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2007/05/12

車の中で吠える私

大学へは、昨日大学に残して行った車を拾うためだけに向かったつもりだった。そうしたら、私の研究室の前の教室で、教育実習に向かう四回生が自主的に「模擬授業」をするという。これは通り過ぎるわけにはいかない。二人の導入の10分を見る。そして、指導。まだ実習には時間があるので、大きな課題を与える内容で行う。しっかりな。

            ◆

窓を閉めて研究室を出ようと思ったら、中庭の禁煙場所で煙草を吸っているのを目撃。
(ったくもう、ここから注意か?)
とも思ったが、目撃しておいてスルーすのはいかん。五階から下に向かって
「そこは煙草を吸うところではないぞ」
と指導。あわてて消す学生。
指導への返事が適当な感じもしたが、あれだけ大勢の前で怒られているのだから、ま、今回は許す。

            ◆

午後から、樟葉西中学校の校内研修会に参加させて頂く。西川純先生が、講師をされる。無理を言って参加させて頂いた。研究授業を受けて校内研修会。いろいろな感想が出て、それを西川先生がバッサリと切りながら、学び合いの理論と実践について語られる。

おそらく、その場にいた先生方は目から鱗が何枚も落ちたことだろう。だって、今までの学習指導を根底から覆すわけだから。

樟葉西中学校の校長先生は若い。46歳で校長になられて今年50歳だとか。私も今までに敬愛できる校長に何人も出会っているが、初対面にしてそのオーラを感じさせてもらう校長先生であった。

校長になったらあがりで、その後自分が校長会でどのぐらいのポジションになれるかを考えるだけの校長もいるという噂を聞いたことがあるが、この校長先生は違った。前に進むことを求めている。それが分かる。

職員集団は、良い意味で
(この校長が言うなら、まあ、仕方がない、進むか)
という感じ。
それが研修会での質問の数の多さに現れていた。半分けんか腰の若手教員もいれば、熟慮の上言葉を選びつつ自分の今までの実践に寄り添いながら発言する先生もいた。そんな発言を引き出している西川先生、校長先生、そして職員集団。その瞬間にいる喜びをビシビシ感じていた。

その校長先生と西川先生が、研修会の最後でシンポジュームのように、または一対一でぶつかるように意見を交換し、授業というものの可能性を探っていた。とてもスリリングであった。

             ◆

校内研究会が終わってから校長室で歓談していたところ、その後の飲み会にもお誘いを受けた。
(いいんだろうか?)
と思いながら
(ありがたい)
と思って、喜んで参加させてもらった。

ウーロン茶5杯で楽しく食事。
お酒飲まなくても飲み屋で大丈夫なんだと初めて知った夜。

             ◆

そしてこの飲み屋で、歴史が動く瞬間に立会った。
こんなことなかなかないよなあと思いながら、
(うっしゃあ。授業だ授業。研究だ研究)
と一人盛り上がっていた。

             ◆

京都のホテルに宿を取った西川先生を車で送る。
全然アルコールは飲んでいないのに、ちょっと上気した私は何かに酔って感じであった。

勢いで、琵琶湖を見て頂こうと思った。
高速を降りて161号を走り、西大津まで足を伸ばした。
そして、人生初の琵琶湖に触って頂いた。
私の感謝の気持ちである。

            ◆

その後、駅前のホテルまで再び車を走らせ、お別れする。
なんとも充実した一泊二日であった。
「うっしゃあ。授業だ授業。研究だ研究」
と自宅に向かう車の中で吠える私であった。

2007/05/11

え、それを。うーん、私が? うひ〜

午前中、草津方面に向かう予定だったが凄い風と雨だったので、キャンセル。
家で仕事をすることにした。これがラッキーの始まりだった。

昼ご飯を食べてさらに仕事をしていたところ、奥さんが叫んだ
「虹!」
慌てて外を見ると奇麗な虹である。
強風と雨の隙間を縫って比叡山方面から光が射し、それが琵琶湖の上に虹を作ったのだ。しばし、見とれる。ありがたやありがたやである。

            ◆

夜はあるお方と会う予定になっていたので、車を家に置いて大学に電車で向かおうとしたところ、この大風で湖西線のダイヤが乱れているとのこと。

東京みたいに本数が多いわけではないので、乱れると大変。いつ電車がやってくるのかがわからなくなってしまい、山科駅からのバスに間に合うかどうかが分からなくなってしまう。

そこで、足を車に切り替えて大学に向かう。
夕方からの会議が二つ。重なってしまっているので全学的な会議の方から。FD委員会に参加。

大学教員は教員免許を持っていなくともなれる。研究業績で大学教員になるのであって、授業が上手いからなるのではない。しかし、大学教員の仕事は、研究、授業、学内行政、社会貢献の四つが求められていて、その中でも授業の占める比率は大きい。

授業方法について学ぶことなく、大学の講義を担当する先生たちの大変さは、新卒の先生と同様に厳しいものだと思う。少ししか力になれないと思うが、なんとか協力したい。

昨年度はそんなこともあって、大学で本学の先生方を対象とした「学生をひきつける授業づくりの基礎・基本」のような講演も行った。その時の様子が冊子にまとめられた。10部程度予備があるので興味のある方はお譲りします。まず、メールを下さいね。

            ◆

で、学科会議に10分だけ参加して、タクシーで山科駅に向かう。19:45である。20:00に待ち合わせなのだ。

なんとか間に合った。今日お会いするのは上越教育大学の西川純先生。出張でこちらに来ることが分かり、メールを差し上げたところ
「一緒に食事をしませんか?」
とお世話になっている先生からのありがたいお誘い。それで学科会議を失礼したのだ。

改札口を出たところで久しぶりにお会いする。私の髭があった時の顔が印象的だったようで、最初は違和感があったようだ。私は全く違和感なく先生とお話。大きな声で笑われる姿に、やっぱり親近感を持つ。

山科のいつもの店のYの方に行く。注文しようと思って、困ってしまった。いつも
『ん、何か頼んでくれ』
と学生たちに任せている店なので、何を頼んだらいいいか分からない。ひえ〜。知り合いの店員さんに
『すみません。うちの学生たちがいつも頼んでいるものお願いします』
なんて間抜けな注文をしてしまった。
西川先生、すみません。

            ◆

先生とのお話は、本当に楽しい。
あれこれと刺激的な切り口を提示して下さる。また、過分な評価を戴いたり、
「池田さん、もうあきらめて、次はこれをしなきゃ」
とこれから私がやらなければならない大きな課題も提示してくださる。
(え、それを。うーん、私が? うひ〜)
と思うような大きな課題である。

そして、何より心から喜んで頂いたことがある。
幸せだった。
そのことでもいろいろとアドヴァイスを戴いた。

気がついたら10時30分近く。
先生の明日のお仕事に差し障りのないように、切り上げる。
いやあ、良い時間だった。

            ◆

虹から始まる、良い一日だった。

Biwakoniji

2007/05/10

ロトのテーマ

旅に出たいと思う時はどんな時だろうか。

昨日の研究入門ゼミでは、ひょんなことからドラゴンクエストの話になった。今年の一回生はドラクエ的に言うと5の辺りだそうだ。

私は5は最後のボスキャラまでたどり着いたが、あのゲーム設定が許せず、倒さないままで終わっている。私にとってのドラクエは3と4だ。その4の第四章のラストシーン、双子の踊り子が港に走ってくるシーンが感動的なので、その話をする。

ま、この話はまたどこかで(というか、もう既にどこかに書いていると思うが)するとして、そのドラクエである。旅である。

            ◆

今朝方、「交響組曲「ドラゴンクエスト」ザ・ベスト」を聞いた。オープニングは、「01_序曲のマーチIV-OvertureVII-(VII)」もあるが、「ドラゴンクエストⅢ ロトのテーマ」(久石譲)が一番良いかな。

これを聞くと
(ああ、旅に出たい)
というか、
(旅に出なければならない。オレはこんなところにいては駄目だ)
という思いになる。

さて、今日はどんな一日を過ごそうぞ。

2007/05/09

水曜日は会議の日

水曜日は会議の日。
日本全国の学校という学校は会議だろう。大学とても同じである。なんで水曜日なのか、誰か調べてほしいなあ。

            ◆

午前中の研究入門ゼミの授業の後、学科会議、学生部委員会会議、教育実習対策会議、うんぬん・・・。と会議は続く。

これらの京都橘大学の会議に出ていていつも思うことがある。それは「なんとか学生を育てよう」という基本的な考え方で一致しているということである。私が出るどの会議でもこれを感じる。気持ちがよいし、こっちもやる気になる。

自らの研究で次世代に贈り物をし、授業を通して学生を鍛える。そのための会議である。疲れないかと問われれば、疲れると答える。しかし、それを上回る心地よさがあるなあ。

            ◆

さあて、会議も終わり、授業のまとめも終わったし、本を読むか。

ドミトリーにでも泊まって

で、昨日の学生との卒業論文執筆に関する会話である。

「先生、私まだ卒業論文のテーマが決まっていないのですが」
『ん、何かい。君は大学五年生までやるつもりなのかい?』
「いいえ、きちんと今年で卒業するつもりですが」
『その割にはまだテーマが決まっていないというのは、ちょっと遅いのではないかい?』
「いえ、まあ、その。いろいろとありまして」
『ま、なんとなくは分かっているが』
「それで、卒論なのですが、日本語と留学生に付いて書こうと思っているのですが、それについて何か良い本などございませんか?」

彼女は日本語教師を目指しているのであり、それについての卒論を書くつもりである。

『んー、どうだろう。京都には若者の外国人が世界各地からやってきて旅をしている.彼らが寝泊まりをしているドミトリーにでも泊まって交流を深めてくるってのは?』
「?」

んー、伝わらないか。

『あのね。もう一度、君が話したことを言ってくれる?』
「日本語と留学生に付いて書こうと思っているのですが、それについて何か良い本などありませんか? ですけど」
『そう。ここだ。ここが君の卒論のスタートになっているのだが、これは君は疑問を持たないだろうが、私は疑問だらけなのだよ。なんだか分かる?』
「?」

『君は、卒論のテーマとして、そう数ある卒論のテーマになる可能性のあるものの中から「日本語」「留学生」というキーワードを選んでいる。君に取ってはこのキーワードは自明のことであるな』
「はい」
『だがな、私にとっては疑問だらけなのだよ。なんで君が「日本語」「留学生」というキーワードを選んだのかが、全く分からない。卒業論文を書く時に、意識してかむ意識かは別にして、君たちは自分が選んだテーマを、相手は疑問に思ってくれていて当然という構えで始めるのだが、そこが駄目なんだな』
「・・・」

『君は既に、「日本語」「留学生」というキーワードの眼鏡でこの世の中を見始めようとしている。いや、見ている。しかし、私からすれば、君が見ているその世界は、極極小さな世界でしかない。なんでその小さくて特殊な世界に興味があるのかを、君自身が理解して、その理解したものを読者に伝えなければ論文は論文になりにくいのだ。少なくとも卒業論文はそこの作業が必要だと思うぞ』
「はあ」
『でだ。そのためには内省という作業が必要になる。自分の中を見て歩くことだ。それができると自分の問題意識が分かる。でだ。その内省のためには紙にマッピングで書き出すなんて方法もあるが、私は体ごとその環境に自分を投げ出してみるというのも良いのではないかと思うのである。そうすることでそこでの肌触りが君に内省を促してくれるんじゃないかと思うのだよ。それが、「ドミトリーにでも泊まって交流を深めてくる」ってことを勧めた理由なのだがな』
「鱗が数枚取れました」
『をを、そうか。良かった良かった』

            ◆

って、そりゃあいきなり「ドミトリーにでも泊まって交流を深めてくる」って言われても伝わらんよな、分からんよな。

でも、最終的には伝わったようで良かった。


佇む私

久しぶりに父親が夢に出てきた。
昨日メールを書いたからだろうか。

父は夢の中で神妙な顔をしていた。
そして、意を決したように私に何かを言い出した。

            ◆

「修、おまえには、・・・」

(な、なんだ。腹違いの兄弟がいるのか?)

「おまえには、本当の・・・」

(な、なんだ。別の親がいるのか。まあ、もうこの年になればそのぐらいはきちんと受けて立ちましょう)

と身構えたところ、

「おまえには、本当のキャベツがいるんだよ。ほら、これだ」

と、半分輪切りにしたキャベツを冷蔵庫から取り出して見せてくれた。

            ◆

(きゃ、キャベツ?)

さすがの私もどうリアクションして良いのか分からないままであった。

(「おまえには、本当のキャベツがいる」って言われたって、なんでオレにキャベツが「いる」んだ? しかも本当のキャベツってことは、偽物のキャベツもいるのか。そもそもなんでキャベツなんだ。確かにかの国では子どもはキャベツから生まれるという国もあるが)

            ◆

割と瑞々しい切り口のキャベツを見ながら、
(うーん、本当のキャベツねえ)
と佇む私であった。

今年初めてのジントニック

授業は一つだけだったのだが、疲れたなあ。
大学から帰るときには、水を貼ったばかりの田圃から蛙の鳴き声がする。これがこの疲れを心地よく解してくれるんだなあ。やっぱり、立夏を過ぎたら蛙の鳴き声だよな。

            ◆

今日の授業は国語科教育法1。国語の教師を目指す、または書道の教師を目指す学生たちが集まっている。これまでの授業は、授業を受けるための、または教師を目指すためのガイダンスをしてきたが、今日からは国語の指導の専門的な部分に突入である。

15回の授業で国語のすべてを語ることなんて出来ない。だから、私はこの授業では国語の教師になった時に直面する大きな問題に付いて、その指導方法に付いて扱うことにしている。すなわち、漢字、作文、読書、スピーチの各指導である。

学生たちが、この4つの内の一つでも、きちんと指導できるようになれば、学校教育現場に入ってからやっていく自信が持てると思うので、大きな四つの問題を中心に扱うことにしている。

で、今日は漢字を扱った。

            ◆

授業後、4回生が研究室に残ってあれこれと時間を過ごしていた。いつもなら、こんな感じにはならない。何か一人一人が言いたそうな雰囲気。
(なんだ〜?)
と思ってみていたら、いろいろと相談があるようだ。

教育実習が迫ってきていて、授業をする範囲が決まったことからその相談をしたい学生。また、卒論のテーマが今ひとつ決まらないでいて相談したい学生。このような学生が残っていた。それぞれにあれやこれやと話し、関連する本を貸し出したりして相談に乗る。

            ◆

それぞれの質問にヒントを与え、さあ、もう一仕事をして帰るかと思っていたところに、一回生が数人やってくる。「明日の教室」の申し込みをしたいというのだ。

そうかそうか。

で、いろいろと話す。夢を目的にして、目的をかなえるための方法についてである。

中学生に限らず、大学生であっても、自分を伸ばそうとする彼ら彼女等はいいなあと思う。

            ◆

琵琶湖に上がる花噴水を見ながら、今年初めてのジントニックを飲み、
(授業は良いなあ)
(伸びようとする学生たちはいいなあ)
と思う私であった。

2007/05/08

授業の感想に答える20から26

続いて、5/1の授業に関する感想への答え。

S1 小学校から今まで授業を受けてきた中でメモを取りながら受けるといったことはした記憶がない。しかし今日メモの意味について学んだことによって今までの授業を少しばかり後悔した。
“記憶ではなく記録”することで私も少しは“頭のいい人”に近づけたかもしれない。以後がんばる。
そして初めて聞いた言葉ではあるがノンリニアというものを大事にしたい。人間が人間であるBig Pointをこれからの世界を生きていく上で最高の武器にしたい。

T ノンリニアの発想を持てると、随分楽になります。私の経験上では、ノンリニアで出てきたアイディアは、かなり使えるものの場合が多いです。

S2 今日の授業の中で一番印象に残っているのが、「大人と子供では物の見え方が違う。それを伝えていうのが、教師の仕事だ」という池田先生の言葉でした。この言葉を聞いて、生徒の長所を活かすも活かさないも教師の腕次第だ、ということに気づきました。
知識のある大人が子供に教えることは簡単です。しかし子供が大人のことを考えることは、教師がその機会を与えてあげない限り自発的に行えるものではありません。「教える」ということは、時に子供の「考える」という能力まで奪ってしまう、ということを念頭におきながら授業に臨まないといけないのだと思いました。
かつての「頭の良い」とは、記憶が良い何でも知っている人という意味でしたが、今は「ナゼ」と問いをたてれる人が「頭の良い人」です。頭の良い人に一歩でも近づけるように、授業の中でひとつでも多くの「?」を見つけていこうと思います。
今日の「自主練習会」は5限に授業があった為、参加することが出来ませんでした。また次回「自主練習会」という形をとって頂けたら嬉しいです。

T 「「教える」ということは、時に子供の「考える」という能力まで奪ってしまう」とあります。まさにそうですね。子どもは「勉強する」と「学ぶ」の二つの活動をします。そこで教師は子どもが今はどちらの活動をしているのかを判断して、「教える」と「支援する」を使い分けます。これが出来るといいのですが、なかなか難しいんだなあ。

S3 「教師が枠を与えることで、子どもは安心して自由にすることができる」という言葉が印象的でした。
ただ「自由にしなさい」という指示を出すだけなら誰にでもできるし、それは学習にはつながらない。しかし教師が何らかの意図をもって子どもに枠を与えることで、初めて子どもの能力を引き出すことができるのだろうと思いました。
そして、「頭がいい人は、疑問を持つことができる人」ということに、深く同感しました。どんなことに対しても「疑いの目」を持ち、そして生まれた疑問に対してきちんと答えを見つける。このような子どもを育てることこそが、真の教育の意味なのではないかと思いました。

T 「教師が何らかの意図をもって子どもに枠を与えること」とあります。これを「活動の目的」と考えてみてはいかがでしょうか。

S4 メモの技法の話を聞き、「まず書きなさい」→「発表しなさい」という方法や、「思いつきメモ」の話が印象に残りました。
また、メモの種類の中にある、記録のメモ・思考のメモ・まとめのメモは授業を受ける上でとても重要なメモの方法だと思いました。その中で、思考のメモにある、「疑問や質問」は、頭のいい人=「なぜ?」と思える人に繋がる大きな鍵だとも思いました。
ただ授業を聞くではなく、先生の話に「なぜ?」と思えて、自分なりに「Q」を探していける思考力を付けていきたいです。

T 大学の授業は90分です。理想としては、5分に一つの「Q」がメモできると良いなあと思います。20個出れば見事です。

S5 今日の授業ではマンダラートが一番印象に残りました。説明を聞いたときは簡単そうに思えたのですが、実際にやってみると意外と言葉が思いつかなくて、予想より書けた言葉が少なかったです。自分にはあまり発想力や思いつきの力がないのだと知り少しショックでした。少しも考えることなく次々と言葉を思いついていかないとマスを全部うめることは無理なんだと思いました。


S21 今までは意識しながらメモをするのではなく、ただメモする、というだけだったように思います。そして、授業中、集中していたつもりでも、別のことを考えてしまうと「いけない、集中できていなかった」と思っていました。
しかし、それはいけないことではなく、集中しているからこそなるのだということには驚きでした。
自分は「メモを取る」ことに必死で「考える」ということが出来ていなかったように思います。
これからは、フとした瞬間の思い付きや疑問もメモし、後々に生かせるようにしたいです。
そして「コンピュータにできないことは考えること、疑問に思うことだ」と「記憶することではなく記録すること」ということばがすごく頭に残っています。
きちんと考えられ、記録できる人間になりたいと思います。

T ノンリニアの発想を封印して生活してきた人たちは、いると思います。ノンリニアの発想は、ちょっと間違えると不真面目に取られることがあるからです。トレーニングしてみましょう。この発想を使えないのは、人生の半分を活用していないことになるかもしれませんよ。

S6 私はメモを取るのがとても下手です。高校までは先生が板書してくれたことを写していて、大切だと思ったことを少しだけメモする程度でした。どちらかというと美しいノート作りということばっかりにこだわっていたと今になって気づきました。そのせいだと思うのですが、大学に入ってからのノート作りは最初は大変でした。板書をしてくれる先生は少ないから、メモを取ることがとても苦痛でした。自分の字が汚いとか読みにくいとか思いました。しかし、メモを取り、そしてそれをまとめる事は考える力になると思うと、先生の話したことに加えて、どんどん思ったことや急に頭の中に浮かんできたと思うことをメモしたいと思いました。まだまだメモの取り方は下手ですが、整理して要領よくまとめる力をつけていきたいと思いました。
また、私は先生の話を聞いているのに、なぜか皆と違うことをしてしまうことがあります。例えば今日の授業で『「きく」には3つあって、「聞く」と「聴く」とあと1つわかる人』と先生がおっしゃった時、私は「効く」と答えてしまった、ということです。もっと頭の中で理解する力をつけなければならないと思いました。

T その程度の間違いは、愛嬌です。大丈夫大丈夫。
高校までの授業では、先生は君たちが理解しやすいように概念を咀嚼し、構成し直して提示してくれます。板書にしても生徒諸君が分かりやすいように先生がまとめてくれます。しかし、世の中にあるさまざまな情報は整理されて提示されているわけではありません。バラバラにあるわけです。人にその情報を伝えるためには、そのバラバラなものを記録し、整理していく力が必要になります。そのトレーニングが大事です。
私の授業では、板書はほとんどしませんが、ナンバリングやラベリングなどを使って、話の構造は示しているはずです。ですから、「高校までの板書」→「私の話」→「世の中の情報」という風に位置づけています。これに時々ノンリニアな私の思い付きがスピーチに加わり、多少メモを取る側からすると混乱するという仕掛けになっているはずです。そういうつもりで授業をしているのだと分かれば、理解しやすいでしょう。

S7 私が今日の授業で一番印象に残ったのは、頭がいいってどういうこと?という話です。疑問を持つことの素晴らしさを初めて知りました。
人間は疑問を持つことができるがコンピューターにはそれができない、と池田先生がおっしゃった時、人間だけの特権を最大限に使わなければと思いました。ぜひ授業中のメモにQを取り入れていきたいと思います。
これからは話を丸飲みするだけでなく、疑問を持って勉強していきたいです。

T 今は「人間は疑問を持つことができるがコンピューターにはそれができない」であるが、これも可能になるのではないかと思っています。擬似的に疑問を持つというのは、もうすでにアイボで可能になっているからです。そこから先はどのような世界が待っているのか、私も興味を持ちつつ考え中です。

S8 今まで受けた授業のなかで国語科教育法の授業が1番メモをとっていて、1番頭に入りやすくわかりやすいです。疑問に思ったのですが、国語の授業の際、この授業のように先生が話すことを生徒に記録させ、板書はせず、次の授業の時にメモ(記録)をまとめたノートを提出させるというような授業方法は私達大学生だから成立するのでしょうか?やはり中学校や高校でこの授業方法をとるのは難しいですか?

T 可能です。むしろするべきだと私は考えます。ただし、いきなりは難しいと思います。中学校では三年間かけて少しずつ伝えて行きます。なぜ、このような方法をしているのか、また、どうやってメモを取るのかの両方を、少しずつスモールステップで行います。

S9 授業中にメモを取り、家に帰ってからノートにまとめるという作業は、大学に入ってからし始めました。記録を元にすると、授業中の記憶を辿りやすくてどの授業でもしています。が、思いつくことや疑問に残ったことはあまりないか、あってもそのまま通り過ぎてしまっています。マンダラート、イメージの花火で思いつきの力を鍛えたり、常に疑問を持つ心を意識していきたいと思います。
また、「頭のいい人とは」という問題も印象的でした。頭がいい、賢い、分かっていたはずなのに、その定義では人である必要はないと言われ、ショックを受けました。今日は、殊更考えることの多い授業でした。

T 君たちが社会に出るこの数年は、売り手市場の就職活動になるでしょう。その点ではラッキーですね。ですが、入りやすいということと仕事がしやすいということは別でしょう。あなたが他でもないあたなであることを、自分や仲間が理解して、社会から必要な人間になるためには、人類から必要だと言われる人間になるにはどういう学びをしたら良いのでしょうか。たまには、大きな問いを立てて考えてみるのも、大学には必要だと思います。

S10 「メモは記憶ではなく記録である」そのとおりだと思いました。もし、メモをとらないで話を聞き、記憶することに専念すれば後にどれだけのことを思い出せることができるのでしょうか。私は半分も覚えている自信がありません。記録し、あとで見なおすことによって考えることができるのだと授業を通して感じています。
でも、「話を聞くときは先生の目を見なさい」と言われたことがありました。先生の目を見ることで、話を聞いているという態度を示すことも必要だと思います。池田先生のように「前に注目するとき」「メモを取ることに集中するとき」など、切り替えを上手くしなければならないと思います。

T 子どもをよく見ることです。教師の出した指示に従って子どもが作業をしている時に、その指示を否定するかのような次の指示を出しては駄目です。これを続けると、子どもたちは、
(なんだ、指示はやらなくてもいいんだ)
と思うようになります。ひとつの指示は責任を持って出し、やらせきる。すると切り替えのタイミングが分かるようになります。

S11 今回の講義で一番印象に残っているのは、メモを取るということは記憶から解放されることだということです。ぱっと思いついたことを後でやろうと思っていてもすぐ忘れてしまいます。授業中に何かを思いついて書いておこうと思っても、その場に授業のノートしかないとメモするのをためらってしまいますが、なんでも書ける物があれば残しておくべきだと思いました。

T 人間のワーキングメモリーは大きくないので、このワーキングメモリーに短期記憶として情報を溜め込んでいると、ノンリニアな思い付きが出にくくなります。重たい荷物を持って旅をしているとき、珍しそうなものがあっても見に行こうとは思いませんが、手ぶらだと行ってみようと思うではありませんか。それと同じでしょう。
他にもメモを取ることは、意識や記憶を外化させることで短期記憶から長期記憶へと導くきっかけを与えることにもなると思います。

S12 私が今回の授業で印象に残ったことは、「20歳の時に考えた事は25の自分には書けない。」ということである。だからこそ、今疑問に思ったこと、感じることを記録していくのは大切なことだと思う。私は毎日ではないが、気が向いたとき、日記帳にその日感じたことを書いている。引き出しの中にしまってあるので、たまにしか見ないけれど、過去の日記を見てみると今の自分では考えないであろうことがずらずら書かれており、気恥ずかしさと共に自分の成長が感じられる。これからも是非続けていきたい。また、日々感じた事は手帳などになんとなく綴っておきたい。メモは些細なことでも、読み返した時、当時の情景が鮮明に思い出されるので良いものであると感じた。

S13 メモを取ることの大切さ。小中高と、私は「メモを取る」ことは授業の中でほとんどせず、書くことといえば板書内容をノートに写すことだけでした。私の知る限り、周りもそんな感じで、メモを取り始めたのは大学に入ってからでした。
でも、今日の授業で改めてメモを取ることの意味を再確認しました。
断片だけでもメモを取ることによって、その周囲の記憶が呼び起こされるのです。
また、意見を聞くときにまずメモを取らせてそれを読ませる。簡単なことだけど、とても有効だと実感できました。

T 今の学生が良いなと思うのは、ちょこっとしたことでもエクセルにメモしておけば、後で簡単に見ることが出来ることです。大事なことはメモしなくても思い出すかもしれません。しかし、ちょこっとしたことは忘れます。ちょこっとしたことはいいや、と思うのでしょうが、このいいやと判断しているのは、まだ勉強の足りない若い貴方です。そのいいやと思ったことが実はとても価値のあることというのが、分からないかもしれません。だから、今はメモをしておくのです。

S14 今日のメモの方法のうち、マッピングメモが印象に残りました。実は数日前、まったく同じ『イメージの花火』のプリントを見つけました。プリントの整理をしていたのですがそれを見つけた際、配布されたのが昨年度の特別活動論の授業だということはわかりました。しかし、いったいどこで使用したのかまったく覚えていませんでした。またそれを見てもいったい何の教材なのかも解らず、ノートを見ても解りませんでした。そして今日、その内容をメモの技法を学んで思い出しました。
 そのため、今日自分自身で『メモすること=記録・人の記憶を呼び覚ますもの』だと実感しました。また、メモをすることが日々身についてきたので、昨年度の特別活動論よりもメモの取る速さも早くなり、聞き取れる情報の量も多くなりました。続けることで身につき、自分の力になっていると感じました。
 また、「Q」を持つことの意味を再確認しました。このことも昨年度の先生の授業で教えていただいたのですが、その時の疑問や感じたことをメモすると教わり、それ以降何度か自分の中で意識してをいました。しかし、実際にはそれをすることはあまりなかったです。今日改めて、なぜ「Q」が必要なのかを知り、これからの授業に取り入れるようにしたいと感じました。

「きく」の違い 
聞く:hear:自然ときこえる
聴く:listen:まともに耳を向けてきく
訊く:質問をする

なぜ国語を学ぶのか?の問いに対して、「ことば(=超能力)を使って考えてみる・使ってみる・上手くなる(4月10日の授業)」と学びました。しかし最近私は次のようにも考えられると思います。特に古典に対してですが、やらなければならないと感じています。はっきり言って、現在、書道をやっていて私自身が必要だとも感じていることも原因のひとつですが、それ以前に中学・高校生でも必要だと感じます。
最初は、これから古典を学びたいと感じる人がいないから、学ぶ必要があると考えましたが、今は、古典への関心がなくなればなくなるほど、古典が必要だと感じます。例えば、パソコンが浸透したら浸透したほど、習字・書道などの手書きの良さが再確認されてきました。それと古典は同じなのではないかと思えます。
そういった時に、もし、古典を学ぶ者がいなかったら、古典は衰えていくだけです。今の若者の中には古典に関心のある子も少なからずいます。そういった子のためにも衰えさせてはいけないのでは…と感じました。
さらにそうすることによって、関心のなかった子に興味を与えるきっかけにもなると思います。

国語側から考えさせるためにはどうすればよいか?の問いについてはまだわかりません。これからじっくり考えてみようと思います。

T なぜ古典が大事なのか? これを小学校4年生にもわかるたとえ話を使って、話し言葉で説明できれば、あなたが本当に理解しているということだと思います。上記の文章は、ま、大人は(そうね)と思ってくれるかもしれませんが、子どもは(よくわかーんないー)だと思います。語れること。これが教師です。

S15 私はメモをとることが苦手です、
何故なら、メモであっても(きれいに書きたい!)という意識が働くからです。
だから、時には肝心なことを逃してしまいます。
それではメモをとる意味がないと感じます。

しかし、今日の授業を受けて、考えが少し変わりました。
記憶を引き出すために記録のメモをとるのなら、キーワードを押さえれば多少汚くて読みにくくてもいいのではないかと思ったからです。
そう考えられるようになったこれからは、どんどんメモをとりたいと思います。

(記憶の引き出しの取っ手は、自分で作らないといけない)と感じた授業でした。

T 文字を書くとき、奇麗に書いている人たち、書ける人たちは「奇麗に書かねばならない」という考えにとらわれがちです。ですが、状況によって変えればいいわけです。今は、スピード優先なのか美しさ優先なのか。使い分けが出来ると便利です。

S16 記録のメモは、最近少しずつ出来るようになってきたなと思います。でも、思考のメモはまだまだ出来ていません。というよりも、忘れてしまっていました。「なぜ」と思うこと、「こうだ」と考えること、それが人間をより人間らしく豊かに成長させるのかもしれません。
教育法の授業は、なかなか早くて「なぜ」と思う暇がないのですが、頑張って意識的に取り組んでみたいと思います。

T スピードの中で考えることもやってみてください。じっくりと考えなければ思いつかないというのだけでは、駄目で走りながら考えるということも出来るようになった方がいいですね。

S17 コンピュータと人間との違いで「人の心が分かる」について「勿論コンピュータはできない。人間とは違う」と言い切ったあと、先生に「本当に人の心がわかるの?」と返されてしまったときは、目から鱗状態でした。論文についてのお話も、卒論で悩んでいる今の私には目が覚める思いでした。
思考がひっくり返されたときは、本当になんというか世界がちょっと違って見えてきますね。先生の授業ではそれを毎回体験させて頂いています。
「なぜなのか」考えることは人間しかできないこと。国語を勉強する理由に繋がるように気がします。まだモヤモヤして掴めませんが、常に心において自分なりの答えを導き出せたらと思います。

T 大きな問いは心の中で持っていて、暇があれば取り出して考えてみるといいですね。そして、答えが出たら自分でも(本当か? 逆じゃないの?)と疑ってみることです。なかなかただひとつの答えというものは見つかりにくいし、おそらくいくつものの何ものかの間にバランスよくあるものが、大事なような気がしています。 

S18 今まで先生の講義を聞き、私なりにまとめてメモを取っているつもりでしたが、今日の講義を聞いて考えが改まりました。
疑問や思いつきは不意に頭をよぎっても今まで記録されることなく、頭を流れて行っていましたが、これからはきちんと記録していきたいと思います。
記憶の呼び覚ましや、思いつきがスムーズに出来るようこれから取り組みたいです。
また今回の授業で行ったマンダラードはとても面白かったです。漢字を考えてしまい、あまり数は書けませんでしたが、これがどんどん早く書けるようになったら嬉しいだろうと思います。

T 自分の思い付きを捨てるのがもったいないと分かってくれたのであれば、嬉しいね。他の人の考えも大事だけど、自分の中から浮かんできたものも大切にしてほしい。

S19 自分は日常的にメモをよくとります。
それは、学習的なことではなくても、約束や自分がしたいこと、スケジュールなど、忘れっぽいので、とりあえず、書きます。
今日、メモの話でメモは短期記憶の容量を増やす働きをしていると聞いて、なるほどと感じた。
メモを書かなければ、あいまいで変化しやすい記憶でしか保存されないので、その引き出したい情報を出力するときに不確かなものとなってしまう。メモを取ることによって、記憶でなく記録=事実として書き留めておけるので、出力する際、正確な情報を引き出せるので、思考や学習の手助けになると分かった。

T やりきったことを消して行く快感もメモにはありますね。

S20 自分の思い付きをメモしてあとでゆっくり考える、というのは昔の方が出来ていた気がします。特に高校までは、周りに不満ばかりあったので、そうやって自分の考えを膨らますのが好きだったのだと思います。
大学に入ってからは先生方の話すこと全てが珍しくて、聴き取ることと書き残すことが得意になりました。しかしその代わり、そういえば「考える」ということを全然しなくなってしまっている!と今日の授業を受けて気付きました。
先生の話が面白ければ面白いほど、ためになればためになるほど、意見を鵜呑みにしすぎて自分で新しいことを考えなくなります。もっと先生が言う事にも疑問を持たなくては、常に考える立場にいなければ、と思いました。「否定的な聞き方」は自分にとってしばらくの課題になりそうです。
前回からの声や板書で先生がおっしゃった「あえて書かない・言わない」ということがどれだけ大事か自覚できたし、「頭が良い人は問の立てれる人」と聴いて自分もそうなりたい!と思いました。
書く時間を与えてから発表させる、ゆっくり呼吸をしながら書写をさせる、などの池田先生の実践的なテクニックを授業で教えていただくたびに、思うことがあります。
「教師になりたい、子どもたちにこんなことを知って欲しい」と情熱的に思っていても、それだけでは駄目なのだな、「どう教えるか・どう授業を進めるか」の工夫を考えることが大事なのだな、ということです。
過去の授業で先生が「教師はプロデューサーでありディレクターだ」とおっしゃっていたのが思い出されます。教師の仕事が人相手なのだということをもっと意識して勉強していかないと、教育実習のときに気持ちだけ空回りしそうだと思いました。
今日の板書練習では、「自分の字はどうしようもない」と思っていたところから一歩抜け出せそうな気がしました。今下手くそでも、練習すればもっと上手くなれそうだ、もっときれいな字が書きたい!と気持ちが溢れました。
字は人に見せるものであること、「他者に向けて読みやすくわかりやすく」を大事に、地道に練習していきます。

T 「否定的な聞き方」とありますが、これは違います。「否定的な聞き方」ではなく「批判的な聞き方」です。「否定的な聞き方」は、(これは駄目だ。間違っている)と聞くことで、「批判的な聞き方」は、(これは本当だろうか?)と聞くことです。で、違っていれば正しいものを受け入れ、合っていればそのまま受け入れるわけです。
子どもに力を付けて上げたい。まずは、そう思うことです。そして、そのためにはどう指導したら良いのかを考える。調べる。考える。その繰り返しです。教育の世界では指導の技術について、未だに否定的な考え方を持つ先生もいますが、私は「思い」と「技術」と両方とも必要だと思っています。おいしい料理を作りたい!と思っているだけで出る分けない。技術も必要です。ですが、なぜか教育の話になると技術が軽視される傾向にあります。私は君たちにどちらも身につけてほしいと思います。

さてと、これでひとまず国語科教育法1、2の授業全体のガイダンスを終える。

30回の講座の4回、1割ちょっとを使って、国語の教師を目指す諸君にこの授業を受けるための基礎的な約束事や技術をガイダンスしたことになる。次週からがいよいよ国語科に固有な内容に入ることになる。

君たちは教師になったとき、このガイダンスで苦労すると思う。ガイダンスは、その授業の受け方を提示することで授業のルールを確立し、この授業を先生の言う通り受けて行けば力が付くと思わせられなければならないからだ。それも子どもたちに媚びることなく、教師と生徒としての適切な距離感を保ちつつである。

今、若手の教師が悩んでいることで良く聞かれるのが、この距離感である。友達感覚というのが「親と子」にしても「先生と生徒」の関係にしても良いような感じで広まっているが、これは非常に危険である。なんとなれば、「親と子」にしても「先生と生徒」は友達にはなれないからである。

大人である親と先生は、あるときは友達であるときは友達を止めることが出来るが、子どもにはこれが無理。一度友達になったと思った先生が、急に叱り出したり指示を出したりするようになると、子どもたちは
(裏切られた)
という気持ちになる。だから、距離感なのである。近くなったのは離れにくい。子どもに裏切られた感が残る。ある先生は「教師は子どもにとって優秀な上司になるべきだ」と言われたが、私は「憧れられる先達」というのも含めておきたい。

教育と言う営みは、長丁場である。少なくとも一年はその子どもたちを担当する。そんな営みに向けて、ルールを示しつつ学ぶ意欲を持たせ、ゴールの姿をイメージさせてというのが、授業のガイダンスである。じっくりとやるのが良いと私は思っている。

そんなものを踏まえてのガイダンスだったわけである。さすがに二十歳を超えた君たちと中学高校生へのガイダンスとは、私も多少やり方を変えた。簡単に言えば中高の方がもっと丁寧である。

諸君は中高の国語の教師になる。もっと丁寧に的確に子どもたちを国語の世界にガイドしていく力を身につけてほしい。

メモとして記しておく。

国語科教育法1、2通信『修学』NO21~NO27より

紙の上で推敲するのが正しい

経験的にそうだろうなと思っていることを、科学が証明してくれると嬉しい。

引用開始 ーーーーーーーーーー

http://www.asahi.com/science/update/0507/TKY200705070084.html?ref=rss

「やったー」細胞と「しまった」細胞 脳に別々で存在か

2007年05月07日19時18分

 脳には自分の行動が正しかったときに働く細胞と、間違ったときに働く細胞が、それぞれ別々に存在しているらしいことを、理化学研究所のグループがサルの実験で見つけた。将来、効果的な学習法の開発につながるかもしれないという。米科学誌ネイチャー・ニューロサイエンスで報告した。

 テレビ画面でサルに正解の図形を覚えさせたあと、左右どちらのレバーが正解か当てさせてみた。最初の1回は当てずっぽうでも、そこで表示された図形を見て選択が正しかったか誤っていたかを知って、2回目以降は正しいレバーを押すようになった。

 この間、おでこの内側にあって、行動の柔軟性と関係が深いとされる大脳の前頭前野内側部での神経細胞の活動を記録した。調べた約350個の神経細胞のうち、16個は正解が表示できたとき活発に活動し、別の32個は不正解だったときに活動していた。

 正解だけに反応する神経細胞は、左右どちらが正解かわかった後にはあまり反応しなくなった。正解がわからない課題を与えることが、脳細胞を活発に働かせるポイントらしい。

 理研脳科学総合研究センターの松元健二研究員は「学習効果を高めるには正解をほめるだけでなく、間違いを指摘することも大切かも知れない」といっている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

子どもたちにノートを取らせる時に、

「間違いは消しゴムで消しては駄目だよ。残しなさい。そして、正しいと思うものを近くに書きなさい」

と指導してきた。

子どもたちは、自分が間違っていたという過去を残すことにプライドが許せないのか、親に怒られるのが困るのか、奇麗なノート作りに関心があるのか、はたまた全部か、とにかく間違いをノートに残そうとしない。

間違いのないノートは、頭に残りにくいわけである。考えるという行為を刺激しないのである。

            ◆

と考えて、さてワープロはどうなるのかと思った。
手書きの文章の時は、あれこれ推敲の後が残った。しかし、ワープロであれば打ち間違いはその場で直され、さらに推敲のあとも(基本的には)残らない。

やはり一度プリントアウトして、紙の上で推敲するのが正しいのだろうな。
うむ。ひとつ勉強になった。

やはり人生は戦いである

うーん。研究の方にシフトしようと思うのだが、どうも授業の方に集中してしまう。正確には授業の準備だけどね。

だけど大学の授業は難しいなあと思うときがある。その根本原因は、授業時数が少ないことにあるように思う。

いま大学はどこでも授業に関してはシラバスを公開することになっている。私ももちろんそうしているが、この公開というのがなんとも。いや見られるのが恥ずかしいとかそんな中学生のようなことを言っているのではない。このシラバスが自らにかける拘束力がどうも居心地悪いという話である。

「学ぶとは、学ぶ前と後で自分が変化したことによってでしか証明できない」というようなことを内田先生は書かれているが、これはまさにその通りで、そうだとすればシラバスに書かれた通りにやるということは、自分が変化する先が見えるということである。これは学びではない。

だが、いまはこれを提示するのが基本。うーむ。

15回の国語科教育法1で教えられる内容を精選しても、教えきれないことがたくさんある。であるがなんとかやりくりをして15回に納めてある。そこに、学生の学びの様子を見ながら追加したり削除したりしながら授業をつくって行くのだが、授業字数が少ないために車で言うところのハンドルの遊びが足りない。

さあ、明日の授業も準備は出来ているのだが、これもあるものを加えたため、あるところにしわ寄せが来てしまうと言う結果になっているのが、すでに分かっている。だけど、これで行くつもりだ。

学生諸君、頑張ってくれ。

            ◆

最近メールを下さる方は、
「耳と歯とお大事に」
と一言添えてくださる。ありがたやありがたやである。

兎に角なんとかしてもらわなければと、歯医者に駆け込んだところ、これが取りあえず何とかなったのである。凄いなあ。これで明日の授業はなんとかなるぞ。

人生は戦いだなあと思う。耳も歯も大丈夫な人だってどこかに困っているところがあるだろう。私なんか能天気なので、自分の症状をたらたらと誰が見ているか分からないブログに書いているが、誰にも何にも言えずにただ抱えている人もいるだろうなあと思う。

もちろん、自慢じゃないが私にもブログに書けないことぐらいあるが(変な自慢だなあ)、なんとか戦いに挑んで行こうという意欲が保てるぐらいには毎日を過ごせているのだから、良しとしよう。

            ◆

と思って夕ご飯を食べたら、また歯が壊れた。
やはり人生は戦いである。
うむ。

2007/05/06

体の調子を整えるぞ

目覚めたら琵琶湖は雨に包まれていた。
いつもなら見える大津プリンスホテルも全く見えない。
なんというか、目の前がすべて雲の中に在るようでこれはこれでいいなあ。

なんとか工夫して朝ご飯を食べて、台所の片付け。
一気に洗いまくる。奥さんが拭きまくる。
現在食洗機を物色中だが、こういうのも良いもんだ。

            ◆

この数日で、第二回明日の教室の申し込みを戴いた方に、受付完了のメールを送る。今回は粘土の用意をしなければならないので、早めの申し込みが欲しいが、まだちょっとゆとりがある。参加を考えている方、お早めにどうぞ。自分の作品が北海道に1000年残るというのは、凄いことでっせ。

            ◆

伸び放題に伸びていた髪の毛を切ってくる。本当は東京で懇意にしている美容室でお願いしたいのだが、行く機会がなかなかない。このまま放置しておくと恐ろしいことになりそうだったので、大津まで出かけてカット。ふう。座ったとたんに寝てしまう。1時間半ほぼ寝ていた。

            ◆

帰ってきて何気なく久しぶりにテレビを見ていたら今村克彦先生が出演されていた。相変わらず良いコメントだよなあ。短時間でポイントを捕まえて、分かりやすく効果的に学校教育に付いて説明できる。それも、子どもの成長の事実から語ることが出来る。だから説得力があるんだよな。あの政治評論家の三宅さんも「良し」と評価するぐらいだ。

            ◆

その後、久しぶりに書斎にこもり、授業の準備に原稿書きなどを進める。学研の「NEW教育とコンピュータ」の連載7月号分を一気に書き上げる。一週間寝かせて原稿の粗熱を取って、編集者に送りましょう。7月号は6月15日発売ということで、新人の先生方に贈る「通信簿の書き方」である。一年目の先生、必読よ(^^)。

なんだかんだ言って教育の仕事が好きなんだなあと思う。この連休は15冊ぐらい本を読んだかな。それも楽しい時間であったが、そのアウトプットとして授業を作る。楽しいなあ。

全力でこの楽しさに没入できるように、体の調子を整えるぞと思う。

のんびりの一日

5/5

昨日は深い反省の後、大津市の牧場に行ったりして気持ちの良い空気を体に入れていた私であった。
青紅葉が本当に奇麗だった。Aomomiji


今日は、午後から雨が降るという予報だったので、午前中に動き出す。蹴上にある浄水場のつつじが見頃になり無料で見ることが出来る期間になった。これを見に行ったのだ。

ウエスティン都の駐車場に車を停めて歩く。かなりの人だ。
浄水場は思ったよりも広く、思ったよりも強い日差しで足取りも重い。だが、水を無料で配布してくれていて、これを飲みながら歩くのはなかなか良い。

浄水場で作った非常用のボトルの水をこういう時に無料で配ってしまう。備蓄の水があることを知らしめつつ、期限前に消費するというなかなかのアイディアである。

ツツジはものによっては満開。中には三部咲きも。無料開放は5/8まで。

            ◆

昼食をなんとか取ってから、草津市まで車を走らせる。調度品を探しにいくドライブである。まあ、日差しが強い。車外の温度を見てみると26度。ああ、夏日だ。でも、窓を開けて5〜6速で1500回転ぐらいでトルクを使って走るのも悪くない。

昨日、新型のThe New MINIのOOPER-Sとすれ違い様に挨拶をされた。そうか、もう新型が走っているのかと思いながら、やっぱりこっちの方が良いなと思った。当然向こうはこれがいいと思っているし、さらに昔のMINIでなければMINIでないと言う人もいて、実に面白い車だと思う。

            ◆

琵琶湖東岸のさざ波街道を、琵琶湖大橋まで走らせ堅田方面に抜ける。真野を流れる川に手作りの鯉のぼりが泳いでる。そうだ、今日はこどもの日だもんな。菖蒲湯を楽しもう。
歯のことを気にしながらも、のんびりの一日。

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