ、特別保育事業の実施率が低いということ。
・公立保育所は待機児童がいるのに、入所率が84%と低いということ。
・公立保育所は民間保育所の2倍以上の運営経費を要している。
などが主に調べてみて、印象に残ったことです。
 (参考URL⇒http://www.moriguchi-kosodate.net/tosinsyo/05.html

ほかのサイトでも調べてみると
「障害児1,045人の受け入れ状況を見ると、公立60%、民間40%と比率が逆転している。このように、公立保育所の大きな特徴の一つとして、障害児の受け入れを積極的に進めてきた実績が挙げられる。」
と書いてありました。(参考URL⇒http://www.city.osaka.jp/kodomo/c/c_05.html

調べていくうちに、いろんなことが分かりました。そして、加用先生もおっしゃっていたように、保育園・幼稚園は、園の先生みんなで子どもたちを育てていくような温かい園にすべてなってほしいと感じました。

            ◆

今回のゼミで加用先生が仰った、生後10ヶ月の子供で食べ物の好みがでて、自分でやりたがり、皿をひっくり返す、という話がとても興味深かった。

私は、教師を志望しているがこれはたいへん面白そうなので「生後10ヶ月」という言葉で検索をしてみた。
その結果私が知ったことは、生後10ヶ月あたりから子供は言葉を話すなどの様々な発達があるということだ。
(参考URL)
http://www.3t1h.com/10-11kagetu.html

保育士という職業はこのような楽しさを知ることができるという魅力があるのだとわっかってよかった。

            ◆

随分違うのが分かるだろう。授業を受けた直後の400字程度の感想文としては、良い。

だが、目指すところは、まだ先にある。私が諸君に求めたいのは、以下の基礎構造である。


1)読書
2)メモ(事実の記録・観察・思い付き・疑問等)
3)感想
4)疑問
5)仮説
6)調査(HP・本・インタビュー・アンケート等)
7)答え
8)予想される反論に反論
9)結論

            ◆

簡単に説明する。
読書は、メモを生み出すための基本的な体力作りである。いろいろな種類の概念や事例を体に入れておくことが、君たちのメモを生み出すのだ。

自分の中に入っているものに反応して、言葉となる。当たり前であるが、本は言葉で書かれている。その言葉が体に入っていることが、メモを取る体には必要なのだ。

不思議なのだが、人間ってのはそのようにできている。実験してみると良い。なんらかの自分が気にっている本をただひたすら書き写してみる。原稿用紙に10枚も書き写してみると良い。すると、なぜだかは分からんが(いや、実際は仮説はあるが)反論をしたくなるのである。

自分の体の中に文章が入ってくると、それに反応するのである。ということは、たくさん自分の体の中に文章が入っている人ほど、たくさんメモが取れる。取りつつ、疑問や反論が浮かんで来るのである。君たちに読書をさせるのは、それが理由でもある。

            ◆

メモは、事実の記録、思考、まとめと三つの種類がある。まずは、事実をたっくさん書くことだ。ここで大事なことは、教師の話す「まとめ」をメモすることではない。もちろん、まとめの部分を書いても良いのだが、それだけではダメだ。教師が話した具体的な例を書くのである。具体的な例が教師の頭を通って「まとめ」として、授業では君たちに提出されている。目次だけでは出来ない。

まとめだけを君たちが書くとどうなるかと言うと、目次だけの本と同じようなノートになるだろう。君たちは、これから事例から自分の頭で考えて仮説を立て,検証をして、自分で「まとめ」を考えなければならない。

私達教員が、自分の頭で考えたまとめをそのまま使ったところで、君たちは自分で本当に理解することは難しい。自分で事例から考えて行かなければならない。君たちが考えなければならないのは、私達が「その事例」から「どのような過程を経て」、「そのまとめ」にたどり着いたのかと言う思考の過程、試行錯誤の過程を見つめることなのだ。

君たちが出て行く保育・教育と言う現場は、当たり前であるが具体的なことだらけである。だから、きちんとした理論が必要であり、具体的な事実から指導の方針を立てる力が必要なのである。

感想、疑問、仮説については説明しているから良いだろう。調査はどうだろうか。

今、やっとHPを見るところにまでたどり着いた。しかし、まだまだ。その先に、反対意見のHPを捜してみるとか、そのテーマに関わった本や論文を読んでみる。足りないデータはインタビューやアンケートで確認してみるってことをしていくのだ。

そして、自らの答えを出し、予想される反論に反論し、結論を出す。こうして君たちは書きながら思考を深めて行くのである。そういうトレーニングを重ねて、今ある理論を自分のものにし、新たな理論を生み出して行くのである。今、そのスタート地点に、いい感じで立ったところだ。

研究入門ゼミ通信 『起筆』NO15~17

2007/06/12

やっと行政レベルで

やっと行政レベルで動き出すところがでてきましたね。
教師個人の対応ではどうしょうもないでしょう。もっと授業等に集中させて行く方向を作って行かないと。

http://www.j-cast.com/2007/06/12008351.html

引用開始 ーーーーーーーーーー


「理不尽」な要求を学校にする無茶な親が増えている。法的な問題に巻き込まれないよう、小中学校や幼稚園が地区の弁護士と相談して援助してもらう制度を東京都港区が2007年6月1日から始めた。すぐに「訴えてやる」と声高に言い放つ親たちの要求とは、どんな無茶ぶりなのか。

同区教育委員会によると、区内を5地区に分け、それぞれ1人の弁護士が担当する。学校側が同委に要請し、委員会が調整した上で学校が弁護士と直接相談する。11日現在で相談はまだない。同区内で特別に苦情が多い訳ではなく、直接裁判に発展した例もないが、全国的に「学校を訴える」とどなり込む親たちが増える傾向にあり「先手を打った予防策」という。生徒の親だけを対象としている訳ではないとも強調し、地域住民や暴力団関係者からの要求も多いとしている。相談件数の予想は難しいが「月15件前後では」とみている。
「子供の親権どちらにあるのか校長が判定しろ」
福岡市教育委員会で「学校保護者相談室」を説明するサイト
福岡市教育委員会で「学校保護者相談室」を説明するサイト

東京都内の校長らに学校に対する要求の中身を聞いた。小学校に対し、子供の親がけがの治療費を請求してきた。子供同士が学校外で遊んでいてけんかになり、片方の子供がけがをした。最初は子供の親同士が話し合いをしたらしいが、折り合いがつかず、どういう訳か学校に対して「管理責任がある」と治療費の支払いを求めてきた。損害賠償を請求する裁判を起こすという発言も出た。

また、離婚した元夫婦が学校を訪れ、子供の親権はどちらにあるのか校長に判定しろ、と迫ったケースもある。父親の方は弁護士を連れてきて専門的な話を次々繰り出し、母親は大声を出して「大変な事態になった」。校長は「裁判所でやってほしい」と思いながら対応に追われたが、「学校が何とかしろ」と言われ続けた。

別のケースでは、使用禁止の約束を守らなかったので教師が子供の携帯電話を取り上げると、「基本料金を日割りで取り上げた日数分払え」と要求してきた親もいた。

法律は関係なさそうだが、次のような要求も実際にあった。

――子供を起こして学校へ連れて行ってほしい。
――子供は熱があってきつそうだけど、自分は忙しいので子供を学校へ行かすから何とかしてほしい。
――卒業アルバムに自分の子供があまり写ってないので作り直せ。

謝っただけでは許してくれず、すぐ「訴える」という

多くの場合話は長期化し、親側が「訴えてやる」と迫ることも珍しくなく、教師たちに心理的圧迫を与えている。裁判に至らないまでも感情的しこりが残る場合も少なくない。ある教育委員会関係者によると、以前は学校の先生にもし非があれば、謝れば済んだ。それが、謝っただけでは済まなくなり、すぐに親たちが「訴える」と主張するようになった。最近では、そもそもなんで学校や教師に関係があるのか、という事例でどなりこんでくる人も増えた。

福岡市教育委員会は、05年から親たちと学校のトラブルを仲裁する第3者機関として、「学校保護者相談室」を設けている。学校からだけでなく、保護者からも相談することができる。元小学校校長らが相談員を務めている。相談員の判断で弁護士に意見を聞くこともある。

ある学校関係者によると、子供同士が学校でぶつかり1人がけがをした。賠償金を払うべきか校長が判断しろ、と言われ校長がまごついていると、双方の親から「校長が悪い、学校を訴える」と言われた。同相談室には「親から訴えるぞ、と言われたが、どこにどういう非があるのか分からない」と相談とも悲鳴ともつかない内容の訴えもあるという。

もっとも、年間約200件のうち、学校からの相談は約1割。9割は親から学校に対して不満がある相談だ。「困った親」ばかりではなく「困った先生」もいる、という指摘もあり、ケース・バイ・ケースのようだ。

引用終了 ーーーーーーーーーー

日本の教師は世界一忙しいのですから。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070609-00000505-yom-soci

引用開始 ーーーーーーーーーー


世界一?忙しい日本の先生、授業以外に部活や生徒会指導

6月9日14時43分配信 読売新聞

 授業以外に多様な仕事がある日本、補習や家庭との関係強化に特化したフィンランド、授業以外の仕事がほとんどないフランス——。日本教職員組合(日教組)の調査で、各国のこんな教師像が浮かび上がった。

 日教組は「教師の仕事のあり方を広く考えてもらうきっかけにしたい」としている。

 調査は、昨年10月から今年2月、日、韓、米、英、仏、独、フィンランドの計7か国で、教職員組合を通じて、公立小学校〜高校の教員各200人程度を対象に実施された。回収率は23%〜54・5%。

 部活動など授業以外の18業務について、各国の教師がどれくらい担当しているかを尋ねたところ、平均の担当業務数は、日本が11・1で最多。以下、韓(9・3)、独(7・8)、英(6・3)、米(5・0)、フィンランド(4・9)、仏(3・4)の順だった。

引用終了 ーーーーーーーーーー

フランスは、授業以外はしないとか。
ああ、違いがあるなあ。

倒れないように頑張りましょうね。

授業の感想に答える46~54

S1 日本にいける(ママ)作文指導がいかに遅れているか、ということを思い知らされました。

調理実習で、家庭科の先生は「はい、作れ」とは言わないし、水泳の授業で、体育の先生は「はい、泳げ」とは言わない。

教師の役目は「指導すること」であって「命令すること」ではない。

池田先生のおっしゃる一言一言を噛み締めて、私ももう一度「教師とは何なのか」ということを考え、答えを出そうと思います。

また、文章を手書きする際のルール(単語は途中で改行しないこと、文頭に助詞・助動詞が来ないようにすること)を再確認することができました。

これからは内容的にも、またビジュアル的にも「読みやすい文章」が書けるよう、日々訓練しようと思います。

T 日本の作文指導には、「生活綴り方運動」など日本なりの作文指導の歴史があります。それはそれで素晴らしいものです。ですが、私はこの方法だけでは書けない子どもが多いと思っています。もっと実践は豊かに行えるものですし、書けない子どもに寄り添うことで書けるようになって行くものです。そのような指導を目指すのが教師なのではないかと思います。

S15 私は作文が苦手です。今まで学校の先生に詳しく指導してもらったことはなかったように思います。作文指導は担任が行うことが多いため、教師にとって専門外である作文指導がしっかりと出来ていなかったのだということを初めて気付きました。私のような作文が苦手な子供をつくらないためにも、国語の教師がしっかりと指導しないといけないのだとわかりました。
今日のお話の中で「感情を入れて怒ることが大切」というのを聞いて大変驚かされました。私は真逆のことを思っていたからです。「自分のそのときの感情で怒ってはいけない」と、このように思っていました。しかし、先生のお話を聞いて考えが改まりました。あの時、先生が感情で怒ったからこそ子供に伝わったのだと思うし、その子供は悪いことをして後悔していると思います。
怒るときだけではなく、感情的に何かを言うと想いが伝わりやすいのだと思います。子供に対してあつい想いを持っている教師を目指そうと思います。

S2 今日の授業で一番心に残ったのは、「生徒がイタズラをしたときに自分が教師だったらどういう風に怒る?」といった池田先生からの問いかけでした。私だったらとりあえず腹が立って「ふざけるな!何考えてるの!」と怒鳴るだろうなぁ・・と心の中で思いながら、「でも最近の子供は怒鳴っても伝わらないだろうし、どういう怒り方が適切なんだろうな・・」と考えていました。
しかし結果は『怒るときは感情をいれる』でした。結構意外で驚きました。今まで中・高校で怒鳴られるほど怒られたのはクラブの顧問の先生しかないし、担任やほかの先生には怒られたことはあっても怒鳴られたことなんて一回もありませんでした。やっぱり子供は真剣に怒れば先生の気持ちが素直に心に入ってくるんだなぁと思いました。そしてその後の池田先生の指導です。さすがだなぁと思いました。私もそんな先生にクラブの顧問以外で出会いたかったなぁと思いました。

T もちろん、いきなり怒るということは滅多にしません。1)教える 2)諭す 3)注意する と段階を経てからです。私の敬愛するザビさんと子どもたちに呼ばれていた学年主任の先生はこう言われていました。
「池さんさ、一年生を脅してぶん殴る先生ってのは、卑怯だよな。一年生はちゃんと教えてあげなきゃ。そして、指導して、それでもダメだったら、自分の指導力を反省しつつ、実践だ。それで、三年生になったらぶん殴るはありだよ。彼らは反抗できるし、ぶん殴った意味が分かるような指導を三年間かけてしなくちゃ。最初に脅すように殴るのは教育じゃない」
と。もちろん、ザビ先生は殴ったりしていませんよ。教えて怒ってだけでお仕舞いです。
やはり最初は教えるのが教師だと思います。そして、許せないことは、感情をたっぷりと込めて怒るのです。子どもが理解するとか納得するとかいうのは、その後でもいいと思います。今の自分しかみることのできない子どもに、未来の視点も持っている大人が、未来の視点から見た時にそれではダメだ!ときちんと怒ってあげないと、伸びる芽も伸びなくなります。相手は子どもですから反発もしますし、すべてがすべて上手く行くとは思いません。でも、怒るのが教師の仕事だと思います。

S2 池田先生の言っておられた、
『葉桜の季節に君を想うということ』
読みました!本当にびっくり仰天でした。最後の何ページかでやられました(笑)最後まで読んでから池田先生も言っておられたみたいに読み返してしまいました。とりあえずこの気持ちを誰かに言いたいのですが、だれにも言えず、ウズウズしてしまいました。
また面白い本があれば教えほしいです。いろんな本とめぐりあえたらなぁと思います。

T  そ、そうか。読んだか。ウズウズするか。うん、わかるわかる。でも、言えないんだよな。言ったら、作品に失礼だもんな。

ぜひ、仲間に貸してあげてください。
そして、ウズウズ仲間を増やしてください。

S16 「義務教育で履歴書の書き方を指導するべき」という考えに納得しました。最初聞いた時、"履歴書はアルバイトの為に使うもの"という観念を持っていた為、義務教育で教える必要はあるのかと、「Q」を書いてしまいました。しかし、履歴書は就職活動の時も必要になるし、その時になって学校での指導はないと思います。
履歴書の字や書き方で読んだ相手の気持ちを悪くさせ、就職に響く事もないとは言えないと思います。だから、この様な手書きの書類を書く時には、ペンで書くとか楷書で書くという基本の事から入り、書く分量なども国語教育の一つとして、早いうちから身につけさせた方がいいと思いました。
また、作文指導で担任に負担をかけない為に、「書け」と言ったら生徒達が原稿用紙を使い熟して、作文が書ける様にしておくのも国語教師の仕事なんだと改めてその重大さを感じました。

T 一回、みんなで履歴書を書いてきて、お互いの作品を見合って、その添削講座でもしてみますか?

S17 今日の授業の最後にした「初夏・お手製おみくじ」の結果にびっくりしました。このおみくじは他の生徒がどんなことを書いたかを互いに交換して学習するだけだと思っていましたが、結果を聞いてビックリしました。自分の思っていることを書く心理テストだったんですね。ちなみに私は学習欄に「課題はしっかりと提出。提出しないと自分にかえってくるよ」と書いていました。正にその通りだと思いました。

 今日の最後に学習した「仲間の教師のことを考える」という考え方に、私は理想の教師像が浮かび上がりました。学校は教師が生徒を成長させる場です。自分一人が「生徒の為に」と考えていても、自分の持っている能力だけでは全部の生徒の成長を助けることは出来ません。池田先生のおっしゃられたように、「美術の教師が絵の指導を」、「国語の教師が作文指導を」と、自分たちの持っている能力を互いに出しあう学校作りが必要だと思いました。

 最近のテレビの中で今村先生が、「最近の教師は熱意がない。力を持った先生の言うことは何でもはいはい聞くんです。」とおっしゃられていました。学校の中では実際に派閥が出来て生徒の為に教師同士が助け合うことなんて出来ないかもしれません。しかし原点に返って考えてみると、学校とは生徒が学ぶ場所です。その生徒が少しでも良い環境で学べるように、まず教える教師側が環境を整えていかなければいけないと思いました。

T だから、「授業にはタネも仕掛けもある」って言っているでしょ(笑)。さあ、授業を受けながら、(この授業のタネと仕掛けは何かな?)と批判的に考えながら受けてくださいね。

S3 今日一番印象に残ったのは「小学校などで作文指導をされていたように思うが、実は作文指導はされていない」ということでした。たしかに思い返してみるとどういう風に書きなさいとか、どういう点に気を付けて書きなさいだとか、具体的に指導をされた記憶が全くありません。ただテーマを与えられ、原稿用紙を配られ、「書きなさい」と言われただけでした。あれは指導ではなく命令だったのですね。その状態で自分はどうやって作文を書いていたのかすごく疑問に思いました。

T ということは、「出来る子は何もしないでも書けるし、出来ない子は出来ないままで放置される」という結論に達するのではないかと。「出来る子はもっと分かりやすい文章が書けるようになり、出来ない子は書けるようにする」というのが作文の指導のはずです。あなたはなぜ書けたのでしょうか。本当に書けていたのでしょうか。その辺りから指導の方法を見つめ直すきっかけを得ることが出来るかもしれませんね。

S4 ただ「書け」と言ってやらせるのは、指導ではなく命令だ、というのが今日の授業で印象に残りました。私は作文が苦手だったので、何か行事があるたびに、「何分以内に感想を書きなさい」というのがとても嫌いだったのを思い出しました。けれど、きちんと指導しようと思っても、作文を担当していたのは担任の先生で、その先生が国語の先生でなければ指導しようがなかったんだなと分かりました。今日授業でもあったように、国語の授業中に作文指導の時間をきちんと取ったり、先生方に指導して分かってもらったりすることが大切であり、もっと作文指導が重要であることを分かってもらう必要があるのだなと思いました。

T 私は、作文の指導ぐらいは「先生」であれば、教科を問わずに出来なければならないと思っています。実際、私の授業ほど文章を書かせる大学の授業は、文科系では珍しいかもしれませんが、理科系では毎週実験をしてレポートです。報告文の指導は余程理科の先生の方が上手いかもしれません。ですが、学校では作文指導はまだまだ国語の先生の仕事です。まず、貴方がきちっと指導できるようになり、そしてそれを学校に広めてください。

S5 今まで自分が、きちんとした作文指導を受けていなかったことが今日の授業でよくわかりました。また、私は手紙の書き方は教わったけれど、履歴書の書き方や電話のかけ方は教わりませんでした。今日の授業でこのことが聞けて本当に良かったと思います。自分が教壇に立つときには、国語の教師としてできることをしっかりしたいと思いました。
今は、そのためにいろいろな経験を積むこと、知識を増やすことが必要だと痛感しています。中学の資料集を頭に入れること、くだらないことも覚えておくことなど、できることはたくさんあるので実践していこうと思います。
書道の教師は学校の中の字を少しでも綺麗にということも印象に残っています。お世話になった先生が、時間をかけて丁寧にみんなの卒業証書を書いていたのを思い出しました。本当に綺麗な字だったのを覚えています。自分もそんな風に書けるだけの力をつけたいとも思いました。

T そう。きちんと力を付けましょう。それが、指導のための基礎です。文字を美しく書く書道を専門として選んだあなたですから、徹底的に字にのめり込んでください。自分の好きな字を書くことだけに没入できる時間があるなんて、人生のうちでもこの数年ではないかと思いますよ。

S6 「伝達の作文ができていない」という話を聞き、初めてアルバイトの面接に行く時、どうやって履歴書を書くべきか悩んだことを思い出しました。
手紙にしろ、報告文にしろ、実際に社会に出る前に身につけていなければならないことが身についていないのが現状なのだな、と思います。授業で扱うにはつまらない分野なのかもしれませんが、先のことを考えれば中学・高校の間にやっておきたい事柄だな、と感じました。
そして、「書くことは考えること」のお話が印象に残りました。きちんと考えて書く、ということをもっと意識していこうと思います。
それと、もっと雑学を身に付ける必要があるなと感じました。

「石山寺で紫式部が〜」の話は、中学の時、塾の先生に聞いたことがあり、興味は持っていましたが、見には行っていませんでした。今日の話を聞き、やはり滋賀に住んでいるからには1度は行っておきたいな、と改めて思いました。
琵琶湖博物館も小学校の時に行ったきりなので、今行くとまた違うものを感じるのだろうと思います。当時は生き物と地下水の仕組位にしか興味を持っていなかったので、先生が仰っていた石の記憶が全くありません。勿体ない・・・
夏休みに行けそうなら行ってみようと思います。

T 自分の通っていた小学校に中学生になってから戻ってみると
(え、こんなに狭かったっけ?)
と思うことがあります。同じものであっても、自分が成長すると全く違うものに見えてくるものです。琵琶湖博物館も同じものであっても、大学生になったあなたが見れば別物に見えることでしょう。確か、第三日曜日は滋賀県民は無料で入れるチケットがあったはずです。私はそれで入りました(笑)。ちょっとお得な情報です。

S7 指導の3段階、1)書き慣れる 2)書き込み 3)書き上げる、この指導の3段階は書道と共通するものがあって、確かにそうだな、と思いました。まず書き慣れないといけない、そして書き込んで仕上げる。すごく言葉にしてしまうと簡単な作業に思えました。自分が悩んでいるのが小さく感じました。しかしこの3段階はとっても大変な作業である事はよく理解しているつもりです。この3段階のステップをしっかり踏み、自分自身で努力することで、その後には達成感というやりきった者だけが味わえる感覚が待っています。そして苦しんだ分、以前より成長している事が目に見えて感じます。このことを語れる日が来るように、今はただ前向きに頑張りたいと思いました。

T 「書き込み」の量は人によって違うでしょうが、私も大学三年生の時には、気持ち悪くなるぐらい書き込みました。平仮名が書けなくてねえ。でも、突き抜けた時の感触はいまだにありありと手に戻ってきます。これが小さな自信に繋がるわけですが、自信というのは自分で突き抜けた経験からしか身に付かないんですね。

S8 今日の授業を受けて、中学校の時の恩師は、合唱も体育祭も修学旅行も遠足も、すべて指導していらしたことを思い出し、中学校の教師は何でもこなさなければならないことに気がつきました。
簡単に「中学校の教師になりたい」と口走っていた自分が恥ずかしくなりました。

国語科の教師だから、国語科の指導でしっかり同僚を助けつつ、他の教科の指導は同僚に助けてもらいながら専門分野以外のことも指導していかなければなりません。本当に骨の折れることだと思います。
しかし、それを乗り越えると生徒の成長だけでなく、自分の成長もあるのではないかと思いました。

今日の授業で私は、池田先生の雑談(?)にものすごく惹きつけられていました。
教師が話していることが、授業から多少逸れていても、生徒にとって新たな発見を得られることであるならば、生徒には教師への関心が生まれるのではないかと思います。
教師自身の“技術”を見せることによって、「この先生、すごいやん!」と生徒に感じてもらえれば、生徒の意欲も向上するのではないかと思いました。
生徒にただ寄り添うだけでなく、生徒から尊敬されるような教師になりたいと感じました。


前回の和綴じ本の授業が終わった後、色あわせのことを調べたくて、高校の時に使っていた国語便覧を使いました。
国語科のものなのに、当時の習慣や衣食住まで載っていて、興味深かったです。
原稿用紙の使い方もチェックできましたし、今回の和歌の板書についても役に立ちました。
手元に置いて活用していきたいなと思います。
しかし、新課程に変わってからのものではないので、新しいものを一冊買い求めるべきでしょうか?

T 雑談(?)を誉めて頂いてありがとうございます。私は雑談をしているつもりはないのですが、雑談(?)と思われます。一つの山を登るにはたくさんの道があるわけでして、そのいろいろな道を使って登っているんです。もちろん、山の全体が見えている人と見えていない人がいるわけで、見えていない人(多くは生徒)にしてみれば、
(この道どこにいくの?)
となってしまうわけです。
授業をしている私は、何処に行くのか多少の不安を残しつつ進み、ある程度のところで「ほーら、見晴らしの良いところに来たでしょ」としたいわけですね。だって、ゴールは遠くに見えても、なかなかたどり着かない道ばかりでは、変化がなくてつまんないでしょ。
便覧なんて非常に安いものです。最新版を数冊持っていても良いと思います。一冊1000円もしないのですから。

S9 最初の導入部分で再び『湯舟の法則』のお話がでました。“昨日までできなかった事が今はできる!”“する前は何もできなかったけど、してしまえば、なんでできなかったんだろう”と思う。それは湯舟からお湯が溢れる法則と原理は同じ、ということでした。そして先生は私達に、そういう経験が身に覚えあるか、と聞かれました。私はすぐに書道の事が頭をよぎりました。
 ちょうど今の時期、大きな展覧会に向けて作品制作に最も力が入ります。大きな作品を3つも書くため、毎晩書いて書いて書きこみます。しかし、最初に、どんな作品を書くか決め、初めてその作品を書き始める時は不安でいっぱいになります。手探りの状態で作品に取り掛かるのです。そうしながら1枚書き、2枚も書けば、全体像が一気に見えてきて、自分の作品像が理解できるのです。もちろんそれはまだまだ完成にはほど遠いものです。ですがそのワンステップにより、とても大きなものを得ることができるのです。まさに“1時間前にはできなかった事が、その時点ではできるようになっている”のです。私はまさに最近それを実感したばかりでした。
 しかしそれはまだ初歩的な事に済みません。もっと思いっきりお湯が湯舟から溢れることがあるはずだと思います。だからそれに向かって努力すると共に、自分のその経験を“語れる”ようにならなくては、と思います。

T 半紙、全紙。これから書こうとする真っ白い紙。そこにたっぷりの墨。
手本を見つめた時に、紙の上に完成図が浮かんでくる瞬間がありますよね。そして、そこに自動的に筆が運ばれるような感覚のときがありますよね。最後の落款を押して、充実のため息を吐くとき、一回り成長した自分を感じるんですよね。

S10 今日の授業では、作文の種類が考えていた以上に多くあったことがまず驚きでした。

体験の作文や小論文は今まででも馴染みがあるものですが、手紙の書き方や、履歴書までが作文指導に含まれているとは意識したことがありません。
しかし伝達の作文は、学習しておいて損がないほど身近なものだと思います。

私自身せっかく作文を書いてきたにも関わらず、その指導についてはあまり覚えていません。
それが“指導”ではなく“命令”だと思うと少し残念ですが、便覧で自分がこれと思える書き方くらいは勉強したいと思います。

また地球を一年に例える話は理科の授業で聞いたことがあります。
59分までは覚えていたのですが、こういう話はあまり日常で考えることがないぶん新鮮で興味深いです。

S22 今日は授業中、先生が滋賀県について話してくださったのが印象的でした。
石山に祖父がいることもあり、最近では半年に一、二度くらい足を運ぶのですが、本当にあの大きな岩には驚きます。
そして琵琶湖博物館。つい最近行ったのですが、チョウザメの餌やりをはじめとした淡水魚の展示ばかりに気を取られ、琵琶湖についてほとんど関心を持たずに帰ってしまったことを今更ながら少し後悔しています。是非、また行った時は琵琶湖についてもう少し学んで帰りたいです。

作文指導については、本当に履歴書の書き方や、電話のかけ方、メールの送り方などを指導してもらえていたらなあと思います。
なぜ勉強するのかと日々思っている子どもたちにとって、実践で使えることを学ぶのは、ひとつの答えなのではないかと思いました。

T ちなみに学習指導要領には「作文」という文字はありません。これはこれでいろいろと面白いですね。

S11 こんなにたくさんの作文の種類があるのに具体的に書き方の指導を受けていないことにショックを受けました。もし私が国語の教師になれたら、こんなふうに私は教えるというふうに指導したいと思いました。
先生は「書くということは考えるということ」とおっしゃいました。以前、「わくわく授業」という教育テレビ番組で自分の言葉で詩を書こうという内容の国語の授業をしていました。どうしても書けない子が他の書けている子の詩を真似て詩を書いていました。それは盗作ですが、書けている子の詩がなければできない詩だねと先生が言っていました。しかしその子は段々と他の人の詩では満足できなくってきて、本当に自分の中の言葉を見つけようとしていました。番組の内容が長くなりましたが、これが今日の「書くということは考えるということ」とリンクしているのではないかと思いました。
自分は文章を書く力がないと思っています。だから日記を書くことで、文章を書く力を少しでも身につけることはできないかと思い、毎日日記をつけています。今日の授業で、日記は伝達作文の種類に入っていました。質問ですが、伝達作文の種類でも、感想文などの文章を書く力を身につけることはできるのですか?

T ちなみに、私も中学高校と、作文の指導は受けていません。ただ、いつも
(これはおかしい)
と思っていました。だから、教師になった時にこれが指導できるように勉強しました。ときどき
「こんなことは学生時代にやっていないから指導できない」
ということを言う先生もいるのですが、私はいつも不思議な気持ちでいました。
(ってことは、この先生は社会が新しくなって行くということを受け入れていないのか? その割には新車を買い替えているけど)
のように。コンピュータだって、ディベートだって、総合的な学習の時間だって私は大学でいっこも習っていません。でも、指導するのが先生なんです。だから、自分で学ぶしかないのです。考えて、研究会に参加して、身につけるのです。公的な研修を待っていたら追いつかないから、自分で身銭を切って研究会に参加するんですね。勉強がさほど好きではない私も、やらないわけにはいかないと思ってやっていました。でも、やっていると楽しくなるんですけどね。
文章の力はいろいろとありますが、取りあえず、「書きなれる」ことにはなるでしょう。

S12 『話すことはネイティブを越えられないが、読むこと(=書くこと)はネイティブを超えられる』ことについて、解るような気がします。私が高校生の時に清水市の交換留学生としてアメリカへ訪問した時に、いくら学校の授業で会話重視で学んでいてもその壁は越えられないと感じました。私はそれ以降日本文化の中の書道を専門に学びたいと感じるようになったので、今この授業を受けていますが、以前に日本の人たちに多少の疑問を感じていました。
 先生が『英語では習う手紙の書き方を国語では教えていないのが現状』ということにたいして、とても関連していました。私も留学を通して、私たちは日本人であるのにどうして外国ばかり見るのか?と感じていたからです。日本には日本のすばらしい独自の伝統文化があるのにもかかわらず、それを知らないまま周りの国ばかりを見る・知るのはおかしいのではないかと感じていました。私も国際交流に参加し、それを通して解ったのですが、今の日本人は外人に日本文化を教える時に、まず教える本人が知らないので調べなくてはならないのです。(と言っている私もそうなのですが…)
 今回の授業で、私たちはもっと日本人として誇りを持つべきで、生徒にもその誇りを教えてあげたいと思いました。

T ま、そう息むことなく、淡々と事実を伝えると良いと思うのです。そして、子どもたちが
(ああ、日本て良い国だなあ.もっと良くしたいなあ)
と思えるようになってくれれば指導した甲斐があると思うのです。
「どうだ、良い国だろう!」
と教師がいうのではなく、子どもが
(良い国だなあ)
と自然と思えるような事実は、私たちの住む国には沢山あると思います。そして、それは他の国にもあるんだろうなあと思える想像力が、この世界を平和にそして豊かにしていくのではないかと思うのです。

S13 走れメロスのメロスが自己中心的な性格だ、という話が出ました。
もう一度どんな話だったかを思い出すと、確かにそうだと感じました。
しかし、走れメロスを子どもに教えるとき、国語の教師は「メロスはジコチュウな奴だ」とは言いません。子どもたちは、メロスが家族思いで友人を裏切らない、悪を許さない正義感の強い男だというふうに教えられます。例え教師がそんないい奴じゃないと思っていても、きっとそう教えなければいけないのでしょう。
教科書に載っている作品を大学で勉強しなおして驚く事がたくさんあります。高校までしていた作品の解釈が全く的外れだったり、作者の伝えたいことが自分の思っていたものとは大きく外れていたりします。そしてその作品・作家たちの深いメッセージを受けて、私は改めて文学は面白いと思いました。その面白さを子どもたちにも知って欲しいとも思います。
しかし日文の野村先生は授業中によく言います。「学校の先生になる奴は、こんなこと教えちゃ駄目だぞ」……どうしていけないのか最初はわからなくて、悩んでしまいました。

思うに、「国語教育における小説を読み取る学習」と「文学研究」は一見近いようで、別物なのでしょう。
国語の小説の単元で教えるのは、恐らく「文章の理解」です。正しい文法や珍しい表現を読んで身に付けると同時に、どうして場面がこんな展開を見せるのか、何故登場人物がこんなことを言うのかなどに理由を見出すことで、人間の思想や物事の流れ方がどうなっているのかを掴んでいくのが目的なのです。
それらと、「作品がどうやって出来たか、作者がどんな思想を持っていたか、本当は何が言いたかったか」という作品への突っ込んだ研究とは齟齬があります。
「小説の文章を読み取る」と「小説そのものを理解する」はイコールにはならないのだと思います。前者を優先させるべき子どもたちに、大学生がするような研究をさせることは、きっと相応しくないのだと感じました。

しかし、今日見せていただいた資料集に「作家紹介」が載っていました。有名な作家がどんな人間なのかを覚えさせるのも、国語教育の一つです。
作家の人物像を教えることは、作品の深いところを教えることにも繋がってはこないでしょうか?どこまで人物像を学ばせるべきなのでしょう。生い立ちや思想まで教えるのはタブーなのでしょうか。

一日考えたのですが、まだ自分の中で答えが出てきません。
このままだと、作品の内容や作家の深いところまでを教えたい欲求と、国語の表現法や文章理解を優先させて学ばせなければという気持ちで、ジレンマに陥りそうです。

T あれこれと教材研究をしてください。文学作品そのものを読み込むということと、それを授業にかけるということは、確かにちょっと違います。それは、授業を受ける人間に寄って違ってくるのではないかということです。文学作品を解釈するというのは、解釈する人と作品との関係が主になりますが、授業ではそうはならないからです。教師は、授業をします。ですが、その前提として作品の研究はとても重要です。授業で使うか使わないかは別ですが、しておく必要はあります。

S14 今日の授業の最初に先生がおっしゃっていた、『できなかった時の自分・できた時の自分・できるまでの自分を生徒に語れるように』という話にはっとした。生徒はたぶんこれを待っていたのではないかと思う。
生徒にとって大切なのは、「自分でも頑張ればできるんだ」と思えることだと思う。そして、教師は、「君たちでもやればできるんだ」と思わせることが大切なんだと思った。それを自分の体験をもとに語れるようになりたい。私は、何をするにも全部中途半端であり、苦しくなったら諦めるといったことが多かった。同時に何かにひたすら打ち込んでいる人がすごく羨ましくもあった。今日「そうだ、自分がうらやましく思われる存在、輝いた人間になればいいんだ」と思った。そして生徒にもやればできるんだということを身をもって語っていけたらいいな、と思った。また、それが先生の役割の一つなのではないかと感じた。

(2)先週の色合わせについて
色合わせは、平安時代の宮中で使われた配色形式で、装束や調度品などあらゆるものにあてはめられた。その配色は四季折々の自然や動植物の色彩と密接に結びついている。
詳しくは、サイトを見つけたので参考までに載せておきます。季節ごとの色の組み合わせも表示されており、和綴じ本の表紙を作るときの目安にもなるのではないでしょうか。
http://www.studio-tao.com/studio/asia/kasane.htm

T 教師の仕事の一つに、一歩を踏み出させるというのがあるような気がします。本当は本人も答えを出しているにもかかわらず、その一歩が踏み出せないとき、軽く手前に引っ張るのか、背中を押すのか分かりませんがそれをすることが許されているのが、教師のような気がします。その時に
「いやあ、先生もね、○○だったんだけどね」
と話すことが出来るのは、結構大事なのではないかと。
色合わせのHPありがとう。文化の凄さを思うね。

S18 小学校時代、私は確かに作文指導をされていた気がします。でも、そのほとんどを覚えていません。とてももったいないことだと思いました。いままで、参考になるものをいくつとなく教えられて、また見せられてきたというのに、どうしてもっときちんと見ておかなかったのか、悔やまれます。
今日は「正式な原稿用紙の使い方はない」という話に驚きました。では私が今まで習ってきた使い方はなんだったのかと。カッコの文章は一マス下げるなど、今まで聞いたこともありませんでした。これは大発見です。先生のおっしゃるように、国語便覧を買って真意を追求したいと思います。
ちなみに、「地球が誕生した46億年前を1月1日として、キリストが誕生した2000年前は何月何日何時何分何秒になるか」という問題で、私が基準にしたのは『一秒が一年を壊す』小学校五年生くらいの、国語の教科書に載っていた説明文です。人類が地球を壊し始めたのがだいたい200年前、一年のうちの約一秒だったので、単純計算で2000年前なら10秒前かなという考えでした。

スーツ、毎週着ていくようにしていますが、最近本当に暑くなってきました。皆さんも着てください、と切実に思います。

T 「正式な原稿用紙の使い方はない」というのは、決定版ということであり、一般的なものはあります。国語の資料集にもしっかりと載っています。ですが、多少の揺れはあるということです。大事なことは、指導する前に「ここはこのようにします」と生徒に指示をしてから書かせることです。

スーツ、今年は着ている人が確かに少ないですね。強制ではありませんが、三週間に一回ぐらいは着てくるようにしておいた方がいいと思いますよ。

S19 『話すことはネイティブを越えられないが、読むこと(=書くこと)はネイティブを超えられる』ことについて、解るような気がします。私が高校生の時に清水市の交換留学生としてアメリカへ訪問した時に、いくら学校の授業で会話重視で学んでいてもその壁は越えられないと感じました。私はそれ以降日本文化の中の書道を専門に学びたいと感じるようになったので、今この授業を受けていますが、以前に日本の人たちに多少の疑問を感じていました。
 先生が『英語では習う手紙の書き方を国語では教えていないのが現状』ということにたいして、とても関連していました。私も留学を通して、私たちは日本人であるのにどうして外国ばかり見るのか?と感じていたからです。日本には日本のすばらしい独自の伝統文化があるのにもかかわらず、それを知らないまま周りの国ばかりを見る・知るのはおかしいのではないかと感じていました。私も国際交流に参加し、それを通して解ったのですが、今の日本人は外人に日本文化を教える時に、まず教える本人が知らないので調べなくてはならないのです。(と言っている私もそうなのですが…)
 今回の授業で、私たちはもっと日本人として誇りを持つべきで、生徒にもその誇りを教えてあげたいと思いました。

T 人間の脳みそは、三歳以前と三歳以降では構造が変わるそうです。(『100歳先生の「生きる力」を伝える幼児教育 』昇地三郎 日本放送出版協会)それまでは、言語を脳の一つのエリアで処理しているため、日本語も英語も同じように認識されます。これが完全なバイリンガルです。ですが、三歳を超えると日本語は日本語、英語は英語として認識されるので二次的なバイリンガルです。

で、私達は多くはこの後者のバイリンガルとなります。その私達は母語としての日本語よりも、外国語が上手くなることはありません。同じように自分の国の文化よりも外国の文化を良く理解するということはないのではないかと思います。どの国の文化が優れてどの国の文化が劣っているということは、議論しても意味がありません。そうではなくて、今私達のところにある文化を受け継いで、味わう。そして、それを伝える。そのために学ぶのがいいのではないかと思います。

S20 授業最初に話された「ブレイクスルー」について少し考えてみました。突き抜けたと思う感触はこの大学生活であったかなと。小さな成長はありましたが、ブレイクスルーはまだ無いように思います。しかし今が一番の正念場。目の前にある問題は人生にとって意味があることなんだと受け止めていこうと思います。

「書き慣れる」についてのお話で「鉛筆対談」が出てきましたが、それは面白そうだなと感じました。
 私はよく授業中に手紙を書いて内緒でやりとりをしていました。休み時間や放課後にいくらでも話せるのですが、あえて手紙という形のほうが考えをきちんと伝えられることでお互いを知ることができ、楽しかったからです。そういった相手にきちんと考えを伝えることができることの楽しさを、書くことが嫌いな子どもたちも感じることができればと思います。

T 授業中に教師がやってはいけないと禁じているものの中に、実は子どもの学力を付けるために有効なものが隠れていることがあります。それを授業の文脈に載せて、授業としてやらせてみるのは、面白いものです。子どもの文化を理解して、それを学校の文化、授業の内容に載せてみると、子どもが今までとは違った学びを始めることがあります。授業は面白いですねえ。

S21 今日、生徒にしかる場合どうやって指導するかと自分に問われたとき、考えて結局答えがだせずにいました。
本番では、このような場面にすぐに答えをだして、指導しなくてはいけないのに答えられなかったのが、悔しかったです。
感情をいれて叱るのは、今の中高生にとって有効なんでしょうか?
私の中高生時代、クラスメイトは先生にしかられても、なにも感じていない人が多かったです。
叱ることは難しいことだと思います。私自身、感情をいれて叱ったり、怒鳴ったりするのが得意ではありませんが、どのようにすればいいのか考えていきたいと思いました。

S23 今日は作文指導?でしたが、もともと作文が苦手で改めて勉強したいと思っていたので、すごく参考になりました。来週も心して聞こうと思います。
国語の資料集も今度買おうかと思います。

T 苦手なものが上手にできるようになるとき、子どもの前に立ってする指導に説得力が出るようになります。

S24 偉そうな言い方になってしまうかもしれないが、今日の授業を受けて僕はこう思った。
「僕らが今の教育を変えなくてはいけないんだ…」と。
今まで作文指導を受けてこなかった。僕自信覚えていないのが事実。
命令ではなく指導すること、書けない子を書けるようにしてあげなくてはいけない。
これからの日本の教育の為にもまずは私たち国語の教師が教えるべきコトを見つめ直すことが大事なのかもしれないと思った。

T 何を今更(笑)。当たり前じゃないですか。そのために、君は教師になるんでしょ。出来ない子どもたちを出来るようにしていく。それが教師の仕事。そのための力を付けることを目指しているのが、この授業です。

         ■□■

今回はまとめてコメントという風に出来る感想文が少なかったな。私は大変だが、そうなる方が面白い。次回はいかがかな?

国語科教科通信 修学 NO47~55

2007/06/11

鮭を思い浮かべる

第一稿を書き切った余韻をちょっとだけ楽しむ研究日。宇佐美先生の本を続けて読む。読みつつ、思いついた授業プランをふむふむと反芻する。宇佐美先生と対話している雰囲気にもなれる。

実際は、一度だけ研究会の後に直接お酒を交わしながらお話を伺ったことがある。文章のイメージとは違って非常に穏やかで優しい先生であった。いいなあ。文章で厳しく、直接の人には優しい。そういうのはいいなあと思う。

            ◆

第一稿の校正も進める。2/5ほど終わったところで一息ついていたら、教育実習に行っていた学生が報告にやってきた。

かつて私はディベート指導で、授乳、牧場、放牧の三段階の指導を提案した

今年、教育実習から帰ってくる学生を見ると、放流して帰ってくる鮭を思い浮かべる。いや、学生たちは嫌がるかもしれないが、結構そんな気がする。

というのは、力は付けていると感じられるのだが、顔はほっそりとしているのである。4年後に遡上してくる鮭も、体は立派になっているが、顔はほっそりしているのである。

ある学生に聞いたら、
「話していたので顔の周りの筋肉を動かしていたからかもしれません」
と言っていた。

ということは、顔がほっそりするぐらい事前に話をする授業をせねばならんのかなあとも思った。

さて、このブログを読んでいる学生諸君、びっくりしたか。
君の顔のあごの周りはどのようになっているか、のう(^^)。

            ◆

写真は大学の敷地内で発見した蛇いちごと、今日の琵琶湖の風景。気持ちの良い風でした。

Hebiitigo


Kaze

『大学授業入門』(東信堂 宇佐美寛)

『大学授業入門』(東信堂 宇佐美寛)を読む。

読もうと思っていてもなかなか手が出せない著者というものがある。私にとって、宇佐美寛先生は、そのお一人であった。本は買ってあった。そして、その質の高さもあちらこちらから伺っていた。私の知り合いの先生がたもかなり影響されている。大学の先生も影響されている方が多い。

となると、へそ曲がりの私は読まなくなる。宇佐美先生相手にライバル視をしても仕方がないのだが、下手に良い本を読んでしまうと、自分で授業をつくることを考えなくなる。私の場合は十分にあり得るので、そんな意味もあって我慢していた。

これじゃいかんのだが、性格はなかなか治らない。が、大学の教員も一年間を終え、自分なりの授業も一通りやれたので、封印を解こうと思った。

そうしたとき、選択の方法は二つある。一つは作品が作られた順番に読むであり、もう一つは最新刊を読むである。これは好みや状況に寄っても違ってくるのだが、私は今回は最新刊から読むとした。

結果。今読んで良かったなと思った。もちろん宇佐美先生には及びもしないだろうが、私が目指してきた方向は間違っていないということが確認で来た。そして、今の年齢で今の状況で読むからこそ、分かる部分も沢山あると思った。

これからの大学での「授業」がますます楽しくなる本であった。
さて、次は『大学授業の病理 FD批判』を読もうかな。

今年度オープンキャンパスの一回目

本日、今年度オープンキャンパスの一回目。去年のオープンキャンパスは、私がすべて担当したが、今年度は仲間が増えたので、分担して行うことが出来る。今回は出番はなし。

ではあるが、一回目なので何があるか分からないし、家から大学も近いし、顔を出すことにした。児童教育学科のガイダンスには、150名前後の参加者がいたのではないかと思う。その後、児童教育学科の校舎である児優館の見学へと進む。

ちょこちょこっと気がついたところを整えて、高校生諸君がやってくるのを見守る。というのは、先輩の学生たちが高校生にいろいろと説明しているので、私は極力出しゃばらないようにしていたのだ。

彼らが他の高校生を相手にしていて、対応が難しいなと言う時には助け舟を出したが、あとは任せた。そうやって彼らは力を付けて行くはずである。

学生スタッフには私のクラスの学生もいた。なかなか良くやっていた。素直に嬉しい。

            ◆

5時を過ぎて本日は店じまいだ。

さて、これから推敲ダア。

            ◆

で、推敲を早めに切り上げて久しぶりに飲み屋に出掛ける。島ノ関にサントリーのやっているビアレストランがあるのだ。20:00まではハッピーアワーで、生ビールが半額。向かう。

流石にビアレストランだけあって、食事は味が濃いめである。デアレーベンブロイ、モルツ、バスペールエールの生ビールで楽しむ。

西大津から島ノ関までは、別所、三井寺、浜大津と京阪の駅があるのだが、帰りは腹ごなしをかねて歩いて帰ってきた。ま、良い運動であった。

            ◆

さて、また一週間が始まる。
ディベート甲子園の近畿大会は、来週の日曜日。
今頃、チームを抱えている先生たちは、必死で過ごしているころだ。
あのひりひりした空気が思い出されるなあ。

2007/06/10

授業の感想に答える40〜45

S1「親より先に死んではいけない」この言葉は、親戚のおじさんや、近所のおじさんによく言われていた事を思いだしました。
免許を取った時に、教習所の先生にも言われました。当たり前の事だと思うが、今自殺や若者の交通事故が多い。親はやりきれない思いで希望さえなくなるだろうなぁ、と思います。だからこそ、この言葉を伝えていかなければならないと思いました。「命の重さ、大切さ」を教師になって伝えていきたいと思います。

S2 今日の授業で印象に残ったのは、教師は出会いと別れに多く出会う職業だ、という先生の言葉です。
私は今まで友人を亡くしたことがありません。しかし友人の親や兄弟が亡くなることは経験があります。私が今までの間にこういう経験をしたということは、教師になると更に多くの別れか待っているんだと思いました。
最近、死ぬのなんか怖くないと言っている子どもがいてゾッとします。
生きること、出会いと別れ、死ぬこと、これらのことをしっかり考えていきたいと思いました。

S8 正確な言葉はメモできなかったのですが、絶望しかなくなってしまったから人は自殺をするという話を聞いて、私はテレビで特集も組まれた、いじめ問題で自殺してしまった子どもたちの話を思い出しました。
子どもたちにはまだ、将来に可能性がたくさんあるのに、絶望しかなかったのでしょうか。
私みたいに、今くらいの年齢になれば、学校がすべてではないことは理解できます。でも小中学生にとっては、やはり多くの子ども達が学校と家が生活する空間のすべてだと思います。それなのに、家の人には知られたくなくて学校では居場所がなくて…では逃げ場がどこにもありません。
私が教師になって、身近にそういう生徒がいたとき、または自分の子どもがそういう状況だと気づいたときは、絶望しかなくなる前にいろんな選択肢があるということを教えてあげたいと思いました。

T 命は授かるものですね。この世の中に誰一人として、自分で生まれようと思って生まれてきた人はいないのですから。折角の命を精一杯使い切りたいものです。そんなことを伝えてあげたいですね。

            ◆

S3 今日の授業で、先生がおっしゃっていた、『千枚通しの管理方法』の話が印象に残りました。自分が教師だったらと考えると、生徒の安全まで頭に入れられてないだろうと思いました。使用している時は「気をつけなさい」と注意を払うかもしれないけれど、生徒の心が緩むのは、休み時間だという事がわかりました。
「子供を被害者にしたくない」「子供を加害者にしたくない」という思いから、千枚通しを預かったり、学校で用意したり、セロテープを貼ったりという、子供への配慮に関心しました。
また、制作をする際に、1)完成品を示す。2)ゴールまでのパートを示す。と言う指導方法がとてもわかりやすいと思いました。

S10 今まで和綴じ本を作ったことがなかったので、すごく楽しかったです。
完成品を見ながら、具体的な説明を受けながら、の作業はとてもわかりやすかったです。この方法なら、中学生でもイメージがしやすく、やりやすいだろうな、と思いました。
そして、「出会いと別れが多い職業」「離任式での言葉は1番伝えたいこと」の話が印象に残りました。
離任式に出ていた頃、特に意識せずに話を聞いて(時には聞き流して)いたことをすごく悔やみました。先生方が学校を離れる前に私たちに伝えたかったこと。それをきちんと受け止めることが出来ていなかったと思います。
これからは、話(ことば)だけでなく、その奥の思いも考えられるようにしたいです。

S11 和綴じ本は作ったことがなかったので、わくわくしました。
授業中に作るのはなかなか難しそうだと思っていましたが、実際にやってみると、進め方次第で簡単に作れると感じました。
国語の授業で自分が書いたものがまとめられて、生徒のお気に入りのひとつになれば、生徒自身も、教師も、とても嬉しいと思います。

そんな、楽しくて嬉しくなる授業が作れるようになりたいと思いました。

S22 今日の授業の中で、『公人』と『私人』の話が出ました。教師は公人である、ということです。確かに、先生というのは、いつ、どこで、何をしていても“先生”と呼ばれます。考えてみれば、完璧に“一般人”になれることはないのでは…と思いました。教師だという自覚をしっかりもち、責任を感じながら励む、それが教師という仕事なんだと考えさせられました。
 また、責任といえば、事故の前の指導が教師の責任につながってくる、という話も聞きました。学校の日常においては、事故もケガも普通に起きうる、ということです。そこで、大切なのは、事前指導でどれだけ事故を軽く済ませられるかということを知りました。自分の指導法で生徒を被害者にも加害者にもしないですむように、常に生徒のことを考えられる教師になりたいと思いました。

S23 子どもを被害者にも加害者にもしたくない、ということがとても印象に残っています。そうしないために、教師は十分な配慮が必要で、適格な指示や注意をしなくてはならない。絶対にこのことを忘れない、しっかりとこういったことができる教師になりたいと思いました。
和綴じ本では、色合わせの話を聞いて、勉強をして季節に合った綺麗なものを作りたいと思いました。

T 指導を考えるとき、指導の経験が少ないとその場だけの指導になりがちです。自分の出した指示が、子どもにどのように影響して行くのか、時間の流れで考えてみることです。そうすると、その先にある危険なものごとも見えてきます。そして、そのことを考えて事前に指導しておくことが、事故の防止に繋がります。

            ◆

S4 私は今日の授業の中で、「出来ない子の気持ち」とその出来ない子を手伝ってくれる「人の優しさ」がよく分かりました。今日の授業の中で私は皆より作業が遅れ、先生の指示についていくことが出来ませんでした。「もう出来た人もいます」と先生がおっしゃった時は、正直焦りました。その気持ちと共に、生徒が途中で諦める気持ちがよく分かりました。
 
 クラス全体で作業を行う時は、クラス全体の進行状況の確認と、出来ている子が出来ていない子を助けるように指示を出さないといけないと思います。実際私は隣の久本さんの助けを借り、本を完成することが出来ました。

 今日の授業で大切だと感じたことは、「クラスの生徒皆が同じように完成出来るようにする」ということです。一人でも投げ出す生徒がいたら、この本を完成させた時のクラスの喜びは半減すると思います。生徒全員が楽しく完成出来るように、教師はクラス全体の雰囲気を掴み、指示していかなければいけないということが分かりました。

S19 和綴じ本を作るのは今日がはじめてでしたが、すごく楽しかったです。
私は、小学校の頃に「生い立ちの記」という、生まれてから12年間の記録を作文用紙にまとめたもので、全120ページ強におよぶ本を作ったことがあります。そのときはただ表紙に和紙を張って、2つ穴を開けたものを紐で縛っただけでしたが、今日みたいな和綴じ本にできたらもっと良かったろうにと思いました。
また、作業工程の説明については、実際自分が聞く側に立ってみて、すごく難しいなと思いました。「やりながら聞いて、聞きながらして」の繰り返しで、出来る子はどんどん進むし、出来ない子はどんどん置いていかれるしで、もし自分が何か説明するなら、常にそういったことに注意を払わなければいけないと感じました。
誰でもわかる説明、小学校低学年や幼稚園児が聞いても分かる説明ぐらいが、適度でいいのかもしれないと思いました。

S20 和綴じ本は授業で習い、写真を見たことがあったので古典文学を習う者としてもとても興味がありました。
しかし、手先が不器用で針に糸を通すのを苦戦している間にほとんど終わりが来てしまい、縫い合わせに着手することが出来ませんでした。
すごく悔しかったです。
出来ないことに焦って苛々して、たぶんこのままこの状態が続くとやる気が無くなってしまうと思います。
それを思うと改めて出来ない子に合わせ、フォローする大切さが分かりました。
子どもに教えるためには聞かれる以上の物事をしっかり把握し理解しなければならないと思います。
そのため今回はまず自分で和綴じ本の作り方が説明できるように練習し、しっかり覚えたいです。

また今日の授業ではマッピングノートに字を書く余裕が持てず、ほとんど内容のない物になってしまいました。
どうにも一つのことにのめり込んでしまう性格なので、もっと広域に気を配れるようにしたいです。

S12 今日の和綴じ本の演習で、正直に言って初めて分からない子、できない子の気持ちが分かった気がします。糸で綴じる段になると、全く訳が分からなくなりました。ああ、分からないと言う生徒はこんな気持ちなのか、と納得しました。それは、分からないものは分からないのだから、先生が丁寧に指導しなければ、絶対に理解できないのだと思います。私達学生は、それでも友人に聞いたり、調べたりして最後には納得することも多いと思います。しかし、中学生が相手ならば、最後まで、できない子がいなくなるまで教える。その大切さを実感しました。

そんな分からなかった私なので、友人に聞いて完成させました。あと、作り方を書いたホームページを見つけました。「小次郎の手作り本コーナー」から「和綴じ本「四つ目綴じ」」に飛ぶと作り方が書かれています。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~kojiro/kojiro_index/serect/kojirouhp.htm

S14 絶望、自殺、命…、今日の授業のテーマとは直接関係はないがすごく心に残っている。
「おまえが死んだら俺が嫌やねん。」
人はいつか死ぬ。死ぬってわかってるのにわざわざ生まれてくる。なんの為か…。僕はこんなことばかり考えてしまう…。たった授業の最初の5分間だったけれどまた命について考えることができた。たった5分間で…

和とじ本については、完成できなかった。その分できない子の気持ちがわかることができた。作業が遅い子は一人になってしまうと不安になる、その不安でやる気がなくなる、すると全く関係ないものに興味を持ち始める。そのような子にはどう接すればいいのか?
先生が近づいて声をかけてくれれば「僕のことも見てくれてるんだ」という気持ちになれる。先生が近づいて教えてくれれば「こんな僕に教えてくれる先生を裏切れない」という気持ちになる。
僕は決して優秀な生徒ではなかった。しかし、だからこそ僕がわかってあげれることがあるような気がした。

S24 今日、和綴じ本作りをしていて自分が中学生にもどったような気持ちになりました。高校生や大学生になってからは先生の説明を聞きながら、作業をするということがなくなったように思います。作業をする上で、説明を聞き逃したり理解できなかったりすると先に進めず、どんどん遅れてしまいます。そしてまた新しい説明が聞けず、わからなくなります。作業が遅れてみんなについていけない子供の気持ちがわかったような気がしました。 
そのような子供のために、ちゃんと前を向いて説明を聞けているか、を子供の目を見て確かめなければいけないと思いました。池田先生も今日の授業の中で、何回か「ちょっと前を見て」とおっしゃいました。これは、視覚的に見せたほうがわかりやすいというのもあるけれど、話を聞けているかというのも確かめられると思います。
作業が苦手な子や指示を理解できない子というのは実際にたくさんいると思います。その子たちの遅れを広げないような授業を進めていかなければと思います。

T それは良かった。時には、生徒の気持ちになってみるというのも大事な学習です。渡井は授業をしながら窓側の一群などが遅れているなあと思ってみていましたが、小先生は指名してあったので見ていました。そのような経験が出来たのは非常に良いことです。自分で授業をする時に活かしてください。

また、参考ホームページのアドレスを調べてくれてありがとう。

            ◆

S5 プライベートの時間でも、生徒や保護者に会えば「先生」と言われる、倫理規定が普通の人よりも厳しい、という話を今日の授業で聞いて、教師というのはただ勉強を教えるだけではなく、きちんと一般常識を身につけていなくてはいけないんだな、と改めて思いました。毎日生徒に接して、見られている立場にあるのだから、生徒の見本になるように普段から気を付けていなくてはいけないのだなと思いました。

T なんてたって、教師は「先生」ですからねえ。学力を付けるだけでなく、人間を育てるわけです。

            ◆

S6 実際に和綴じ本を作ってみて、自分の記録を保存する媒体を手作りする、ということはとても大切だと感じました。

パソコンが普及した現在では、紙に書いたものを手作りの和綴じ本に綴じていく、という作業をする機会はほとんど無いように思われます。

しかし、ひとつひとつ手作業をしていくことで愛着もわきますし、大切にしたいという思いも強くなります。

パソコンの画面上で「保存」ボタンをクリックする、という行為だけでは得られない感動がそこにはあると感じました。

S17 今日和綴じ本を初めて作って、やっぱり手作りはいいなぁと思いました。材料さえあればすぐ作れるし、手作りということもあって思い入れができるものだなぁと思いました。国語科教育法の何十枚ものプリントを和綴じ本として作る事を考えると少しゾッとしますが、教育実習や教師になった時のお守りとして、中身も外身も充実した和綴じ本を作れるよう、また改めて毎回の授業を頑張ろうと思いました。

S7 最初先生が先輩へインタビューをしたときに「八時間かかった」「力がいる」とおっしゃったのにびっくりしました。
自分なんかに出来るのだろうかと不安になりながらの和綴じ本作りでしたが、不恰好ながらもなんとか完成して、出来上がりを見てちょっと誇らしげな気分になりました。

物作りは机の上の学習とはまた違い、結果が解り易く形になって残るものです。大事に作ることで物に愛着が湧くし、やったことが記憶にも残りやすいと思います。
学習と絡めて物作りをするのも楽しいかな、と思いました。
このような、小さなことを達成する喜びを、子どもたちにもたくさん感じさせてみたいです。

しかし自分でものの作り方を指導するのは大変だろうなと思いました。
左右を示したり、寄せ方を指示したり、穴の感覚を説明したり…。
特に糸の通し方は飲み込むまでに時間がかかりました。プロの池田先生が指導してくださっても大学生たちが戸惑いを覚えるくらいだから、きっと子どもに指導するときはもっともっと丁寧にやらねばならないのでしょう。

こういう場合、机間巡視でひとりひとり見ていくのも大変だと思います。出来る生徒に出来ない子の相手をさせるのは効率の良いやり方だなと感じました。生徒同士のコミュニケーションをとったり、助け合う力を養ったり出来ていいなと思います。

京都のお店には疎いので、試しに検索してみたら、一保堂のサイトがありました。
http://www.ippodo-tea.co.jp/
予想以上に高くてちょっと怖気づきました……。お店で飲むともう少し安く上がるのでしょうか?一度は挑戦してみたいです。

T この授業ではしませんでしたが、もっと簡単に分かりやすく説明する方法もありますね。どうやったら良いと思いますか。それを考えてほしいなあ。

授業中の話題を調べて、仲間のためにアドレスを張る。これはとても良いことです。ありがとう。ちなみに、「嘉木」は、お店ですとお菓子付きで1000円はしません。お茶ごときに1000円と思うかもしれませんが、ぶっ飛びます。是非経験を。

            ◆

S9 今日の和歌についての先生からの質問に答えられなかったことが、とても悔しかったです。
「覚えてたはずなのに…」では駄目だと、痛感しました。言われてみたらわかるのに、言われないと気づかないのでは、“知識”として意味がないし、もはやそれは“知識”でないのではないかと感じました。
色あわせのことも、「国語の参考書で見た記憶があるな」と授業を受けながら思い出しました。
国語科の参考書で見たことがあるということは、国語科の教師には必要な知識なんだと気づきました。

ボーっとしていては忘れてしまうことばかりなので、授業のまとめは和綴じできっちり製本して、見返していこうと思いました。
そして、教育実習のお守りに持って行くという話を聞いて、それは大変心強いだろうと感じました。

T 分かることと、説明できることは別の話です。また説明できることと、指導できることも違いますね。まずは、分かることです。

            ◆

S13 今日の授業の中で出てきた「色合わせ」に興味を持った。平安時代の人たちは、日本の四季を感じとり、その季節に合った色の表現が自然とできていたんだなと思った。 
それは、日々の生活に追われているだけの私が忘れていたものでもある。日本の四季を自然と美しいと感じられるような心の余裕を持ちたいものだ。

池田先生の夕陽の写真、どこか懐かしい気持になりました。

T さあ、「色合わせ」を調べて、掲示版に書き込んでね。

            ◆

S15 今日のNさんが板書した、新古今和歌集の歌は、私にとって身近なものでした。私は静岡県清水市(現在は静岡県)出身なので、由比・蒲原はとても身近に感じることができます。よくこの歌と一緒に見られる富士山の写真は私にとって何ともない日常でした。富士山を見て綺麗だと感じることができたのは、帰省した時の1日と満たない一瞬でした。高校生までは当たり前すぎて何とも感じていませんでした。
 そのため、詩の言葉の変化にはたいして疑問を抱くことはありませんでした。
 また、先生が今日の課題のところに載せた写真も私には当たり前の日常になっていました。久本さんが「日々の生活に追われているだけ」と感想に書いてありましたが、まさにその通りなのだと感じました。私は最近「あれをしなければ、これもしなければ」と毎日を送っており、心にゆとりがなくなっているのだなと感じました。
 何かを感じなければいけないという思いで「感じる」のではなく、ふとした時に抱く気持ち・感情を大切にしていきたいと思いました。


T 地元の文学作品を使って国語の授業をする。これは国語教師の一つの夢です。私も万葉集でやりました。是非、地元の作品での授業をつくってみてください。

            ◆

S16 今日やった綴じ方は1回生の時に篆刻の課題でやったはずなのに見事に忘れていました。1回生の時はプリントをくれただけで「これを見たら誰でもわかる」と言われて、プリントを見ながら各自でするというものでした。しかし今回は実際に作りながら綴じ方を教わるというやり方だったのでわかりやすかったです。この綴じ方を中学生に教えるのは難しいと思いますが、今回のように完成品を作っておいたり、部分部分で作っておくと、こんなふうにするんだよと教えてあげられるのでとてもわかりやすいと思いました。見て自分でするのと、先生の説明を聞いてするのとではまた全然違うなと思いました。
「教師になるとたくさんの出会いと別れがある」本当にそうだと思いました。出会い方は色んな形であるかもしれませんが、別れの時には「先生ありがとうございました」って言ってもらえる先生になりたいと思いました。

T そして、「んにゃあ、こちらこそ。良い時間をありがとう」と言える教師になりたいよね。

            ◆

S18教師はという職業は他の仕事と違って特殊なんだなと、さらに感じました。
教師ほど、出会いや別れが多い職業はないと思うし、何が起こるかわからないとわかりました。
教師は、勤務時間を終えたプライベートでも世間からみると公人として見られるから、そのことを十分気にしなくてはいけないとわかりました。

和綴じ本の作業のやり方・進め方などよく分かりましたが、なぜ、和綴じ本を作らなくてはいけないのでしょうか?

T 君はどう思うの? 最初に自分の考えをきちんと書きましょう。

            ◆

S21 和綴じ本は今日初めて作りました。私は不器用なので時間内に完成できるか不安だったのですが、なんとかできてよかったです。でも今回は早さ優先だと言われていたので和紙に多少しわがよっても気にせずに作業を進めていけましたが、本番では丁寧さを重視しなければいけないので失敗せずに慎重に作業を進めていきたいと思います。
また先生は「中身で勝負できない人は外側で勝負しろ」とおっしゃっていましたが、私は美的センスも自信がないので、今からどうしようかと悩んでいます。平安時代の人の色合わせをきちんと学んで、少しでもいいものを作れるようにがんばりたいです。
またふと思ったのですが、平安時代の人々は色合わせの他にも香合や和歌など、現代の人よりもはるかに様々な美的センスが問われていたんだなと思いました。

T 授業にはいろいろな目的があります。今回の和綴じ本つくりは、美しいものを作るではなく、作り方を覚えるです。真面目な子どもほど、美しく丁寧に作ろうとして、最後までたどり着かないことがあります。そうすると、それは授業の目的からずれることになります。ですから、今回は「美しさではなく、早さ優先」という指示を出しました。

            ◆

S25 「公人」の話を聞きながら、小学校に教育実習に行った友人が実習が終わった後も、近所の子どもたちに「先生」と呼ばれて気軽に外に出られない、ということを話していたのを思い出していました。教師への評価が、そのまま教えている子どもたちの評価にもなってしまうからこそ、教師は自分の行動に責任を持って行動しなければならないのだと思いました。
 和綴じ本は…糸の通し方をすっかり忘れていたので焦りましたが、本番にはきちんとできるように今から準備を進めておくつもりです。

T 私なんか、歯医者に行っても健康保険証で先生とばれてしまうと、「先生、何処が痛いですか?」『先生、右上です』と訳の分からない会話になってしまいます。なお、飲み屋に行った時に先生とばれると、もう、「先生、先生」となってしまいます。先生という仕事は、なかなか私人に戻りにくいようにできています。

         ■□■

さて、今回の感想は「自殺」「事故防止」「作り方」「公人」というあたりにみなさんの感想が集中しました。同じ授業を受けていて、違う感想を持つものだと思うのか、同じようなことを考えているのだなあと思うのか。みなさんはどちらでしょうか。

現在の学校と言うシステムはあと何年ぐらい続くのかなあと思うことがあります。コンピュータの進歩というか進化というか、これらのものはもの凄いスピードで進んでいます。その時に、今の学校はどうなるのだろうかと思うわけです。

学校が学校であるための条件の一つに、集団で学ぶというものがあると思います。コンピュータがこれだけ爆発的に広がったのは、一台独立して使われるコンピュータから、世界中のいろいろなところに繋がるインターネットの端末として使えるようになったからということがあるでしょう。

私は時々思うのです。
子どもたちも、こうして繋がったら凄いことになるんだろうなと。群れとしている子どもたちが、目的を共有した集団に変わる時、学校て凄く面白いところになるのではないかと思うのです。

さて、そうしたとき、いや、それを目指したとき、国語の教師はどんな授業を構築したら良いのかなあと思うわけです。

意見が完全に一致するなんてことはありません。しかし、どこかで繋がっているのも事実です。その繋がり具合を確認し、集団として学力を高め、人間としての成長を促すような、国語の授業。

そんなものに憧れませんか。

私は、ずっと憧れています。

作り出したいと思っています。

6月 5日 国語科教育通信 修学 NO. 41〜46

仲間に届けること

もう一つだけ紹介。

引用開始 ーーーーーーーーーー

今日のゼミで、「得たいことがあるのなら、まず、自ら手を広げて自分を出していけ」という言葉を、先生がおっしゃっていた坂本竜馬の例え話を聞き、理解だけでなく、納得することができた。そこで、坂本竜馬はこの他にも、たくさん物事の本質を見抜いていた格言があるはずだと思い、坂本竜馬の格言について、少し調べました。2つほど「竜馬がゆく」より引用します。

引用開始

1) 人生は一場の芝居だと言うが、芝居と違う点が大きくある。芝居の役者の場合は、舞台は他人が作ってくれる。なまの人生は、自分で、自分のがらに適う舞台をこつこつ作って、その上で芝居をするのだ。他人が舞台を作ってはくれぬ。

2)相手を説得する場合、激しい言葉をつかってはならぬ。結局は恨まれるだけで物事が成就できない

引用終了

私とは、全く異なる時代を生きぬいた坂本竜馬が、今を生きている私の人生の的をしっかり得た格言であることに、とても驚いた。「坂本竜馬が暗殺されなければ、日本は大きく変わっていた」と、聞いたことがある。坂本竜馬が描いていた日本もみてみたいと強く感じました。

引用終了 ーーーーーーーーーー

自分が疑問に思ったことを、調べて行く。そして答えが手に入る。こんな楽しいことをしないで大学時代を過ごすなんて、もったいないなあと思うよ。

その調べた結果を、分かった結果を、他の人に分かりやすく文章にする。それが一文一義の文である。さらに、それが本当なのかを確かめるのが、批判的思考である。

あ、ちなみに竜馬は京都の町を走り回っているよね。折角京都の大学にいるのだから、夏休み等に霊山など竜馬の足跡をたどってみるのも面白いのではないかと思うよ。実際にその場所に行く。これも学問にはとても大切なことだね。

            ◆

クラスの夕食会の企画のコンペもなかなか面白かったね。授業中に話したが、プレゼンテーションの目的というのは、「理解」「納得」「行動」と深まって行く。

相手を理解させただけでは、駄目。
(それ面白いなあ、いいなあ。やってみよう)
と思わせ、相手が行動に移すことが出来たら、そのプレゼンテーションは成功だと考えて良い。結構レベルの高いことを君たちに要求していると思うが、レベルが高くても正しいことを教えないとなあと思う。

            ◆

来週は合同ゼミで、児童教育コースと、幼児教育コースのコース分けのガイダンスが行われる。今まで研究入門ゼミで培ってきた、

1)メモする力
2)批判的に聞く力

を中心に考えて行くと良い。

            ◆

で、再来週だがプレゼンテーションの本番になる。時間は同じく5分以内。その時には、企画書をきちんと用意すること。企画書は、各グループA4で2枚以内。ワープロで横書きとする。学生印刷室に行って、各グループ35枚ずつ印刷しておくこと。

企画書に書くものは、企画の

1)タイトル
2)目的、効果
3)日時、場所、時間、内容、費用など
4)大まかな役割分担
5)イメージイラスト・イメージ写真

などです。レイアウトにも気を使ってください。楽しみにしています。

6月 6日 「起筆」 NO. 14 

自分をくぐらせること

いいね。

先週一人も作っていなかった男子諸君も、名刺を作り出した。一週遅れということもあって、その分工夫してある。大学のHPから大学のロゴをコピーして貼ってあったり、顔写真が貼ってあったりしてある。

名刺はなんのためにあるかといえば、連絡先を知らせるということもあるが、相手に自分を覚えてもらうきっかけを作るというものでもある。

君たちは、人生初名刺を作ったことで嬉しくなっていると思う。その気持ちは大事にするがよい。しかし、私達のような大人からすれば、一大学生から名刺を貰ったところで余程のことがないかぎり、後から名刺を見直しても、その学生の顔を思い出すことはない。

いや、君たちだけではない。私の名刺だってそうだろう。「京都橘大学文学部 准教授 池田修」と書かれた名刺を貰った人は、余程のことがなければ
(ん、誰だっけ?)
となるものだ。

だが、人間は顔についての記憶は結構ある。昔、美術の先生に教えてもらったが、数十枚の写真をわら半紙のサイズ(B4ね)にちりばめたものをしばらく見せて、あとからどの写真があったかを確認するテストをすると、人間は圧倒的に「顔」のある写真を覚えているとの結果があるというのだ。

だから、広告には人の目を引く、人間の顔が多く使われているとのことなのだ。

簡単な実験をしてみると良い。
友人10人の名刺をバラバラにして机の上に並べてみるが良い。その中で、上品に目立つものがあるだろう。その名刺が人の注目を引いているということである。そんな名刺になるようにヴァージョンアップしてみると良い。

さらにいいね。

NO.11に『私が読んでいていて面白いと感じる文章は、「自分の中をくぐり抜けている文章」である。』と書いた。この通信が功を奏したのか、こういう文章を書こうと努力を始めた諸君が出始めた。

引用開始 ーーーーーーーーーー

また先日、先生がおっしゃっていた『流行』についてTさんと一緒に調べた結果、流行色についてわかったことが、3つあります。

1) 2年前からインターカラー(国際流行色委員会)、現在のライフスタイル、色彩調査。という3本柱が基準となり、JAFCAで流行色を選定していることです。
2)JAFCA(ジャフカ=流行色情報センター)が約1年半前にトレンドカラーを発表し、多くの企業に情報発信していることです。
3)3本柱を考慮しながら、ファッション・グッズ、紳士・婦人服などに関して、春・夏、秋・冬の年に2回、自動車・化粧品に関しては、年に1回専門委員会による色選定会議が行われることがわかりました。
参考URA(注:URLね)を載せます。http://www.jafca.org/ColorInfo/flochart.html

インターカラーについては、世界のファッションカラーにまで多大な影響を与えていることに驚き、流行色の選定は世界規模で行われていることを学べました。

引用終了 ーーーーーーーーーー

何が良いと言えば、自分のひっかかりをきちんと調べている点である。
私は授業中に
『流行色というのは、流行っているのではなくて流行らされているんだよ』
という説明をしたが、
(本当?)
と思ったのであろう。そして、それを調べてみたのである。

さらに、それを仲間にも知らせようと、また、データの正しさを示すためにホームページのアドレスを掲示板に載せている。これが良い。

自分をくぐらせたものを、仲間に発信する。give & takeではなく、give give give である。

6月 6日 「起筆」 NO. 13 

2007/06/09

第一稿は書き上げたぞ

うっしゃあ。第一稿は書き上げたぞ。「あとがき」を残して書き上げたぞ。5月14日に執筆を始めてから一ヶ月弱。読みたい本を押さえつつ、執筆の方に集中してきた甲斐があったなあ。

締切を一週間前にして、第一稿が書き上がったぞ。50494字だ。原稿用紙にすると126枚か。一週間あれば推敲も結構できるな。

            ◆

しかし、面白いなあ。書き上がったちょうどそのタイミングで学生が研究室にやってくるとは。国語科教育法の授業に出ている書道科の学生たちだ。今日昼ご飯を生協で食べようとしたら声をかけられた。

再来週に迫った作品展のために、書き込みをするので大学に来ていると言う。体を動かしやすい格好になっているのはそういうわけか。

その学生たちが、
「活を入れてもらいにきました」
と、調度私が書き終わったタイミングでやってきた。

あと5分早くやってきたら、私は返事をしなかったろうに。
学生たちも
「お邪魔になったらどうしようと思いながら、そっとノックしました」
と言っていた。確かに、弱々しいノックだったなあ。

            ◆

あれやこれやと小一時間話す。今日は八時過ぎまで書き込むと言う。
学生諸君、頑張れよ。

さ、私の方は、今宵はちょっとしたお祝いでもするか。

花と文章の一日

集中講義の授業の準備もかねて、平安神宮に向かう。今日は,年に二回ある神苑無料開放の日だ。京都の空はいつ降り出してもおかしくない模様。いや、実際ちょっと降ったりしている。

この時期の神苑は、アヤメと睡蓮が見事である。私は今年初めて見たのだが、この無料開放日は地元の人たちが毎年通っているようである。あちこちで例年と比較する会話が聞こえてくる。それによると、今年は当たり年だそうだ。

満開の時期であることと、一雨降って花が瑞々しく見えるとのこと。ラッキーである。
確かに美しかったなあ。

P6080056

Sinen

            ◆

その後、研究室に籠る。
窓を開けて外の空気を入れながら文章に取り組む。

夕方6時頃、突風が吹き抜ける。今日は雷だと言っていたのを思い出す。しかし、書き始めた筆はちょっと止まる感じがしない。

結局9時頃に帰宅。

            ◆

家に戻ると、琵琶湖の空に雷が走っていた。
今年最後の孔雀仙人掌の花を愛でて一日を終えた。

P6080129


このごろ、花と文章の一日だなあ。

2007/06/08

この時期、薔薇が見事

文章を書いたり、本をとっかえひっかえ読んだりしながら過ごす。これはこれで良いのだが、体が鈍ってしまう。思い立ったように腕立て伏せとか、腹筋とかする。こんなんじゃダメだなあ。

            ◆

昼休に近所のイングリッシュガーデンに気分転換に出掛ける。琵琶湖大津館という、旧琵琶湖ホテルであったところに併設されているものだ。琵琶湖から飲み水をとる取水口近くにあるので、このイングリッシュガーデンの花たちは農薬を使わないで育てられている。

この時期、薔薇が見事なのだ。
まさか私が花を愛でるようになると自分でも思わなかったが、いまは自然と美しさを受け入れるようになったなあと思う。

Rosa

Rosa2_1


Rosa3

            ◆

昨日の琵琶湖は、夏。
マレーシアで見たアンダマン海のようであった。

Beach

            ◆

夕方から学科会議。
未来の土台を作る作業。
楽しいなあ。
10時前に帰宅。

よく働いた。

コムスン問題を見ていながら思った

コムスン問題を見ていながら思った。
(あー、社会保険庁はそうだったのか)
と。

コムスンは、事業の不正がばれて業務をそのまま他の会社に移そうとしている。「ばれる → 別会社」である。で、別会社に移すのは拙いと言われている。

社会保険庁はどうだ。社会保険庁は2010年から日本年金機構などに解体される。つまり、こちらは「別会社 → ばれる」。いや、「別会社 → ばらす」だったのではないかと思う。

出口、または逃げ口を作っておいて、問題を発覚させる。出口がきちんとできていれば、逃げ切れると踏んでいるのではないだろうか。そんなシナリオがあったのではないかと思ってしまう。

うーむ。

2007/06/07

そのためのガイダンス

クラスごとに行っている研究入門ゼミは、昨日合同で行われた。本学の児童教育学科は、大学に入学後に、児童教育コースと幼児教育コースに分かれる。そのためのガイダンスを行ったのである。

私が児童教育コース(小学校の先生を主に目指す)のガイダンスを30分。同僚の先生が幼児教育コース(保育士を主に目指す)も30分。学生たちに自分の進む方向と学ぶ目的を考えさせるような内容を話したつもりだ。

            ◆

学生諸君の感想を読むと、私が『あなたはなぜ教師になりたいのですか。その理由を1分で述べてください』というものに答えられなかったというものが多くあった。

『「親が教師だから」というのは、理由ではなく、きっかけである。ここを混乱しているものが多い』
と話したとこともきっかけになったか。

「なんで結婚したのですか?」という問いに、「コンパの席でたまたま隣に座ったので」というのは「きっかけ」である。そんなことが結婚の理由になってしまうのであれば、何人とも結婚しなければならない。何人もの人がコンパの時に隣に座ったのにも関わらず、あなたはただ一人の人と結婚した。それは、なぜか? それが理由である。

ま、結婚のことは二人のことだからどうでもいいのだが、「あなたはなぜ教師になりたいのですか?」という問いは、社会との関わりをも含む問いなので、「まあ、それはわざわざ人様に伝えるような理由でもありません」ということにもならんのだ。

            ◆

他人の理由を類推するのではない。あなたの理由を話すのである。ところが話せない。理由は二つあるだろう。

1)話す内容がない。
2)話し方がわからない。

2)は技術、スキルと言われるものである。もちろん、これも大事である。何かを説明する時の話で、ナンバリングやラベリングが分かっていて、出来ている話を聞くのと、そうではない話を聞くのでは雲泥の差がある。

ではあるが、今回の学生諸君の感想を読みながら思ったのは、1)の方が不足しているのではないかと言う思いである。

            ◆

学生諸君は、まだ一年である。1)がなくても当然と言う思いもある。いや、今回は1)がないということを自覚してほしいという思いもあって、あの問いを発した。

採用試験まであと1100日。そし、合格後に、自らが出した「なぜ教師を目指したのか」という答えを基に、自らの実践を展開して行く。

おそらくその答えは、学びとともに変化して行くだろう。それでいいと思う。大事なのは、「今の私は、○○のように考えています。なぜならば〜」と答えられることである。

期待している。

            ◆

その後、学科の児童教育コースのプロジェクト会議。ではあったのだが、その前に児童教育学科の学生くんが、質問があるという。自分の読んだ教育実践書について、自分の考えと違うことが書かれてあり、それについてなぜなのかということを聞きたいと言う。

そういう質問であれば、答えましょう。会議が始まりそうであったが、結局1時間近く議論を重ねてしまった。こういうものの延長でゼミが出来るといいなあと思う。

            ◆

そして、延々と4時間近く会議。
しかし、この会議が飽きないんだな。夢を目標に、目標を計画に変えて行く会議。真面目な話、ここに学生を入れて聞かせてあげたいくらいだ。そして一緒に作って行きたいなあと思うのであった。

2007/06/05

予行演習が出来ないのだから

授業が終わり、研究室で次の仕事のための準備をしていた。すると、
「池田先生、よろしいでしょうか」
本当は、明日の授業の準備が終わっていなくて宜しくないのだが、その顔は何か大きな案件を抱えている顔。そんなの断れないでしょ。
『なんだ?』
「あの、人生相談したいんですけ」
『ん。ま、入れ』

            ◆

国語科教育法の授業では、原稿用紙の使い方を確認していた。指導する側が理解していなければならないので、それを確認した。資料集を取り出し
(げ、げ、げ、げ、原稿用紙)
と探していたら、原稿用紙の項目のヨコに「源氏物語」という項目を発見した。

そこから話が横に行ってしまった。

『諸君、来年は何の年か知っとるか?』
「?」
『京都と滋賀に大きく関わって、1000年前であるものだ』
「??」
『源氏物語が出来てから1000年になるのだよ』

学生はこんなにチャンスなのに、何も知らない。

『石山寺にいったことある人は?』
なんと1割程度。
『あそこで紫式部は構想を練ったんだぞ。その部屋はまだあるんだぞ。もったいない。折角京都の大学に通っているのに。今校舎を出て、60分もあれば現地に行けるというのに。もったいない』

『あそこには凄い岩があるだろう。滋賀県は凄い岩が沢山あるんだぞ。琵琶湖博物館で見たことある人は?』
「・・・」
『滋賀県には珊瑚からできた岩と、火山からできた岩の二種類があるのだよ。海底で出来上がった岩がマントルの対流でハワイ辺りから流れてきてたどり着いたものと、滋賀県全体がマグマのガスの噴出で地盤沈下して、その時に出来上がった火山の岩とあるんだな。もともとこの辺りは海だったし』
「・・・」
『そんな岩のあたりに石山寺は出来て、そこで1000年前に紫式部は、世界に誇る古典を書き、私達はわずかな人生の時間を過ごしている』
「・・・」
『地球が生まれた日を1月1日とすると、キリストが生まれたのは何月何日か知っているか? 12月31日の午後11時59分46秒といわれているんだぞ。ほら、これがその資料の載っている本』
『私達の人生なんて、宇宙の時間、地球の時間で言えば100年生きても、1秒だ。ははははは。思い切りやらなければつまんないだろう?』

            ◆

てな話をしたのが呼び水になって、人生相談となったのかもしれない。

「先生。人生は究極の目標を定めてから動き出すのでしょうか?」
『ん? わからん。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える』
「先生は、人生の究極の目標はありますか?」
『あるよ』
「それはなんですか?」
『ん。人類の平和。さらに言えば、人類を含めた動植物の安定した生存』
「そ、そんな。大きすぎます」
『だって、究極の目標だろ?』
「はい。でも、できるのですか?」
『無理。ま、100回ぐらい生まれ変われたとしても、無理。でも、究極の目標だろ?』
「はい。で、どうするんですか?」
『ま、私の人生では無理だけど、この方向は正しいと思うので、次の世代を育てるんだな。だから、いまは教師をしている』
「は、はあ」

半分冗談、でも半分本気だ。
そのぐらいのことは考えても良いだろう。なんてたって、一回切りの人生だもん。

            ◆

その後、学生の進路に関してあれこれと相談に乗る。

ビジョンを持ち、具体的に行動しよう。
初心を貫くも良し、機を見て敏なるも良し。

だれも人生は予行演習が出来ないのだから。

そして、それでも地球の時間は過ぎて行く。
琵琶湖に浮かぶ満月。
Moon


毎日新聞新聞で紹介されました

「明日の教室」が、毎日新聞新聞で紹介されました。私達の考えがきちんと紹介されていてとても嬉しいです。次回は6/23です。

紹介された新聞記事は、「fax.pdf」をダウンロード

です。

2007/06/04

言い訳をすれば良かった

「先生、顔赤いっすねえ」

私が研究室を出ようとするタイミングでやってくるのがTM君である。
ま、私は軟式野球部の顧問をやっていて、彼は代表だからいろいろと私の判子が必要になるのだけれどね。

『そ、そんなに赤いか。別に酒を飲んでいるわけではないぞ』

            ◆

月曜日は研究日。授業の準備をしたり、読書に勤しんだり、文章を書いたりする日である。前日から早寝をして、早起き。んでもって朝風呂に入って気分を整えて、ダーッと読書である。

一服するのにテラスに出た。
これが間違いであった。
気分が良くなり、ちょっと長目に外にいたのだ。

はい、日焼けしてしまいました。
テラスは東南向き。
午前中の日差しをきっちりと浴びてしまいました。

            ◆

資料を求めて、夕方に大学に向かう。
「失礼。只今、文章と向き合っております。急用の人、予約の人だけお会いいたします」
と長さ40cmぐらいの紙に書いたメッセージを扉の外に張り出して、うんうん唸りながら、格闘していたところに、
「トントン」
とノックの音が。

そりゃあ、急用なのだろうと思って扉を開けるわな。
すると見慣れない人、しかも満面の笑顔。
某出版社の営業の方であった。
た、頼むからメッセージを読んでくれ。

名刺だけ戴いて、丁重にお引き取り願う。

            ◆

(ふう、さて。今日の山場は越えたし、顔も火照ってきたし、今日はこれまでにしておいてやるか)

と片付けをしていたところに、TM君である。
「先生、顔赤いっすねえ」

あ、文章に熱中していたからだと言い訳をすれば良かった。

2007/06/03

瞬間集中

今月は、本の原稿の締切があるので、土日に仕事を入れないようにしている。まとまった時間が作れた方が、集中して仕事をするにはやっぱりいいなあ。

なかなか集中しないということは随分なくなってきた。脳科学者の茂木健一郎さんが提唱する「瞬間集中」というのを私もやっている。あれこれ言い訳を考えずに、すぐに集中するのだ。部屋は汚れることもあるが、まあ、それはそれとして集中を優先する。

始めてしまえば、一時間ぐらいあっという間に過ぎる。だらだらしていても過ぎる。だったら瞬間集中する方が良い。

            ◆

午後からは大学に向かう。気分転換である。
グラウンドでは硬式野球部の諸君が練習をしている。研究室の窓を開けるとうぐいすの鳴き声がする。学研の「NEW教育とコンピュータ」の原稿を書き、「第三回 明日の教室」の事務仕事をし、本の原稿を書きと、一つのことに飽きたら次のことをやりはじめと延々と仕事を続ける。

なんつーか、テンションが下がってしまうと、そのテンションをもう一度上げるのに時間がかるので、テンションを上げたまま次の仕事、次の仕事と仕事を変えて行く方が、いいのである。

そして、終わったらゆったりと休む。
ことができない私ではあるがf(^^;。

            ◆

明日は、雨だというのに
研究室から見た夕焼けは奇麗だったなあ。

明日からは教育実習の最終ランナーの学生たちがスタート。
さあ、頑張れよ。

111111近し

キリ番とキリ番前後の方。
書き込みよろしくお願いいたします。

『下流志向』の酷評

私は最近、内田樹先生の本をかなり読んでいて、その中でも『下流志向』はお気に入りの本なのですが、この本への酷評を見ました。

このブログの著者はなかなか筆力があり、検証もしっかりしているのでときどき読んでいたのですが、その中で、2007年の1月から3月の本の中でワースト1に輝いているのです。

いろいろな見方があるから面白いのですが、ワースト1ねえ。他のワーストにあげられている本を見ると、
(あ、やっぱり、これはワーストね)
と思うものもあるので、ちょっと気になりますねえ。

内田先生の語られるものは実感を持って読めるだけに、それを違うと言う根拠となっている本というのは興味を持ちます。

だけど、ここでネットでクリックして注文してしまうと、積んどくがさらに凄いことになりますから、ここはブログにメモとして挙げておくだけにしておきます。どなたか読まれましたか?

満月、満開、満腹

天気の良さに誘われて軽くドライブに出掛ける。一ヶ月に一回ぐらいは、文化とか自然に触れたいなあと思って。滋賀県立図書館である。瀬田の唐橋を過ぎ、30分も走らせれば到着。というか、車でないとちょっと行きづらい。名神高速道路の瀬田東インターチェンジの近く。

広い敷地に美しい皐の花が満開。そこを通り抜けて行くと図書館。図書館の雑誌スペースに座り辺りを見回す。満開の皐に包まれて読める幸せである。

            ◆

その後、昼食。
近くに卸売り市場があったので、そこの中にある食堂に行く。食べ放題でランチが850円。刺身がてんこもりであった。鰹、鰹のたたき、鯛、甘エビなどである。他にも総菜がたっくさん。

甘エビは、解凍したもののような気もしたが、まあ、850円ならいいだろう。もう、食べ放題に熱中する年でもないのだが、つい、元を取らなければと思って食べ過ぎてしまう。

お腹いっぱい。

            ◆

腹ごなしに、叶匠寿庵の寿長生の郷に向かう。山野草を眺め、お茶でも戴こうかと。

団体さんがいたので、ちょっと時間をずらして川床テラスで抹茶パフェを戴く。うーん、甘いもの、冷たいものは別腹なんだなあ。入る。

気持ちの良い緑であった。

            ◆

大津は、近江商人の町。西武デパートは近江発祥である。
そのデパートに帰りに寄ってお買い物。

いつもならそこで食品を買うのだが、今回は明日の朝ご飯のパンだけ。やはり、買い物はお腹いっぱいの時に行った方が、倹約できる。

            ◆

ふくれあがったお腹をさすりつつ、お茶を飲みながら月の出を待つ。
ちょっと曇っているが、まあ、なんとか満月を楽しめるだろう。

ちょうどこの時期、我が家のクジャクサボテンは満開である。
父に貰ってずっと育てているのだが、こんなに花が咲いたのは始めてである。大体、一回に一つか二つの花が咲くのに、今回は十ぐらい花が咲いている。

Kujaku_1


満月、満開、満腹。

満足。

2007/06/02

学生に引かれて書道店

昨日も引き続き三人に実習の事前指導を行った。
一人は書写と国語の授業をするので、両方とも指導案を見る。私は国語科教育法の授業担当だが、まあ、それなりに書写の指導も出来るので指導案を見る。

指導をしているうちに、気になることも聞いてみた。

『筆とか、硯とか、紙とか大丈夫だった?』

            ◆

中学校によっては書写の授業をしていないところもある。本当はしなければならないのに、していないところもある。私は中学校できちんと指導していたのだが、これが逆に

「なんで書写なんかやるのですか。○○中学校はやらないで問題集を解いています」

とクレームの電話に繋がることも合った。ディベートも初期の頃はそうだった。話し合い活動等やらなければならないことをやっていると、クレームが入るのだ。

やるべきことをやっている私がクレームを受けて、やるべきことをやらない人が誉められるなんて、世の中は面白いものだと思った。

            ◆

で、やっていない中学校の場合だと、生徒の持っているお習字道具は悲惨な状況になっていることが多い。墨でガチガチに固まった筆やカスが溜まりに溜まった硯等。これではいくら書いても上手くならないというお習字道具になっている。

専任であれば、安くてしっかりした筆を買わせてしまうという手もあるが、実習生ではいかんともしがたい。でもしっかりと実習させたい。

そうこうしているうちに、硯を研ぐ砥石があることもしらないということにが判明した。さらに先生用の朱墨を使う筆も用意していないことに。おーし、買いに行きましょう。こうなったら事前指導できることは全部しておきましょう。砥石を持って実習に行ってもらいましょう。私も大学に出入りしている書道品店がどこにあるのか知っておきたいし。牛に引かれて善光寺ならぬ、学生に引かれて書道店である。

            ◆

買いに行く道すがら、学生と話した。実習後にすぐ作品展の締切があると言うのだ。

「実習に行っていると書ける時間がなくなるから、作品展が心配です」
『ま、そうかもしれないが、作品というのは技術が良ければ書けるというものでもないからな』
「?」
『一言で言うと人間性というものが影響するということだよ。教育実習を通して君の人間性が豊かになれば、同じ程度の技術であってもぐっと作品が良くなることがある』
「あ、そういうえば、先週末に良いことがあった友達の作品が、ぐっと良くなったと本人が言っていました」
『うーん、それとも違う。それは人間性ではなく、感情のレベルであろう。それを求めてしまうと行き着く先は、お酒とか薬になってしまう。それはマズい。そうではなくて、人間性なのだよ』
「?」
『んーっと、例えば戦国時代の侍等は、戦に向かう朝にきちんといつも通りのことが出来るかどうかを確認したと言う。顔を洗い、食事をしと。平常心が保たれているかどうかが、大事なのだ。いつも通りの自分で入れることが、日頃の鍛錬の成果を出せることに繋がるわけだな』
『だから、自分の質そのものを育てて行き、作品を制作するにあたっては、「無心」の状態で挑み、自分の技術の向上だけではなく、自分の人間性の高まりが作品に出るようにして行くことが大事なのではないかな』
「はい。でも、あと卒業まで1年もないのですけど、それはできるのでしょうか」
『あほ。後一年で出来るのであれば、私がこうして努力しているのはなんなんだ。出来る分けないだろ。一生かかって高みに上って行く稽古ぢゃ』
「はい」

さあ、来週からの実習頑張れよ。

            ◆

大学に戻って『月刊 国語教育』の9月号の原稿を一つ仕上げる。すると、採用試験を受けることで別の学生からの相談。よしよし、話を聞きましょう。今日あとやる仕事は明日に回して聞きましょう。今週末は外に出て行く予定はないので、大丈夫です。


2007/06/01

シニメニ

京都市内は、緑が深くなるに連れて修学旅行生が多くなってくる。
桜の時期と紅葉の時季の間が修学旅行なのである。ま、桜や紅葉はオトナになってからねということであろうか。

東山五条の横を国道一号線が走っている。京都市内から大学方面に車で向かう時はこの坂道を使う。坂を上って行くと左側にたくさんのお墓がある。運転中であっても、思わず、親指を隠してしまう。

            ◆

「お墓や霊柩車、それにお葬式を見たら親指を隠すように手を握るのよ。そうしないと親の死に目に会えないのよ」

と習ったのは小学校に入る前であろうか。

(親のシニメニ会えない?)

小学校に入る前の私である。シニメニが、死に目にであるなんてことは全く分からない。だが、「親のシニメニ会えない」という言葉の響き、さらに「親の」という言葉から

(うーん。シニメニというのは、とても大事なことらしい。親に関係しているのだろうし、そのシニメニさんに会わないと、とても大変なことになるらしい)

という理解の流れで、瞬間的に親指を隠すようになった。かれこれもう何年経っているのだろう。一番長続きしている生活習慣かもしれない。

            ◆

修学旅行も随分変わった。
私は、中学校にいるときは修学旅行廃止論者であった。高いお金を出して、集団で、そんなに良い宿でもなく、おいしい料理でもなく、学習効果の高いものでもなく、夜の危険の伴うところに連れて行くことに、さほど意味を感じなくなっていた。

日本が戦後貧しかった時に、子どもたちに見聞を広げさせるためにはこの修学旅行はとても意味があったかと思うが、さて、今の時代に今の方式でそんなに意味があるのかと思う。

子どもたちがやりたいのは、「仲間たちと夜通し話をすること」だと思っていた。そうならば、何も遠くに連れて行かなくて良い。学校に泊めれば十分である。親の協力を得て夏休みの一日を学校に泊めた。災害時の宿泊訓練にもなる。費用は500円だった。

だが、どうしても外に連れて行きたいというのであれば、ということで東北での実施も考えた。移動教室であったが、宿の分宿等を行い、夜の安全を確保し、地元の人との交流を密にし、事前にはインターネットの掲示版を使って宿のご主人と生徒が交渉を行った。

その時の様子は、「移動教室の改革−分宿の試みとインターネット無料掲示板を活用した事前学習−」(「授業づくりネットワーク」2003/10)にまとめてある。

            ◆

自分が中学のとき、京都に修学旅行に来た時は、

(うーん、いつも指を隠していないといけないな)

と思っていたのを思い出した。

清水坂を汗をかきながら歩いて上ったなあ。
親に夫婦の清水焼の湯のみを買ったなあ。

御陰さまで、両親は元気に暮らしている。

オーダーメイドのレッスン

昼休の会議の後、教育実習に向かう学生三人を指導。研究授業の内容は、小説、詩、道徳という取り合わせだ。

国語科教育法では、一つの教材を細かく分析してそこから授業をつくると言う体験は模擬授業でおこなうだけである。この模擬授業一つでも学生たちは自主的に合宿を行って作り上げてきたぐらいだから、かなり分析はしている。

しかし、残念ながら圧倒的に分析する作品数や時間が足りない。教材の分析の仕方も教えきれていないと思う。だから、実習の時に一人一人の作品に対応して教えるようにしている。オーダーメイドのレッスンである。贅沢だなあ。

今はまだ、児童教育学科の学生で実習に向かう学生ではなく、去年の国語科教育法の学生が中心なので、数が少ない。それだから丁寧に見てあげることが出来る。この方法を二年後にやっていたら、ちょっと厳しいなあと思う。工夫しなければ。

            ◆

小説は、分析批評と形象読み、詩は形象読み、道徳は「大人とはなにか」について扱うことになる。小説では、導入レッスンとして小説にある挿絵の読解をする。学生にやらせてみたら、非常におもしろがっていた。これを生徒にもやるのだ。

道徳の「大人とは何か」は、去年の私の「大人とは何か」の授業を受けていない学生が挑戦する。社会科の教育実習に行くのにも関わらず、研究授業は道徳でしてねと言われたので、慌てて必死に準備をしている学生である。

いくつかの道徳に関する資料を渡して、
『どれをやりたいか考えてご覧なさい』
と指示を出したら、これを選んできた。

うーん、頑張れよ。大変だぞ。

今年は、学研の『NEW教育とコンピュータ』で大人論を少し展開しているので、あれこれ言ってあげたいが、ここは自分で考えるのが大事だからなあ。とはいえ、少しヒントを上げなければと思い、20代の後半に書いた「大人とは何か」の授業記録と参考図書を数冊貸す。

うーん、頑張れよ。大変だぞ。

            ◆

途中で、既に教育実習を終えた学生が挨拶に来る。
パッと見た瞬間、ほっそりとした印象。
『痩せたんじゃない?』
と聞くと
「ずっと話していたので、あごの周りがすっきりしました」
とのこと。ふーむ。

実習中の写真に研究授業の指導案、授業の資料等を持ってくる。彼女は書道の実習だった。唐の四大家、特に歐陽詢(おうようじゅん)76歳の時の最高傑作、九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)なんかをしっかりと教えている。気になっていた板書も、それなりに読める。これなら来年書道の先生になっても大丈夫だ。

実習後は、本当に一回り大きくなるなあ。

しかし、大学の教員になるとは3年前には夢にも思っていなかったが、大学の教員になって国語だけでなく、道徳や、書道の指導までするようになるとは、夢の夢の話であったなあ。でも、書道を志す学生たちと話が出来るのは、とても面白い。九成宮醴泉銘だけで話が伝わるなんて気持ち悪くて心地よいf(^^;。

            ◆

夜は、満月の一日前の月を愛でる。
サボテンの花が大量に咲き、えも言われぬ香りの中に、月が浮かぶ。

今日も一日、よく働いた。

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