Wii fitの話は、まだ続きます
NINTENDO Wii & Wii fitの話は、まだ続きます。
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私がファミコンに出会ったのは教師になった年である。
インベーダーゲームのように一回一回お金を入れないでもゲームが出来るなんて、羨ましいぞとも思っていた。
『あ〜、諸君。ファミコンにうつつを抜かしていると、試験勉強にならないぞ。なんなら私が預かってあげようか?』
と担任していた中学校一年生に話したところ、下宿に持ってきた生徒がいて
『ならば、接続してみるが良い』
なんて言って出会った。試験にならなかったのは私である。試験問題がなかなかできなかった。そのソフトは「ドラゴンクエスト3」であった。
分かっている人には要らない説明である。
若者が旅をしながら成長をすると言う話は、古今東西あらゆるところにある。桃太郎だって一寸法師だってそうだと言えばそうだ。このひな形の上にどのような装飾を加えて、オリジナリティを出して作るのかということである。
すぎやまこういち:音楽
鳥山明:キャラクターデザイン
堀井雄二:シナリオ
言わずと知れたドラゴンクエストに関わる三人の天才である。この三人の天才が多くの開発費と研究費と時間をかけて作る作品がドラゴンクエストである。
教室でつまらない顔をして授業を受けている子どもたちも、ドラクエの話になると目を課輝かせて喜ぶ。私は不遜なので
(ちくしょう)
と思った。
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この三人に勝てるわけがない。通常はそう思う。天才と資本力と専門家が団結して作り出す作品である。子どもたちが熱中して当たり前である。しかし、私は悔しかった。目の前で言葉の面白さについての授業をしているのに、子どもたちはモニターの中にあるドラクエに惹かれる。私は傲慢でもあるので、
(ライバルはドラクエ)
と決めて授業を作ろうと思った。
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ゲームのプログラムと言うのは残酷である。どんなに開発の資金と時間をかけたところで、完成した作品がつまらなければ、お仕舞いである。マニアに受けるプログラムがあろうがなんだろうが、マーケットにしている子どもたちに
「つまんない」
と思われればそれでお仕舞いである。
残酷である。
だから、面白さにかけては十分に研究されていると思う。私はその「面白さ」は何なのかをゲームをしながら考えていた。外側からは遊んでいるようにしか見えない。もちろん、遊んでいるんだけど、面白くなる度に
(ちくしょう。面白い)
と思いながらやっていた。
面白さの要素を分解し、国語の授業の文脈で構成しなおし、国語ならではのユニークネスを加え、一つのパッケージとして作り上げる事をいくつかの授業で意識した。私が作ってきたいくつかの授業は、そういう意味では一種の「本歌取り」だとも言えるだろう。
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映画、テレビ、ゲーム、CM、演劇、お笑。
その時代のタレント(才能)は、時代の流れに従って一カ所に集まる。
右目で不易を、左目で流行を見たい。それを授業に注ぎ込みたい。授業開発に取り組みたい。
筋肉痛と戦いながら、NINTENDO Wii & Wii fitで研究する私であった。
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