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2008/02/03

「学び合い」である

今回の「明日の教室」も、充実していた。
上越教育大学から西川純先生をお招きしての、「学び合い」である。

            ◆

私はいま、実践するフィールドがないが、学び合いを知る前から、学び合いの考え方と似ている考え方を授業でやってきたようである。この実践は『学び合う国語』に「相互評価に基づく作文指導法」という原稿を書いた。中でも「書き込み回覧作文」は生徒を動かさずに、作品を動かす事で交流を促し、学びを深め合うというコンセプトであり、近いと思っている。

            ◆

私は、学び合いを次のように考えている。

学校教育を、大きく教科の授業と教科外の二つに分けて考えるとする。そのときに、例えば合唱コンクールは後者である。この合唱コンクールでは、生徒は優勝を目指して頑張る。勝つ事が目標になる。しかし、教師は勝つ事が目標ではない。合唱コンクールの活動を通して子どもたちの人間的な成長やクラスの質の高まりを目指す。そして、優勝したクラスは、子どもたちの人間的な成長やクラスの質の高まりができていることが多い。

学び合いは、この構造を前者でもやろうとしているのである。つまり、教科の授業で子どもたちは問題を解き合うなかで、子どもたちの人間的な成長やクラスの質の高まりが生まれるのである。その結果、成績が上がってしまうのである。成績を上げる事が目的ではなく、人格の完成に向かう事、向かわせる事が教育の目的である。「教科の学習」という課題に取り組んでいるうちに、人間関係は向上し、成績が上がってしまうのである。

            ◆

この考え方は、今年のALL関西教育フェスタで、今村先生と西川先生の話を両方とも聞く事で、整理される事が出来た。

(なんだ、実は2人とも同じ事をされているんじゃないか)

つまり、今村先生は、子どもの生活上のさまざまな問題を発達課題として捉えて、それを解決する事で子どもの成長を促す。西川先生は、子どもの学習上の様々な問題を発達課題として捉えて、それを解決する事で子どもの成長を促す。

(あ、これは富士山をどこから登るかの違いだ)

そう思ったのである。

            ◆

私は、上記の書き込み回覧作文をやるときに、非常に不思議な感覚にとらわれた事が多くあった。国語の作文の授業として、この書き込み回覧作文をやるのだが、やったあと、クラスがしっとりするのである。

なんというか、多くの生徒がすっと手をつないで、一歩階段を上がるような姿が見えるような気がしたのだ。作文の力を付けるためにやっているのに、クラスがしっとりするというこの構造はなんなんだろうなあと思っていた。

いまは、この理由が分かる。

            ◆

これを簡単な概念図にすると、以下のものである。

Manabiaigainennzu


西川先生に、2/1の夜にこの図を見せて伺ったところ、もうちょっと複雑な絵を描いてくださったが、それは西川先生にどこかで正確に描いて頂く事にして、私はこんなものを提出してみる。

            ◆

で、夜は大懇親会。いやあ、凄かった。
あちらこちらで熱い議論。そして、西川先生の周りには常に誰かがいて、話し込んでいた。話す事、分かる事、学ぶ事はこんなに楽しいのだということを、実感してくれているようだ。そして、もっと勉強したい、力を付けたい、やってみたいとなっているようだ。事務局としては、この姿を見られるのが嬉しい。

今回の明日の教室には、私の中学校ときの教え子が二人も、実は参加していた。一人は先日博士課程を終えて脳科学者としての一歩目を踏み出したばかり。もう一人は中学校の時の夢を実現して任天堂に就職。wii sportsのプログラムを一部書いていて、ブログで私がwiiを買ったのを読んだ彼は、私にプレゼントで持ってきてくれた。いやあ嬉しい。二人とも立派に成長。その姿を見せてくれるのは嬉しい。

さらに和田中学校の土曜日寺子屋のスタッフをしていた彼が、地元の愛知の小学校の先生になり、参加してくれていた。愛知は教え子も先生になっているし、いまの学生にもいるのでミニ県人会を開催。また、学生たちは手製の名刺を片手にあちらこちらの先生たちに話しかけて指導を受けている。

こうして関西でかつての教え子や、今の教え子たちがさまざまな交流をするのを眺める。これは一人の教員として嬉しいものだ。

楽しく充実した学びの時間はあっという間に過ぎて行くのであった。

            ◆

次回は3/15。糸井先生と私が行います。

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コメント

いつも勉強させていただいています。

僕は、今村先生と『学び合い』は違うと感じています。
その違いは、今村先生のクラスでは「みんなで」にはならないという点です。
少なくとも自分が今村先生のクラスの児童だったら、そうです。
「個」としての成長を見たら、今村先生のクラスで高まる可能性の高い子どもは多くいると思います。ただ、それは可能性が高い、であって、すべて、ではないと思います。そしてまた、あれほどの強いカリスマを兼ね備えているだけに、今村先生に反発し続ける子がいる可能性とその反発度合もまた、高いと思います。

ただ僕は、今村先生は学校を出られて現在の活動をされているというところに、すごく尊敬しています。
それは、「自分と相性の合う子を教えている」からです。
今村先生に集まってくる子を教えるのですから、確率は100パーセントです。そこでは「みんな」も成立すると思います。ただ、小学校ではそうはいかないと思います。僕のような子どもが存在する限り。だから、僕は今村先生の富士山の登り方では頂上まで登れず、途中で遭難してしまいます。ですが、繰り返しますが、現在の活動をされている今村先生の生き方を僕は尊敬しています。

そうか、おすぎ君はそう感じるか。

でも、私は同じように感じるんだな。「生活指導」で今村先生の実践を15年ぐらい読んできたけど、それを感じるんだな。学級集団づくりをされているのであって、個人だけを育てようとしている実践ではないと思うのですけどね。

今村先生のカリスマ性という部分は、学び合いを指導する教師の強烈な指示と相通じるところもあるし、(自分だけでいい)と学び合いを受け付けにくい子どももいるということでは、さほど変わらないと思います。程度の問題ではないかと。

これは、どんな指導方法であっても起こりうる問題であって、一つの指導方法に固有の問題ではないと思います。実践の場は、そうとう正しい理論であっても、一次的に反対方向に向かう事もあります。だから図では、螺旋状に人格の形成の方に向かう姿を示してみました。

ただ、ブログに書いた事は、同じである事を証明しようとする文章ではなく、私が(なんだ、実は2人とも同じ事をされているんじゃないか)と感じた事を書いた文章ですので、おすぎ君が違うと感じる事を私が否定するものでもありません。

書き込みありがとう。

お返事ありがとうございます。

池田先生が感じられる「同じ」という部分に関しては、僕も「同じ」なんだと理解・納得しました。今村先生の学級集団づくりに関しては、もっと今村先生の本を読もうと思いました。

>今村先生のカリスマ性という部分は、学び合いを指導する教師の強烈な指示と相通じるところもあるし

この部分なんですが、今村先生のカリスマと学び合いの指示には、僕も相通じるところがあると思います。まったく同じように受け取る子どももたくさんいると思います。ただ、カリスマによる憧れと学び合いにおける目標設定と教師の語りに大きな違いを感じる子どももまた、いると思います。

それは、「自己」という存在をもっとも大切にしたいというタイプの子です。そしてさらに、「自分だけでいい(自己だけを大切にする)」で終わらず、自己を大切にするのと同じくらい自分の周りも大切にしたいと思うタイプの子です。

そのタイプの子は、カリスマによる憧れによって生まれてしまう「被支配」を極端に嫌います。なぜなら、絶対的君主の存在は他を支配し、他を従属させる(それがたとえ彼らが喜んで従属したとしても)と考えていて、その行為や状況を善と考えないからです。カリスマ側は、「良かれ」という善意で行っています。そして、それを受ける側の子どももそれに対して喜びを感じ、高まります。自分もそういう風になりたい、という憧れを持ちます。そしてそれが自己を高める推進力になります。

しかし、「自己」という存在と尊厳をもっとも大切にするタイプの子どもにとっては、それがいかに善な存在なカリスマであっても、支配(あるいは影響)という行為自体を善としないので、カリスマが存在する空間を極端に嫌います。

このタイプの子にとって、今村先生のカリスマは被支配に感じられ、学び合いにおける教師の語りは「願い」と受け取ります。
(おそらく『学び合い』がすぐに腑に落ちるタイプの人はこのタイプの子どもだった可能性が高いと思っています。)

そして、そういうタイプの子どもは、自己をとても大切にするため、他者も大切にしようとします。その他者というのは、自分と関係のない他者も含みます。他、よりももっと広いので、公かもしれません。そして、自己と公を合致させようとします。自分を大切にし、公も大切にしようとします。

だから、教師の「願い」に正当性があり、自分も納得でき、それが公をよくするものだと感じれば、喜んでその教師の願いを達成しようとします。「学び合い」によって一番動く子ども、特に「この学級をよくしたい」というような使命感をもって動く子どもはこのタイプの子どもだと思っています。

今日いただいたお返事を読んで感じたことは、池田先生は僕という個人を尊重し、生徒や学生、ではなく1人の個として接していただいたと感じました。だから僕も、考えていること、感じていることを攻撃的反発なしに、主張することができました。

前回のコメントは攻撃的反発がありました。すみませんでした。
そして、ありがとうございました。

生徒指導と学習指導は、車の両輪であると教えられました。

最近は、両輪ではなく、

前輪と後輪だと思います。

前輪(学習指導)と後輪(生徒指導)がうまく回らないと、
子どもたちを乗せているバスはうまく走らない。

しかも、今の教育の現状は、雪道だろうと。
つまり、2WDでは、スリップしてしまう・・。
4WDで、スタッドレスをつけて行いと本当に運転(教師の仕事)は大変だと思います。

池田先生の話を聞いているとそんなことが浮かんでしまいました。今村先生は、後輪を大切に、西川先生は、前輪を前へ前へ。しかしながら、二人とも車のことを考えていると。要はこの雪道のような教育の道をどう進めようかと考えていらっしゃると思います。

わけのわからない文章ですいません。

ということで、この続きは研究室でやりましょう(^^)。
日程を調整するのでちょっと待ってね。

モデルは、自分が理解しやすくなるためのモデルと、説明する時に相手が理解しやすくなるためのモデルがあると思います。

だから、自分が納得するモデルを持てれば、それは両輪でも前輪と後輪でもオッケーだと思います。

でも、私も最近は前輪と後輪のように思えてきましたf(^^;。4WDが必要ですねえ。

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