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2007/01/19

『教員改革』

今年に入ってから初めての高校での模擬授業があった。
午後の2時間といういつものパターンだ。
2時間目が始まる前に、1時間目を終えた生徒が入ってきた。

「おー、お前さ一時間目何に出た?」
「ん、わからん」
「なんで?」
「寝てたから。一番前で寝てたし」

という会話をしてくれている。次の講師の私が側にいると分かっているくせにである。
言うじゃん。
私にさらにスイッチが入った。
教師をなめたらいけないよ。

当然、一人として寝かすことはなく、びっしりと50分知的興奮に包んであげた。うっしっし(死語)である。

本当は、今日は糸井先生のところの「ダンスで理科」を見に行きたかったが、公務では仕方がない。

            ◆

そこで、研究室に戻り集中して資料漁り。
先日買っておいた『教員改革』(東洋出版 鈴木義昭)を読み切る。いやあ、良かった。

東京都教育委員会の指導主事をして、その後小金井市の教育委員会の指導室長をされた方だが、非常に説得力のある事例と、教員改革への提案をされている。私の主張と重なる部分も多く、
(を、同じ思いを抱いている先生が、東京都教育委員会にもいらっしゃったか)
とびっくりするような嬉しいような思いがした。

中でも驚いたのが、資料編に「こんなときあなたはどうする?」という生徒とのやり取り集があり、まるで『こんな時どう言い返す』であった。

小学校の先生出身の鈴木先生であるので、四月からの児童教育学科での教員の卵の鍛え方に関しても、いろいろなヒントを得ることが出来た。

糸井先生のところに行けなく残念だったが、これはこれで良い時間の過ごし方ができたなと満足。

            ◆

さて、明日はセンター試験の初日である。
私は初の試験監督だ。

都立高校の入試日とセンター試験の日は、なぜか雪に見舞われることが多い。現在の天気予報では明日は曇り。最高気温は9度ということなので、まあ、雪の被害は大丈夫そうだ。

今日は早めに布団に入り、たっぷりと寝て、試験監督に力を注ぎましょう。

2007/01/18

評価と評定

このところ、全紙サイズの半紙(畳でいうと、だいたい一畳分の大きさ)に文字を書いている。一日に一枚か二枚だが、これが気持ちよい。どこに発表するわけでもなく、誰に頼まれているわけでもなく、ただ気に入った言葉を書いている。

趣味と言うものでもなく、かといって勉強と言うのでもなく、ただ紙と筆と墨と文字と戯れているという感じだろうか。そうしながら、アイディアが浮かんでくればラッキーだし、浮かんでこなくとも何らかの生理的な欲求は満たされている感じがする。

気持ちがよい。

            ◆

年度末の作業が始まっている。
昨年の業績のリストを作り終わり、提出完了。昨年は学会等での発表はなかった。本格的な研究は来年度から動き出すことになると思うが、ま、それなりに昨年も研究が出来たと思われる結果があって良かった。

ちなみに、一番新しいところでは『児童心理』(金子書房)の2月号に、「教師の発言に傷つき易い子への対応」ということで載せてもらいました。まさか、この雑誌に書けるとは思わなかった。

            ◆

国語科教育法2も残すところ、今日を入れて後2回。
本日は、デジタルストーリーテリングの後半を鑑賞。なかなか良い作品もある。が、画像とテロップが微妙に合っていないものなどもある。指摘されると理解できるのだが、自分では気がつかない。まあ、作品ってのはそういうことがあるが、それを乗り越えるのが表現するってことなんだよな。

鑑賞会の後は、評価と評定についての講義。前半が理論編。後半はエクセルの評定プログラムを実際に使って説明。絶対評価の観点別評価について具体的に説明。学生たちは
「こんなに細かいことをするのですか」
と驚いていた。

私も今の評価システムは、評価のため、親に説明するための評価システムのような気もしている。そこに使うためのエネルギーを他に使った方が、教育は良くなると思っている。

しかし、これができないことにはどうしようもないからなあ。
今のうちに頑張って評価の実際をエクセルの使い方を学びつつやっておくんだよ。

            ◆

今日の評価の講義の中で特に強調したことは、評価は「子どもを観察し、記録を取る」から始めましょうということ。子どもの事実から始めないことには、指導が空回りして虚しいことになりがちだ。

「こうでなければならない」というところから始めると上手く行かないことがある。指導すべき対象の子どもたちが、そっぽを向くことが増える。
子どもたちは言葉では言わないが、
(なんか、俺たちのためってよりは、先生の自己満足のためのようだよな)
のように思うことが多い。

「子どもを観察し、記録を取る」ことから「計画」「指導」「評価」「支援」と続けることで、評価は意味を持って来るのだと思う。「評価」は、次の「指導」に活かされたとき、意味があるのだ。

『サッカーで言えば、ディフェンダーは相手の攻撃を防ぐだけでなく、防いだ後、味方の攻撃へのパスを出すまでが仕事である。これと同じ』

と説明したが、さて女子学生は本当に分かってくれたかなf(^^;。

2007/01/17

千の風になって

「千の風になって」という曲がオリコンチャート一位になっているというニュースが流れている。紅白歌合戦で歌われた曲だ。

中高年が買っているという。
「私が死んだら風になるから、お墓の前で泣いたってダメですよ」
というような詩である。だから若者ではなくて中高年が買うのか、若者はダウンロードでCDは買わないからなのか理由はよくわからないが、一位である。

            ◆

この歌があることは知らなかったが、この「私が死んだら風になるから、お墓の前で泣いたってダメですよ」という内容は、去年知った。

家本芳郎先生が亡くなられた時に、伝わってきたのだ。
先生は生前、この詩を読んで
「これはいい。私も風になろう」
と高笑いをされたそうだ。

「大学の教員になって、先生の理論をこれから教師を目指す大学生に伝えます」
と、きちんと報告することもできずに先生は亡くなられた。
未だにお墓参りは出来ていない。

でも、風が吹くたびに、先生が様子を見に来てくれているのではないかと思えるのは嬉しい。

「人は、誰もその人のことを思い出さなくなった時に、本当に死ぬのだ」
というユダヤ教の教えは、このことを言うのかなと思った。

            ◆

昨日は滋賀大学の教職サークルからの招きがあり、学級担任論の講座を2時間少し行ってきた。後期のテスト期間前にも関わらず熱心に学ぼうとする学生たちがいた。定員40名のところを54名の学生が来ていた。

学生たちに、家本先生の教育哲学が少しでも伝わったとすれば、私は嬉しい。

2007/01/15

話し言葉の思考から、書き言葉の思考へ

本日は、大人論の二回目。
前回は、学生たちの大人の定義を検証しつつ、「大人とは何か?」の外堀を埋める作業をした。
今回は、私がどのようにして「大人とは何か?」の問題について解決を図って行ったのかについての説明をした。

            ◆

「物事を考える」というとき、教師の出す指示は

・自分でよく考えなさい。
・仲間と話し合いなさい。
・辞書を調べて考えなさい。

などが多いのではないかと思う。それはそれで良いのかもしれないが、私はもう一つ大事な指示があると思っている。それは、「見本を示す」というものである。

もの作りの授業等では、特段変わったものではない。完成品を示したり、作っている途中の作品を示したりして、子どもたちの活動を支える。私の分野で言えば、書写の授業で私が書いた作品を見せたり、書いているところを生徒に見せたりするなんてことは当たり前のことだ。

ところが、この「物事を考える」というとき、「見本を示す」ということはあまりされていないのではないかと思う。

            ◆

この場合の「見本を示す」というのは、何を意味するのかというと、思考の過程を示すことではないかと思っている。多くの場合、それは論文によって示されている。しかし、その論文に至る前の、話し言葉で思考されている部分を、示すことは大事でないかと考えている。

その話し言葉で思考されている部分から、書きことばでの思考へと導くのが特に大学での論文指導には大事だと考えるからだ。私だってなにもいきなり書きことばで思考しているわけではなく、話し言葉での思考から入っていることを示すことは、彼らを同様に書きことばへの思考へと導くプロセスになるのではないかと考えている。

今日の授業は、私がどうやってこの「大人とは何か?」を答えようとしてあれこれ挑戦したことを述べたのだが、そこに意味があると考えてのことである。

・何をきっかけにして考えたのか
・きっかけをどのように展開して行ったのか
・調べるときに押さえるポイントは何なのか

そんなことを学生たちが具体的に手にしてくれればいいなあと思って授業を行った。論文を書くときのヒントになれば良いなあと思って授業を行った。

            ◆

来週は、この教職総合演習の最後の授業である。
私の「大人とは何か?」の定義を示し、学生たちからの質疑を受け、授業全体をまとめて終わる予定である。

なぜ学生は論文が書けないか

はあ、一安心。

            ◆

さて、今週は立て込んでいる。
通常業務の他に、会議が続き、講座も続く。
そして週末には、センター試験の監督がある。
体調を整えて行かなければならないなあ。

            ◆

昨日の風呂の中で、なぜ学生は論文が書けないかということを考えた。
自慢じゃないが、私は卒業論文を二年間かけて書いている。
4年の時に書き終わり、提出の一歩前まで来たのだが、納得がいかなくてもう一年書かせてもらうことにしたのだ。

5年で出した卒論が、4年の時に出すはずだった卒論と比べて良くなったかと言えば、全然良くなっていない。そもそも論文というよりは壮大なレポートだろう。その時は、論文とは何なのかが自分の中で分かっていなかったからである。

論文とは、「問いがあり、その問いに答えている文章」である。

            ◆

ここからなぜ学生が論文を書けないのかを考えてみる。

その1 論文の定義を知らない。

ま、論文の書き方のような本を読めば良いのだが、私は
(なんかズルしているみたいだな)
とガラスの正義感で読まなかったのを覚えている。
きちんと習うか、学ぶかしていないとダメだな。

その2 論文のフォーマットを知らない。

その学問の分野ごとに、論文のフォーマットがある。これは先行論文を読みながら学んで行くものかもしれないが、フォーマットをきちんと習うか学ぶかすれば大丈夫だろう。

            ◆

その3 問いが立てられない。

これにはさらに三種類あると思われる。

1)問いそのものが思いつかない

これは論文を書こうとする領域への理解が足りないのであろう。

2)問いは見つかったが、既に解明されている。

自分では良い問いだと思ったのだが、既に先人が同じように問いを立て、かつ、解明しているというものである。ここまでくれば大したものであるが、結構ショックは大きい。だが、得た答えをさらに批判的に問い続ければ、良い問いを得ることが出来るはずである。

3)問いに答えられない。

幸いにして、誰も論証していない問いを手に入れることが出来た。その問いは答える必要もないほどのつまらない問いではなく、問いそのものにも価値がありそうだ。が、その問いが大きすぎて答えられない、論証しきれないというものである。

論証のための力量が、学生である彼らにはないという言い方をしたら良いのであろうか。これが、論文を書くのが難しいと思われる理由である。ま、学生に限った話でもないが。

            ◆

が、聖蹟桜ヶ丘のご隠居(自分でこうおっしゃっている)である藤野先生は、違った。学生の時にまとめた卒業論文を核にして最後まで研究を続けられた。

そういうテーマを学生の時に手に入れ、それを発展させながら答え続け、学究生活を続けられたわけだ。そういう方もいらっしゃるんだなあと思う。私には真似できないなあと思う。

            ◆

今日の授業では、この前提を元にして、さらにもう一つの問題に挑戦することにしている。

ブシュワラララララ

午前中は、お習字の練習を少し。
正月に奥さんの実家で貰った大きな筆を使う練習をする。
大きな文字を書くのは、やはり気持ちがよい。
でーっ、だーっと書く。
しばらく書き続けよう。

            ◆

午後からは計画通り、ドライブ、温泉、読書をして過ごす。

家から30キロほど離れた「比良とぴあ」という施設に向かう。
時速60kmの制限速度で161号を北上。見事に30分で到着。
これだから田舎は良い。

それにしてもcooper-s君のエンジン音は良い。
折角ipod-suffleを聞けるようにセッティングしたのに、これを使わずただエンジン音のみを楽しみながら走ることも多い。

エンジンはシュワラシュワラとピストンを上下させ、その振動はドロルンドロルンと伝わり、センターマフラーへブシュワラララララと流れて行く。2000回転には2000回転の、3000回転には3000回転の音の良さがあり、そこに繋がって行く時も心地よい。

はあ、こんなにハマるとは思わなかったなあ。それでいて、燃費は10キロを越えるんだから嬉しいねえ。

            ◆

比良山は山頂部が雪をかぶっている。ではあるが、麓は雪なし。やはり暖冬か。
600円を払って、風呂に入る。
室内風呂が二つ。サウナが一つ。露天風呂が一つである。

3時間近くお湯に浸かっていた。
途中で脱衣所に戻り持参したペットボトルの水を飲み、本を読み、また風呂への繰り返しである。

湯船に浸かっている途中、授業のアイディアや論文のアイディアが浮かんで来た時には、ダーッと脱衣所に戻り、本の白紙の部分に書きなぐり、また風呂に戻るということも何回か繰り返した。怪しい行動である。

露天風呂から見る空が夕焼け色に変わり始めたので、あがることにした。
すると脱衣場の外は大混雑。
お客さんが多すぎて入場制限をしているようだ。
こんなに人気のスポットだったのね。

スキー帰りに浸かって行くってのは、確かに気持ちいいだろうなあ。

            ◆

折角びわ湖の北まで来たので、畔まで出てみることにする。
夏は「快水浴場」となる浜辺だ。

ちょうど夕焼けの時間。
見事だった。
草津方面をきれいに染めている夕日。
びわ湖はその夕日に照り輝いている。

そして、右を見ても左を見ても、見渡す限り誰もいない。
貸し切りである。
うーん、なんという贅沢。
なんで誰もいないんだろう。

体は温まったままだったので、しばらく湖からの風に体を当てていても大丈夫。
風景からのエネルギーを体に入れ続けた。

            ◆

さあ、月曜日からはちょっと忙しくなるぞ。
テンポ良くいきましょう。

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