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2008/10/29

ああ、面倒くさい。ああ、面白い。

小論文指導の授業は本日で終了。全6回であれば、このぐらいが限度かなあと言うところまではやれたかな。自画自賛f(^^;。

私は、学生時代までに小論文の書き方をコンパクトに指導を受けた経験はない。大学院のときに、倉島保美さんの講座で徹底的にパラグラフライティングのご指導を受けたのが最初で最後かなあ。

学生時代に、私が教えた程度ぐらいのことを指導受けておくと「楽」だったろうなあと思う。

ただ、ここが難しいのであるが、楽だっただろうが、力がついたのかというと、簡単には言い切れない。

教わると言うのは、効率的に学習するためには非常にいいシステムである。自分でやるというのは、非常に効率は悪い。しかし、自分の歩幅で学ぶことができるので、無理がないと言えば無理はない。そして、すべて自分の頭で考えるので、分かったことは分かったことだし、分からなかったことは分からなかったとなる。

さらに、ここをあれこれやっていることで、直下の目的には関係のないことであっても、ひょんなところでそこでやっていたことが役に立つと言うことが、ままあるのである。ここが後から振り返ると、力になったなあと思うのである。

学級担任論の授業のあとに、学生から質問を受けた。

「僕はへそ曲がりなんですが、最近先生の授業を受けていると、納得することばかりで、なんか変なんです」
『別に変じゃないだろ。いい授業をしているんだから。ま、しかし、いい授業でないとすれば、そういうお年頃なんじゃないの?』
「そうなんですかねえ。たとえば、今日の授業でも先生が、『この指導の目的は〜』と説明してくださると、なるほど〜と思うんです。それで、小学校の時もこうして小学校の先生が、「この授業の目的は〜」と説明してくれれば、ずいぶん勉強のやる気も違ったと思うんですけど、なんでしてくれなかったんでしょうか?」
というものである。

これに対して私は
『ということは、小学校の授業も全て目的をはっきりと示した方がいいと言うことかい?』
「はい」
『うーん、それは正しいと言えば正しいのだけど、違っていると言えば違っていると私は思うなあ』
「????」

『一般論として授業の目的を示すことは正しいと思う。しかし、人間ってそんなに簡単なものではないと思う。目的を示すと、その目的に関して(俺は関係ない)と思う子どもは、やらないことがある。さらに、その目的だけ達成すればいいと言う子どもも出てくるだろう。また、与えられた目的だけやれば良いんでしょ、という子どもを育てることにもなる』
「・・・」
『そもそも生きて行く上において、生きて行くための目的なんてものは与えられるものではないと私は思うのだが、目的を与えられ続けることになれてしまった子どもは、自分で目的をつくり出すということを考えなくなるんじゃないかな。目的は自分で探したり、設定したりするものという考え方もあるんじゃないのかね』
「・・・。うーん、難しいっす」
『だから言ったろ。教育ってのは面倒くさくて大変で、簡単には行かないって』
「はい」

入試の問題では、「出来るところから解け」という指示を出す。これは合格が目的であるからだ。しかし、人生の面白さは出来るところをやることではなく、出来ないところをなんとかすることであると私は思っている。

さらに、入試の問題が解けるだけで人生の問題が全て解ける、入試に出ることが人生の全てであると誤解する生徒もいる。私は入試の問題でリーダーシップを判定できる問題にであったことがないが、入試で人生が決まると考える生徒もいる。

そんな人生は「楽」でいいなあ。「楽」でつまんねーなあ。

生徒に伝える目的は的確に設定し、明確に指示する。これは間違いないことである。しかし、それだけですべてが行くかと言うと、そうでもないのが教育なんじゃないかなと思っている。

ああ、面倒くさい。ああ、面白い。

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コメント

「生徒に伝える目的は的確に設定し、明確に指示する。…しかし、それだけですべてが行くかと言うと、そうでもないのが教育」
これが、池田さんが国語の『学び合い』における課題設定に対して抱いておられる違和感の本質ではないでしょうか。
教育は目的達成だけではない、というのは共感します。教育という営みそのものが、教師という人間のあり方そのものが、教育の本質なのでしょうね。
「教師論」(担任も教科担任も含めて)を構築したくなりますね。

峰本先生、池田です。

>>違和感の本質ではないでしょうか。
教育は目的達成だけではない、というのは共感し

うーん、違和感までは行かないのですが、ここはどうなるんだろうかという疑問は感じています。読解で言うとテキスト論でもなく、作家論でもなく、読者論的な読解のような学びがあると思うのですね、学びには。構成主義のような学びと言うか。

その辺りのところはどうなるのかという思いがあるのだと思います。って、ご指摘を受けてから理由を説明している私でしたf(^^;。

教師論、挑戦してみたいですねえ。

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