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2007/11/15

批判的に学ぶための、なぜ?

教えるということ。
実に奥が深いなあと改めて最近考えている。

            ◆

教えると言う行為は、動物だってしている。吾が子に餌の取り方を教えるなんてことはする。その姿に慈しみすら感じることがある。

ものいはぬ四方の獣すらだにも
 あはれなるかなや 親の子を思ふ

鎌倉幕府3代将軍 源実朝 『金塊和歌集』に載っている名歌だ。もちろん動物は本能として教えている。そして、家庭で親は子どもにいろいろなことも教える。それは愛情からであろう。

            ◆

では、諸君が目指す教師・保育士はどうか。何で教えているのか? 何のために教えているのか。私の今の考えは『教師になるということ』(ひまわり社)に書いたので、それを読めば大体分かる。君たちの答えはなんだろうなあ。

考えた? もういい?

では、それを踏まえた上で、今週の研究入門ゼミの外部講師のお話を考えてみよう。

            ◆

素晴らしい講義だったなと思う。教師を目指す大学一年生のためにあの短時間で、初対面の諸君を引きつけ、端的にポイントを説明する。凄い力量だなあと思った。

だが、私はその一方で、
(学生諸君は気がついているかなあ)
と思っていた。そこであのガイダンスの後のゼミで聞いてみた。
『○○先生の講義に、疑問や反論のある人?』
誰一人として手を挙げなかった。

            ◆

私も学生時代に塾の講師をしていた。そこでは、いつも時間を延長して「熱心に」指導していたつもりだった。他の専任やベテランの先生たちは、時間が来るとさっさと終わり、さっさと帰る。そして、「池ちゃん、早く食事に行こうよ」と誘う。
(まったく、「熱心」じゃないなあ)
と私は思っていた。が、これは大間違いだった。

子どもたちは、塾が終わったらその後生活もあり、乗って帰るバスや電車の時間もある。先輩の先生たちは、試験に出るところを子どものレベルに合わせて、今やるべきところを、与えられた時間の中で丁寧に教えていた。

延長して教えていたのは、熱心だからではなくて、私に教える力量が足りなかったからであった。生徒にとって、何処が必要なのかを見抜く準備が足りなかったのである。○○先生の講義は、まさに私の先輩たちの授業のような的確な講義であった。君たちは○○先生が指導してくださった方針で勉強を続ければ、合格の可能性は高くなるだろう。

だが、私が君たちに問いたいのはその先である。

            ◆

出るところを効率的に学習するのは合格のためには必要である。しかし、それだけでは合格は出来ても教師として仕事を続けることは出来ない。君たちが目指すのは、合格でない。合格はあくまでも過程である。

何回も言うが、「膨大な知識・豊かな経験・確かな指導力」。これが教師には必要である。採用試験はその一部を判定するのであり、そしてその採用試験を効率的に通過するための、的確な学習方法を講義して頂いたのである。

大学は学問を身につける場所である。素直に学ぶことは大事。だけど、批判的に考えることも必要。

本当に本当なのか。
根拠は何か。
限界は何か。
例外はないのか。
例外ではないのか。

メモを取りながら、自分の違和感に向き合い、考えながら話を聞くのだ。ここから学問は始めることが出来る。合格の先、教師になる道もここからだ。

後期研究入門ゼミ通信「運筆」NO6

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