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2007/10/09

朝からぼーっとしているのである

一気に気温が下がった。朝の空気がひんやりである。朝起きて一杯の野菜ジュースを飲むのが、つい先日までだったのに、今朝は何のためらいもなくあたたかい紅茶である。

こんなこともあろうかと、東京に行く前に気に入っているノリタケのカップを漂白していったのだ。ボーンチャイナではなくファインチャイナの一品だが、茶渋が奇麗に取れたそれはとても奇麗に紅茶を映す。秋の色である。

            ◆

東京に行く前に郵便受けを見たら、一切の本が届いていた。『学び合う国語  国語をコミュニケーションの教科にするために』(西川純/片桐史裕 編著 東洋館出版社)である。昨年度書いた原稿がまとまったのだ。これを朝から読む。

私も「相互評価に基づく作文指導」ということで第六章を担当した。お分かりの通り、本書は上越教育大学の西川純先生が提唱される「学び合い」をその基本哲学にして実践を重ねた、国語科の記録である。

私の記録は、厳密に言えば西川純先生の「学び合い」とは違う。そもそもこの実践をやっていた時に、西川先生のこの理論は存じ上げていない。しかし、その後この「学び合い」を学ぶに連れて、授業の基本哲学は非常に近いものがあると感じていたが、ご縁を戴いて原稿を書くことになったのだ。

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この学び合いについては、西川先生のブログあべたかさんのブログに詳しい。西川先生のことを思うと、ニコラウス・コペルニクスのことを思い出す。授業をつくる、指導するということを臨床的に研究を重ねて行ったら、研究の結果が、どうしてもパラダイムの転換を要求するようになってしまった。そして、それを真摯に訴えたということだ。

だって、授業では先生が「教えない」というのだから、そんなの授業なの?ということになる。しかし、授業なのだ。

ここで大事なのは、「教える」と「学ぶ」と「学び合う」ということは違うと言うことである。もっといえば、「勉強する」と「支援する」も違うということである。私は自分でこれらの用語をこのように整理していたし、教室を「座」と捉えて座の文学を構成する。または、学級集団作りも実践の土台にしていたので、西川先生の考え方はすっと入った。

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しかし乍ら、大学での教育法では、この「学び合い」はなかなか教えることが難しい。そして、採用試験ではこの「学び合い」を使った模擬授業等はほとんど評価されないだろう。それは採用試験では、指導という言葉の定義が狭義で使われるからである。西川先生ご自身であっても、学部の授業では学び合いの方法で授業を行っていないということである。

だから、授業では紹介するに留まるであろう。いつの時代でも、最先端は少数から始まるものだ。あれこれ言われて理解されずに始まるものだ。理解されていないから広がっていないのだ。ディベートでもそうであった。

ただ、私は自分が今まで学びつづけて実践してきた指導方法が、コペルニクス的転回をしつつ、アウフヘーベンをしているのを感じている。ポストモダンの社会に突入し、情報化社会の中で生まれて育っている子どもたちに学校で授業を行うということの意味を考えたとき、学び合いは重要な意味を持つだろう。

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そんな私がいまぼんやり考えているのは、学び合いの限界はどこにあるのかということである。西川先生のような実証的な研究が行えるかどうかは別にして、この辺りに限界があるのではないかとぼんやり考えている。

限界を提示することは大事だというのは、ディベートの指導をするときに私が学んだ事柄の一つだ。万能ということを人は求めるが、そんなものはないだろう。何に向いていてい、どんな限界があるのか。それを理解した上で活用するというのが大事であると考えている。

だから紅茶を飲みながら、朝からぼーっとしているのである。

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コメント

先日、やっと西川先生のお名前と研究が目の中に入ってきました。
上越教育大の3泊4日ツアーなるものをやってみたいなあと思う今日この頃です。
ここの所、大学入試に向けての問題演習が授業の中心になっているので、やや欲求不満ということもあります。
ディベートと同じく、実際の現場を見てみないとよくわからないというのもあります。
1月からほぼ授業がなくなるので、どこかのタイミングで有給をとってみようかな、と。

私もゼミ生には、教育実習では『学び合い』をするな、と言います。しかし、『学び合い』のライブになれた目を持った学生には、かなり辛いようです。
また、現場においても、無理するな、と言って送り出します。自分の身を自分で守るだけの実力がないからです。しかし、良き先輩を見つけろ、と教えています。
それと『学び合い』の限界ですが、私はおそらく「無い」と楽観視しています。あははは
それは、人類の歴史数百万年の生存競争の中で洗練されたものですから。あるとしたら、それは『学び合い』の限界と言うより、人類の限界だと思っています。
囲碁は19×19の盤面の中に無限の広がりを持っています。それはルールがシンプルで本質的だからだと思います。『学び合い』は基本的に三つの考え方から構成されています。もし、『学び合い』が限界を持つとしたら、コテコテと様々なルールを付け加え、特殊化したらそうなるでしょう。でも、それは『学び合い』ではないですが。そんなことを予想しています。
でも、認知研究の結果、認知研究の限界が見えたように、『学び合い』の研究の結果、『学び合い』の限界が見えるかもしれません。そうなったらと考えたらワクワクします。でも、同時に、先に述べたように、それは人類の限界だと予想しているので、恐ろしくも思います。
あ、思わず、長文になってしまいました。すみません。

学びあいをしよう
といったら、「それは、教えあいだ。」「人権的によくない」
といわれる。ちょっと参りました。
人権主任なのに・・。
答えを教える、教えあいじゃないですよ、
とはっきり言いました。
ただ、そうか、そう、とられられてしまうのかと・・。

西之園ゼミOB生であるわたしにとって、「学びあい」
は西川先生、池田先生の論とはまた違うかもしれませんが、
ずっと現場で問い続けている言葉です。
横浜では主流的だったのに・・。・。先進的だったのかな・・。

それでも、
子ども達はしっくりしてきました。
いい学びあいの光景が少しずつ見られてきました。
西之園先生曰く「学習する組織化」
を目指していこうと思います。

ああもっと勉強したい。

イクトスさん、1月ですか。日程の調整に入ったら御知らせくださいね。ほら、峰本さんも片桐さんも押木さんもいらっしゃるから、調整で来たら良いかなあとf(^^;。

西川先生、長いコメントありがとうございます。
そうですよね、先生は認知心理を研究された後にこの学び合いに向かわれたわけですよね。私は隙間家具のようなものを提案することをし続けてきているので、おそらく学び合いに付いても同じようなスタンスになるのかなあとも思っています。でも、学び合いの限界、怖いですが見てみたいですf(^^;。

ながたくさん

>ああもっと勉強したい。

その時に行う実践と言うのは、良い実践が生まれることが多かったように、私は覚えています。なんというのでしょうか、子どもをキャッチする範囲が広く深くなり、豊かな実践になるんです。

そして、それは教師としての大きな成長の準備になっているのだと思います。楽しみですねえ(^^)。

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