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2008/09/19

「共同研究室」

午後から大学へ。
二回生の基礎演習ゼミの担当者の打ち合わせである。共通シラバスで行うため、何を授業の柱として、どのように進めて行くのかの大枠を決めるのである。

この会議は実に面白い。
経験も専門も違う先生方と、育てて行きたい学生の姿、今の学生の姿、用意する教材などを元にあれこれ語り合う。

「こんな学生に育ってほしい。こんな先生に育ってほしい。だから、これをさせたい」
という話である。もちろん、脱線もし、
「それは実行可能性がないねえ」
なんてことも話すのであるが、そこで語られる思いや願い、担当してきた子どもたちのエピソード等を聞くにつけ、これは一つの立派な研究会になっているなあと思う。私が勉強になる。

            ◆

嘗て中野孝次先生が、国学院大学でドイツ語を教えていた時、外国語の教師の研究室は共同研究室で、一種のサロンのような状態になっていた。それが良かったと書かれていた文章を読んだことがある。一つの本の評価を巡って延々と語り合ったりしていたわけである。

私も、国立学院聖蹟桜ヶ丘校で教えていた時に、これと似た経験をした。当時、私は学部生で教えていた。しかし、私と一緒にクラスを担当していた他の教科の先生方はマスターやドクターばかりであった。

授業が終わり講師室に戻ると、YとかMとかの文字が書かれていた。これは「養老の瀧」か「まんだら屋」のどちらかの店にいるという合図であった。そして、そこに行くとこれがまあ、生徒の話だけではなく、あれこれあれこれ様々なジャンルの最先端の学問の話が飛び交うのである。江戸の黄表紙の話、ドイツ語で語られる世界経済の話、量子力学の国際学会での発表の話題まで出てくるのである。

文学部2年生の私に、分かるわけも無い。
だが、ここで分からないと言ってしまう自分になれないのが、私。割り箸の入っていた袋に、出てきた単語ぐらいを書き写し、図書館で調べる。分からないけど調べる。私の専門でもないし、相手はマスターやドクター。分からなくて当然だけど、それが許せなかった。取りあえず何かをせねばと思い、インターネットの無い時代に、これを繰り返していた。

結果として、私に何が残ったかと言えば、ほとんど残っていない。しかし、あの学問の熱を帯びた話題を4年間浴び続けることができたことは、幸せだったと思う。私にとっては、あそこが「共同研究室」だったんだなあと思う。

            ◆

そして、今。
また、大学に移ってからも中野先生が体験されたのと同じように、仲間たちから学問のシャワーを浴びることができる。嬉しいことだ。
(これをどうやって授業に作り上げて、学生たちに力を付けさせようぞ)
と思うのが、また楽しい。

ありがたいありがたい。

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