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2007/12/26

明らかにここに違いが

「明らかにここに違いがありますね。いつからなのでしょうかね」

            ◆

関西ネタ研の懇親会で、京都教育大学の学生さん一人と、澤田先生とD高校の先生と私で飲んでいる時に、澤田先生が呟いた。

何かと言うと、京都教育大学の学生さんが、
「京都橘大学の学生さんは、いいですね。こんなことを教えて頂けるのですね。うちの大学にもあれば良いのに。なんで教えてくれないのだろう」
という話をした時に、
『え? 教えてくれなければできないと思っているの? 教えてくれなければ自分で学べばいいじゃん。教わるのがいいなら、教えてくださる先生をよんでくれば良いじゃん』
と私が言ったときに、言われた台詞だ。

            ◆

京都橘大学の教員としては、「京都橘大学の学生さんは、いいですね。こんなことを教えて頂けるのですね」と言われるのは、ま、嬉しい。だが、教師を目指そうとする学生がこう言い切ってなにも不思議に思わないのが、ちょっと恐ろしい。

世の中に存在することは、教われば全て身に付くと思っているのだろうか。教わることよりも学ぶことの方が多いと言うことは分かっていないのだろうか。こうなると、
「私が勉強を出来ないのは、教えてくれない先生が悪い」
ということになる。

確かに先生の仕事は教えることでもあるが、もっと大事なのは自らが学ぼうとする人間を育てることである。「私が勉強を出来ないのは、教えてくれない先生が悪い」という価値観を持ったまま教師になると、子どもや保護者に「私(私の子ども)が勉強を出来ないのは、教えてくれない先生が悪い」
と言われたら、切り返す言葉を持てない。「そうです。私の教え方が悪いのです。すみません」となる。

            ◆

私達の時代は、教師に対して半分尊敬、半分反抗というスタンスでいたと思う。もちろん、表立って反抗しないが
(本当は違うんじゃネーの)
と思って、自分であれこれやっていた。

新しいものを習わなくたって、今まで習ったことや自分で考えたことでなんとか新しいことをやっていた。音痴だった私が音痴がを直したのも、誰に教わって直したんじゃない。自分で練習方法を考えて直した。

目の前に現れる子どもたちは多様である。理論を十分に学んだ上であっても個別に対応しなければならないことが山ほどある。その時に、そのやり方を教えてくれる人は、まあ、運が良ければ同僚がいる。サークルに行って聞くこともできる。しかし、まずは担任である自分が考えなければならない。そのために、自分で学ぶということを手に入れていないと大変なわけだ。

            ◆

冒頭の澤田先生の呟きは、教えてもらえなければ自分でやれば良いと当たり前のように思っている人たちと、教えてくれなければ出来ないと思っている人たちに違いがあり、いつのころからかこの差がはっきりとしてきているというのだ。私もそう思っていた。

教えてくれなければ出来ないなんて、自分の人生は教わるもんだと思っているのだろうか。作り出すものだと思っていないのだろうか。前者だとすればもったいないなあ。

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コメント

「明らかにここに違いがありますね。」の言葉にはっとさせられました。学生さんだけではなくて、今の自分たちの状況にも当てはまると・・・。
 子どもたちに「自ら切り開いていく力を」と求めているのに、今の自分はどうなのだろう?と考えてしまいました。2008年の自分の目標もおぼろげながら見えてきました。ありがとうございます。 

いえいえ、あれだけの実践をされているkeiさんですのに、何をおっしゃいますやら(^^)。

それにしても、人の話を聞かないと言われていた私が、自分の考えを持っているというように言われるのは、不思議な気もします。

光の当て方の問題なのかもしれませんね。

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