「竹内常一ワールド」を旅する
久しぶりに恩師の本を読み直している。『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき 教師のしごと』(竹内常一 桜井書店)である。後期のキャリア開発演習2で取り上げている教科書である。
特に先生の著作を意識したのではないが、結果的に『教師になるということ』という本を出したことで、先生の著作に繋がりのある本となった。先生はご迷惑かもしれないが不肖の教え子としてはちょっと嬉しい。
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この『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき 教師のしごと』は、切なく、かつ心地よい本である。
(そんな読み方で良いのか?)
と突っ込みがあちらこちらからありそうだが、実にそう感じるのである。
私の本は自分の実践を取り上げて、それを語っているのだが、先生の本は日本中の優れた実践を取り上げて、それを研究者の視点で、
「ほーら、ここにはこういうことが実現されていたんだよ」
と、語られる。これに参ってしまうのだ。
実践者は、それこそ実践なので待ったなしの中にいる。これを実践記録にまとめることで、自分の実践の意味や価値を確認して、次の実践に向かう。書くことでこれが可能になる。私も学生たちが教職に就いたら、実践記録をまとめることを強く勧めたい。それは、学級通信でも良いし、事件簿でも良い。であるが、事実の流れを丁寧に追ったレポートも書いてほしいと思っている。
それは、そうすることで「教育は、文脈の上で成立する」ということを実感できるからである。
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教育に関する事務作業は、ある程度マニュアル化することが出来る。そして、そのことで効率も生み出す。私は比較的早くコンピュータで仕事を始めたが、
「いやあ、池田さん。よくコンピュータを使えるねえ」
と言われる度に
『いいえ、私は、コンピュータを使わないで仕事ができるほど、力がありませんから』
のように答えていた。本当にそう思っている。
さらに言えば、(なんでわざわざ面倒くさいウインドウズを使うのかなあ。私には分からない)とも思っていたがf(^^;。
ところが、子どものとの関わりに追いてはいくつかの切り口を提示することは出来るかもしれないが、マニュアル化することは難しい。難しいではなく不可能だし、やってはいけないことだとも言える。
それは、子どもの文脈が違うからである。もちろん、今の日本、そしてその地域の学校という大きな文脈では同じであるが、そんな簡単にはいかない。
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で、その教育が文脈の上で成立するということを、学生たちにいくつかの場面で実感させたいと思っている。私は、竹内先生に出会う前に、林竹二先生の『 教育の再生をもとめて―湊川でおこったこと』でショックを受け、教育は文脈の上で行われるものであり、その一点において、教師教育には文学教育が必要だなあと思うようになった。
そんなことがこの授業を通して多少なりとも実感させることが出来れば、良いなと思っている。
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今日の授業では、『おとなが子どもと出会うとき 子どもが世界を立ちあげるとき 教師のしごと』というタイトルの吟味をあれこれ30分近くやった。テキストを読み、読み開くためには、書かれている事実から何が読み取れるのかというレッスンをしなければならない。
少人数なので、ほとんどゼミのようにして語句を吟味しながら読める。私がしている授業の展開の方法などの種明かしをしながら、つまり、授業とは何ぞやということも織り込みながら、進める。指定したテキストの読みは少ししか進まないが、そういう読みの授業もまた良いものだ。
私も学生たちと一緒に、久しぶりに「竹内常一ワールド」を旅することを楽しみにしている。
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