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2008/09/19

実践をつくり出す源

教えるための教材を作り、教えると言う教師をしている私であるが、一方で大事にしなければなあと思っていることがある。それは、教えないである。

             ◆

私がディベートという指導方法に出会った時、教育書のコーナーにディベートに関する本は一冊も無かった。あれこれ探すと、ビジネス書のコーナーにあった。それを読み、アメリカの高校生が使っているディベートの教科書を買い求めたりしながら、指導方法を考えて身につけて行った。

ディベートそのものも、私がやりたいと思って始めたわけではなく、生徒たちが話し合いをしたところ、面白いのでもっと無いかと言われて
『たしか、デなんとかというのがあったぞ』
と調べたのが最初である。

私は、生徒が話し合いの授業を求める事を面白いなあと思い、ほとんど分からないディベートのあれこれを調べるのを大変だなあと思い授業をつくっていた。

             ◆

ある程度ディベートの指導が出来るようになり、
『ディベートって面白いですよ』
と先生たちに話す事が増えるのだが、すると

「私は大学でディベートを習っていないから」
とか
「そんなに難しい事指導できないわ」
とかいう言葉を良く聞くようになった。

私には、これが本当に分からなかった。

             ◆

自分が大学でディベートを習っていないから指導できない? ちょっと待ってください。私だって習っていませんよ。ワープロだって、パソコンだって習っていませんよ。だから自分で学んだんですよ。

そんなに難しい事指導できない? 難しい事無いですよ。仮に難しかったら、それを分かりやすく指導することを考えるのが教師の仕事じゃないのですか。

と言いたかったが、そこは言わなかった。
世の中にある疑問、生徒に教えるための方法、これらがすべて大学で教えてくれるものだと思っている人たちがいるのだと思ってびっくりした。

もちろん、いまではそういう言い方で違う理由を隠していたと言う事も理解できるが、そうだとしてもやっぱり変だなあと思う。

             ◆

今思うのは、「教わらなければ教える事の出来ないという先生になるのは、いかがなものか」ということである。

もちろん、効率的に人類が獲得してきた知識や智慧、技術や倫理を手に入れる為に教わるということは大事な事である。

しかし、それだけで片付けようとしたり、それだけがすべてであると勘違いしてしまうのは、教師としては実に勿体ないというか、指導の面白さに出会えないというか、そんな気がしている。

             ◆

だから、教えないのである。自分が手にした問いについて、自分で答えのようなものにたどり着く経験をしなければ、分からない事だらけの学校教育現場で、生き抜いて行く事は厳しいのではないかと思う。

「え? すみませんそれはわかりません。教えてください」
「え? うーん分からないなあ。よーし、いっちょう調べるか、考えるか」

両方とも使える事が大事だと私は考えている。それが実践をつくり出す源になるのだと考えている。

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コメント

同感です。
センターの研修受講者アンケートを整理していると、「この研修は自分の期待していた内容とではなかった」と書く人と、「自分の学校の児童生徒用にアレンジして実践してみます」と書く人に分かれます。
残念ですが、前者の方がやや数が多い感じがします。後者のように「何でも自分の肥やしにしてやるぞ!」という前向きな貪欲さが教師には必要だと思います。

ま、確かにとんでもない研修もありますがf(^^;。ではありますが、基本的には何を学べるかっていうのは、学ぶ側の問題だと思うのです。

さらに、文句があるなら研修中に言えばいいのになあと思ったりもします。私なんか生意気だったので、新採研のときに
「こういう研修をしたいので、そうして下さい」
と言ってしまいましたf(^^;。

その時の指導主事の先生は都内のある大学の先生になっていらっしゃいまして、私が大学に移ったことを知らせましたら、その事には触れず、喜んでくださいました。

あれ、何の話でしたっけ。
人間はなかなか変わらないって話でしたっけf(^^;。

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