思わず表出してしまったものを読み取る力量
しかし、最後の固まりが取れない。喉の上の方に何か引っ付いている感じで風邪の固まりがある。これが取れない。うがいをしても、鼻をかんでもダメだ。10/4の明日の教室のときに発症したので、もう20日間も引いていることになる。いや〜、長いなあ。みなさん、大丈夫ですか?
◆
児童基礎演習ゼミでは、相変わらず児童の詩の作品を読み合っている。
1)いくつかの作品の中からこれというものを選ぶ。
2)その作品を2Bの鉛筆で原稿用紙に書き写す。
3)その作品の解釈をA4一枚に書いてくる。
この書き写しの詩と解釈の書いてあるレポートを書き込み回覧作文方式で、ゼミの中をまわす。そして、気になった部分に付いてさらに議論を深めると言う方式である。
昨日は、男子学生で芽が出てきた学生が出てきたことを言祝ぐ文章を書いたが、今日のゼミでは、子どもの作品に隠れている、子どもの内面に入って行くドアのノブを発見することができる学生が増えてきたことを言祝ぎたい。
「子どもの作品に隠れている、子どもの内面に入って行くドアのノブを発見」するためのあれこれを丁寧に指導しているつもりではあるが、こんなに早く見つけ出せる学生が出始めるとは、これも嬉しい予想違いである。
たとえば、「行った」と書いてあるところと「行きよった」と書いてあるところの違いから考えることができる。また、転校して行った友人の名前を作品の中で呼びかける時、一カ所だけニックネームではなくきちんとした呼び名で呼びかけている箇所を見つけて、その意味を解釈するなんてことが出来始めているのである。
子どもたちが表現しようとしているなかで、思わず表出してしまったものを読み取る力量を育てたい。
◆
検証しているわけではないが、授業で作品や実践記録を読む読み方を丁寧に指導する一方で、学生たちは学生たちなりの教育の現場を持っていることが、教員養成の1つの方法として大きな意味を持っているのだろうと感じている。これを児童教育学科の児童教育コース全体でやることにも意味があると思っている。
近隣の小学校や学童保育、さらには地区の児童館などで定期的に子どもたちと接することが、理論と実際の両輪となって動き出しているのではないかと感じている。
もちろん、本当の学校教育現場とは話にならないぐらい違いがあるのも分かっている。校務分掌もなければ、授業づくりもないなかでの関わりである。
しかし、彼らなりの教育の現場を持っていると言うことは、大学での学びを豊かにするものとなるであろうと考え、システムを作ってきた。このシステムが有効に動き出していると感じている。学生たちを指導、支援してくださる様々な方がいてのお陰である。ありがたいことである。
◆
いまの期間、木曜日は3つの授業が入っている。
さすがに90分の3つは、疲れるなあ。
授業を終えて片付けをして19:00過ぎに研究室を出る。
さ、家に帰って娘を抱っこしよう。
« あと22人です | トップページ | 学問の秋である »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント