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2007/02/10

『7歳から「辞書」を引いて頭をきたえる』

「なんのために辞書が買ってあるの? なんのために先生がいるの?」

わからない言葉を母親に聞くたびにいわれた。小学校の低学年のころである。
(ははあ、お母さんはこの言葉を知らないんだな。よし、調べて教えてやろう)
なんて思っていたのが、ご幼少のみぎりの私であるf(^^;。そうして、いわゆる子ども用の辞書を使ってあれこれと言葉を捜すようになっていった。どうも人に教えるのは昔から好きだったようである。

小学校の三年生ごろになって、
(うーん、この言葉調べても載っていないな)
という言葉が増え始めた。それで、四年生の時にやっと大人用の辞書を買ってもらった。小学館の白い辞書だ。これは中学校三年まで使いまくった。ビニール製の表紙と裏表紙は、きれいに取れてしまい、そこをセロテープで補修しながら使っていた。もちろん、紙の箱やビニールのカバーなんて捨ててしまってない。

調べたのにその言葉が辞書に載っていないことのストレスは、思ったより大きい。調べたら調べたなりの言葉が出てくるという快楽が、さらに調べようとする意欲を生み出す。だから、この小学館の辞書を手に入れることがなかったらどうなっていたかなと思う。

            ◆

五、六年生の時の担任の島村先生が
「君たちは辞書を引かないね。先生は、今でも一日に2、3回は必ず辞書を引くよ」
と話していた。
(え、先生。言葉を知らないで先生をやっているの?)
と思う半分、
(じゃあ、僕がわからない言葉を調べていても、別に恥ずかしくないじゃん)
と思っていた思春期の入り口。
丁寧に言葉を確認するためには、辞書は必携だと言うことを島村先生は教えたかったんだろうなあ。先生、すいません。

六年生の時には、辞書に間違いを発見し、編集部に手紙を書いた。そしたら、お礼状とともに図書券を送ってもらった。さらに必死になって辞書を読むようになったf(^^;。

            ◆

「体験と経験」の違いが分からなくて、他の辞書の説明を読み比べて、それでも分からなくて中学一年生の時の担当の西本先生に伺ったこともあったな。そして、その時のあまりにも明快な説明に、
(をを、すげー。国語の先生ってかっこい)
と思ったのが、国語の先生になる一つのきっかけかもしれない。

残念ながら中学校二年生の時の国語の先生は、面白くなかった。教科書の指示語が何を指しているのかなどということを延々と説明し、それを質問する。
(んなの、読めば分かるじゃん)
と思い、私は辞書の後ろに載っている漢字で、画数の多い順に覚えていた「憂鬱」とか「団欒」とか。転んでもただで起きない私。

            ◆

教師になりたての頃に、深夜番組で盛り上がっていたのが「たほいや」。広辞苑を使った遊びである。
(へ〜、こんな遊びがあるんだ)
と仲間と遊んでいたが、
(ん? これ辞書の使い方の授業になるんじゃない?)
と思い、即実践。

そのことをまとめたのが、「授業づくりネットワーク」の「NO.134 1997年 12月 池田修 <文学教育は今のままでは滅びる!>教室だからこそ 座の文学を楽しもう」だ。上條晴夫さんによれば、「たほいや」を教育の文脈で紹介した文章は、これが一番最初だと言うことになるらしい。

当時は学習ゲーム等と言う言葉もなく、「辞書を使って遊ぶことが勉強になる。しかも、学習集団を育てることになる」なんて主張は、とても堂々と言うようなものではなかった。しかし、私には
(これはいける)
という感触はあった。私にとっては今でもとても大切な論文になっている。

            ◆

『7歳から「辞書」を引いて頭をきたえる』(深谷圭助 すばる舎)を読んだ。この本は、子どもと辞書との幸せな出会いを丁寧に書いている本である。

給食の時間に、わからない言葉を一生懸命に捜している小学校の一年生の子どもたちが描かれている。

私の場合は中学校一年生からの辞書指導であったが、辞書にのめり込んで行く子どもたちの姿は何回も目撃している。家庭科の調理実習だろうが、理科の実験だろうが、国語の辞書を持ち込んで授業中に出てきたわからない言葉を懸命に追い続けてていた子どもたちを私も見ている。

「みちはこたえない。みちはかぎりなくさそうばかりだ。」(真壁仁 「峠」)

みちを学びに置き換えてみる。そして、本に辞書に置き換えてみれば、わかる。自らが問いかけなければ、手に入れることは出来ない。それが学びだ。自ら手を差し伸べたものだけが、手に入れることが出来る。そして、新たな誘いを受けるのだ。

辞書指導は、子どもたちをそうして学びの世界へと誘い出す。君がこれから手に入れようとする世界は、この先にあるんだよと教師はそっと示してあげたい。

丁寧に扱いたい分野だ。

その先にある広大な学びの世界に

昨日の夜は、学生たちと授業の打ち上げ。
国語科教育法と教職総合演習の学生たちと一緒に、良く乗り越えた記念で。

久しぶりに木屋町通りに向かう。週末と言うこともあり、なかなかの人出。あと一ヶ月もすると、この高瀬川沿いの桜が咲き始める。すると、またとんでもなく美しい季節が始まるんだなあ。

            ◆

大学の授業は、単位で行われる。
内田先生のブログにもあったが、1単位は90分×15回で認定される。しかし、これはその前に予習の90分。復習の90分もカウントされなければならない。

国語科教育法と教職総合演習は、どちらも2単位である。だから90分の授業で180分の内容がなければならず、予習にも180分、復習にも180分かかる内容であることが国際規準である。

『で、どうだった?』
「十分に国際規準をクリアされている授業でした」
『ん、大儀である』

女学生は謙虚に答える。

一年間一緒に過ごすと、色々な面が見えるが、こうしてリラックスして話すとさらに色々なことが分かって面白い。恋愛観やら男性観、さらには結婚観まで飛び交う中で、少しだけ授業の話等もする。

まあ、納め会だし、野暮な話はしないようにしていたつもりだ。良くやったねという話を基本に会は進んだ。

            ◆

ではあるが、まだまだだなあとも思う。やりきったという思いを持たせる授業は出来たかもしれないが、その次に向かっている学生を育てていない気がどうもする。それは、やりきった自分に満足してしまい、その先にある広大な学びの世界に突入するというところに達していないのではないかというものだ。

学ぶことは、自分が変わること。もっと学びたいと貪欲になること。

これである。私の授業がすべてではないのだから、そんなことを思うのは不遜ではあるが、でも、もうちょっと何か出来なかったかなあとも思う。

自分がやりきったと満足しているのだから、自分は最高であるという、あくまで自分を基準で考える学生。自分がやりきったとしても、基準に達していることとは別のことであるかもしれないという観点で物事を見ることが出来るようになってほしいものである。

過去の自分と成長の比較をするのは良い。だが、規準は別にもあると言うことだ。

            ◆

ではあるが、基本的には私が見てもよく取り組んできたと思う。
小さく自信を持つことを許す。
そして、

(折角ここまでやったんだから、教師にならないともったいない)

という自分に育っていれば嬉しいけどねえ。

春休みは、採用試験の勉強に集中するんだぞ。受験勉強で言うと、夏休みの感覚だぞ。春休みを制するものが、採用試験を制するんだぞ。

充実した良い春休みを。

2007/02/09

『ウェブ人間論』

『ウェブ人間論』(梅田望夫・平野啓一郎 新潮新書)からの雑感をメモする。

【「すっくと立つこと」の重要性】

これは、もう随分前から私の基本的な行動指針になっていることだ。去年の卒業文集の言葉にも書いた。

引用開始 ーーーーーーーーーー

夢を実現させる方法を3つ伝えます。
その1。すっくと自分として立ってください。まず、あなたがあなたであることが大事です。そしたら、その両手を広げてください。あなたの手は仲間に届きます。あなたに価値があるかないかなんてことは、誰も簡単には決められません。ただ一つ、まず、自分て立ってください。そしてそのとき、あなたが多くの仲間に支えられていることを自覚できれば大丈夫です。

引用終了 ーーーーーーーーーー

私が私であることが、誰かのアウフヘーベンになるような生き方が、これからは大事なのではないかと、最初に考えたのは高校3年生ぐらいの頃だ。だが、これは尊大なのでは?とか、単なるわがままでは?と考えることもあった。

しかし、やっぱりそうなのだと今は思う。自立と言うのは実は共立なのだということ。これが分かってきたのも大きい。

ウェブを通して繋がるには、まずその繋がるためのポイントとしての自分が、すっくと立っている必要がある。良いか悪いかは、取りあえず問題ではない。私の存在が誰かにとっての対立点になるにしても、共有点になるにしても、これが大事。改めて確認した。

【meでいられることの是非】

私だけの世界でいられることのと心地よさ。この是非はこれからますます問われなければならない。梅田さんはこれを良いと捉え、平野さんはいかがなものかと捉える部分がある。もちろん、お互いの良さを理解しつつのことではあるが。

meであることは、社会との繋がりを持たないということが大前提であった20年前。しかし、今ウェブにより、meでありつつけえても繋がりを持つことが出来る。いや逆にすっくと立つと言うことはmeであることなのかもしれない。

自分がmeでいることは、ourを含んでいるのだと言う感覚がどこかで持てるようになれば、自立は共立であるというところに繋がると思うのだが。

【オープンソース】

これは
『情報は使ってもらって初めて価値が出る』
と私が言い続けていることと極めて関連が強いのではないかと思われる。

情報はある。
あるけど、使われないのはなぜか。
使いにくいから、使えないから、意味が分からないから、面倒くさいから・・・。

オープンソースは、それを使ってもらうということに価値を置いて成立している部分もあるのではないかと思われる。

また、最大のオープンソースは、母国語でありその母国語を手に入れた恩恵を、どのように返すのか。それが次世代への社会貢献なのだと改めて思う。

【共有の発想】

インターネットには実に様々なものが「転がって」いる。映画も、テレビも、音楽も、写真も、文章もである。そして、簡単にその転がっているものを手に入れることが出来る。現在の著作権法では、それは違法であろうが、こんなに簡単に手に入るとなると、
(ひょっとしたら、法律の方がおかしいんじゃないの?)
と考えるようになってしまう。

アメリカの著作権の有効期限がどんどん伸びるのは、ディズニーの著作権んが切れそうになると法改正をしているという噂は、あまりにも有名である。となると、著作権ってその程度のものなのねと思ってしまう人も増えるわけである。

そもそも、私達が使っている言葉は、人類が作ったものを「使わせてもらっている」訳であって、作った人が著作権を主張したら、エライことになってしまう。

ではあるが、著作権はある。

            ◆

が、やはりこのように進んで行くと、所有と言うものの考え方も変わって行くかもしれない。所有が大事なのではなく、共有が基本になっていくという考え方に移行するかもしれない。

ネット上に、誰かの「ファイル」が一つあればそれで良いと言うことになる。

ということはもう既に20年前に言われたことだが、これが本当になってくる感じがする。実際に完全にこのようにならなくても、所有から共有へと意識が動くとなると、ひょっとしたらリアルの世界での所有という概念にも変化が出るかもしれない。

そして、それは人類が同じ地球を共に有しているという実感への、新たな一歩になるのかもしれない。

            ◆

それが平和の世界なんだろうなあ。

【インプットの質の向上】

良いものを入力するようになるのだから、頭が良くなる。
その良いものにたどり着くのに、嘗ては時間がかかったが、今はその気とちょっとした検索の技術があれば、あっという間にたどり着ける。

だから、ちょっとの差がとんでもない差になる可能性がある。

【おっちょこちょいの大人】

新しいものを楽しもうとする大人の出現が、世の中を楽しくする。
これが大人の流儀であるのが、いまのシリコンバレーだと言う。「授業づくりネットワーク」もそうであると感じて私は10年もいるんだなあ。

2007/02/08

こんなこともあろうかと

よし。よしよしよし。

            ◆

さあ、明日からは点滴ではなく、飲み薬で良いそうだ。
ステロイド系の薬だそうで、薬剤師さん曰く
「とっても苦いので、頑張って飲んでくださいね」
と言うので
『はい。ありがとうございます。日々、こんなこともあろうかと、麦酒で訓練しておりました』
と言うと
「そういう苦さではありませんよ。もっと凄いですよ(^^)」
と優しくも恐ろしい微笑み攻撃を受けてしまった。

うーむ、明日の朝、どうなるのだろう。
もう既に、胃が荒れてベロが痛くなってきているが。

            ◆

午後からは、京都も久しぶりに雨。
このところずっと乾燥していたらから、少し具合のお湿りは良いだろう。

二月の半ばと言えば京都は底冷えの真っ盛りなのだろうが、今年に限って言えばもうそんな感じはまったくない。底冷えと言うよりは、桜が咲く直前の暖かさが日中あったりする。

            ◆

研究室に籠りながらワープロに向かう。

そして、あれこれ考えている。
「最近の子どもは我慢をしなくなった」
という言い方を私が子どもの頃にもされていたが、今朝方見たテレビでも警察学校の教官が「最近の子どもは我慢をしなくなった」と警察学校に入ってきた学生たちに言っていた。

そもそもなんで我慢するのか。
我慢しなさいと言われるから。それもある。しかし、本当のところはどうなんだろう。多少我慢ができるようになった私から言えば、たぶん

1)我慢しないと手に入らないものが、世の中にはある
2)我慢すると良いことがあることがあると体験した

のどちらかを学習してきたからではないだろうか。

ところが、

1)' 我慢しなくても手に入るものが世の中には、沢山ある
2)' 我慢しなくても良いことがあると体験した。または、我慢しない方が良いと体験した。

『オレ様化する子どもたち』によって示された消費者としての「子ども」は、お子様かと思いきや王様として存在していると思っているわけである。消費者に我慢させないのが、ビジネスである。だから、我慢なんてしないのである。

            ◆

『ウェブ進化論』の次の本は、『ウェブ人間論』である。これを読み終えた。
この『ウェブ人間論』も、いま読み続けている本にどんどんリンクしてくる本であった。

まあ、もともと本を買う時には自分の興味で買うのだから、リンクしてきて当然であるが、耳はボーッとしていても、問題意識がクリアになって行くのは、実に心地がよい。

            ◆

さて、子どもがそういうところにいるのであれば、その子どもを相手にするこれからの教師は、どのように力をつければ良いのだろうか。

このことを、あれこれ考えている。
そして、春からのことも、考えている。

            ◆

さあ、講座の資料もやっと完成。2/11に大阪教育大学の学生教職サークル主催でやるものだ。彼らからコミュニケーションに重点を置いたものにしてほしいというリクエストに基づいて作った、この日だけのための授業。

うーん、贅沢。
でも教育って、厳しく、かつ、贅沢にやらんとダメなんだよなあ。

これでしばらく目を休められるな。
さすれば、耳も良くなるかな。
ふう。


2007/02/07

本当にどうでも良いんだが、昨日、2007/02/07は、
三つの数字しかないなあ。

ただ、それだけ。

2007/02/07

夜のER

教授会が延びて、予約していた時間に点滴を受けられなかったので、またERにお世話になる。が、流石夜のERである。昼間とは違った雰囲気である。

インフルエンザを発症しているのではないかと思われる人。なぜか大声で怒鳴っている人。救急車のサイレンの音。その中で私は、点滴で呼ばれるのを待っている。

            ◆

そんな中でテキパキと笑顔で対応してくれる看護士さんは、やはり頼りになる。
三人の看護士さんが、強く優しく、救急で運ばれてきた患者たちに対応してくれる。

ありがたいなあと思う。
見ているだけで元気が出る。

うちの大学にも看護学部があり、やがてこういう職場に出て行くのだろう。
笑顔で働けるだけの力を付けて現場で活躍してほしいなと思う。

その笑顔だけで、患者は救われるんだよな。

久しぶりに見た日本海

少し耳が良くなってきている気がする。
これも毎日の点滴の御陰である。
完全に治るのはいつだろう。

            ◆

『下流志向』を読み終える。
なんというか、これは読んでおいた方が良いなあ。
『オレ様化する子どもたち』が意味するところを、より丁寧に解釈している。

区切りの良いところまで読んで、
(ああ、いかん。寝るのが今の仕事)
と思い寝るのだが、本の余韻に包まれながら
(え、ということは、あれがそうなると、これがこうなるのか!)
と布団の中で思いついてしまい、
(こうしてはおれん!)
と飛び起きて、再び本に向かい、ワープロに向かうということが何度かあった。

そんな風にして読む読書も久しぶりである。

            ◆

出張で小浜まで行く。
耳の調子が心配であったが、まあ、なんとかクリア。

だが、右の耳が聞こえにくいので、授業をする時に生徒に向かってまっすぐに立てない。
左の耳を生徒の方に向けるようになってしまう。

癖として残るかなあ。

久しぶりに見た日本海は、きれいに晴れていた。
こんな風にきれいに治ってくれると良いのだが。

2007/02/04

こんなの発見

昔は、1ゲーム百円でした。
それを10円玉のように使って遊ぶ人たちがいるということに衝撃を受けました。
高校一年生のころです。

時間が来て店を出る時に、
「池田やる?」
と言われてやってみたところ、すぐに終了。
何のことはない、終わらせるためにやらされていたわけです。

あのとき、ハマっていたらどうなっていたかなあ。
いま、こうして自由にできるわけね。

面白いようにリンク

朝一番で点滴を受けに行く。ER病院なので、そこで点滴を受けられるのだ。これは便利。
だが、簡単には治らない。辛抱辛抱。

            ◆

耳が良く聞こえないと言うのは、集中力が途切れると言うことだということが分かる。上手く言えないが、「ながら族」である私が、一つの時間に一つのことしかできない。これが歯がゆいな。

であるので、本を読み続けている。来年度の授業に関する本を読み続けている。あちこちでお薦めであったりする本や、本屋で買ってくれと飛び込んできた本なのだが、この今読んでいる本が、面白いようにリンクしている。

特にリンクしているのが、

100歳先生の「生きる力」を伝える幼児教育』(昇地三郎 生活人新書)
悲鳴をあげる学校』(小野田正利 旬報社)
『下流思考』(内田樹 講談社)
(あれ、この本はまだアマゾンに出てないや。野中先生も読んでいるのに)

である。

            ◆

今年度の大学の授業は終わってしまった。ああ、学生諸君に申し訳ない。
これらの本をあと一ヶ月前に読み終えていれば、授業の最後の展開はもう少し深みのあるものにすることが出来たのにと思う。

いや、今年だってそれなりに懸命に組み立てた授業のつもりだが、授業をつくってきて最後の最後に乗っける部分をもう一段重ねることが出来たかなあと思うのだよ。ま、ひょっとしたらこのためにあと90分必要になったかもしれないが。

そのぐらい面白い三冊である。私の授業を受けた学生諸君、春休みに三人で三泊四日の旅行しなさい。そして、一人一冊この本を買って、一日で読み終えたら交換するという旅をしなさい。最終日には、それぞれの感想をもとに話し合うのだ。授業の復習になるし、新しい課題も手に入るよ。

って、どんな旅だ。
でも、こういう旅って贅沢な旅だぜ。
なかなかできないよ。

            ◆

特に、「大人とは何か」問題について、新たな研究課題が見つかったのは嬉しい。本当にこの「大人とは何か」ってテーマは、奥が深い。20年も追い続けてきているのに、まだ新しい角度で切り取れる視点が見つかるんだからな。

さて、これをどのような形で授業に落として行くかだな。
耳が治るまでは、アイディアを書きなぐるだけしかできないが、そういうことも大事だろう。

うーん、来年の授業が楽しみ。どうなるんだろう。
今年のものを土台に、新しい展開があるなんて、私が一番得しているのかf(^^;。

もちろん、この本からではなく、今年の授業そのものからも新しいアイディアは生まれてきた。学生諸君、君たちの御陰だよ。感謝する。

            ◆

来年も受ける?

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