ファイナルであった
ディベートの授業は、団体戦のファイナルであった。ジャッジをどうしようかと考えていた。私はある時期から生徒の試合については、極力ジャッジをしないようにしてきている。
生徒同士のジャッジが終わった後、
「それでは池田先生のジャッジです」
というガイドに従って、ジャッジをするのは結構気持ちがよかった。
『諸君の判定では、〜だが、私は〜だ』
というのも気持ちがよかった。
だが、ある時に気がついた。
これって、水戸黄門じゃないかと。
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私たちは、民主主義の時代に生きている。封建時代ではない。自分の意見をしっかりとだし、それを真剣に聞く人がきちんとその評価を下し、行動の方針を決めるという討議を大事にするのが民主主義だ。
ある人の価値観、判断で物事を決める時代に生きているのではない。だとすれば、先生が生徒の授業での試合に入っていって、ジャッジをするのは違うのではないかと考えるようになり、それからは本当にしていない。
◆
だが、そうすると私のジャッジを見せる機会もなくなる。ジャッジの見本を見せにくい。ディベートのビデオで瀬能さんのジャッジを見せることもできるが、やはりライブの試合でジャッジを見せたいと言う思いもある。
で、今回は考えた末、梅本先生にお願いした。
ファイナルに相応しい試合であり、素晴らしいジャッジをして頂くことが出来た。これで学生諸君は、ジャッジのなんたるかを理解することもできたはずだ。
さらに勝っても負けても、実力をつけることができたと学生は実感していた。なかには、これは必修の授業にするべきだという学生もいた。私もそう思うf(^^;。
このあと、今までの議論を小論文にまとめ、授業は終わる。
◆
来年度のシラバスを一応書き終えて、夕刻から、学科の忘年会を行う。
三条に繰り出して、和食で楽しむ。
いやあ、いいなあ。
教育の専門家集団の交流。
「池田さんは、〜がまだ足りないと思う」
なんて話をしてくださる。
私は
(へ? やっているけど)
と思うのだが、ベテランから見るとまだまだとのこと。
昔の私だったら、ここで喧嘩だ。が、今の私は、そういって名指しで指摘してくれる人の意見は大概正しいと言うことを理解しているので、ありがたく
(んじゃあ、しばらくその観点を注意してやってみよう)
と思えるようになってきたので、喧嘩よりは感謝になっている。
◆
さ、年末に向けてもう一仕事、二仕事だ。
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