「ちりとてちん」が終わってしまった。
いやあ、いろいろなものを考えさせられたドラマだった。
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昨日の番組が終わったあとのニュースでは、
「明日の最終回もお楽しみに」
という台詞でニュースが始まったので驚いたが、まあそれが許されるだけ人気があったのだろう。
作っている人も、出ている人も、見ている人もとってもこの番組を愛しているのがテレビから伝わってくるんだなあ。この感覚は、パーデンネンが登場するあたりの「オレたちひょうきん族」や、四回目過ぎの「タイガー&ドラゴン」に似ている。
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今日の最終回は、話をどのようにハッピーエンドにするのかということに興味があった。が、すべてをハッピーエンドにしないで、苦みを残すような演出もされており、さらに、この先「ちりとてちん2」を作ってもおかしくないような流れになっていた。でも、
(パート2は作れるのかなあ)
と思えるぐらいの力の注ぎ方である。
かつて藤本義一さんが、「小説の書き方10の法則」のような本を批評して、
「小説家を目指すなら、この本はじっくりと読まなければなりません」
と言った後で、
「その後で、11番目の方法をあなたは考えなければならないのです」
と言っていたが、そういうことなのだろう。書ききって、もう何もありませんという状態で、次に進むことがいい仕事のための必要条件なのだろうなあと思う。
中学生にディベートクラブの指導をしていたときに、己の今のすべてを注ぎ込むことがどれだけ大事なのかということを、私はかなり学んだ。出し切らないと次のものが入ってこないのだ。出し切ることで次のステップが見えてくるのだ。
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思い立ったのでNHKのHPから「ちりとてちん」のページを見てみた。すると、番組制作者のスタッフ日記があるではないか。リアルタイムで制作者の思いを読めるなんてのは、実に面白い時代になった。
23回目 3/29 受け継がれていくもの 制作統括 遠藤理史 http://www3.nhk.or.jp/asadora/staff/staff.htmlから、引用開始 ーーーーーーーーーー
ちりとてちんは「人から人へ伝わる何かへの愛おしさ」を描いたドラマ
引用終了 ーーーーーーーーーー
私もこれはずっと感じながら見ていた。私の場合は、師匠と弟子の関係の中から教育で言うところの「正統的周辺参加」の文脈で見ていたが、作る側もそうだったんだなと思った。
それは引用箇所の「伝わる何か」という言葉でわかる。大事なのは「伝える」ではないというところである。
日本は察する文化であるから、「伝える」ではなく「伝わる」ものを重視してきた。ここをもう一度考えてみようと言うことであろう。私は、「伝える」も「伝わる」もどちらも大事だと考えている。どちらも同じように必要で、その人の特性やその人の属している集団の文化で使われ方が違ってくるのだと考えている。
だが、ドラマはそもそも「伝わる」ことを前提にして作られているものであろうし、少なくとも私には十分伝わった。
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以下、次の◆までネタバレあり。
最終回のエンディングのシーンは、主人公の若狭が子どもを出産するシーンで終わる。私は半年前の自分を思い出しながら、見ていた。
若狭が、産室に入ると草々は、明るい光の差し込む暗い廊下でただ立ち尽くした。ドラマではBGMも台詞もなく、ただ、無言の場面。
すると、旦那の草々は落語の「愛宕山」の一節を語りだした。
「〜その道中の、よーきなこと」
見ている私たちに、涙がでないわけがない。
見ていた方にはお分かりのように、この台詞は若狭が初めて落語に出会った先代の草若師匠がお得意とする、愛宕山の一節であり、番組の中でも良く登場していた台詞である。この台詞を言い終わると、産室から産声が聞こえてきた。
(ああ、これでこの三人の人生は、陽気に行くんだな)
という暗示の台詞であった。
もちろん、この産室のシーンは、若狭が生まれるときに若狭の父親が産室の前で五木ひろしの「ふるさと」を歌うシーンと重ねている。つまり、「ふるさと」を歌うシーンがエンディングの伏線になっているのである。
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そして、これが伏線であるとわかるのは、視聴者の特権である。若狭の出産のシーンに立ち会っている父親の草々にはわからないし、若狭の父親にもわからない。両方ともを見ることができる視聴者のみがわかるのである。これは「神の視点」を持っているからである。
神の視点というのは、別に宗教がかった言葉ではない。一人の人生で一人の視点では見ることのできないものを、神であれば同時にいくつものの人生を見ることができ、複数の視点を持つこともできるであろうということである。
小説やドラマ、映画を見るというのは、この神の視点を味わうためにあるという言い方もできるかもしれない。刑事コロンボや古畑任三郎なんてのは、まさにその代表格であろう。
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しかし、私たちの人生は一回きりであり、やり直しはきかない。この事実にがっかりもしながら、それでも私たちはまた思うのである。
(人生は実は伏線の連続なのかもしれない)
と。
私たちはそんな毎日を生きている。