下鴨神社の流し雛
授業のない時は、あちらこちらに出掛ける。
京都の大学に来ていて、京都のことを知らないではどうしょうもないので、それこそお上りさん気分もありつつ、見学して回る。
東京にいる時は、地方から来る人に東京のことを案内して回るなんて発想はなかった。そもそも案内してほしいなんて思っていなかったと思う。が、どうも京都に来る人は京都の案内をしてもらうことを望んでいるような気がする。すくなくとも神社仏閣と食事に関してはそんな気がする。
なもんで、国語の中に出てくる伝統文化を実際に味わいつつ、あれやこれやと研修である。本来、教員の研修と言うのもこういうものであるべきだと思う。研修とは「研究と修養」である。教員にとっての研究とは、簡単に言えば指導力を身につけるためのものであり、修養とは人間としての懐の広さや胆を鍛えるものである。
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私はそのように考えてやってきたが、どうも最近は教員に「研修」ということが言われるとき、前半の「研究」の部分だけを強調しているだけのように思えてならない。それも、目の前にいる子どもに応じた指導方法ではなく、ある一定の方向にだけ正解の在るものを身につけるような研究?である。
私は、そういう方法で多くの子どもたちが出来るようになるとは思っていない。教育ってそんなに簡単なものではない。不確定の条件が無数にある中で、その瞬間にはその答えしかあり得ないことを想定しつつ、作り上げて行くものだと思うからである。
それには、胆の方を鍛えることも大事なのだ。
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糺の森というところは、気になっていた。下鴨神社である。奥さんは何回か行ったのだが、私は一度も行ったことはなかった。『鴨川ホルモー』を読んで、一度行きたいと思っていたのだがなかなかチャンスがなかった。
私は行動的にに見えるようだが、実は出不精なのである。一度出るとなかなか帰ってこないのだが、実は一カ所に留まっていることが好きなのである。
だが、今回は研修も兼ねてでかけることにした。糺の森のある下鴨神社の流し雛である。
娘の初節句である。なんというか贅沢だなあ。最初の桃の節句が下鴨神社の流し雛か。ま、でも長いこと子どもの誕生を待っていたんだから、この贅沢は許してもらう。
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私達が着いた時は、ちょっと行事が一段落して、一般民間人が川に雛を流しているところであった。私が娘を抱えて、娘に流し雛を持たせて流す、というか投げる。まだ六ヶ月にもなっていない娘には、流すのは無理。だけど、それで充分。
奥さんが娘を抱えて川の畔に立って、今度は私がカメラマンになって撮影をしていたら、そこに急にカメラクルールがやってきて、インタビューを始めていた。ちょうど人ごみがはけて、動きやすくなったのであろう。
奥さんと娘はどこぞのテレビに放映されたかもしれない。まだ、人見知りので切りない娘は非常に愛想がいいf(^^;。カメラマンさんに可愛い可愛いと言われていた。
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その後、兼好法師ゆかりの吉田神社の近くで食事をして、研究室に立ち寄り仕事。
明日からの東京での仕事に備えて最終チェックも。
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夜は奥さんの節句のお料理で楽しむ。主人公はミルクですが。
一ヶ月前におひな様が届いた時には、まだおひな様の前で座らせようとしても寝転がっていたのだが、本番当日は、きちんとお座りが出来るようになっていた。いやあ、人間は一ヶ月で成長するのねと、父はしみじみ喜んだのであった。
正月にも書き初めで書いたが、やはり今日はこの詩である。
引用開始 ーーーーーーーーーー
雛祭の日に
谷川俊太郎
娘よ
いつかおまえの
たったひとつの
ほほえみが
ひとりの男を
生かすことも
あるだろう
そのほほえみの
やさしさに
父と母は
信ずるすべてを
のこすのだ
おのがいのちを
のこすのだ
引用終了 ーーーーーーーーーー
さて、明日からしばらく会えないが、お仕事はお仕事できちっとやろう。
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