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2008/10/31

五限が終わってからお茶会をする

午後から授業三連発。

本当は、三限と五限なのであるが、四限に補講を入れた。五限の国語科教育法の授業で、先週大学祭の書道展のためにどうしても授業に出られないと言う書道コースの学生たちがいたので、そのメンバーのために補講である。

正当な理由があって、学ぶ意欲を持ちながら授業に参加できないのであれば、出来る限り対応してやりたいと思っている。だから、補講である。

五限は、正規の国語科教育法2である。
が、ここで私のミスが発生。

本来はパソコン室で行う予定であったのに、予約の日程を私は間違えてしまい、今日のつもりが来週を予約してしまっていた。さらに、資料の印刷も、来週に刷り上がるようにお願いをしてあったので、授業の進め方がグダグダになってしまった。急遽あれこれをして授業を進めるが、準備が不十分になってしまった。申し訳ない。

授業の後半は、1つの詩を使って、教材分析、教材研究の仕方の授業をする。子どもの書いた詩を読解することを通して、教材を研究すると言うことは具体的に何をするのかということを例示する。

一読したときの感想と、分析をした時の感想が全く違うことに、学生たちは驚く。素材を、教材に高めて授業をつくって行くと言うことの醍醐味の一部を感じられたようだ。

で、五限が終わってからお茶会をする。

四限の授業で、「京都のお店紹介」のスピーチをさせたのであるが、学生の一人が「みなさんで食べたいんですけど」とお土産を買ってきてくれたのである。「松風」である。

私は、向田邦子さんが大好きだった「味噌松風」が大好きなのであるが、シンプルな「松風」も好きである。仲間のことを考えてくれた学生の心遣いがいいなあと思い、授業後、私の研究室からお茶を用意して、国語科教育法2の学生たちと一緒に「松風」を頂く。うまい。三連発、90分×3の授業を終えた喉にはお茶が気持ちよい。

『で、来週は誰がお菓子を持ってくるの?』

と思わず言ってしまうぐらいであった。

このお茶会をしながら、模擬授業のグループ分けをし、授業中に配れなかったプリントを慌てて配ったりしたりもした。

さあ、三週間後から模擬授業が始まる。楽しみである。

若い女の先生で実力がある

1限、2限と授業をして、3限に会議。そしてとうとう5限であった。
キャリア開発講座の授業である。今日は外部講師をお招きしての授業である。宇治市立平盛小学校教諭の藤原由香里先生にお願いをした。

藤原先生は、教職三年目。教師になって最初に担任した小学校四年生の実践をまとめた記録が小学館の新採教師の実践記録で、最優秀賞を受賞すると言う力量の持ち主だ。

いつも明日の教室に参加してくださっていて、そのセンスの良さには感心するばかりである。その先生が学生時代にさまざまな経験と学びを持って小学校現場に立ったときに、出会った凄まじい指導の現場のあれこれ、そして迎えたなんともいえない学級の姿の表側と裏側を語って頂いたのだ。

若い女の先生で実力があると言うのはどういうことなのかを、学生に触れてほしかった。学んでほしかったのである。

60分の講義の後、30分質問を受け付ける。途切れなく質問が続いた。いい学びになった。藤原先生、ありがとうございました。

また、今後とも学生たちの指導をよろしくお願いいたします。

2008/10/29

ああ、面倒くさい。ああ、面白い。

小論文指導の授業は本日で終了。全6回であれば、このぐらいが限度かなあと言うところまではやれたかな。自画自賛f(^^;。

私は、学生時代までに小論文の書き方をコンパクトに指導を受けた経験はない。大学院のときに、倉島保美さんの講座で徹底的にパラグラフライティングのご指導を受けたのが最初で最後かなあ。

学生時代に、私が教えた程度ぐらいのことを指導受けておくと「楽」だったろうなあと思う。

ただ、ここが難しいのであるが、楽だっただろうが、力がついたのかというと、簡単には言い切れない。

教わると言うのは、効率的に学習するためには非常にいいシステムである。自分でやるというのは、非常に効率は悪い。しかし、自分の歩幅で学ぶことができるので、無理がないと言えば無理はない。そして、すべて自分の頭で考えるので、分かったことは分かったことだし、分からなかったことは分からなかったとなる。

さらに、ここをあれこれやっていることで、直下の目的には関係のないことであっても、ひょんなところでそこでやっていたことが役に立つと言うことが、ままあるのである。ここが後から振り返ると、力になったなあと思うのである。

学級担任論の授業のあとに、学生から質問を受けた。

「僕はへそ曲がりなんですが、最近先生の授業を受けていると、納得することばかりで、なんか変なんです」
『別に変じゃないだろ。いい授業をしているんだから。ま、しかし、いい授業でないとすれば、そういうお年頃なんじゃないの?』
「そうなんですかねえ。たとえば、今日の授業でも先生が、『この指導の目的は〜』と説明してくださると、なるほど〜と思うんです。それで、小学校の時もこうして小学校の先生が、「この授業の目的は〜」と説明してくれれば、ずいぶん勉強のやる気も違ったと思うんですけど、なんでしてくれなかったんでしょうか?」
というものである。

これに対して私は
『ということは、小学校の授業も全て目的をはっきりと示した方がいいと言うことかい?』
「はい」
『うーん、それは正しいと言えば正しいのだけど、違っていると言えば違っていると私は思うなあ』
「????」

『一般論として授業の目的を示すことは正しいと思う。しかし、人間ってそんなに簡単なものではないと思う。目的を示すと、その目的に関して(俺は関係ない)と思う子どもは、やらないことがある。さらに、その目的だけ達成すればいいと言う子どもも出てくるだろう。また、与えられた目的だけやれば良いんでしょ、という子どもを育てることにもなる』
「・・・」
『そもそも生きて行く上において、生きて行くための目的なんてものは与えられるものではないと私は思うのだが、目的を与えられ続けることになれてしまった子どもは、自分で目的をつくり出すということを考えなくなるんじゃないかな。目的は自分で探したり、設定したりするものという考え方もあるんじゃないのかね』
「・・・。うーん、難しいっす」
『だから言ったろ。教育ってのは面倒くさくて大変で、簡単には行かないって』
「はい」

入試の問題では、「出来るところから解け」という指示を出す。これは合格が目的であるからだ。しかし、人生の面白さは出来るところをやることではなく、出来ないところをなんとかすることであると私は思っている。

さらに、入試の問題が解けるだけで人生の問題が全て解ける、入試に出ることが人生の全てであると誤解する生徒もいる。私は入試の問題でリーダーシップを判定できる問題にであったことがないが、入試で人生が決まると考える生徒もいる。

そんな人生は「楽」でいいなあ。「楽」でつまんねーなあ。

生徒に伝える目的は的確に設定し、明確に指示する。これは間違いないことである。しかし、それだけですべてが行くかと言うと、そうでもないのが教育なんじゃないかなと思っている。

ああ、面倒くさい。ああ、面白い。

2008/10/28

「妙な正しさの殻」

先週の学級担任論の授業後の、質問で多かったのが給食指導についてである。やり方云々ではない。食べ物の好き嫌いの指導に関して
「自分も食べられないものがあるのですが、そういうときはどうしたらいいのでしょうか」
というもの。

食物アレルギーではないのに、食べられないと言う子ども。そして、先生。さて、どうしたらいいのでしょうかとあれこれ。

食べられないのか、食べないのか。自分が嘗て食べられなかったものはどのようにして克服したのか。そもそも食べるということはどういうことなのか。「頂きます」「ごちそうさま」ってどういうことなのか。

もっと話したのだが、話しながら思うのは学生たちは固いなあということ。実践はもっと豊かであるのに、ねばならないに捕われすぎている感じがする。この「妙な正しさの殻」を壊していくことも大事だと感じる。

後半戦は、学級の集団についての考察。公的なものと私的なものに分けて、家本芳郎、向山洋一、野中信行の三先生の実践に学ぶ。そこに私の実践や仲間の実践も紹介しながら進める。

学生たちが身を乗り出して聞くものだから、つい具体例を多く出して語ってしまった。その結果、時間切れで公的なものだけで終わってしまった。ま、良しとしよう。来週は私的なものについて取り上げる。さらに教室環境整備のことも取り上げる予定である。

先週の授業で「レクリエーション活動を通して学級を作るとは」を学んだ学生たちは、子どもたちには普段見せない教師の指導の哲学の部分を考えるようになってきている。

指導の技術は、技術だけで独立しているのではない。教育の哲学や目的を具現化するために使われるのであるということを、少しずつ理解し始めてきている。簡単に言えば、いくら教育の技術を知っていても、教育は出来ないということである。

私は言語技術というジャンルで、ディベートを指導してきている。当たり前であるがディベートの技術を持っていれば、言語の力があるということにはならないのを知っている。ディベートは万能ではないし、伝える内容がなければダメだと言うことである。

もともとディベートに出会ったとき、私には分からないことがあった。休み時間にあれだけ話をしている生徒たちが、授業になると話すことができなくなる。これはどういうことであろうかと思ったのである。

私の立てた仮説は、次の二つ

1)公的に話す内容がない
2)公的に話す話し方を知らない

私は内容はあるだろうが、話し方を知らないのではないかと仮説を立てた。全生研では、「対話 → 討論 → 討議」と集団での話し合い活動を発展させて行くというセオリーがある。私はこの「対話 → 討論」の間に、もうワンステップ入れるのがいいのではないかと考えたのである。つまり「対話 → ディベート → 討論」である。そうすることで、2)をクリアできると仮説を立てたのである。

あの仮説は半分当たって半分違った。つまり、話し方を理解した生徒は話せるようになったが、一方で話す内容を手にすることの出来ない生徒たちは、ディベートだけではダメと言うことが、改めて分かったのである。

だから、「イメージの花火」などの実践を重ねて行くようにしたのである。

これらの考え方が、授業を通して少しずつではあるが学生たちに定着してきたことを嬉しく思う。
『本を読め、メモを取れ、教育実践の現場に行け、研究会は二次会まで参加しろ』
と命令ばかりの私であるが、一期生を一年半指導してきて、やっと少し山が動き出したと言う感触である。

げに、教育とはかくの如しである。

2008/10/27

今日は久しぶりのオフ

今日は久しぶりのオフ。怒濤の11月を迎える前に、ゆったりとする。

11月は東京に行くことからスタートし、いくつかの研究授業の講師、いくつかの講座の講師、東北出張、高校での模擬授業に、教育委員会での講師などなど。通常の授業をしながら。いったい誰がやるんだろうと思うが、私である。あまり考えないようにしよう。

考えなくてもいいのだが、準備はしなければならない。研究授業の打ち合わせはメールでやったりもしている。小出しに質問してくれるのであれば、メールの方がやりやすいとも思う。切羽詰まってからどーんと大きな質問を貰うとなると、たまらないが。

今日は奥さんのオフでもある。
ずっと娘を見てもらっているので、オフ。正倉院展へ出かけていった。彼女の専門はこの辺りであるからして、毎年一回のこれは見せてあげたいと思う。本当は一週間に一回ぐらい子育てからオフにしてあげたいのであるが、なかなかそうならなくて、すまんと思う。

私は読書と風呂と散歩。
あれ、あまりいつもと変わらない?
ただ、娘のご飯に昼寝に散歩にと、ずっと娘と一緒であった。

ハンモックに寝転がって、娘を抱っこするのだが、娘はまだハンモックの揺れが落ち着かないようですぐに降りたがる。一緒に昼寝をするのはいつのことやら。

ガーデンではコスモスとバラが青空の下、奇麗に咲いていた。芝生も緑が戻ってきた。私は寝転がって空を見、娘の歩き回る姿を見、秋を感じていた。

お母さんがいないので、娘は(仕方なく)私にべったり。リビングのソファに腰掛けていたら、その膝の当たりに背中をくっつけてきて、体を反らして私の方を向く。うーん、可愛い。なんだこりゃ。

昼寝をさせてから私は家の中のあれこれをする。そろそろ夕ご飯を食べさせようと思っていたら、外線電話が怪しい動き。
(を、これは)
と思って寝室に行くと、何やら怪しい音。
ドアを開けると、恐ろしい光景。

暗い寝室で電話の子機を持って、ボタンを押す娘。子機からの明かりが娘の顔を下からライトアップして、おぞましい形相に仕上げていた。爆笑であった。

体調が戻ってきたのだと思う。この三週間、体調を戻すためにニンニク料理を食べようと思いつつも体が受け付けなかった。が、今日久しぶりに白身魚のガーリックオイルがけを作って食べた。

これだけ体調が悪いにも関わらず体重が減らないのはいかがなものかと思っていたのだが、致し方がない。

このまま食欲の秋に突入と言うことになりそうである。

2008/10/26

大学祭二日目

朝から爆笑。

朝ご飯を食べている娘。今朝のご飯は食パン。後半戦はそれにチーズを載せたもの。私が風呂から出てくると、チーズを載せたパンは少し余っていた。お腹がいっぱいになったのかなと思いつつも、手に取って口のところに運んであげた。そしたら、やはり食べない。

じゃあと思い、私が自分の口に運んで
『ああ、美味しい』
と食べてみせた。すると、
「ん!」
と娘は、自分でそのパンを掴んで、私の口のところに差し出すではないか。思わずぱくりと食べる。その後何回も食べさせてもらう。
まさか一歳の娘に食べさせてもらうとは。

老後は安心である。

昼前に大学に到着。せっかくの大学祭二日目であるが雨となってしまった。ではあるが、お客さんの出足はまずまず。

児童教育学科の学生たちが行う「たちばなちびっこランド」も盛況である。シアターでは人形劇、演劇、音楽会。スライムづくりに落ち葉での仮面づくり。スタンプラリー、輪投げ、お化け屋敷、風船遊びなど盛りだくさんの遊び場を、学生たちは短い準備の時間でよく作ったものである。

今日の出し物は、昨日遅くまで掛かって準備をしていた。学生たちがあれこれ協力して作って行く姿は、いいなあと思った。

私は関わらずに見守ることに。そこで手を出さないことが大事だということを私は理解している。手を出すと彼らに力はつかないのだ。私は教師だ。一緒にはしないということで彼らが伸びることを知っている、ちょっと寂しい立場なのである。

運営も、昨年よりは良くなったな。一回生と二回生だけでここまで出来れば、四回生まで揃えばかなりのことができるであろう。鍛えて育てて行くことがますます楽しみになる。

ではあるが、今の二回生は来年の今頃は教育実習の真っ盛りであって、来年の大学祭は参加できない。実質は二回生がまわして行くのが児童教育学科の大学祭となる。

他の大学のことはよくわからないが、本学の児童教育学科にとって大学祭はお祭りの面もあるが、学習発表会の面もある。今まで学科で学んできたこと、ボランティア等で学んできたことを元に、発表を行うのである。

単にお祭りと言うだけではない。
だから、学科の教員も休日であるが出勤している。
何をしているのかと言うと、準備と片付けの見守り。
発表の鑑賞である。
それだけであるが、それだけが大事だと考えている。

もちろん屋台だって、良い。守るんじゃーの「特製 烏賊焼き」をはじめとして、私の関わっているクラスの軟骨の唐揚げ、パンの耳のスティックなどの出店も順調で、今年は私が関わっているクラスやサークルのものは全て黒字であった。

ま、なんだかんだ言っても黒字で終わらせてあげたいじゃないですか。一安心でした。

祭りの後は寂しいもので、片付けもあっという間にてきぱきと。段ボールなどを束ねて分別をして、ゴミとして処分する。
私が高校生のときには、中庭でキャンプファイヤーの火と一緒にいろいろなものを燃やした。

あれはなんというか、良かった。
燃える炎を見ながら、後夜祭のステージに立ち、ギターをかき鳴らしながら歌った。
そして、今が終わって行くのを強烈に印象づけられた。
区切りを付けて前に行くしかないと言う感じであった。

いま大学の後夜祭は吉本の芸人によるお笑いライブ。自分たちでやるではなく、やってもらうと言う後夜祭だ。

確かに、敷地のことを考えると段ボールを燃やすと言うのはなかなか難しいと思うが、グラウンドに段ボールを積み上げ、火をつけ、燃える火を見ながら祭りを振り返ると言うのは、いいものだと思うのだがねえ。

ちょっとだけ懐かしくなって、あの当時の曲をitunesとyou tubeで楽しんだりもする大学祭二日目であった。

2008/10/25

本日大学祭初日

本日大学祭初日。
学生たちからいろいろとお誘いを受けている。
「先生、◎◎に来てくださいね」
と。

だが、大変申し訳ないが午前中は体を休めていた。
10/4に引いた風邪があと少しで抜けるところまで来ていて、これをこのタイミングで追い出さないと来週も復活させて引きずることになることになってしまうと思ったからだ。

少し、体を横にするつもりが1時過ぎまでぐっすりとなってしまった。実は先週あるものが我が家に届いてたのである。それはハンモックである。ハンモックスタンドと一緒に購入したのであるが、先週は雨続きで家の中でしか楽しめなかった。今日は薄曇りの晴れ。風も心地よい。そこでベランダに持ち出してゴロリとなったのだが、なんと心地よいこと。

自分の体重全体をネットが受け止め、そしてその下を風が通り抜けて行く。それでいて空に浮いているような、水に浮いているような感覚。これはハンモックならではの寝心地である。風邪も私の体を通り抜けて行ってほしいものである。

この私が体を横たえている時間帯に、私が顧問をしている「京都子ども守り隊 守るんじゃー」の代表の諸君は東京に向かう新幹線にいた。

全国の安全を守る団体の中から5団体が推薦されて、オリンピックセンターで発表するのだがそれに選ばれて東京に向かっているのだ。「防犯ボランティアフォーラム2008」というものである。学生4人と地域の方1人。そして、現地で京都府警のみなさんと合流である。

立派に発表をしてくれているだろう。
今日の最終新幹線で京都に戻り、明日大学祭の二日目に参加である。
学生たちも忙しいものだ。

午後から大学へ。いくつかの仕事を研究室でしようと思っていたのだが、さすがに大学祭の音量とさらに明日への準備をしている学生たちの賑やかさに、なかなか重たい仕事はできない。

私のディベート仲間のU先生は、大学の学祭で学生たちと一緒にバンドを作って出演すること10年と言うが、凄いなあと思う。こちらは最近カラオケにも行っていない。ギターの弦も張り替えていないなあ。

前期、後期と担当しているゼミクラスの出し物を見に、学内をぶらりと歩く。出店の会場は抽選で決まるため、その場所の運不運で売れたり売れなかったりもする。いくつか買ってちょっと助ける。

研究室に戻り、いつもよりちょっと音量を上げて音楽を流しながら、仕事を進める。大学祭モードの仕事の仕方である。

夜は、重要な会議に参加。まだ書けないが、重要な会議なのである。

目次づくりと索引づくりの働き

通常私は一日二回風呂に入る。朝と夜である。ということは、一日二回本を読むことになる。たしか、レバリッジ本の本田直之さんも朝風呂読書をしているとのことを読んだことがあるが、私は風呂の中で本を読むのは中学生の時からずっとしている。キャリアは長い。

最初に風呂で読んだのは、ムツゴロウシリーズである。畑正憲さんの本が文庫本で出ると、買ってきて読む。しかし、半年に一回しか出ないので、この本を半年間楽しまなければならない。

そこで私が考えたのが、読み進めたくても読み進められない方法は何かないかと言うものである。私が採択したプランは、文庫本のカバーを取り外し、風呂の中にどぼんとつけることである。こうすることで、早くページを捲れば破れてしまうので、ゆっくりと捲らざるを得なくなるのである。

もちろん、どぼんと落とすのであるからびしょ濡れである。でも、そーっとページを捲る快感はいまでもはっきりと覚えている。

で、今朝の朝風呂読書で読みながら思ったことがある。ちなみに読んでいたのは、『全思考』(北野武 幻冬舎)である。

(あれ、朝風呂と夜風呂の関係は、目次と索引の関係かなあ)

である。
朝風呂読書は15分から30分ぐらいが多い。夜の風呂は赤ちゃんと一緒のことが多いので温めにお湯を張る。私は少し熱い風呂が好きなので、朝は熱めにして入る。そして、読書。

この読書が、一日のあれこれをしている中で、ふっと思い出されることがある。そして、いまやっていることに別の意味を付与してくれたり、根拠となったりしてくれることがあるのだ。だから、朝風呂読書は目次づくりである。

一方、夜風呂読書は索引づくりである。風呂につかり、一日のことを振り返ったりしながら読む。温めのお湯で娘が入ってくるまでの時間で読む。そうしていると、一日の出来事が本の中でヒットすることがある。

読書の内容は、夢の中にも影響する。たしか、脳科学者の池谷裕二さんは、睡眠によって脳は情報を整理していると言っていたが、その時の働きにも夜の読書は関係しているかもしれないなあと思うのである。

ひらめき、思考、対話など読書の楽しみ方はいろいろあるが、今朝の朝風呂読書で思いついた目次づくりと索引づくりの働きは、結構当たっているんじゃないかなあと思う。

2008/10/24

学問の秋である

午前中、急に打ち合わせが入る。大学到着後、研究室に荷物を置くこともなく打ち合わせに向かう。あれこれ重要な打ち合わせである。うしゃあ。

日本語コミュニケーション技術1では、ディベートの指導。今日から改良シナリオディベートに入る。シナリオ方式では、フローシートのとり方、ディベート全体の理解、スピーチのスキルの理解を獲得目標に指導してきたが、これからはディベートそのものに入って行く。

今日は試合を一試合したあと、立論の構造、プランを作る際の注意点、質疑、反駁の四拍子、違うの五種類と説明する。90分の授業ならではのメニューである。これは50分では出来ない。試合をした後に、解説を聞くので分かりやすくなる。

来週は、これをもとにさらに2試合行う予定である。

本当は明日からの大学祭に娘を連れて行こうと思っていたのであるが、娘が風邪を引いているのと、風邪のため予定していた予防接種を受けられていないことがあり、連れて行けないなあと父母として判断する。

歩けるようになって、学生たちの作ったあれこれに興味深く見て歩く姿が予想されたが、これは来年までお預けだ。学校と言うのは人が集まる場所。お祭りはさらに集まる場所。残念だが、病原菌も一緒に集まる。だから、今回は欠席である。

ま、家ではそんなに体調は悪くないので、歩き回っている。歩きながらある冊子を手にして、ぱらぱら捲っていた。

http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008080400078&genre=G1&area=K00

で紹介されている、冊子である。京都橘大学の文学部児童教育学科で拵えた冊子である。私も二本原稿を書いているのだが、それを家においておいたら娘が棚から取り出して捲っているのである。

そして、なんと私の写真の映っているページを開いて、私に示すのである。ううう、なんと可愛いのだ。なんと賢いのだ。

と言う話を、たまたま昼ご飯が一緒になった本学の事務局長に話をしたら
「先生、子どもは自分の父親の写真ぐらい分かりますって」
とけんもほろろに言われてしまった。

お父さんは、それでも嬉しいのである。

P2008080400078

国語科教育法2は、いよいよというか、やっとというか授業づくりの基礎基本に入って行く。

今日はスピーチの評価方法の後に、授業をつくるために必要なあれこれの説明を行った。授業を成立させる要素、授業における指導力、授業構成の種類、子どもの学びを導く発話の種類、授業上達の方法、長い目で見た時の授業のあり方、授業のルール、システムなどについてである。

今日は項目の提示と簡単な具体例の提示で終わった。来週の授業では学習指導案の説明と書き方の説明。さらに、具体的な授業の視聴と続いて行く。これが終わると学生たちは模擬授業を作ることになる。

明日あさっては大学祭。
そしてこれが終わると、学問の秋である。

思わず表出してしまったものを読み取る力量

しかし、最後の固まりが取れない。喉の上の方に何か引っ付いている感じで風邪の固まりがある。これが取れない。うがいをしても、鼻をかんでもダメだ。10/4の明日の教室のときに発症したので、もう20日間も引いていることになる。いや〜、長いなあ。みなさん、大丈夫ですか?

児童基礎演習ゼミでは、相変わらず児童の詩の作品を読み合っている。

1)いくつかの作品の中からこれというものを選ぶ。
2)その作品を2Bの鉛筆で原稿用紙に書き写す。   
3)その作品の解釈をA4一枚に書いてくる。

この書き写しの詩と解釈の書いてあるレポートを書き込み回覧作文方式で、ゼミの中をまわす。そして、気になった部分に付いてさらに議論を深めると言う方式である。

昨日は、男子学生で芽が出てきた学生が出てきたことを言祝ぐ文章を書いたが、今日のゼミでは、子どもの作品に隠れている、子どもの内面に入って行くドアのノブを発見することができる学生が増えてきたことを言祝ぎたい。

「子どもの作品に隠れている、子どもの内面に入って行くドアのノブを発見」するためのあれこれを丁寧に指導しているつもりではあるが、こんなに早く見つけ出せる学生が出始めるとは、これも嬉しい予想違いである。

たとえば、「行った」と書いてあるところと「行きよった」と書いてあるところの違いから考えることができる。また、転校して行った友人の名前を作品の中で呼びかける時、一カ所だけニックネームではなくきちんとした呼び名で呼びかけている箇所を見つけて、その意味を解釈するなんてことが出来始めているのである。

子どもたちが表現しようとしているなかで、思わず表出してしまったものを読み取る力量を育てたい。

検証しているわけではないが、授業で作品や実践記録を読む読み方を丁寧に指導する一方で、学生たちは学生たちなりの教育の現場を持っていることが、教員養成の1つの方法として大きな意味を持っているのだろうと感じている。これを児童教育学科の児童教育コース全体でやることにも意味があると思っている。

近隣の小学校や学童保育、さらには地区の児童館などで定期的に子どもたちと接することが、理論と実際の両輪となって動き出しているのではないかと感じている。

もちろん、本当の学校教育現場とは話にならないぐらい違いがあるのも分かっている。校務分掌もなければ、授業づくりもないなかでの関わりである。

しかし、彼らなりの教育の現場を持っていると言うことは、大学での学びを豊かにするものとなるであろうと考え、システムを作ってきた。このシステムが有効に動き出していると感じている。学生たちを指導、支援してくださる様々な方がいてのお陰である。ありがたいことである。

いまの期間、木曜日は3つの授業が入っている。
さすがに90分の3つは、疲れるなあ。
授業を終えて片付けをして19:00過ぎに研究室を出る。

さ、家に帰って娘を抱っこしよう。

2008/10/23

あと22人です

222222人まで、あと22人です。
うれしいなあ。
ビンゴ、前後の方コメントをよろしくどうぞ。

2008/10/22

シメシメ、うしし(死語)

小論文の授業が終わった。来週はテストである。だから、講義は終わったのである。自分でこの授業をしていて思うのだが、こういう授業が高校生のときに受けられたらなあと思う。

いや、授業のレベルは学生が判断することだから、そのことを言っているのではない。私がいいたいのは、文章を書くと言うことはどういうことなのかをきちんと説明してくれる授業。そして、それを元に書く授業ということである。

私は国語が好きだったから、文章は書けた。また、お習字もやっていたので文字を書くことに苦痛はなかった。その私だからなんとなくだが、文章を書くことは出来ていた。

しかし、指導者になると何で自分が書けていたのかを分析するだけではダメで、相当できない子どもたちに文章を書くと言うことはどういうことなのかを分からせて、なおかつ書けるように指導しなければならないわけである。そんなわけで、あれこれ勉強をした。

今の大学の小論文の授業は、5〜6時間で行っている。だから、書けるようになるまではとてもではないが、時間が足りない。しかし、自分が書けないのは、または書けていると思っているのに評価が低いのは、どこに問題点があるのかを理解させるところまでは、出来てきたのではないかと思う。

あとは、その自分の課題を学生諸君が、自分の努力で克服することを期待するのみである。

午後から来週の火曜日の学級担任論の授業の準備に取りかかる。最先端の情報を入れて授業をつくっているとも言えるし、お尻に火がついて走り続けているとも言える。

これも小論文の授業と同じである。自分で学級を作るのであれば、あれこれ説明する必要もなく、やりたいこと、言いたいことの出典を示す必要もない。

ではあるが、学級担任論は大学の授業である。であれば、出典を明らかにせねばならない。かつて本屋でちらっと読んで購入することのなかった本を、手に入れなければならない。

幸いにして本の方は、アマゾンや生協の本のサービスがあるので、まあ、一週間前に注文を入れればなんとかなる。

だが、
(あれ、あのことはどの本だったかなあ)
となると、これが大変。
取りあえずいま、学級担任論の授業に必要な本を机の周りに20冊ぐらい並べてあるが、どこにあるのかなかなか見つからないものもある。

又逆に、
(を、ここにこれがあったか。シメシメ、うしし(死語))
と授業構想外の資料を発掘し、読みふける私でもある。
ああ、だから授業の準備が進まないのだ。

でも、楽しい時間と言えば楽しい時間である。
授業の準備をしていて、改めて、家本芳郎先生と、野中信行先生は偉大だと思う。

その後、教授会に学科会議。
いつもの水曜日である。
来年度のこと、再来年度のことなど話し合って決めて行くことはたくさんある。

その中で、少し話題に出たのが何人かの男子学生が、芽を出してきたのではないかと言う話である。

『授業の感想を読んでも、質問の質にしても(を、ちょっと掴んだかな?)と思われる書き込みや発言をする一期生の男子学生が、数人出てきたと思われるのですが』
と話をすると、
「そうそう、あの学生とあの学生と・・・」
と何人かの名前。私もぴったり一致している。

で、このブログを読んでいる児童教育学科の男子学生、
(を、俺か?)
と思った者は、それは自惚れであって違うから安心するように。

で、話を戻しす。
これは私の予測よりも少し早いかな。男子学生たちが目を出し始めたのは。私の予測では、三回生の前期ぐらいかなと思っていたのだが、嬉しい読み間違いである。

学生たちは、授業の合間を縫って大学祭の準備をしている。
今週末の土日である。
これも頑張れ。

一歳というのは凄いなあと思う

一歳というのは凄いなあと思う。こんなこともできるんだというのが実感。

             ◆

お母さんが洗濯物を干していると、そのそばに行って洗濯籠から洗濯物を取り出して広げようとする。本人はお手伝いをしているつもりか。

ポンプ式のボトルを見つけると、それを押して手を頭の後ろにまわして洗おうとする。お母さんがお風呂で洗っているのを見て学習したか。

私が咳き込むと、それをまねして咳き込む。私が楽しんで面白い会話をしていると思ってのことか。

缶ビールをリビングまで持ってこようとすると、一緒に別の一本を持って歩いてきて手渡してくれる。お父さんと同じことをしたいということか。

一人でスプーンでご飯を黙々と食べられるようになっている。食欲は旺盛なんだなあ。体重は増えないけど。

             ◆

半年前は、座ったままジャンプするのを楽しんでいたぐらいだというのに、この変わりようはすごい。話も相当理解しているように思える。

半年間で、私はどれだけ成長したのかなあ。

2008/10/21

あとすこしで222222

この分でいくと、あとすこしで222222になりますねえ。
ぴったしの方、前後近辺の方。
ぜひ、コメントをお願いしますね。

学級レクと電話について考える

本日の学級担任論は、学級レクについて。目的と対象に応じて、いくつかの学級レクを実際に体験してみる。

80人の大学生を相手に、治っていない体でレクを指導するのは、なかなか大変である。その表の目的や隠れた目的を明かしつつ、子どもたちを見て取り、指導するということはどういうことなのかを体験の中で理解させる。

学生の感想の一部である。

引用開始 ーーーーーーーーーー

今日の学級担任論はいろんなレクリエーションをしました。
 私は、小学校から今までレクに対するイメージは、
①楽しい
②息抜き
③授業じゃない
④授業一時間つぶれてラッキー
⑤先生も楽やし一石二鳥
というような感じを持っていました。しかし、今日の授業でレクは生徒と教師の関係作りが関わっていると感じたし、教師にとってもレクというのは重要なものなんだ、と感じました。

引用終了 ーーーーーーーーーー

学生諸君は、まさか、担任があんなことやこんなことを思いながらレクリエーションをしているとは、夢にも思っていなかったようである。

             ◆

ただ、単純に学級担任の先生は、たくさんレクリエーションを知っているのがいい。子どもたちが
「今度は何をして遊んでくれるのだろう」
とわくわくする先生ってのは、とても魅力的である。雨の日、雪の日、晴れの日。教室で、校庭で、体育館で。5分、15分、45分。さまざまなバージョンのレクリエーションを指導できるってのは、教師にとって大事なことだ。

ボランティアなどで彼らなりの教育の実践の場を持っている、本学の児童教育学科の学生たちである。是非、実際に今日自分が体験したレクリエーションを指導してみてほしい。

             ◆

授業後、小学校の修学旅行にボランティアで付いて行った学生が報告に来た。
「先生、本当に行って良かったです」
とのこと。

先生方が何を考えているのか、どう行動しているのかがよくわかったとのことである。

「先生方は、子どもたちが寝た後も打ち合わせで、ずっと子どもたちの話をされていました」
『面白いだろ、先生って。もう子どもの話なんかやめて、趣味の話とかすればいいのにしないで子どもの話だろ』
「はい」
『それが、先生ってことなんだねえ。良かったね、いい体験ができて』
「はい」

ご指導を頂いた先生がたに感謝申し上げます。

             ◆

午後からは、例によって事務仕事。うーむ、創造的な仕事をする時間がなかなかないぞ。だが、これをやらないことには創造的な仕事にはたどり着けないからなあ。

久しぶりのコーヒーを飲んで、集中して取り組むことにする。

             ◆

あと一息で終わると言うところで総務課から内線電話。
「山田様からお電話です」
『ん?』
「どちらの山田様でしょうか、と伺ったのですが、それで分かるとのことなのですが、お分かりになりますか」
(ん? あ、あの山田先生か。でも直通電話をご存知なはずなのになあ)
と思いつつも、脛に傷を持つ私は
『はい、分かりました、繋いでくださいますか?』
と頼む。

「あ、池田先生ですか?」
(あれ、いつもと声が違うぞ)
『はい』
「私、担当が変わりまして、こちらマンション経営のFあqwせdrftgyふじこlp」
『結構です』
ガチャ

であった。
真剣に文章を練っている忙しいときに、そんな姑息な手段で総務をくぐり抜けてくるような輩の電話を聞くわけがないだろうに。いつもならもう少しあれこれお相手をしつつ電話を切るのだが、今回は一言でおしまい。

だいたい、私は買い物については、基本的にこう考えている。

「欲しいもの < 必要なもの」

そして、

「売ってくる < 買いに行く」

である。簡単に言えば、必要なものは自分で買いに行くである。
ったくもう。

             ◆

大体からして我が家は電話の受け答えは母親に厳しくしつけられた。
電話をとる時、
『はい、池田ですが、どちら様でしょうか?』
と言うようにである。これを言わないと怒られた。

しかし、これが今では危ないのはよくわかっている。誰だか分からない人に、電話番号と池田が直結している情報を伝えるようなことはしない。だから、私は電話に出るときは
『はい』
しか言わない。このぐらい電話には敏感なのである。

さらに我が母親は、
「お宅の修さんが事故を起こしましてね」
と、どこからか漏れた個人情報を元に、振り込め詐欺の電話がかかってきた時に

「うちには、修なんて息子はいません!!」

と言い切って、詐欺師が

「へっ?」

っとなってしまったという実績を持っている。
私は、そういう家系の息子なのである。

             ◆

いらいらして研究室を出たら、携帯電話を研究室に置き忘れてしまった。
ということで、今晩は携帯電話は繋がりません。
おやすみなさい。

学級レクと電話について考えるであった。
この続きは、あしたのこころだ〜〜〜。
ちゃららっちゃちゃちゃちゃららら〜ん。

ポメラ

をを、いよいよ私もマックだけではない生活が始まるか?

http://japanese.engadget.com/2008/10/21/pomera/

これは欲しいと思う。今の私は必要性を感じている。モバイルギアが好きだった私はそう思う。
取りあえずテキストだけ打てればいいと言うのが、良い。
microSDに落としたデータは、どうしても必要なら携帯電話から送れるだろうしね。

こういうのの評論家のあべたかさん、どうだろうか?

俺は、何を目指しているのであろうか

たしかに私は中学生に言っていた。

『あ〜、諸君。この中から誰か総理大臣になりたまえ。そうしたら私が文科大臣になってあげる。大臣の半分までは民間からの登用が出来るんだな。がんばれ』

と。

だからと言って昨日の夢は何なんだ?

携帯電話がなり、すぐに来るようにとのこと。どこへ?国会である。
私はどこかの内閣の文部科学大臣に任命されたのである。
しかも、二期連続だったのである。

ひえ〜、私、文部科学大臣だったのね。

ひな壇に並ぶのであるが、なぜか足下は悪い。ゆるゆるの泥沼のようである。
(ああ、これは教育の現場がうまくいっていないことのシンボルだな)
なんてことを思っていた。この辺り、夢なのに分析している私がいる。

そして、マスコミからのインタビューが各大臣にされる。最後の最後に、
「文部科学大臣、方針を一言でお願いします」
と言われる。他の大臣のことを見ながら何を言おうかあれこれ考えていた私は、
(え? 一言?)
と思い、一つに絞る。

『学校教育現場の先生方が、児童生徒を指導しやすくなる環境整備をしたいと考えています。具体的には、教育予算の充実、学校外の指導の委託、保護者指導の適正化などであります』

と答えていた。

俺は、何を目指しているのであろうか。

2008/10/20

背中の痛みも少し和らぐ

研究日。
いつもなら場所を大学ではないところで行うのだが、今日ばかりは資料が研究室にあるので、研究室で行う。

大学のメールボックスを見てみると、何通かのハガキや手紙が届いている。先日出した『中等教育におけるディベートの研究』を謹呈した方達からお礼のハガキや手紙である。ありがたいことである。

一つ本を出してしまうと、もうしばらくは文章は書かなくてもいいという思いになるが、こういう言葉を頂くと、むくむくとまたやらねばと思うようになる。

毎年秋になると、
(思ったよりも人生は短いなあ)
と思う。有限の人生の中で私にすることが許されていることは何なのかを、時々考える。

いくつかの事務的な仕事を終わらせて、さあ、本来の仕事に突入。
これがなかなか終わらない、終わらない。
キッチンタイマーをセットして、1時間ごとに休憩を少し入れる。
(もう1時間が過ぎたか)
と何回も思う。集中しているときの時間は本当に早く過ぎる。

まてよ、ということは集中している人生はあっという間なのか。
うーん、どうなんだろう。
あっという間に過ぎる人生ってのは、いいのかねえf(^^;。

で、暗くなる前には仕事を終わらせてしまいたかったのだが、気がつけば外は真っ暗。いやあ、秋の日のつるべ落としの夕暮れなのね。

久しぶりに半日ぶっ通しで文章と格闘した私でした。背中が痛い。

帰り際にメールボックスにあったものに最後まで目を通した。そしたら、夏の集中講義「特別活動論」の学生たちの自由記述の文章が手元に届いていた。

私は千葉大学名誉教授の宇佐美寛先生と同じように、学生たちに無記名で授業に関する意見を書かせることは賛成していない。感想を述べるのは良い。しかし、無記名で学ぶ者が意見を述べることを許すことは、自分の発言に責任を持つことなく発言して良いということを教えてしまうことになるからである。

授業には種も仕掛けもあり、授業を受ける者がその種や仕掛けを理解することはない。だから、学習者に授業を評価することは基本的には出来ないと考えている。しかし、感想を述べることはありである。

という立場で彼ら彼女らの「感想」を読んだのだが、結構あの熱い夏の授業を思い出させる感想ばかりで、ちょっとジンと来た。少しは伝わったようだ。

背中の痛みも少し和らぐようであった。

秋の一日を家族と楽しむ

昼前に家を出る。秋の一日を家族と楽しむことに。
以前から気になっていた琵琶湖のほとりのカフェに向かう。
湖西バイパスを北へと走らせる。
比良山は、もう紅葉が始まっている。

琵琶湖にはもうかなりの渡り鳥が飛来していた。
それを見ながらランチである。

前菜にパスタに飲み物。
これで800円とはお得である。ここにデザートを加えると1000円である。
ちょっと通ってしまおうかなあと思うぐらい気に入ってしまった。

Rimg0027 Rimg0028

2時間ほど読書をしながら寛いだ。

帰りに浮御堂に立ち寄る。
源氏物語1000年を記念して、この浮御堂のご本尊がご開帳されているのだ。

到着は夕暮れ時。
もう、ほとんど誰もいない。
三人で独占。
娘は嬉しそうに歩き回る。

Rimg0151

九月の明日の教室では、この浮御堂を湖からみたのであったなあと思い出す。

風邪もあと少し、あと少しで抜けそうだ。

2008/10/19

同じ目的でありながら違う価値観を持っている仲間

休日だと言うのに、今日も朝は早起き。5時台に起きる。リビングの空気を入れ替え、風呂を沸かし、読書。同時進行で読んでいる本がそれぞれ山場を迎えていて、とっかえひっかえ読む。なかなか刺激的な朝である。朝日も見事であった。

Asayake

午後から関西青年塾に向かう。今日は糸井登先生に、赤坂真二先生。この二枚看板のすごさに代表の土作先生の魅力もあって、本日の参加者は60人前後であった。

数が多ければいいと言う問題でもないが、同じ目的でありながら違う価値観を持っている仲間は多いほどいいとも言える。あれこれ議論をするには、その方がやりがいがある。

糸井先生、赤坂先生の講座は、当たり前であるが良かった。お二人とも、今自分が抱えている問題意識を講座のレベルに具体化し、その具体化された内容は受講しているみなさんの問題意識にフィットしているというものであった。

会場を見渡すと、本学の学生たちも多くいた。土作先生の夏の集中講義でお世話になった学生たちが多いが、中には一回生もいた。こうして外での学びに参加する学生たちが増えてきていることを、頼もしく感じている。

さらには、滋賀大学、島根大学からも学生さんたちが参加であった。日本の教育を背負って立つ若い諸君の自主的な学びだ。文科省はこういうところに補助金をしっかりと出すべきだと強く思う。

講座の後の懇親会も、熱気に満ちていた。
学生たちに言う言葉である。

『こうして、君たちは日本のトップクラスの先生たちに、交通費1000円以内で学ぶことができる。これはとんでもないことなのである。だが、まだこの凄さを理解できる諸君はいないであろう。だが、仕事について3年以内に分かるはずである、この凄さに』

彼らは分かったのか分からないのか分からないが、こういう場所で自腹を切って学ぼうとすること、そのことが大事である。

懇親会の間、私はずっと内の学生たちに説教していたなあ。もっと勉強しろ。まだまだ足りないなどと。なにくそと思う学生が出始めているのも、ちょっと楽しみではある。

あっという間に一次会、二次会と過ぎてお開き。写真はセピア色に調整してみました。
糸井先生、赤坂先生、土作先生、会場校の志賀先生、参加者のみなさん、ありがとうございました。

Seinenjuku

来月の関西青年塾は、11/8。私の学習ゲーム「たほいや」と、お笑い教育の大家、中村健一先生となる。お楽しみにどうぞ。

2008/10/18

スピーチの評価

授業の準備をしながら過ごす午前中である。
今日の京都は26度まで気温が上がるとか。
今年の紅葉はいつ頃ピークになるのであろうか。

休憩がてら、久しぶりにガーデンに散歩。娘を抱っこして見たがちょっと重たくなったなあ。

ガーデンの中は当たり前だが車はいない。だから、歩かせても大丈夫。農薬も使っていないので転がっても大丈夫。なんか最近娘はよく寝転がって遊ぶのだ。

コスモスが咲き、秋のバラが咲いているガーデンは、人もいなくて貸し切り状態であった。思ったより強い日差しに帽子をかぶらせようとすると嫌がる。そこで、木陰のベンチを選び、のんびり。

時々歩かせると、私が思っている方向とは全く別のところに行ってしまう。自分の興味のあるところに向かってどんどん歩いて行ってしまう。親が見えなくなると泣き出すってことはないのかね、君は。

Rimg0214

 

昼過ぎから大学へ。授業の準備を進める。
今日の国語科教育法は、スピーチである。正確に言うと、スピーチを評価する練習である。

スピーチそのものは生徒の時代にもやってきているであろうが、教師になればそのスピーチを評価しなければならない。音声言語の指導の中で難しいのはこの評価の部分である。

今日のスピーチは、『うめ版』を模した作品を作って、その紹介のスピーチとする。
評価をする諸君は、評価規準を設定し、3段階の評価基準で評価する。大体からして評価規準の設定が難しくて分からない。これは予測済み。でも、いままでに受けてきた授業を元に、取りあえずそれを行う。

スピーチに関しては、私も一緒に聞いて評価を下す。というか、悪いところの指摘をする。自分の話している声を録音して聞くと言う経験をしている大学生はどのぐらいいるのであろうか。私は歌を歌っていて、音痴を直したので高校時代にかなり自分の声を自分で聞いたが、それは稀なケースであろう。自分でも気づかない癖、気づいていても直せていない癖などを指摘する。

私が気になるのは、歩くときの音である。踵を引きずって歩く音が教室に響くのである。教室を歩くときの音があんなんでは、子どもたちの思考の邪魔となる。

歩き方にはその人の、日頃の生活が出るということを昔聞いたことがあるが、本当である。京都にはなんちゃって舞妓になれるところがたくさんある。舞妓さんの化粧をして着物を着て京都の待ちを歩けるのである。一見本物のように見えるが、もう、歩き方で偽物がバレバレなのである。あんながに股で踵を引きずって歩かないって。

その他にも、口癖や話し方の癖などを指摘する。20年間かけて身につけてきた話し方である。そう簡単に治るものではない。しかし、教師、社会人になっていこうとする三回生の諸君は、これを直さないとねえ。パブリックなところでの話し方が出来るようにならないとねえ。

来週は、「京都のお薦めのお店」というテーマでスピーチとスピーチの評価の本番のテストとなる。評価規準は、学習指導要領の資料等を渡して各自考えておくことになる。

さ、今日は関西青年塾である。

2008/10/16

普通の言葉に注意せよ

児童総合演習では、子どもの詩を読解している。

読解には、

1)テキスト論的な読解
2)作家論的な読解
3)読者論的な読解

の三種類がある。
子どもの詩を読み開くためには、1)を踏まえて2)で取り組む視点が大事であると考えている。

今日扱ったのは、『心ってこんなに動くんだ』(西條昭男 新日本出版)にある詩。

引用開始 ーーーーーーーーーー

ランドセル
            さおり

おともだちと学校へいくときに、
あるくのが とても はやかったから、
わたしは はしった。
ランドセルは きにしない、きにしない、
おもくても。

引用終了 ーーーーーーーーーー

この作品をゼミで読んで行った。

             ◆

子どもは、感情や考えは大人と同じにできるが、言葉を知らないため大人の言葉で伝えきれないことがある。逆に言えば、普通の言葉の中に大きな考えや意味を持っていることがる。

さらにめんどくさいのは、「お前なんか嫌いだ」と言う言葉は「お前が大好きだ」という意味を表していることがある。

指導にはいろいろな形があるが、子どもを理解することから始める指導の場合、きちんと理解することが、指導のストライクゾーンを確定することになるので、大事だ。

             ◆

学生たちに指導したのは、

・普通の言葉に注意せよ

である。
ゼミの中では、倒置法、反復法、対比などの修辞法が使われていることに気がついて行くのだが、その他にも句読点の打ち方や隠喩、シンボルなどの話にも進んで行く。

『なぜその表現方法を子どもが使ったのかを考えることで、子どもが抱えている思いや考えを手に入れるヒントを教師は手にすることができるのではないだろうか』
ということを、話した。

             ◆

かつて私は、恩師の竹内常一先生に質問したことがある。

『先生は、どうしてそんなに文章を読めるのですか』

質問する私は相当失礼である。
先生なんだから読めて当たり前なのであるが、謎だったので伺った。

「文章には作品の裏側に入って行く扉があるんだよ」
『その扉があるのはなんとなく分かるのですが、どこにあるのかを、先生はどうやって発見するのですか』

簡単に引き下がらないのは、私である。

「同化と異化だな」
『だからそんなに難しい言葉ではなくて』
「ま、簡単に言うと、君たちと一緒に読んだからだよ」
『?』

結局なんのことだかよく分からないまま、会話が終わったと言う記憶があるが、今は先生の仰った「ま、簡単に言うと、君たちと一緒に読んだからだよ」というのが分かり始めている。

             ◆

授業の後、このゼミの担当教員と話すことがあった。そしたら、意図したわけではないが他の2つのクラスも、今日扱う予定の範囲のいくつかの詩の中から、この詩を採用してゼミを行っていたそうだ。

「やっぱりこの詩になってしまいますよね」
と教員同士で笑ってしまった。

ゼミは、あれこれ面白い。

2008/10/15

頭の疲れを心地よく解して

キャリア開発演習では、小論文の書き方。書き方であるので、まだ書かない。書き方を教えている。少しずつワークを入れながら小論文を書くとは何かということを教えている。

今日は、非連続テキスト(図やグラフ)から情報を取り出して、小論文で求められている問いに高めると言う作業を行った。

1)問いが見えなければ、何を答えて良いか分からない。
2)答えるべき内容は、求められている条件にあっているか。
3)答えようとしている内容は、根拠を伴っているか。

学生たちに論証させつつ、私は上記の観点で検証を行う。小論文や論文はこの作業を一人の頭の中でやらなければならないのであるが、これが初学者には難しい。そこで、検証の部分を私が受け持つ。また、少人数なので発表者以外の学生たちの検証も加わる。

検証の作業をしてみると、学生たちにも穴がぼこぼこあいているのが見えてくる。しかし、その穴が見えたところで簡単に埋めることは出来ない。埋めるべき資料、考え方、歴史的事実などについての圧倒的な知識が足りないのである。だから、日頃の基礎的な勉強が必要になるのである。

ここが出来ているかどうかをも、小論文では問われているのである。

さ、来週は非連続テキストの読解その2である。

             ◆

会議資料を作成し、会議を行い、自宅に向かう。

車の中では大江戸ウインドオーケストラの「ルパン三世のテーマ」を大音量で聞きながら帰ってくる。なぜか、「タイガー&ドラゴン」の最終回の虎の落語のシーンが思い出される。切ないなあ。

バイパスから琵琶湖を眺める。満月が上っている。琵琶湖の表面は銀の輝き。
(これは満月を肴にいっぱいやらねば)
と肴を求めてさらに車を走らせる。
生ガキを得る。

夕食は、スダチをきゅっと絞った白菜とエビしんじょうの煮物。大根と油揚げの鰹節煮。どちらもお腹に優しい。これに生ガキと日本酒である。

今日の日本酒は期待の一本である。東京の私の行きつけの酒屋さんに立ち寄った際に、お薦めを聞いてみた。高くておいしいお酒は当たり前である。私は、安くておいしいお酒を求めている。いままでここで出会ったお酒は数限りない。「美田鶴」「醸し人九平次」「獺祭」などきりがない。

そのご主人からのお薦めは、「鼎」である。純米吟醸の生酒だ。
栓をあけて、お銚子に写してお猪口に注ぐ。
ああ、いい香りだ。
ああ、私の好きな味だ。

引用開始 ーーーーーーーーーー

逸題  

井伏鱒二

けふは仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん 蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ 蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

けふは仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

引用終了 ーーーーーーーーーー

ひんやりとした夜にはなっていない滋賀の今日の夜には、熱燗よりも冷やの生酒がまだいいなあ。

生ガキにぴったりである。
一合だけ、じっくりと味わう。

             ◆

頭の疲れを心地よく解して、寝るのであった。

大学祭のお知らせ「たちばなちびっ子ランド」10/26

大学祭のお知らせ「たちばなちびっ子ランド」

京都橘大学文学部児童教育学科では、10/26の大学祭において10:00~15:00で「たちばなちびっ子ランド」を開催します。

これは、本学の児童教育学科の学生たちが、地元の幼稚園、保育園、小学校との日頃の交流と大学での学びを踏まえて、さまざまな催しものを開きます。

入場と体験はすべて無料です。
ぜひ、お越し下さい。

会場は、京都橘大学児優館となります。
アクセス方法は、以下にあります。

http://www.tachibana-u.ac.jp/official/information/access.html

下記のポスターは、本学の児童教育学科の学生、西浦くんのオリジナル作品です。

08

これを日本語では試行錯誤と言う

夕方になって鼻水が出てきた。授業の後始末と明日の準備が終わったので、草々に帰ろうとした。ところがそこに、

「トントン」
ノックの音である。
『はい、どうぞ』

ドアの向こうには他学科の三回生の学生である。授業の欠席届けを持ってきたのである。ちょっと顔を見ると気のせいか追いつめられているような表情。なんとなく話をしていたら、進路についてあれこれ相談を受けてしまった。

『人生には一般解がない。だから、一歩を踏み出すときはとても不安である。この選択は失敗かもしれないと思う。しかし、それは仕方のないこと。それが生きていると言うことの証である。親御さんがあたたかく大事に失敗のないようにと見守ってくれた今までの人生から、自分の足で踏み出そうとしている時期なのだろう。

いま悩んでいるようだが、悩んでも仕方がない。考えて答えを出して行動するべきである。そうすれば、何らかの結果が出る。その結果に基づいてまた考えて、行動する。これを日本語では試行錯誤と言う。三ヶ月もやれば一つの何らかの結果出るだろう』

などと話す。あれこれ1時間弱相談に乗ったかなあ。何かの役に立てば幸いである。鼻をかみ直して帰る。

             ◆

家に帰ると、東京で仕入れておいた日本酒が届いていた。クール宅急便でどーんと送ってもらった。だが、今日はぐっと堪えて飲まない。せっかくのいいお酒である。体調を整えて味わわないと、お酒にも体にも申し訳ない。治ったら楽しむことにする。

甘鯛の塩焼きに漬け物とみそ汁。そして白いご飯。
ああ、体がシンプルな食事を求めている。

             ◆

それにつけても、娘が可愛い。

歩いていると後をついてくる。気がつくとくるくる回っている。手を叩いてジョーズジョーズとやる。自分の食べたい物を指差して、それが理解されると思い切り笑顔になる。その上、スプーンで自分でご飯を食べる。、持ち方はいつの間にか第二段階になっている。

歩き始めてまだ一ヶ月と二週間ぐらいなのになあ。

             ◆

お酒の代わりに、デザートのゼリーを食す。
ああ、喉に気持ちがいい。

2008/10/14

90分の授業時間の1/3が消えてしまう

2限は「学級担任論」。シラバスでは、学級レクリエーションとなるのだが、なかなか進まない。というのには理由がある。最大の理由は、学生たちの質問が面白いということである。この質問に答えていると、90分の授業時間の1/3が消えてしまうのである。

私の授業は基本的には、授業後に授業の感想文をネットの掲示板にあげるように指示してある。そして、その質問の中で答えられるものがあれば、学生同士で答えを考え合う。その答えについて、あまりにも方向が違うところに議論が進んだり、他の視点を提示した方がいいと言う場合には、その掲示板に私も書き込む。

そして、この問題は全体で取り上げた方がいいなと判断されるものは、授業の冒頭で話題にして説明をしたり、議論をしたりしている。この冒頭の部分が30分なのである。

             ◆

授業が終わると、私は研究室で学生たちの出欠席の確認と課題の確認を行う。この授業では、前の週に習ったことやその時期の話題に応じて、学級通信を書かせることにしている。

先週の課題のお題【「本を読もう」ということを小学生に勧める学級通信を書く】というものである。これをA4一枚で縦書き二段構成で書くのである。この課題を80人分チェックコメントを入れて、いい作品を教室に掲示するということをしている。

まだあったこともない子どもたちを想定して書くと言うのはなかなか難しいものがあるが、学生たちは一回生のときから地域の小学校を中心としてボランティアに参加している。実際の今の小学生を見ている。それを元に書かせている。

いい作品は、「ひっつき虫」を使って大学の教室に掲示している。ひっつき虫は便利だなあ。

             ◆

この授業は、担任の仕事を通して、教育とは何か、クラスを作るとは何かを考えさせるワークを多く用意している。学生たちは教育の技術を理解すれば授業や学級づくりが出来ると思っているところがある。しかし、それは間違いであり哲学や願い、人間的な魅力などなどが必要なのは、ちょっと教師をやれば大体理解することである。だから学生時代に、その間違いに具体的に気がつくためには、このような作業が必要だと今の私は考えている。

例えば「本を読もう」という学級通信を書かせてみても、実際に自分が読んでいない(であろう)学生の書いたものは、「読め」と言う命令か説教となっていることが多い。そして、実際に読んでいる学生の書いているものは、自分が出会った本の魅力や感動を担任のことばとして語っている。また、子どもたちに紹介する本が具体的に出てくるのである。

             ◆

授業後、今日の授業を欠席してしまった学生が、欠席届を持って研究室にやってきた。
「先生、学級通信の書き方が分かりません。何から書いたらいいのでしょうか。どう書いたらいいのでしょうか」
『だからね、そういう時期だと思ってここにプリントを用意しておいたのだよ』
と石川晋先生の書かれた学級通信に関してのまとめのプリントを本人に渡す。
『これは、今日の授業中に配布してあるのだよ。よく読んで勉強するように』

             ◆

具体的に、担任の仕事を説明しつつ、担任の側から子どもや学校を見たらどのように見えるのかを考えさせてみたい、教えて行きたい。

いい週末だった

10/10

大学に移って二年半。やっと4時とかに起きる習慣が無くなってきた。それでも今日も6時前に目が覚める。もう少し寝ていようと言う思いもあるが、なんだかんだで起きてしまう。

昼寝をしようと思うのだが、いったん動き出すと休憩の取れない職場に長くいたものだから、これもなかなかできないでいる。昼の15分でも寝られるとずいぶん快適なのだと思うが。

週末は、東京に戻る。大学院時代にお世話になった大熊徹先生が還暦を迎えられて、門下生でお祝いをするのである。私は二年間の予定で大学院に行ったが、先生のご指導のお陰で一年間で大学院を修了することができた。浪人留年しているのに、なぜか大学院だけは飛び級なのである。

そのたった一年であるが、先生からは研究とは何か。人を育てるとはどういうことなのかということをさまざまな角度から学ばせて頂いた。大学院は正統的周辺参加的な学びが残るところで、直接あれこれしなさいと言うことはほとんどない。先生はいつも提案の形で、私に指示を下さった。

後から考えてみれば、大学人としての生き方も指導してくださっていたのかもしれないと思うことがある。その頃の私は、大学教員の「大」の字もなかったのではあるが、こうして大学のゼミ、大学の授業は進めて行くのだと言うことをそれとなく示してくれていたのだと思う。実にありがたいことである。

恩師は、離れてみてそのありがたさが、さらに分かる。

多くの門下生が集まることであるから、少ししかお話をする時間はないと思うが、久しぶりに先生のお顔を拝することができるのを楽しみにしたい。

 

          ■□■

10/11

ということで、東京にいる。
新幹線はN700系であった。実に揺れないので快適に座っていたらそのまま寝てしまった。やっぱり疲れているんだなあ。

本を読んだり、寝転がったりしながら奥さんの実家で過ごす。
ほぼ一週間ぶりに会う娘は、ちょっと照れながらもお父さんと会えたのを嬉しそうにしてくれる。これで元気を貰って治るかな。コホコホ。
家族と離れて風邪と闘いながらの授業は、ちょっと大変だったなあ。

コホコホとしていると、娘はまねをする。そして、喜んでいる。洗濯物を干していると干そうとしているものを籠の中から出して広げている。本人はお手伝いをしているつもりだろうが、却って手間がかかる。しかし、そうやって大きくなって行くのだろうなあと思う。

昼過ぎから私の実家へ。ちょっと娘の風邪が抜けきれていないので、土日救急指定病院が近くにある奥さんの実家に泊まることにして、今日は昼ご飯を一緒に食べて、あれこれしながら過ごすことにする。

娘は、最初のうちは恥ずかしがって動かずにじっとしているが、慣れればもう大丈夫。卵ボーロをおじいちゃんから貰って喜んでいる。餌付けされている状態である。

私は自分の実家でも寝ている状態。明日に備えなければ。

          ■□■

10/12

寒い。
朝6時過ぎに目が覚めたのであるが、寒い。いきなり秋が深まった感じである。たしかに今日は十月の半ばである。あと二ヶ月半で今年も終わりなのである。

午後から新宿に向かう。ヨドバシカメラであれこれ買い物をして、住友ビルに向かう。この最上階が大熊先生の還暦の会の会場である。17:30からのスタートであるが下働きでもしようと思い17:00ちょっと前に到着する。しかし、現役院生などが準備をしているので、私は邪魔にならないように会場で座って待つ。

久しぶりに会う当時の研究室仲間とあれこれ話す。5年前というのがちょっと信じられないくらいである。私にとってのこの5年は、それこそジェットコースターに乗っているような感じがするような5年であった。しかも、後ろ向きのジェットコースターに乗っているような感じである。

その5年があったことで私も少しは人間的に成長できたと思うのであるが、そのきっかけを下さったのが大熊先生なのである。

お祝いの会は、元ゼミ生、元学生などからのお祝いのことば。私は元ゼミ生のところでスピーチを突然頼まれた。他の人たちは、事前に頼まれていた。元ゼミの方でどなたか参加の予定の方が急遽来られなくなったのかもしれない。

私は、全体の一人目なので、端的にまとめなおかつ、お祝いらしい雰囲気を作らなければならない。最初がだらだらと長い話になると、後の人たちも(を、長くていいのね)と思ってしまうので、トップバッターになるときは短くすることを心がけている。

何をお伝えしようかと考えたが、やっぱり先生が提案の形で研究の方向を示してくださることについてを話すことにした。参加されたみなさんも多いにうなずいてくれていた。

二次会では途中で先生が私の隣に座ってきてくださった。そして、またあれこれと話す。ありがたいことである。

大学の授業のこと、研究のこと、これからのことなどをあれこれお話ししてくださる。大学人として行きていくということはどういうことなのかを、改めて考えた。

奥様とも話すことができた。年賀状での和装がすてきで、大熊先生を支えている奥様だなあと、いつかお話が出来ればと思っていた。

風邪が治らないままで出かけて行ったが、本当に良かった。また、先生からご指導を受けたいなあと思う。
          

          ■□■

10/13

昨日の名残で、午前中はゆったり。
娘を抱えて近くを散歩。
すぐに外に出られるので、一戸建ては便利だなあと思う。

通り過ぎる人、車に丁寧にバイバイをする娘。
律儀である。
手を振りかえしてくれる人もいる。ありがとうございます。

午後から滋賀に戻ることにする。
三連休の最終日と言うことで、少しは思っていたがやはり混雑。
新宿駅で新幹線の予約を取ろうとすると、二時間空席がないとのこと。

待つかどうか考えたが、東京駅から乗るならば一日本待てば自由席も座れるだろうと思い、そちらにする。東京駅では30分後の新幹線がやっと座れるかどうかのあたりに並ぶ。

この場合、2号車に並ぶのが正しいと私は考えている。1号車は運転席のある関係上、座席が少ない。3号車はN700系であれば、禁煙車両であるが喫煙室があるので匂いが流れてくることがある。2号車であれば、座席数はあるし、タバコの匂いもない。結果的に二人掛けの席をゲット。大正解であった。なんとなく名著『大東京貧乏生活マニュアル』を思い出す。

娘は新幹線に揺られて寝るかと思いきやご機嫌なまま、寝ない。叫ぶこともなく私と奥さんの間を行ったり来たりしながら、京都駅まで。いい子でありました。

自宅には7時過ぎに到着。
明日の授業の準備の準備をして、寝た。
いい週末だった。

次は、同窓会の出席のための上京だな。

2008/10/09

あとはお茶でも飲んでいるというような

今日は・・・、と書き始めて
(あれ、何したっけ?)
と一瞬思ってしまう私は、やっぱりまだ頭が通常のように回っていないのだろうなあと思う。

落ち着いて思い出せば、教職総合演習と基礎演習ゼミであった。

基礎演習ゼミでは、児童の書いた詩を読み続けている。教科書の指定された範囲の中にあるいくつかの詩のなかから、本人が気に入った作品を原稿用紙に2Bの鉛筆で書き写し、その詩について解釈文を書き、それを書き込み回覧作文方式で読み合って、特徴的な作品についてディスカッションと言う流れである。これを毎週行う予定である。

であるのであるが、同時に授業の感想を書くネット上の掲示板についてもあれこれしている。感想をかくと同時に授業への疑問と最近の教育問題に付いて疑問に思うことを書き込むように指示してあるのである。

この疑問について、学生同士がお互いにあれこれと書き込みをするのであるが、私が違う観点を示したり、あまりに違っているときには書き込んだりしている。そして、ゼミ全体で考えるのが良いと思われる問題は、ゼミの冒頭で解説をしたり議論をしたりしているのである。

この方式は、90分の時間を有効に使えるのであるが、今日はちょっとこの疑問に答える部分が伸びそうだなあと思っていたらやはり伸びてしまった。

今日の主な争点は3つあったが、そのうちの1つは「学力テストの結果の公開の是非」であった。

なかなか面白い議論となった。

詩の読解と解釈も、なかなかいい感じで学生たちが成長してきている。私が水を与え肥料を与えるような授業ではなく、学生たちがお互いに刺激し合って根を伸ばし合い、葉を広げ合い、成長して行くようなイメージである。

もちろん、まだまだのことはあるが、私はだんだん雑草を取って、あとはお茶でも飲んでいるというようなところに行けないかなあと思っている。

昼休み、研究室にやってきた学生たちとあれこれとこれからのことを話す。おもしろいことになりそうだ。

13:00時過ぎに学食で食事をしていたら、学生に相談を受ける。うーん、ちょっとそれは私には立場上出来ないなあ。なので、他を当たるように指示。

夕方、京都駅前に向かう。新潟から仲間の先生が高校の修学旅行でいらっしゃっているとこのこと。大学を見て頂く予定がスケジュールが合わなかったので、私の方から大学のパンフレットなどを持って出かける。

久しぶりにお会いした先生。元気そうで何より。大学の話や私の近況。さらには宿近辺の美味しいお店等をお伝えして、失礼する。京都はこうしてやってきてくれる仲間がたくさんいる。嬉しいことだ。

最後の部分が抜けない風邪だが、今晩辺りに抜けそうな気もしないでもない。お見舞いのメールを下さったみなさん、ありがとうございます。

写真は今朝の朝焼け。秋は夕暮れなのだが、朝焼けもなかなかである。

Asayake1009

2008/10/08

「自然には理由がある」

ふう、一日を乗り越えた。
風呂から出て、リビングで寛ごうと思ったら、
「ングウウウウウウウウゥウ。ングウウウウウウウワゥウ」
という音が外から響く。
なんだろうと思って外に出てみると、琵琶湖の湖岸にいる渡り鳥の鳴き声のようである。詳しい方、何の鳥だかお分かりでしょうか。

            ◆

ノーベル賞が、賑わっている。特に興味があるわけでもないが、新聞記事を読む。そこで、いくつかのことばに出会う。これがいいんだな。

http://mainichi.jp/select/wadai/news/20081008k0000m040193000c.html
から引用開始 ーーーーーーーーーー

研究室の学生がスポーツ大会で身に着けるシャツには、益川さんの「自然には理由がある」という言葉が印刷されている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

名古屋大学の研究室である。私はこれを読みながら、「子どもには理由がある。ただ、本人にも、教師にもなかなか理由が分からないだけである。」ということばを思いついた。実際にそうであると思うが、ノーベル賞の先生のことばをもじっているので、ちょっと情けないf(^^;。

他にも、いくつかこれからの研究生活の支えとなるようなことばを手に入れることができた。学校教育現場にいたときであれば、心にヒットしなかったであろう。立つ場所が変わると、見え方も変わるのだと改めて思う。

            ◆

大学の授業では、小論文の書き方を指導。ではあるが、なかなか書かない。
今日は、今まで教えてきた内容を以下の項目に従って復習。

1)日頃の準備
2)案の構想
3)構成
4)執筆
5)見直し
6)提出

下位項目に具体的なものを示しつつ、説明。自分に何が足りないのかを自覚させることが大事だと思ってのこと。来週は、実際の問題の中から特徴的な問題を取り上げて、2)の部分をさらに考察する。

            ◆

午後は、高校での模擬授業。道路が混んでいそうなので早めに出る。30分前に到着。良かった良かった。ではあるが、開始の時間までタオルを取り出し、机の上に突っ伏して寝る。

教室の案内の合図で起きる。そしたら、本学の看護学科の先生に会う。いやあ、それも気がつかないぐらいに寝ていた。体調の悪いのを見て
「赤ちゃんから貰った風邪は強い菌だから気をつけてね」
と言われる。なぜなのかを伺ったが分からないとのこと。誰か詳しい方、お分かりでしょうか。

2コマ授業をしたら、声がかなりまずい状態になってしまった。熱も出てきたので帰りは、安全のために高速道路を使う。ゆっくりと80キロに届くか届かないかのスピードで流す。信号や対向車、さらに飛び出しがないのが楽である。これが功を奏して、家に着いたときにはかなり楽になる。

            ◆

風邪でずっと飲んでいなかったのだが、今日は
(ん、飲もうかな?)
と思えた。
ので、ビールを一本だけ飲む。
ひゃああああ、ビールだ。

少し飲めるようになったのは、復活の兆し。
そろそろ治ってね、私の体。

第18回の「明日(あす)の教室」のご案内 11/15

第18回の「明日(あす)の教室」のご案内をいたします。11/15(土)に開催いたします。

今回は、昨年度に引き続き学級づくりと授業づくりの両分野で、若手教師に力強いメッセージを発信されている野中信行先生を講師にお招きします。そして、明日の教室代表の糸井先生と事務方の私池田の三人で鼎談を考えております。題して、「後輩教師に伝えたい 困難な現場を生き抜くための仕事術」です。

野中先生は、小学校の教諭をご退職され、新人教員の指導に当たられています。教師、教育の世界を目指そうとしている若い人たちに、今までの現場のご経験から、また指導の立場に立たれてから考えられたこと等について、これからの学校教育が目指す方向や、教師が身につけなければならない指導力について、大いに語って頂く予定です。

これから教師になろうとしている学生のみなさん、教師としてスタートを切ったばかりの先生方、是非多くの方に野中信行先生を体験して頂きたいと思います。お待ちしております。

日時:11月15日(土)  13:30~17:00

会場:京都橘大学児優館 
アクセス:http://www.tachibana-u.ac.jp/official/information/access.html

講師:野中信行さん@横浜市初任者指導教諭

内容:「後輩教師に伝えたい 困難な現場を生き抜くための仕事術」

会費:一般2000円、学生1500円
なお、会の後、野中先生を囲んで懇親会を予定しています。自由参加で3000円程度です。事前に分かる方は、メッセージ欄に参加の旨をご記入ください。

申し込み:http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754  *1

昼食:大学の生協食堂が開いております。安くて美味しい本学の生協の食堂をご利用ください。

            ◆

講師略歴  

講師   野中信行さん@元横浜市立大池小学校教諭
著書には、「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」「学級経営力を高める3・7・30の法則」「新卒教師時代を生き抜く心得術60・やんちゃを味方にする日々の戦略」があり、学級経営に力を注ぎ、数多くのクラスを鍛えてきたベテラン教師、いや、スーパーベテラン教師です。今年の運動会でも小学校6年生に50m走で負けませんでした。
野中先生のブログです。http://nonobu.way-nifty.com/blog/

*1 申し込みはすべて、http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754から。なお、グーグルで、「池田修」と検索して頂ければ「国語科・学級経営のページ」というHPが出ます。そこを開いて頂ければ「メールはこちらへ」とあります。そこのことです。

「先生、お返事を頂きました」

本学の児童教育学科児童教育コースでは、教育の研究者を育てるのではなく、教育の実践家を育てようとしている。もちろん、実践家から研究者になってもいいのだが、基本は実践家を育てようとしている。

そこで、二回生の演習では実践記録を丁寧に読むことにしている。前期は、『大人が子どもと出会うとき 子どもが世界を立ち上げるとき』を読み続けた。この本を読む中で、著者の竹内常一先生にお越し頂いて学生全体に講義をして頂いた。

そして、最終課題としてこの本の中で取り上げられている実践について、その実践家に自分たちが学んだことと感想文を送るというものを学生たちに提示しておいた。実践家の連絡先も各自が調べると言うことにしておいた。

そしたら昨日の「学級担任論」の授業の前に、学生たちがやってきて
「先生、お返事を頂きました」
と言うではないか。
何かと思ってその手紙を見ると、ある章の実践家からの手紙であった。
学生たちは非常に嬉しそうにしていた。
とてもありがたいことである。

ただ、私には分かる。
これから教師になろうとしている学生たちが、自分の実践で学び手紙をよこしてくる。もし、私であればとても嬉しく感じて、なんとか学生たちの学びに応えてあげようと思うに違いない。

そして、この本に載っている先生たちもそのような思いを持つ方が多いだろうと判断しての課題である。

今指導している学生たちがやがて教師になり、実践記録を書き、さらにその時の学生たちから手紙をもらったとしたら。
『君たちはどう思う?』
と聞いたら
「とても嬉しい」
との答えであった。
『だろ(^^)。自分が学べて、さらに人を喜ばせることができるなんていいだろ』
「はい」
『私が書けっ!て言わなかったらこの喜びは無かったでしょ』
「はい」
『教育にはそういう面があるのです』

「先生、このお手紙にお返事を書いた方がいいでしょうか」
『もちろん。そして、無理の無い範囲で文通してもらいなさい』
「?」
『コネではなくて、人脈です。大学以外に、または君が教師になったら勤務校以外にいろいろなことを話せる先生がいるというのは、あなたの財産になりますよ』
「はい」

ということで、勝手にこれからも手紙を書くように指導してしまいました。
先生方、よろしくお願いいたします。

2008/10/07

そうだよ、やるんだよ(^^)

なんとか授業の準備が終わり、90分間の授業も終えることができた。
うがいをしたら、喉から血が出てきた。
あ、体弱っているなあ。
この程度で、喉から血が出るなんて。

学級担任論は、授業していて面白い。
ま、私はどの授業も面白いのだが、面白い。
何が面白いのかと言えば、

1)初めての授業なので、作るのが面白い。
2)学生の顔色が変わるのが、面白い。
3)自分がやってきたことを別の視点から振り返ることができて、面白い。

1)これは、人にもよるだろうが、私の場合はこれである。いままでない授業をあれやこれやと作って行くのは、本当に面白い。これをそのまま本にするといいのかもしれないが、どこかでそういう企画ならないかな。

2)教師を目指して授業を受けている学生たちには申し訳ないが、私のこの授業を受けている学生たちの顔色が、どんどん悪くなるのが分かる。簡単に言えば「え、こんなにやるの。→ こんなにやらなければいけないの。→ こんなのできない」というふうに顔色が変わって行くのである。

そうだよ、やるんだよ(^^)。今のうちに分かっていて良かったね。中に入ってから理想と現実の違い、甘っちょろい思いと事実との違いに打ちのめされる前に知っておいて良かったね。今なら勉強する時間がある。この仕事のむこうに、君たちが描いている教師ならではの仕事の喜びが待っているんだからね。

3)自分でも、その渦中にいるときには気がつかなかった学級づくりのあれこれについて、教える立場で見直してみると分かることがあり、これは一つのご褒美である。もちろん、これを授業に活かすこともあれば、そうでないこともある。

今は概説の部分が多いので、学生たちは面食らっていると思うが、これから各論に入ったら、それでは終わらない。それぞれの学生が、担任としてどう振る舞うのかを問われるような課題を設定して、この学級担任論を進めて行く予定である。

研究室に戻ったら電話。
え、私が? そうですか、勉強させて頂きます。
原稿依頼である。
ご縁のなかったところからであるので、びっくり。
勉強させていただきます。

学生の課題のレポートをチェックしていたとろこに、以前教えていた学生がやってきた。
『どうしたの?』
「小論文を見て頂きたいのです」
聞けば小学校資格認定試験の一次試験に合格し、来週二次試験があるとのこと。よくやった。この試験、合格率は15%ほどのものだ。

よーし、そうとなったらしっかりと小論文を読んであげましょう。来週持ってくる? よし、そうしなさい。見ましょう、見ましょう。

しかし、風邪からの熱には勝てず、ちょっと早めに帰宅。
学生たちの授業掲示板にあれこれコメントをできるだけして、お酒も飲まずに、寝ます。

明日は一限だあ。
治すぞ、風邪。

あ、「伝える極意」の再々放送は昨日でしたf(^^;。
次回、次々回は、10/13、11/17の19:40〜19:55 NHK教育テレビです。

いまは朝の五時半。体温は下がった

少し良くなるとまあいいかと思ってしまうのが風邪だが、これは良くない。ではあるが、あれこれ始めてしまう。それで体温がまた上がってしまった。いかんいかん。

             ◆

ということで、昨日はほとんど寝ていた。
起きている時間は、食事ぐらいであった。

いまは朝の五時半。体温は下がった。
まだ喉は痛い。今日の授業は80人を相手。
今日はマイクを使わせてもらうかな。

ふと外を見ると、奇麗な朝焼け。一瞬のことである。

Asayakeカシオペアの「Asayake」を聞こう。

 

さ、授業の最終準備に取りかかろう。

2008/10/06

久しぶりに重い風邪だ

久しぶりに重い風邪だ。後期が始まってあれこれあったので体は疲れていたのであろう。そこに、娘からのウイルスのプレゼントがあって、こんな感じだ。娘は治ったようなので良かった。

風邪で寝込むということは、私はほとんどないのであるが、この風邪はきつい。今日は一日中寝ていた。

琵琶湖は、一日中雨模様。
気温も上がらず、寝て過ごすにはいい一日かもしれない。

途中でメールが届いた音がしたので、確認すると昨日の懇親会に参加された先生からお礼のメールであった。

この会を開いていて良かったなあと、素直に思う。
エネルギーを貰ってさらに、寝る。

娘のお昼寝の時間、私の寝ているそばで娘も寝る。
途中で喉が渇いたので、娘を起こさないようにリビングに向かう。

水を飲み、一息ついていると寝室の方から
「ピ、ピ、ピ・・・」
との音。
(あ!)

しばらくすると、その「ピ、ピ、ピ・・・」の音は近づいてくる。
振り返ると、娘が電話の子機を持ってボタンを押しながら嬉しそうにこちらに向かって歩いてきた。私は喉が痛いのに思わず爆笑。

(ああ、起きちゃった。まだ早いだろう)
しかし、そんな思いは関係なしに、「ピ、ピ、ピ・・・」を押しながら嬉しそうにこちらに向かってくる。

「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません・・・」
なんて声も聞こえる。

そのうち、どこかに電話してしまうかもしれないな。
「はい、おしまいね」
と受話器を受け取りながら、思うのであった。

風邪程度では食欲が無くなることなんて無い私だが、今回はダメ。
ひたすら寝て、食事はうどんのあとは梨。
昼間、10時間以上寝ていたなあ。
でもまだ寝られる。
これが風邪と言うことなんだな。

肌がぴりぴりしている。
髪の毛に触れるだけで頭皮が痛い。
体温を測ると38度近い。
ふう、これじゃ辛いわけだ。

朝熱を計ったら37度は下回っていた。
なんとか峠は越えたようだ。今日も寝ていよう。
明日の授業には体調を戻すぞ。

2008/10/05

風邪だ

朝起きると、喉が痛い。
風邪だ。
娘が風邪気味であったのだが、それが移ったのであろう。

寝ている時、娘はHの真ん中の棒ようになって寝る。川の字のはずなのに、Hになってしまう。その時、いつもは足が私の方を向いているのであるが、昨日は頭が私の方を向いていた。これでめでたく移ったわけである。

             ◆

明日の教室ぎりぎりまで寝ていて、大学に向かう。
大学でも体が熱っぽく、肌がぴりぴりする。
関節も痛い。
これはダメだと判断して、昨日の明日の教室では私は見学していた。

しかし、ワークショップを見学すると言うのも面白いものであると気がついた。ワークショップを受けながら、ワークショップで自分以外に何が起きているのかを発見するのは難しいと思う。が、こうして外側から見るといろいろと分かって面白いものであった。

授業をコントロールする教師は、授業の内部にいつつ外部からの視点も持つことが求められる。これはなかなか難しいことである。たまにはこうして外側からだけ見ると言うのもいいなあと思った。

             ◆

見学をしていたのだが、いよいよ体がおかしくなってきて、ワークショップの会場でごろんと寝転がりたくなった。しかし、さすがにそれは失礼なので研究室に戻って机の上に突っ伏して仮眠をとった。これが効いたのか、ワークショップの終わる直前には少し体調が戻った。

今回の明日の教室は、セレノグラフィカによる身体コミュニケーションであったが、私は別の角度から自分の体を確認することになった一日であった。

             ◆

その後、懇親会へ。
たまたま私の周りに座ったみなさんは、国語の先生。明日の教室国語部会となった。四月から本採用になった先生、中間テストの問題が出来上がってないのに参加している先生、新しい授業に挑戦しようとしている先生、学級経営で困っている先生の相談を受けつつ、あれこれと国語の授業の可能性について語り合う。

『もし、私がいま現場にいたら、〜の授業をするけどなあ』

なんてことも話す。
必死にいい授業を作ろうとしている若い先生たちに、少し役に立つと嬉しいなあ。

             ◆

来月の明日の教室は、11/15。野中信行先生、糸井先生と池田で「後輩教師に伝えたい 困難な現場を生き抜くための仕事術」と言うテーマで鼎談&質疑を行う予定です。秋の紅葉の京都にお越し下さい。

2008/10/03

一週間の授業が終わると

涼しくなったなあと思って長袖のシャツに上着を着て家を出たら、なんと結構暑い。日中はまだ夏の名残があるのか。

             ◆

授業が二つ終わって研究室に戻ると、外は真っ暗。
いやあ、関西でも日が沈むのが早くなった。

一週間の授業が終わると、それはそれなりにほっとする。
ここをもう少しやれたかなとか、来週はこの導入から始めるかなどとあれこれと思うのではあるが、ほっとすると言うのが一番の思いである。

これは中学校式の授業に慣れている私だからなのかもしれない。
中学校は、ひとつの内容をクラス分だけやる。3クラスあれば3回。4クラスあれば4回。だが、大学では一回でオシマイである。同じ内容は来年まで無い。

データを新しいものに変更し、構成を作り直して今年の授業を作る。そして、その一回でオシマイになるのである。ああ、なんて贅沢なんだ。でも、教育は贅沢なものである。

             ◆

小学校の授業は、もっと贅沢かもしれない。私は来年また同じ授業を担当すれば、今年の分が活かせる。しかし、小学校は今やっている授業を次にできるのは、いつになるのであろうか。しかも、一日に六時間である。なんて贅沢なのだろう。

そして、準備がとても大変なのもよくわかる。

             ◆

明日は、明日の教室
また、学ぶことでエネルギーを貰うつもりだ。

エレベーターのボタン

どうでもいいことなのであるが、気になっていることがある。
エレベーターのボタンである。

例えば1階から5階に行く時、一人で乗るとする。
みなさんは、どのボタンを押すであろうか。
行き先のボタン「5階」を押して、その次に「閉まる」のボタンを押すのではないだろうか。

行き先だけ押して、自然に閉まるのを待つことができないのが日本人だという話をどこかで読んだことがあるが、まあ、そうかもしれない。私も行き先のボタンを押して、あとは知らん顔をしてみようとおもったこともあるが、これがなかなかできない。

で、いまはその次の課題に挑戦している。
エレベーターに乗る時、「閉まる」のボタンを押してから「行き先」ボタンを押すのである。

これは何を意味しているかと言うと、2秒ほどの時間の短縮を意味している。ドアが閉まり始めてから行き先ボタンを押すことでこれが可能になる(はずである)。

で、これを試みているのであるが、なかなかできない。どうしても先に「行き先」ボタンを押してしまうのである。そして2秒間反省するのである。

(人間は限りなく習慣の動物であるなあ)

と。
どうでもいい話である。

2008/10/02

ぎりぎりまで粘った方が面白いものになる

後期は一限の授業が二つある。今日もそうだ。大学の駐車場に車を停める。さわやかな秋の朝の空の青に、白天井のMINIが包まれる。なんとも美しいなあ。

          ◆

教職総合演習を終えて、児童総合演習の授業を行う。この授業は私の後期クラスのゼミと言うことになる。後期も前期のクラスと同じことを課題にする。それは、学内に生えている花を活けると言うことである。

自然に囲まれている京都橘大学である。夏の終わりの花に秋の花などたくさんの花が咲いている。私は児童教育学科の学生たちに入学のときにひとつの課題を出している。それは、

『卒業までに、学内に生えている花の名前と学名を10個言えるようになる』

である。大学二年の後半になっている彼ら彼女らであるが、これはなかなかしていない。ので、課題にする。ゼミの日直が今咲いている花を摘んできて、一輪挿しに活けること、という課題なのである。

もちろん、それだけではなくそこに「呼び名、学名、別名、花言葉」などを書く用紙を渡してあり、それを調べて一輪挿しの花のそばにおくのである。今日の花はクジャクソウ。花言葉は一目惚れであった。

          ◆

『今、児優館の一階に降りると、百日紅が最後の花を咲かせていて、その下には曼珠沙華が咲いているね。そして、振り返って坂道沿いの道にはたぶん本学の敷地内で一番最初に紅葉になる花水木が赤くなってきているね』
『で、今言った花はなんだか分かる?』

そんな話をする。
子どもたちは、先生は何でも知っていると思っている。この期待に応えなければならない。「先生はすごい!」と言われなくても思われなければならないのだ。「すごい!」と思わない人から、子どもが学ぶとは思いにくい。だから勉強するのだ。

          ◆

さらに子どもは、ことばを通して世界を広げるのである。ヘレンケラーではないが、ことばを通して、世界を構築することができるのである。
「先生、これなあに?」
『ん? 木だね』
じゃダメなのである。

『これはね、サルスベリっていうんだよ。ほら木の肌がつるつるでしょ。漢字で書くとね百日紅というんだよ。一年のうち100日ぐらい赤い花をつけているってことなんだろうね。来年はいつ咲き始めて、いつ最後の花が散るか記録をつけてみると面白いんじゃない?』

ぐらいのことをさっと言えるようになってほしい。それが子どもの世界を広げることになるのである。

          ◆

授業は子どもの詩の読解。事前に原稿用紙に鉛筆で書き写すことを課題としている。そして、その解釈をA4一枚にまとめてくることも。この解釈を書き込み回覧作文する。

それを元に、書き写した詩にその子を担任しているとして、赤ペンでコメントを書くという課題を与える。

          ◆

詩をどうやって読むのか。国語が専門ではない彼らには読み取るための、きっかけを与えた。

1)似ていることばなのに、違うことばは無いか。なぜ違うのか。
2)書いて行く順番に理由は無いか。

このようなところに、子どもの思いに繋がる扉が隠れていることがある。特に順番生については、子どもの詩を一行ずつ切り離して、読書へのアニマシオンの「物語バラバラ事件」形式で復元させて、キーワードがどのような順番で書かれているかを読み取らせた。

          ◆

この授業は、昨日の学科会議の前のコース会議で出てきたものだ。それを元に私は「物語バラバラ事件」形式で授業化したのであった。会議が研究や授業づくりの一部になっていると言うのは、実に面白い。

          ◆

教材研究、授業づくりはぎりぎりまで粘った方が面白いものになるというのは、中学でも大学でも同じだなあと思う。

10/4の明日の教室のご案内です

10/4の明日の教室のご案内です。
糸井先生のブログからです。

引用開始 ーーーーーーーーーー

若い頃、明日の授業に困っていた。
とにかく、明日の授業がままならない・・・。
たった一つの発問考えるのに、2時間以上かかる日も少なくなかった。
当然、眠るのは、午前2時、時には、もっと遅くなることもあった。

それでも、ほんの少しだけど、授業がうまくいくと嬉しくて・・・。

今、そんなことを繰り返していた自分を、駄目だったなあ・・・と思う。
明日のことを考えるのは大切だ。
でもね、それだけじゃあ駄目なんです。

もっと未来のこと、
もっと本質的なことを考えていかなくちゃ。

私は、池田先生@京都橘大学と一緒に、「明日の教室」という若手教師、学生達対象の研究会を開催しようと思った時、是非とも、アート関係のワークショップも取り入れていきたいなって思っていました。

私は、若い頃、教材研究をする際に、「どうしたら分かりやすいか」「どうしたらうまく教えられるか」「どうしたら楽しいか」・・・そんなことばかりを考えていました。
でもね、私が出会ったアーティストの方は、「教える」のではなく、いつも、「引き出す」ことを最優先させていらしたのです。

たったそれだけのことだけど、そのことを感じることができたおかけで、私の授業観は大きく変わりました。
いつも「引き出せばいい」のではありません。
でもね、そういう感覚を持つことの意味は大きいのです。

で、昨年は、美術・ダンス・演劇といった分野のアーティストをお招きして、研究会を開催しました。悲しいかな、参加人数は、そんなに多くはならなかったです。

今年は、春に、平田オリザさんをお招きして、今回、セレノグラフィカさんをお招きして、ダンスワークショップを開催します。
残念ながら、まだ、予定していたほどの参加者が集まっていません。
あぁ・・・といった思いです。
残念で仕方ありません。
若いからこそ、テクニックではなくて、本質的なものを学んでほしい、そんな気持ちでいっぱいです。

あれれ、少し愚痴っぽくなってしまいました。
ダンスを学んでほしいのではありません。
「引き出すということ」「コミュニケーションの育成って」・・・そんなことを確実に学べる絶好の機会です。
まだ、申し込んでおられない方、是非、是非、ご参加下さい。

引用終了 ーーーーーーーーーー

お申し込みは、http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P2213754です。
お待ちしております。

2008/10/01

こそっと伝える

小論文の指導の授業から入る。
今日のポイントは、読解である。課題として提出された文章をどう読み取るかである。ここを丁寧に行わないと頓珍漢な文章になってしまう。

1)この文章で何を答えればいいのかを読みとれているか。
2)文章の中にある単語は、何を意味しているのかの確認。
3)2)の単語が持っている問題点の整理。
4)論じなければならない問題と論じる必要の無い問題の整理。
5)論じるために必要な、問題点の検討の仕方。

などなどを扱った。本当は、学生たちにディベートをやらせるのが一番手っ取り早いのであるが、この授業は6回でオシマイ。だから、それはせずに小論文に特化して行う。

来週は、もう少し突っ込んだ話になるだろう。

             ◆

教員採用試験に合格した学生が報告に研究室にやってきた。
そういう学生にはお茶を振る舞う。
京都一保堂の玉露を振る舞う。
そのぐらいしてもいいだろう。

あれこれ話を聞きながら、今後の注意点を話す。
授業ではしないはなしである。
本当に教師になったときに、自分を守るために、生徒を守るために必要なあれこれを90分かけて話す。

そして、もちろん国語の教師になるのであるから、そのときに必要な本をさらに紹介する。ことばに関する疑問があったとき、ことばに関する基礎的な知識を身につけるためにどんな本を手にすればいいのかを知っているといないとでは大きな差がつく。研究室にある本を見せる。

さらに、ことばについてあれこれ。主に文法について子どもたちが不思議に思うことの多いネタをあれこれ。こういうネタはブログに書いてしまうと、私の授業もつまらなくなるし、どこで誰が読んでいるのかも分からないので、書かない。授業の合間にちょこっと話すか、こうして四月から現場に突入する学生には、こそっと伝える。奥義のひとつである。ま、大した事でもないが。

             ◆

その後、延々と会議。
さすが、水曜日である。

学級担任論の授業が始まった

学級担任論の授業が始まった。

             ◆

私が大学院に行った時、学校経営論の授業があった。それならば、学部には学級経営論や学級担任論があるだろうと思い、シラバスを確認した。しかし、なかった。とても驚いた。

(担任の仕事を教えないで、教員を養成するのか)

と。
嘗ては、先生は教科の教育を行えるようになれば授業は成立し、学級もうまく運営することができると思われていたのであろう。確かにそういう時代もあった。

しかし、いまはそれはありえない。モンスターペアレンツどころか、モンスターチルドレンまで出てきている時代に、学級担任の仕事とそのやり方、哲学等を学ばないで担任を持つなんてことは、かなり恐ろしことである。

             ◆

昨日の授業では、学級開きでの最初の担任のスピーチの演習や、児童と教師の距離感についてあれこれ行った。小グループを作って実際にスピーチをやり合って確認してみるのである。

教育実践は、つねに具体である。頭の中ではこうしたいと思っているなんてのは、実際に具体化できなければ何の意味も無い。2分間、子どもたちの前で話すこと。簡単なようでいて実は難しい。自己紹介だけではない。クラスをどうするのかということについて、正しい伝え方で伝えなければならない。演習の後、解説を行う。

             ◆

距離感は、端的に言えば言葉遣いに現れる。
私は学生たちに常に言うことがある。

『教師の目的は、子どもと仲良くなることではない。教師の仕事は、学校教育現場の指導の中で、子どもを大人に育てることである』

若い先生はそれだけで子どもとの距離が近い。子どもが好いてくる。それを自分の実践の力だと思い込むことがある。そして仲良くなりすぎて、注意や叱ると言うことができなくなるのだ。仲良く無ければならないという強迫観念があるように感じられる。

担任は、学級のリーダーである。リーダーは、先頭を歩き、最後尾を歩き、励まし、促し、時には肩を貸しとする。そして、場合によっては禁止や制止も求めるのである。山登りのときのリーダーの役割に非常に似ている。集団をよく理解して、ダメなときはダメという必要がある。

だから、そのダメを伝えるためには、児童との間に適切な距離が必要になる。この距離をどのぐらいに保つのかという距離感をつかむことが大事である。私は若い教師は広めにとる方がいいと考えている。それでなくても若いと言うだけで狭い間である。先生のことを友だちのように思っている子ども。子どもの側からすれば、
「この先生、らくしょー!」
とかなるだろう。
そして、その友だちのような先生が怒ったら
「なんであいつ怒るんだよ」
となるのだ。これで指導ができるわけがない。
そんなこんなを授業で扱った。

本当は、もっと進みたかったのだが準備をした分まで進まなかった。15回のうち、もう1回が終わった。あと14回でどこまでいけるかなあ。きちんと行くところまで行こう。

             ◆

研究室に戻るとメールが届いていた。

やった! 今年の採用試験二次合格第一号だ。
神奈川県の中学校国語に現役で合格だ。
おめでとう。
努力の内容、方法、方向が正しく、きちんと手に入れることができたのだね。
嬉しいねえ。
四月から、先生だ。

             ◆

その後、ある出版社の方が研究室に来て、あれこれ相談を受ける。
私は基本的にそういう相談は受けるようにしている。
大学人としての社会貢献だと思っている。

いろいろな人がいる中で、私に相談してくるのであるからして、相当厄介な案件もあるにはあるのだが、出来る限りのことはしたいと思う。その会社の利益になることもあるが、その会社の利益になると言うことは、その先にいる学校教育現場の子どもたちのためにもなるということである。

そんなつながりを想像させてくれる人たちであれば、そういう相談は、できるだけ引き受けようと思っている。

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