ドラえもん短歌
2/12の夕方からは、国語の模擬授業自主ゼミの最後の会であった。
昨年度の国教法の受講生が手を挙げて、指導をお願いしたいとのことであったので、後期から2週間に一回行ってきた。大学で楽しいのは、自分がやりたい事を学ぶ事である。そして、一生懸命に勉強しても単位が出ないのが良い。私だって講師料をもらえるわけでもない。ボランティアである。
ただ、純粋に学びたいものを鍛えるという時間。これが良い。
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内容は、中学校二年生を対象にして「ドラえもん」を使って短歌を作るという授業であった。
私はなんのことか全く分からなかった。
ドラえもんが国語に関する場合、ディベートの論題にする事は知っている。「ドラえもんは二十二世紀に帰るべきである。是か非か」というのは、結構面白い論題である。であるが、今回は短歌を作るであった。
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授業では、ドラえもんの特徴、道具などの確認をした後、ドラえもん短歌の本と作品例を紹介し、
「さあ、短歌を作ってください」ということで進めていた。
生徒役の大学生はキャーキャー言いながら作っていた。ではあるが、うーん、これでは中学生は作れない。出来る子は出来るし、出来ない子は出来ない。短歌自体の説明も甘い。
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『なんで、ドラえもんにすると短歌が出来ると思うの? ドラえもんだからじゃないよ』
『できない子どもには、どうやってヒントを出すの?』
授業は性善説で作ってはダメであると言い続けている。が、どうしても出来る子どもを中心に作ってしまう。出来ない子どもから作るという発想になりにくい。もっとも出来ない子から作るという発想を持っても、どう作れば良いのか考えるのは難しいのだが。
このドラえもん短歌は、
「子どもの願い・思い」が「ドラえもんの道具」で「適う/適えたい/適わない」
という構造にすることで生まれるのであろう。57577で短歌などというのは、違う。57577に願いや思いが歌われた時に、短歌になる。そこの指導が弱かった。出来る子どもには何の指導も要らないが、出来ない子どもにはヒントは必要である。うーん、残念。
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なんてことを話す。
私の大学での授業も、これで今年度は最後。
彼女等も卒業である。
四月から教壇に立つもの、企業に就職するもの、捲土重来を期すもの。いろいろである。
懸命に学んだ事が、10年とか20年先のどこかで意味を持つことを願う。
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