« 2007年12月2日 - 2007年12月8日 | トップページ | 2007年12月16日 - 2007年12月22日 »

2007/12/14

副鼻腔炎ですね

うーん、風邪である。
午前中に近くの耳鼻科に行って診てもらった。

「副鼻腔炎ですね」
『ということは、風邪ですね』
「はい」
『インフルエンザではありませんか?』
「その所見は見られません」

ああ、良かった。
インフルエンザであれば、授業は出来ない。
私の恩師は氷嚢を頭に乗せて39度の熱でも授業をしていたという逸話があるが、それはまあ、いまは無理である。

ただ、そこまでしてやる先生のインフルエンザであれば、掛かっても仕方がないかなあと思っていたのは、大学時代の私だ。今の学生たちにはそういう思いは理解できるだろうか。

            ◆

授業を二つ終えた。
事務的な仕事をしてさっさと帰ろう。

明日の「明日の教室」のために今日はなんとしても体を休めなければ。
みなさん、明日お会いしましょう。

明日には、アルコール消毒が出来る体になっていたい私です。

本格的に風邪を

いかん。
本格的に風邪を引いてしまった。
何年ぶりだろう。
間接が痛くなっていないので、37度なのでインフルエンザではないと思うが、鼻と喉が痛い。

幸いなことに本日は研究日。授業がないので研究は諦めて大人しく寝ていることにした。
が、首が据わりかけた娘は、無謀にも寝返りを打とうとしている。
気になって寝られない。
奥さんは内祝いの品を買いにいってくれている。

            ◆

娘が寝ている瞬間に、寝る。
泣き声で起きる。
そして、安全を確認して、寝る。

            ◆

明後日12/15(土)は、今年最後の「明日の教室」。
治っていますように。

2007/12/13

学んで問う

研究入門ゼミでは、ルソーの『エミール』を読むことになっている。

学科の全てのクラスで読む。私は、テキスト論的読み、作家論的な読み、読者論的読みを説明した上で、まずは作家論的な読みの土台として、ルソーの履歴書を書かせた。これで少しは、ルソーのなんたるかが分かり、分からないところが分かる。

履歴書の書き込み回覧をさせて、履歴書を書かせたもうひとつの意味を話す。それは、学習と学問の違いである。学んで習うと、学んで問うの違いである。

            ◆

言うまでもなく、大学は学問の場である。児童教育学科はその進路として教育者を目指すことを目標とする。そしてそのためのライセンスの取得も行う。しかし、それはそれ。学問を修め、人間的な成長を求めるのが主である。

学問を修めるための方法として、論文を書くということがある。この論文とは何か。これについても論じた。小論文との違いを論じようと思ったが、これは時間切れ。また改めてやろう。

            ◆

午後は、出張。
学生の就職に関して、学生部の委員として出張。
この辺りから、ちょっと調子がおかしくなってきた。

昨日の夜もそういえば、変だったし、一週間前ぐらいからお腹の調子も。
風邪である。
手を洗ってうがいをしていたし、喉にタオルを巻いて寝ていたのだが。

            ◆

家に帰って、風呂にも入らずに厚着をして寝る。
平熱が低い私は、37度近くになると結構辛い。
娘から離れて寝る。

しばらく抱っこしてはいかんだろうなあ。
これも辛いf(^^;。

2007/12/12

学ばねば子どもの前に立てない

研究入門ゼミは、合同でコース別に行われた。私は児童教育コースに参加した。

現在、児童教育コースの一回生は、近くの小学校でボランティアをさせて頂いている。まさに、「させて頂いている」のである。

本学には、付属小学校はない。それをメリットとして考える。

国立や私立の付属小学校ではなく、通常の地域にある小学校でボランティアをさせて頂いて、教育の現場では何が起きているのか、教師になった時に自分は何をすれば良いのか、そして、今の自分には何が足りないのかを、このボランティア活動を通して学ばせたいというのが、ねらいである。

なんとなれば、諸君のほとんどは地域の普通の公立小学校に就職するからである。

            ◆

ここで数回のボランティア活動が終わった。このタイミングで、月に一回提出が義務づけられているレポートをもとに、合同ゼミでボランティアの振り返りを行った。

まずボランティアの意義、ルール、合同ゼミの意味を確認した。その後、諸君のレポートから学科通信を作成したものをベースにして、インタビューをし、グループに分かれてディスカッションをし、まとめのコメントを与え、事務連絡をしてで90分の授業が終了。

これらを学科の教員が分担して、担当して授業を「作って」いるのである。ある意味、理想のチームティーチングである。

君等もやがて授業は作るものであることを理解するようになるであろう。そして、どのように作ったら良いのかという課題に、直面するであろう。

            ◆

学校教育現場で起きていることは、学校教育現場に行かないと見ることが出来ない。当たり前である。諸君は、足を運び自分が頭の中に描いていた、子どもの姿、教師の指導、学校の現実を見て愕然としたであろう。

自らの勉強不足を猛烈に感じたであろう。

なかには、自分に出来るのであろうかと落込むものもいた。

しかし、一回生だからいいのだ。
二回生の観察実習、三回生の本実習に向けての第一歩を、自分の力不足と感じられれば良いのである。

最初から上手く行く人は、偶然か自分の力でなかったか、勘違いかのどれかと思って良いだろう。そんなに教育は簡単ではない。

だから、ボランティアを受け入れてくださっている学校には、感謝をしなければならない。

はっきり言って、大学生なんて受け入れるのは面倒くさいと思っている先生も珍しくないだろう。子どもの面倒だけで精一杯なのに、なんで大学生の面倒まで見なければならないのだと思っている先生は、私が中学校の現場にいた時も珍しくはなかった。

そんな中で

(よし、私達の後輩になろうとする大学生の面倒を見てやろう。鍛えてやろう)

と思って指導してくださる先生方がいることに、感謝して、残りのボランティアを続けてほしい。そして、学ばせてもらいなさい。自分には何が足りないのか、自分の何を活かせば良いのか。

            ◆

しばらくすると、大学生協には諸君が来年度のゼミで使用するであろう「教科書」や「参考書」が並びます。今回の授業で参考書として提示した本も並びます。通常10%オフのところ、15%オフで並ぶはずです。

頑張って1万円ぐらい貯めておくといいだろう。そのお金で買う。本は買っておくもの。その内、読むようになる。学ばねば子どもの前に立てないことを諸君は理解したはずだ。

研究入門ゼミ通信「運筆」NO.9 より

冬の食材が身近になってきた

冬の食材が身近になってきた。
昨日の夕食の一品。
石川県から届いた(といっても近くのスーパーだけど)甘エビである。
これで400円である。

Amaebi


卵を抱えている甘エビである。
この新鮮な青緑の卵が全てを語っている。
なんの魚臭さもない。

ただただ、食感と甘さだけが口腔に広がる。

大津は、日本海から車で90分でやってこれるのである。
ああ、新鮮だ。
安上がりの贅沢だ。

メディア断食

国語科教育法2では、久しぶりに私が話す授業であった。模擬授業が四回あったから、一ヶ月ぶりと言うことになるか。今日は、メディアリテラシーの授業である。メディアリテラシーとジェンダーの問題を扱った授業例を元に、行った。

学生たちには事前に「メディア断食」を課題としてさせてある。この実体験をもとにレポートを書かせ、メディアとは何ぞやということを考えさせてある。今日はそのレポートの回覧から開始。

引用開始 ーーーーーーーーーー

課題 メディア断食


現在われわれは多くのメディアに囲まれて生活をしている。国語科では、そのメディアとの付き合い方を指導するメディアリテラシーについて扱うことが増えてきた。

そこで、指導者である諸君はメディアの本質を理解する必要がある。その一つの方法として、メディア断食を行う。メディアを取り除いた生活がどのようなものなのかを知ることが、メディアの本質を理解する手助けとなるからである。

【方 法】

① 任意の二泊三日を決める。

① 今回は12/14の授業に間に合うように設定。
② お勧めは大学の授業の無い二泊三日。
③ 事前に友人に所定の日程でメディア断食をすることを伝えておいてもよし。ただし、伝えない方が面白い結果になる。

② この二泊三日は、メディアを断つ。

① イメージとしては、家族全員で無人島に漂流したものである。
② であるから、家族等との会話は許される。
③ 生命に関わる事態が突発的に起きた時は、この課題を中断すること。

③ 終了後1200字程度の報告文を書く。

① 事前の予測、途中の様子、事後の感想・考察の構成で書くこと。
② A4でプリントアウトし教務に提出。メールでも提出のこと。ファイル・件名は共に、「メディア断食 氏名」とすること。
③ レポートは、表紙を付けずに書く。レポートの最初には、次の三点を書く。
(ア) 学科
(イ) 学生番号
(ウ) 氏名


学生によるレポート 実例

日本語日本文学科 NT

メディア断食をするにあたって、まず日程を組むのがとても大変だった。メディアを断つということは必要な連絡も携帯電話やパソコン、電話を使ってすることはできない。レポートや課題もパソコンを使うし、手書きしてもそれはメディアとなってしまう。事前の予測としては、メディア断食をすると絶対に不便で困ると思っていた。また、人との連絡や課題だけでなく日常生活でも大変だろうと予測した。家にいる時はほぼ毎日テレビを見るし、CDを聴いたり本や雑誌を読んだりするのが楽しみである。何か忘れてはならないことがあればメモを取るし、手紙を書くことも多い。こういったことが一切できなくなる、となると何もすることがないように思えた。そして、メディアはなくてはならないものであるというふうにも考えた。やった後にもこのくらいの感想しか持てないのではないかと思っていた。

 しかし、メディア断食をする前にたまたま模擬授業でマスメディアを取り扱った。何も分らないまま仲間とマスメディアやメディアについて調べながら授業を作った。メディアは毎日触れるもので、身近な存在なので学ぶには入りやすいかもしれない、というのが動機であった。けれども、それは間違いで調べれば調べるほどメディアが分らなくなっていった。教える立場である私達にとっても、想定している生徒にとってもメディアが身近すぎたのである。

 そういう中でメディア断食を行った。やりながら案外、外との連絡は取らなくても全然苦痛ではないということが分った。後で返事を出せなかったメールの処理については少し面倒ではあるかもしれないとは思ったが、自分から連絡を取らなくてもたいして困らないと感じたし、楽だとさえ思った。さらに、メディア断食中は部屋がとてもきれいになった。できることが制限されているので、家ですることと言ったら家事くらいである。掃除、洗濯、料理などに集中していると時間はすぐに過ぎてしまい、メディア断食ということも意識の外にあった。反対につらいと感じたのは本や雑誌が読めない、文字が書けないことである。立って作業をしているときは平気だが、休憩に座るとどうしても何か読みたいと思ってしまった。

 メディア断食を行ってみて予想外だったのはこの断食が苦痛ではなかったことである。自分が事前に思っていたほどメディアがなくても困らないという感想を持った。予想通りだったのは本や雑誌が読めない、文字が書けないことに苦痛を感じることであった。しかも、これは予想以上に度々感じた。できることが制限されるので座るとどうしも考え事をしてしまう。しかし、考えたことをメモすることもできない。何度かその考えてはメモできないということを繰り返してしまった。

 予想外だったこと、予想通りだったことを合わせて考えると、それだけメディアというのは私達の生活の中心だったのだということが分った。家事に専念できたのもメモを取れなくて困ったのも、それは普段の生活がメディア中心だからということである。メディアが身近すぎて意識しないというのは模擬授業でなんとなく感じていたが、身近というより現在の生活の中心であり、生活の一部であると考えた。また、私が本を読みたい、メモを取りたいという欲求を感じたように、今までの多くの人の記録するということに対しての欲求が今までメディアを発展させてきたのではないだろうか。それは必要に駆られてということもあるだろうし、理由は様々あると思う。しかし、根本的にはメディアは相手に伝えたり自分に残しておくためにできたもののようにメディア断食を通して感じられた。

 私達は常にメディアと共に生活している。生活の中に入り込みすぎて見えなかったメディアをこの断食のおかげで考えることができた。現代の生活でメディアはなくてはならないものだが、そのためメディアに振り回されることもある。忙しいときはまたメディア断食をして考えてみるのもいいと思った。

引用終了 ーーーーーーーーーー

            ◆

なぜメディアリテラシーがこれからの国語の授業として重要なのかについて、あれこれ解説。そして、私が書いた「CMの分析」と「男女混合名簿」でジェンダーを扱った2003年9月の「授業づくりネットワーク」の実践記録を元に、あれこれと考察を進める。

大学で他の授業でもメディアリテラシーのことは学んでいるようで、それを思い出しつつ新しいことを学び、自分の身近なところのジェンダーを振り返りということで進めた。

            ◆

メディアリテラシーやジェンダーについての考察を深めることもさせたいが、私がもうひとつ学生に伝えたかったメッセージは、
「授業は作るものであり、進化させるもの」
であるということだ。

「授業づくりネットワーク」の実践記録に至るまでに、私がどのように授業を思い付き、改良していったのかを話した。模擬授業であれ、授業をつくった彼ら彼女らであれば理解できると思ってのことである。

            ◆

さて、来週と年明けの第一週は一人5分の模擬授業である。一年間学んできたことを五分間で実際に出来ているかどうかのチェックをする。楽しみである。

2007/12/11

どか雪が根雪を作る

学生が前向きに取り組んだ授業の後は、心地よい疲れが残る。昨日の授業もそうであった。

私の授業はウォッチャーとしての位置ではなく、プレーヤーとしての位置を求める授業が多い。だから、学生たちは授業の準備や授業中の取り組み、まとめは通常の授業よりも多くなる。分かると出来るとの差を埋めるためにトレーニングを重ねることが、学問をする者の基礎を作ると考えてのことである。

急にできるようになるものではない。少しずつである。少しずつ振る雪が一晩で待ちの景色を一変させるのである。ではあるが、どか雪が根雪を作るということもある。私は教職関連の授業を行っているが、大学の授業は、後期だけであればたかだか15回である。この15回のうちに学問の、教師の力量の根雪になる何かを築くことが、大事だと考えてやっている。

昨日の授業では、
「卒業論文よりも、こちらに力を注いだと思います」
などという発言も出てきた。

ま、卒論の方に力を注いでほしいとは思うが、卒論後にこちらに必死だったと言うのでよしとしよう。

この授業が、彼ら彼女らの根雪になっていることを願う。

写真は、晩秋の大学裏の空

Tsora


2007/12/10

ディベートを教科の授業に

朝9:00から、ディベートの研修会で講師を務める。一般相手のディベート講習である。3時間でディベートの大枠の理論とゲームを数試合行う。シナリオ方式のディベートである。

一般と言っても参加者は理系のマスターは出ている皆さんなので、短時間の説明で頭の中に入っていく。ではあるが、やはり分かると出来るは違う。この分かると出来るの差を埋めるのがトレーニングであるが、流石に3時間では無理。自分にどのような思考や話し方の癖があるのかを確認し、気がついたものを今後の生活に活かしてもらうことを主眼とする。

            ◆

講座修了後、
「先生、国語とか数学のように、ディベートを教科の授業にしてください」
と受講生の方に言われた。
『ええ、私達もそうした方が良いと思っているのですが、そうならないのですよ』
と話す。
(あれ、最近どこかでこれと同じことがあったな)

そうだ。
日本語コミュニケーション技術1でディベートの授業をしているが、そのファイナルが終わったとき学生の感想にあった。この日本語コミュニケーション技術1の授業は、選択ではなく必修にするべきだというもの。私も教職課程での必修にするべきだと思っている。

ディベートを体験すると、大変だ。
しかし、この大変さの向こう側にある有用性も理解できる。
教師を目指す若者は、ディベートの指導ぐらいなんでもないとなってほしいものだ。

ちなみに、12/16にディベートの大会が膳所高校であります。良かったら見に来てください。


            ◆

で、本日は奥さんの誕生日。会場になったホテルで、ホテル特製のパウンドケーキやら何やらを購入。忙しくてプレゼントを用意する時間はないと思っていて、
(そうだ、あのホテルで買えば良い)
と思っていたので、購入。

良かった良かった。

            ◆

午後は、昼ご飯を食べて、娘の相手をして、遊び疲れた娘をそっとベッドに寝かしつけてから、自宅でメールの返事などに勤しむ。子守りである。

甘えん坊泣きを覚えた娘は、抱っこしてほしい時に甘えん坊泣きをする。こっちは
(これは甘えん坊泣きだな)
と分かるのだが、
(抱っこしてとサインを出しているのに、無視したらこのサインが通用しないと思って混乱するかな。それはいかん。抱っこせねば)
と相変わらず娘中心の考え方。

甘えん坊泣きをしている娘の傍に行くと、一瞬泣き声を止め、こちらを見る。
そして、泣き声を弱めて抱っこしてくれても良いよと言うような体勢を作る。はい、父さんの負けです。抱っこします。

            ◆

このごろは、横抱っこをするとぐずり、立て抱っこをすると落ち着くようになった。立て抱っこの方が見える世界が広いのだ。そして、あれこれ興味を持ってみる。部屋の中に飾られたクリスマスツリーの点滅を不思議そうに見ている。その娘をだらしなく嬉しそうに見ている私が、ツリーのガラス玉のオーナメントに映る。情けないやら嬉しいやらである。

床に置いてはいはいの格好をさせたり、なんやかんやして、結局一緒に昼寝であった。

            ◆

夕方、部屋の片付けをしようと思うと、また泣き出す。
うーん。
『あのね、10分間だけ我慢してくれる? 父さんは部屋の片付けがあるのね』
と話しかけてタイマーをセットして始める。娘は、分かったような顔をして我慢(のように見える)。
食洗器に食器を入れてスタート、食卓の周りのものを片付け、洗濯物を部屋の中に入れて・・・。いやあ、意外と10分でいろいろな古都が出来るもんだ。

10分後にまた抱っこ。
約束を守るのも大変だ。
だけど、この顔で待たれたら抱っこするしかないしなあf(^^;。

写真は、夜の噴水。
やはり、Caplio R7の描写力の方が向上しているように思われる。

Funsui

2007/12/09

Caplio R7に

ミルクをあげて朝風呂に入る。琵琶湖からの朝日が奇麗な季節である。エネルギーを充電する感じだ。

歯医者にMINIで向かう。高速道路は一時期の紅葉渋滞もなく、快適である。しかし、快適だけに眠たくなる。うー、眠たい。途中、5分間寝てさらに安全運転で歯医者に向かう。

            ◆

なんとか次回で終わりになりそうだ。8月に通い始めて12月だ。あっという間だなあ。でも、正月前に治りそうで良かった。胃腸の調子がちょっと落ち着かないが、これを整えて治った歯でバリバリ食べるぞ。

            ◆

Caplio R6の調子がちょっとおかしくなった。普通に撮影する分には問題がないのだが、空を撮ると何か変なものが映る。どうも毛のようだ。筐体にまぎれこんでいる。

空を撮影するのが好きな私ととしては困る。なんとかしようと思ったのだが、このカメラを買ったのは八王子のヨドバシカメラ。そこまで持っていくわけにはいかない。さらに、保証書が見つからない。

それで、八王子のヨドバシカメラに電話をしたら、確認の上領収書を再発行してくれた。これで、大阪のヨドバシカメラに持っていって手続きをして大丈夫だと言う。うーん、便利。

            ◆

歯医者の帰りに大阪のヨドバシカメラに立ち寄る。修理なのか初期不良なのか分からないので、店員に聞く。すると、確認を取ってくれて初期不良の対応をしてくれる。ところが、交換するにもCaplio R6は生産中止。Caplio R7になっている。

Caplio R6を一度預かって、新しいCaplio R6と交換してくれるとの話だったが、それだと数日間使えなくなる。私としては差額を払ってCaplio R7にしてくれたら助かるということを話した。

そしたら、マネージャーが、そのままCaplio R7で交換すると言うではないか。びっくりした。すごいぞヨドバシカメラ。

            ◆

ということで、新型Caplio R7を使うことになった私である。新型は有効が素数が100メガピクセル向上しただけかと思っていたが、いやあ、明らかに質が向上している。画質が鮮明である。暗いところでの撮影も良くなっている。

なんとも、災い転じて福となすである。

« 2007年12月2日 - 2007年12月8日 | トップページ | 2007年12月16日 - 2007年12月22日 »