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2008/11/27

一種の実践記録である

児童総合演習のゼミでは、学生たちがフィールドワークに入っている教育の現場についての報告会を行う。今日だけで終わる予定ではあったが、発表がなかなかいろいろな課題や成果を携えているので、簡単には進まず半分ぐらいで終了。だが、それぐらい良い発表が多かった。

教育の現場は、待ったなしである。常に判断を求められる。学生たちはそれを直接見聞きし、ちょっとは自分の問題として実感している。そのときに感じたことを事実を元にして記録している。まだまだではあるが、一種の実践記録である。

呼称の問題から、子どもの人間関係に気がつく学生。
自分が子どもから呼ばれる、その呼ばれ方で人間関係に気づく学生。
子どもの生活の文脈に寄り添った説明をすることで、信頼を得た学生。

もちろん、私からヒントを言いながら解説をする場面もあった。

子どもが発する荒れた言葉の中に、子どもがこだわっている部分が何なのかを理解するヒントがあるとの説明をしたり、言葉を発しない幼児の行動の中に隠れている意味を発見することの大切さの話をしたりなどである。

来週はこの残りをする予定である。来週も楽しみである。

昼休み、明日の模擬授業をする国語科教育法の学生たちがやってきたので、二度目の指導をする。前回の指導を受けて本学のいろいろな先生方に専門的なことをお聞きしたりして、指導案を練り上げてきている。

で、その指導案とワークシートを元に、一部、どのように「指示」を出すのかを確認してみた。実際にやらせてみた。

残念ながら、うまくできない。指示を出した後、子どもたちがどのような動きをして、どのような失敗をするのかということが予測できていない。だから、指示が甘くなる。

できた生徒はどうするのか。できなかった生徒はどうするのか。どのようにヒントを出すのか。などなど、時系列的に子どもたちの動きを理解した上で、指示の言葉を出さなければならないのだが、ここができない。ここの部分を指導した。

午後、私の研究室の前の教室で明日に備えてリハーサルを繰り返していた。どのようになるか期待したい。

研究室が紙で溢れ出した。
いかん。
片付けなければならない。
しかし、なかなかできない。

ここには書けないあれこれの仕事があって、これがまた重要な仕事なのであって、それをするために走り回っている午後でもあった。二、三年後を見据えて今が踏ん張りどころだ。

でも帰ろう。

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